Fragment.5 喫茶「かがせ」の閑雅なる午後
「ホットコーヒーを頂戴。粉が底に溜まるくらい濃い奴を。ミルクはいらない。砂糖は――」
「10本ですね。今日もお疲れのようで」
喫茶「かがせ」はエライゾ領軍病院に入っている喫茶店で、基本的にはマスターが一人で切り盛りしている。セピア調のシックな空間にはゆったりとした時間が流れていて、ふわりとコーヒーの香りが漂っては鼻腔をくすぐる。天井ではシーリングファンがぐるぐると室内の空気をかき混ぜていて、その微かな駆動音とマスターが茶器を触る音だけが静かなBGMとなっている。
つやつやに磨かれた一枚板のカウンターに突っ伏すメディア・メィイーは、地獄の底からやって来たような声を吐き出した。後頭部で一つ結びにしたプラチナブロンドはつやを失ってくすんでしまっいて、力なくだらりと背中に垂れている。化粧でごまかしきれないほど濃い隈を分厚いレンズの角ぶち眼鏡で隠しているさまは、なるほど医者の不養生という言葉がぴったり似合っていた。美人ではあるのだが、些か険が強すぎる。
彼女こそ誰あろう、入院中のティエスの主治医をやっていた女医である。
彼女はこの軍病院きっての才媛でありトップドクターだ。下手をすれば王国でも五指に入るほどの実力の持ち主である。そして輝かしい名声をほしいままにしている傍ら、診察・手術・学会のエンドレスワルツに身も心もすり減らした、哀れな労働者でもある。
せっかくの高い給料もこう多忙では使い道もなく、せいぜいがこうして少しお高いコーヒーをたしなむのに使う程度だ。
「どうぞ。しかしいいんですか先生、糖分の摂りすぎでは?」
「いいんです。自己管理はしっかりしていますので。むしろここで糖分とカフェインをしっかり摂取しておかないと、残りの仕事を乗り切れません」
メディアはスティックシュガーの封を10本いっぺんに切ると、豪快にカップにぶち込んだ。飽和するほどの量ではないが、それでもコーヒーの繊細な風味などは失われてしまうだろう。カップの中の黒い液体は、いささかもったりしてしまっている気がする。まったくもってバリスタ泣かせの所業だ。こだわりを持ってるマスターであればその場で決闘騒ぎになってもおかしくない。メディアはその甘苦い液体を数ミリリットル口に含み、「足りないな……」とぼそり呟いた。ウソだろ。マスターは苦笑しながらも、何を言うでもなく追加のスティックシュガーを差し出した。
「ミッティさんがいなくなっちゃいましたもんねぇ」
「仕方ないでしょう、軍の命令なんです。引き止められませんよ」
メディアは深く溜息をはいた。
メディア・メィイーは病院長ヤヴィシャ・メィイーの姪に当たり、長らくエライゾ領主家に仕えてきた譜代貴族メィイー子爵家の、数ある跡継ぎ候補の中でも最右翼である。当然、エライゾ家の夜会などにも叔父に連れられて参じたことがあったし、ミッティとも――話したことはなかったが――顔見知りだった。だから突然ミッティが自分の下に配属になったときは、最初、こんなお嬢様に病院の仕事が務まるものかと不安になったが――結論から言ってしまうと、それは杞憂だった。
「逃した鳥は大きいですね」
「鳥というよりは、猫でしょう。あの方は」
メディアはさらに五本の砂糖を投入したコーヒー風味の何かを口に含みながら、拗ねたように口をとがらせる。確かに、とマスターも同調した。ミッティ・エライゾという女は、表面上はふわふわしていて、移り気で、気ままな小動物のように見える女だ。しかしその裏側には、しなやかながらも猛々しい、脈々と受け継がれてきた狩人としての本性が隠されている。そのようなところまで勘案して、やはり彼女は猫であるといえた。雌豹だ。
「……本当に有能すぎです。てきぱき仕事をこなして、他部署と渡りをつけるのも抜群に上手かった。助かりましたとも、ええ。ただ従来の仕事だけに飽き足らず、医局の体質改善とかにまで手を回していて……おかげで、彼女がいなくなった後も増えた仕事はまともにこっちに流れてきているんです」
「ただでさえ人手不足なのに?」
「本当に」
臓腑から絞り出すような声とともに、みしり、とカップを持つ手に力が籠る。それなりに良い茶器なので壊さないで欲しいな、とマスターは思った。非力な女医の握力で破壊できる代物でもないが、例えばティエスであったら今頃カップは粉々になっていただろう。と、そのようなことを考える程度には、しょせんは他人事である。彼は別にカウンセラーというわけではない。
「……これ、少し味見をしてもらえますか。こんど店に出そうと思って作った試作品なんですがね」
「ケーキ、ですか」
「ええ、イチジクを山ほど仕入れてしまいまして。とりあえずコンポートにして、何かに使いたいなと試行錯誤した結果です」
ただ、黒い水面に移るメディアの疲れ果てた顔を見てしまったからには、そっとケーキをサービスするくらいはする。常連の機嫌を取っておいて損はないからだ。無論、常連の嗜好についてもしっかりリサーチしている。
「……では遠慮なく」
メディアも、そんなマスターの考えはお見通しだろう。洞察力が高くないと医者などやっていられない。とはいえ、過労により人間性をすり減らし続けている彼女でも、その厚意を無碍にしないことくらいはできる。何より、彼女は無類のイチジク好きであった。
ホイップクリームでデコレートされた直方体の天面には、小ぶりなイチジクのコンポートが丸々いっこ、贅沢に鎮座している。一種の工芸品のような調和を崩すのは惜しかったが、しかしそれが菓子である以上は、いつかフォークを入れねばならないのだ。
メディアは直方体の角を落とすように狙いを定め、均一にならされた白いクリームの上にフォークを滑らせる。わずかな抵抗もそこそこにスポンジの層を通過し、底に敷いてあったやわらかいビスケットの層も、さほどの力を要さず切り分けられた。2段になっているスポンジにはコーヒーが混ぜてあるのか、浅黒い断面を露出させた。
スポンジの間には厚いクリームの層と、その中に紛れてイチジクの果肉がちらりと覗いている。メディアは思わず喉を鳴らして、そしてすぐにそれを取り繕うように小さく居住まいをただすと、フォークに刺したケーキの切片を上品に口許に運んだ。
「これは……」
とろけて消えるような軽いクリームの甘やかな舌触りと、しっとりとしたほろ苦いスポンジの食感。たまのアクセントになるビスケットとイチジクの果肉は、見事なハーモニーを口内で奏でている。
脳がしびれるほどに甘いイチジクのコンポートを、甘さを控えたクリームとほろ苦いスポンジがいい具合に殺して、尾を引かない絶妙な後味を形成していた。たまらず、一番の目玉、主役でございとばかりにケーキの玉座にましますイチジクのコンポートに、フォークを宛がう。驚くほど柔らかに仕立てられたそれは、僅かな抵抗も見せずにフォークを受け入れた。口に運ぶ。これまた絶妙だ。もう少し煮込めば、きっと溶けてドロドロになってしまっていただろう。しかしどうだ。このイチジクのコンポートは、閾値の表面張力だ。最後の意地とばかりに、果肉の繊維が弾力を失っていない。それでいて、歯に当たればとろりとほどける。爆発的な甘さ。それを甘くないクリームとほろ苦いスポンジに合わせることで、味が完成する。
脱帽だ。メディアは数度瞼を瞬かせてから、この日初めて、口の端を微かにほころばせた。
「――美味ですね」
「でしょう?」
わずかばかりほどけた彼女の表情を見て、マスターはこれだからこの仕事はやめられねぇ~~などと思った。その顔が見たかった。もちろんそんな心情をおくびにも出さず、彼は静かにカップを磨いている。
喫茶「かがせ」の閑雅なる午後は、そうしてゆったりと過ぎていくのだった。




