雨宮陸斗と晴世茅乃の奇跡
それは、奇跡が訪れる前に生まれた小さな物語だった。
晴々舞台計画当日。人々が瞼を閉じ夢の世界を彷徨っている頃。
昏さに包まれ、不気味なほどひっそりと静まり返っている街で、二つの声が身を寄せ合っていた。
「あっ‥‥‥」
「大丈夫か? 気をつけろよ」
路上で放置されていた置物に躓きかけた少女を、少年が腕を掴んで支える。
「ありがとう、ございます」
二人が見つめ合うと、その間を夜風が吹きすさび、茶と真黒の髪を揺らした。
外は暗い。これほど夜闇という言葉が相応しい昏さはないだろう。そんな中、平時と同じように街路を歩くのは、例え健常者であっても困難極まりない行為であって。
「さっさと行くぞ。時間もそんなにない」
「わかりました」
本当に、所々に在る街灯だけが、頼りだった。
「‥‥‥しかしリクさん。何処からそんな大金が出てきたのか、心咲は知っておく必要があると思うのですが」
「お前は知らなくていい話だ。‥‥‥でもそうだな。どうしてもってなら教えてやってもいい」
「では、教えてください。これは、どうしても、です」
リクが嘘を吐くことが苦手なのは、ポーカーフェイスを作ることが苦手だからだ。所謂、『顔に出易い』人種なのだ。ババ抜き、ダウト、あらゆるトランプゲームで長年それに苦しめられてきた。しかし、こんな夜闇の中だと嘘が露見し易い性格の顔も、心配する必要がなかった。
「知り合いの金持ちが利息なしで貸してくれたんだ‥‥‥返済は俺だけでするつもりだったから、今まで言わなかった。仲間なのに、隠しててごめんな」
ちらりと隣を見ると、こちらに視線を注いでいる少女と目が合った。暗闇の中で互いの表情が見えずとも、『合った』という感覚だけは不思議と感じるものだ。
それがヒトとして備わった本能によるものなのか。
仲間として共に行動してきた中で生まれた絆とか友情とか、そういう特別な繋がりのおかげなのか。
リクには、考える必要も、暇もなかった。
「いいえ。別に隠していた行為自体を謝って欲しいわけではありません。‥‥‥しかし、リクさんだけで返済するつもりなら、心咲はリクさんに謝罪を要求します。そんなことは許しません。だって、皆の計画ですから」
「‥‥‥‥‥」
返答を思案しつつも、リクは前方に一際明るい光を放つ街灯を確認する。そしてすぐさま無表情のまま表情筋を硬化させるよう努めた。四本目の街灯がこうも早くやってくるとは。嘘がバレないよう、表情を殺さなければ。
貝浜駅から大樹の木漏れ日公園に行くには、狭く僅かな街灯しかない街路を道なりにただ進んでいくしかない。道中、五十メートル間隔で設置されている街灯を七本見ることだろう。七本目の街灯を左折するといい。公園の裏から侵入した方が早いからだ。
「いや。計画を提案したのは、他でもない、俺だからな」
少し、喋りにくかったが、違和感なく発声できた自分を全力で褒めてやりたかった。
それと同時に、何故こんな面倒なことをしているのだろうと今更ながら疑問に思ってしまう。
‥‥‥なんで、俺は。
四百万円という大金の出処をいつまでも秘密にすることは容易ではないが、不可能なことではない。なのに、何故言ってしまうのか。話題に上がらせてしまうのか。
‥‥‥不安要素を排除しておきたかった? 危ないお金だと思われたくなかった?
理由は後付けで幾らでも言うことができるが、どれもどうも違うように思える。
‥‥‥嗚呼。
そして、気づくのだ。理由なんてなかったのだと。
きっと彼は、疲れすぎていたのだ。判断力を削ぎ落し過ぎていた。
「リスクを背負うのは、俺だけでいい」
今は空っぽとなってしまった、かつて左の腎臓があった所に触れる。縫い目を初めて見た時は吐き気が止まらなかったが今は触ることも平気だった。慣れとは怖いものだ。
「しかし‥‥‥‥‥」
『絶望』はいつも唐突に。予想等、できるものか。
ぱちん。ちょうど、街灯が照らす地面に足を踏み入れた瞬間だった。急に、霧島の声が聞えなくなり、視界が黒に染まった。
‥‥‥気絶か? 俺も? ソラみたいに? 仕方ない、か。
「すみません。いきなり街灯が消えて少し驚いてしまいました。‥‥‥続きを話します」
しかし、どうやら、リクの予想は大外れのようだ。ただ、街灯が消えただけ、それだけだったらしい。
「ちょっと待て。一旦止まれ、霧島」
それだけだったなら、よかったのだが。
リクは霧島に腕で制止を言い渡し、暗闇に慣れてきた瞳で、道の先を眺めた。なんと、灯を失ったのは、彼らの頭上にある街灯だけではなかった。
前方の、三本の街灯も全て消えていたのだ。舌打ちをしながら、後ろを振り返る。やはり、そこにあるべき三本も消失していた。
一本だけなら、故障で済ますことができるが、こうなってくると話は変わってくる。リクはここの街灯が周囲の明度を計測して、自動的に点灯、消灯をこなす回路を宿していることを知っていた。つまり、時間経過、または人通りが少なくなったからといって消えたわけでもないのだ。
「どうされましたか?」
そして、少し遠くに二軒だけ、明かりが漏れている家々も目に入った。停電でもない。
────本当に、所々に在る街灯だけが、頼りだった────
では、それがなくなったら?
「誰かに、見られてる気がする。気をつけ‥‥‥‥‥‥」
パリン──────ドス。何かが割れ、重いものが倒れる音がした。
「え。リクさ‥‥‥‥‥‥‥」
パリン──────ぱたり。何かが割れ、軽いものが倒れる音がした。
どんなに強い人でも、視界を奪われてしまったら、為す術もなく蹂躙される道を辿るのだ。
「‥‥‥‥きり、しま‥‥‥‥‥‥‥‥カ」
朦朧とする意識の中、リクは薄っすらと瞳を開くことができた。何も考えず、ただ手を伸ばす。街灯が再び灯り、光に満ちた地面で。こげ茶のガラス片と一緒に、ぐったりと血を流しながら倒れている茶髪の少女に。
‥‥‥あ。
九十度傾いたリクの視界を突然横切った見慣れたスニーカー。その映像を最後に、彼の意識は完全に途絶えた。
「──────やはり、持っていなかったか。俺の考え過ぎか。だが、いい機会だ」
これは、『絶望』が訪れる前に密かに紡がれていた小さな物語である。
「もう、夜中っすね」
言われて、女は車窓に目を向けた。
ぽつり、ぽつり、とまだ明かりが灯っている家々も見受けられた。夕刻を通り過ぎ、街には既に夜色の帳が降りている。人々が寝床に着き始める頃だ。
「‥‥‥」
木下雪は、軽トラックの助手席で体を揺られていた。隣に視線を流すと、片手でハンドルを握って欠伸をしている男が目に入った。皴だらけの白Tシャツに、短パン。髪にはまだ寝癖が残っている。相変わらずのだらしのない恰好だ。
「はぁ‥‥‥いい迷惑っすよ‥‥‥‥雪じゃなかったら、こんなことしないっすからね」
運転席の彼。宮島晴人は、面倒くさそうに言った。しかし、突き放すような言い方ではないので、内心は頼りにされて少し嬉しいとも感じているのだろう。
「ありがと。その、色々迷惑かけて、悪いとは思ってるのよ。でも、晴人しかいないから」
わかってるっす、宮島は止めるように言う。小さい頃から交流がある彼は、木下の性格を熟知していた。そして、その性格をどうにかしようと努力して、挫ける彼女の姿を飽きるほど見てきていた。周りを突き放し、孤独でいがちな彼女を受け入れること。自分がすべきことも、熟知しているのだ。
‥‥‥それにしても。
木下は、宮島の運転に安心し睡魔に襲われたのか、もしくは考え事のためか、自然と瞼を下ろし、いつの間にか頬杖を突いていた。
木下雪には、考えることが沢山あった。そのほとんどが、今、彼女が置かれている状況によってもたらされている。
‥‥‥あのお金は一体どこから。
借りてきた軽トラックの運転席に宮島、助手席に自分。自分の手元には小さな木箱が収まっている。そして、荷台に乗せられた数本の大きなボンベも。
思えば、彼の一言から始まったような気がする。全て。
『四百万円、用意できたぞ。喜べ、これで晴々舞台計画が遂行できる。お前ら、準備できてるんだろうな』
失意に飲まれ、草臥れていた木下と霧島の前に突如として現れた少年。彼。雨宮陸斗。リク。彼を最後に見たのは、あの図書館の日だった。あの時は、何かを悟ったような無表情だったが、再会時は違った。笑っていたのだ。しかし、頬は小刻みに痙攣しており、涙の川も健在だった。
『‥‥‥‥‥』
リクの両手には分厚い封筒が幾つも握られており、ちょうど四百万円相当の紙束が入っていても可笑しくなかった。まさか、そんなわけ。しかし、もしかしたら。木下は半信半疑のまま無言だったが、霧島はそうではなく、すぐさまリクの方に駆け寄り、封筒を取って中身を確認し、口を開く。
『‥‥‥リクさん。このお金の出処を教えてください。心咲は、ちょっとだけ怒っています。貴方の個人行動に。茅乃ちゃんを助けたい気持ちは変わりませんが、そのための仲間が晴天部のメンバーであることをお忘れなく。‥‥‥‥‥‥心咲、よく考えました。最近は寝ることなんて、できませんでした。しかしそのおかげでわかったこともあるのです。やはり、仲間は大切であるということ。共に行動すべきであること。勝手な行動にはいつも危険が伴います。ですから‥‥‥』
『わかってる。わかってる、そんなこと』
『わかっていません。リクさんも、何もわかっていません』
その日、結局彼は最後まで金の出処も自分が何をしていたのかも語ることはなかった。
別れ際に金が詰まった封筒を木下に渡し、瞳を歪めながら言の葉を告げ、現れた時と同様。颯爽と立ち去ってしまった。
『この金で、必要な物を買ってきて欲しい。俺は‥‥‥今は重い物を持てる状況じゃないんだ。霧島もあんな感じだから、お前しかいない。それと、卯月の代わりを、誰か用意して欲しい。彼氏でも構わない。頼んだぞ。‥‥‥俺は、手を尽くして、卯月がやり残したことを済ませる。晴々舞台計画は、予定通りやる。晴天決行、曇天決行、雨天決行だ。絶対に成功させるぞ』
木下はその言いつけを守って、ここまでやってきた。しかし、ここになって未解決の疑問が募り過ぎて、脳がパンクしてきたのだ。
‥‥‥リクは何をしていたのかしら。
無意識のうちに目を閉じて物を考えてしまう。この学者がしそうな行為を、木下がやってしまうというのは控えめに言っても大事件だ。恐らくは脳がキャパを確保するために、募った疑問を少しでも消化しようと自動的に動いているのだろうが、それにしても、彼女が日に何度も考え事をしてしまうというのは異常だった。
また、彼女を取り巻いている世界も異常だった。
‥‥‥リクはあの二週間。
誰も悪くはない。批判すべきものがあるとしたら、それは間違いなくこの汚い世界だろう。自らの欲求を満たす為に、他人も同じ人間であることを忘れ、蹂躙していく。それが馴染んでしまっている世界が、一番の悪だ。
‥‥‥一体何を。
汚い世界の中、誰も責めることはできないが、それでも彼女に搭載されている脳を責めずにはいられない。あれだけ考える時間があったにも関わらず、気づけなかったからだ。この異常事態に。
リクの歯車が狂い始めたときに、気づいておくべきだった。卯月の挙動がおかしいことにも気づいておくべきだった。
もし、そうしていたなら、この『絶望』は回避できていたのかもしれない。
‥‥‥嗚呼、何だか眠たくなってきたわ。
人々が瞼を閉じ夢の世界を彷徨っている頃。
「着いたっすよ‥‥‥夜中なのに、この公園は明るいっすね」
木下を乗せた軽トラックは、公園の入り口のすぐ隣の道路の端に寄せられ、ガクンと衝撃を伴って停車した。この木箱もあるのだから、急にブレーキをかけるなと彼には口を酸っぱくしていたのだが、忘れられていたらしい。木下は大きく溜息を吐き、膝の上に置かれた木箱を一度開き、中身の無事を確認してから車から降りた。
「な、何よ。あれ‥‥‥!」
『絶望』はいつも唐突に。予想なんて、できないのだ。
日中は、小さな子供たちの笑顔で溢れ、老人たちの憩いの場ともなっているその公園だったが、この夜だけは違っていた。異常だった。
夜天の空に浮かぶ月の如く、煌々と灯っている明かりの下で、死体のように無残に転がっている少女の体。それを現在進行形で蹴っている白装束の大男。また、木下がよく知る少年たちの姿もそこにはあった。霧島と同じく血を流して、しかしショーの観客の如くベンチに座らせられているリクと、その足元で倒れている卯月。
「あんた‥‥‥」
木下の、木箱の取っ手を握る手に無意識のうちに力が入る。眼の前に展開されている惨劇を見て、怒りがこみ上げてきた。もう、誰にも止められない。彼女自身でも、無理だった。
「私の仲間に、何してるのよ!!」
目を大きく見開き、白装束の男に向かって猪突猛進。射程圏内に入った所で足を止め、木箱を大きく振りかぶって男に投げつけた。
‥‥‥あっ。
投げつけた後、木下はすぐに後悔した。冷静に物を考えられ、木箱に入っている物がいかに大切かを投げる直前にでも思い出せたなら、こんなことはしなかったのだ。
「‥‥‥‥‥‥やっと見つけた」
大男は、自分の肩にあたって砕けた木箱をまじまじと見つめ、生命、感情、人間らしさを感じさせない低い声を漏らした。それから、にやりと笑って、鍛え抜かれた大きな手を伸ばし、木箱が吐き出した三つの透明な瓶を拾い上げる。
瓶の蓋には紐が通っており首からかけられるようになっていた。
「やめて。お願い。‥‥‥ちょっと、晴人! 何か‥‥‥‥‥‥」
公園の照明に照らされて、瓶の中の白い粉は淡く青色に輝いていた。木下は軽トラックの方に振り返り、助けを求める視線を注いだ。今日、彼には散々迷惑をかけてきたが、これがその最たる迷惑になることは確かだった。自分のせいで、彼を怪我させてしまうかもしれない。わかっていた。けれども、頼るしかなかったし、彼ならすぐさま助けてくれるとも信じていた。
だから、声をかけたのだ。
しかし、返ってきたのは震え声だった。
「ご、めんっす。雪。ちょっと、ドジしたっす‥‥‥‥‥」
宮島の首すじには白銀の光沢を宿したナイフが当てられていた。刃渡りはおおよそ十二センチメートル。銃刀法も糞もなかった。だが、その事実より、さらに驚くべきなのは、ナイフを持っている者が、あどけなさが残る顔をした少年だったということだ。
「‥‥‥‥‥」
‥‥‥う、そ。嘘よ。こんなの。
木下はその二つの事実に恐怖し、固まってしまった。喉がやけに乾く。家を出る前に水分をとっておくべきだった。
‥‥‥家を出る前に、戻りたい。
「あっ。ゆ、雪。ま、前──────」
放心状態、棒立ち状態。それも背の高い女。それは大男にとっては、都合のよい的でしかなかった。容姿が上物であろうと、関係ない。的は的。サンドバッグはサンドバッグ。己より弱いものは、人ではないのだから。
「馬鹿め」
男は、相手が女とはいえ容赦なく飛びかかり、その顔面に膝蹴りを喰らわせた。女の口から折れた永久歯が血と共に飛び出す。それを避けるように一旦距離をとり、手に握っていた瓶を首から下げ、両手を自由にした。女を蹴ることは厭わないが、白装束が血で染まることは好まないようだ。
「‥‥‥‥‥っ。やってくれたわね」
「この一撃で沈まないとは。面白い‥‥‥少しの間だが、本気を出すとしよう」
男は、女と向き合ったまま、左足をゆっくりと後ろに下げ、両の手を構えた。
両手を自由にして初めて、男は本来の武力を発揮する。
彼の武器は研ぎ澄まされた“柔道”だった。
それは、花火のように華憐で、電光石火の速度を持つ。その道を行く者ならば美しさに息を呑んでいる間に地に沈められることだろう。
女は“柔道”を知らなかったが、その身のこなしに一瞬目を奪われてしまった。そしてその間に、襟と袖を掴まれ、風車の羽の如く、背負われ回され、地面に叩きつけられた。
「‥‥‥‥」
勝負は、本当に一瞬だった。木下雪が弱かったのではない、むしろ、彼女は同年齢の男たち数人を一度に相手にしても、無傷で生還できるほどの戦闘能力の持ち主だった。
つまり、そんな彼女でも一瞬で倒されてしまうほど。
「やはり弱いな」
大男が強かったということだ。
強さの証明は、ルールがない状況下ではより明白になる。男は既に倒れて動けない木下の体に蹴りの追撃を加えた。それでも終わらず、次は長い黒糸の髪を掴んで持ち上げ、端正な顔横に二度目の膝蹴りを入れたのだ。一方的過ぎる上に、限度を超えた暴力だ。だが、その場にそれを諌める審判はいないので、蹂躙は終わらない。
「‥‥‥‥‥」
宮島はもはや、声を上げることすら叶わなかった。目の前で、自分の恋人が淘汰されていく様を見ていて、冷静でいられるわけがない。声を忘れるほど、放心していた。悪い夢でも見ているのではないか、と現実から逃げる方向へと既に思考が傾き始めている。
少年は、街を歩いていた。絵具で描いたような水色の空に似つかわしい、花に溢れ、人々の笑顔が沢山咲いている色鮮やかな街だ。喫茶店や花屋。小鳥集るパン屋。それらの前を無言で通り過ぎていく。
「‥‥‥‥」
声を発することは許されないのだ。一声上げてしまったら、この穏やかな空間が何かに侵食されてしまいそうで、できない。
街灯立ち並ぶ街路を歩いていると、前方に手を繋いでいる親子が見えた。どちらものっぺらぼうのように目も口も鼻も、何もない。だが、少年は不思議と不気味には思わなかった。それどころか、見知らぬ他人のはずなのに向日葵のような笑顔をつくって彼らに手を振ってしまうのだ。それに気づくと彼らも笑って振り返してくれる。
ずっとここにいたい。壊されたくない。
少年の胸の中には、儚い願いが湧くばかりだ。叶わないと知りながらも、願ってしまう。
少年は少年で、まだ子供だった。
「‥‥‥‥‥‥あ」
少年が視線を地面に落とした時。その瞬間。一音、口から漏れ出てしまった。
整備された灰色の路には、既視感のある、割れたこげ茶色の酒瓶が転がっていたのだ。破片は鋭くて触りたいとは思わないが、なぜかそれに手を伸ばさないといけないような気がして、彼は急いでしゃがみ込んで、ガラスの破片をつまみ上げた。
「‥‥‥いっ」
早速ガラスで指を切ったのか、少年は顔を顰めながら、ポケットの中に反対の手を突っ込む。ハンカチを探しているのだろう。もごもご、ごそごそ、ポケットが一つの生物のように蠢いている。
しかし、ハンカチは見つからなかった。そればかりか、ポケットも、ズボンも、自分の指先もいつの間にか見えなくなってしまっていた。見つからないのだ。
彼は慌てて顔を上げ、通りを見渡した。
「誰か、助け‥‥‥‥‥」
先程すれ違った親子でもいい。誰か。自分が消えてしまう前に、早く。
少年が伸ばした手の先。先程まで、笑顔で満ち満ちていた通り。しかしそこには、もう笑顔も花も鮮やかな色彩も存在しなかった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥や、やめろ、く、来るな!」
眼前の無彩色の街に代わりに在るのは、突然現れた真黒のスーツをびしりと着こなしているのっぺらぼうたちだけ。街路いっぱいに広がり、気の狂ったように行進をしている。
かつて、子供だった彼らは、色に満ち満ちていたというのに。今は一色に統一され、行動すらも統一され、縛られている。
‥‥‥嗚呼、可哀想に。こうはなりたくない。やめろ、こっちに来るな。巻き込むな。
少年は立ち上がろうとしたが、足も消えてしまっていたので、それは叶わなかった。
「‥‥‥‥ヤ、メ‥‥‥テ」
為す術もなく、黒の行進に呑み込まれていく。踏まれ、蹴られ、骨が砕けていく。
──────夢がなんだ。
──────希望がなんだ。
──────甘えているんじゃない。
──────お前も、こっちに来い。大人になれ。この道以外は邪道なんだよ。
遠くなっていく意識の中。スーツの男たちの囁きが耳から全身を巡り、芯まで侵食していく様を少年は思い浮かべた。そして、堪らず吐血した。
‥‥‥嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
少年は、リクは意識が完全に切れるその時まで、最期の一光を掴もうと、手を空に伸ばしていた。色のない空は酷く不気味で、でも、希望はそこにしかない。
『世界で一番─────』
最後にそんな声を聞いて、リクは、意識を手放した。
「‥‥‥‥」
少年は粘つく瞼を上げた。そして、その刹那、言葉に表せないような絶望感に襲われ、嘔吐しそうになった。
‥‥‥誰が、こんなこと。
皆と過ごした温かい記憶が、逆流し、無に収束する。
‥‥‥吐きそう。
「‥‥‥‥お。起きたか。‥‥‥ちょうどいい。いいものを見せてやろう」
リクは独り、公園のベンチに座らされていた。足元には地に伏せ、血を流している親友が。定まらない視線を前に持っていくと、煌々と灯る照明の柱の下で地を吐いている木下の姿が。その近くに、霧島も倒れていた。皆、屍の如くそこに存在している。まさに、地獄絵図だった。
「‥‥‥‥‥‥うっ」
‥‥‥吐きそう。
目覚めたばかりで気分が優れないせいでもあるのだろうが、これだけのものを見せられれば、誰でも彼のようになってしまうだろう。
吐いてしまわないように口を抑えながら、リクは謎の大男に視線を向ける。
誰だ? 強そうだ。怖い。
万人が思うようなことは、リクの中には浮かばなかった。
‥‥‥なに、してる。
それを阻害してしまうほどの『絶望』が眼前で展開されていたからだ。
「‥‥‥‥‥やめろ」
リクはすぐそこまで上がってきていたものを飲み込み、代わりに悲鳴に近い声を吐き出した。何をできるわけでもないが、手を伸ばす。無駄に大きく成長した手。今も昔も、大事な物は全てすり抜けてきた。
‥‥‥やめろ。
「やめて、くれ‥‥‥‥‥‥‥‥」
しかし、相手は絶望の表情を浮かべるリクを楽しそうに眺めている。“やめろ”と願っても無駄だと、すぐに悟ることができた。
「そこで、よく見ておけ」
屍が散乱する公園の中央で、威風堂々とした様で立っている大男。彼が屍を量産した張本人であることは一目瞭然だ。そして、その右手には、透明な小瓶が。左手には、金属製のオイルライターが握られている。照明が反射し、不気味に輝く白銀色のそれは、『絶望』の種だった。
男は薄笑いのままライターに火を灯し、問答無用といった具合に瓶を底から炙り始めた。照明に照らされ、中で青白く輝く粉末は徐々に赤くなっていき、やがて、炎を吐き出す。
それでも男は火力を弱めることはしかなった。
叫び声すら、出せない。それほどの強い『絶望』。
「や‥‥‥めろ」
海霖片が火薬として役目を終え、黒い固形物へと変わっていく様を、リクは涙を浮かべながら見ていた。自分が、自分たちが積み上げてきた結晶が、今朽ち果てている。止めなければ。唯一動ける自分が止めなければ。だが体が動かない。
恐怖や唖然で身が縛られ、どうしようもないのだ。恐らくは、こういう場面に遭遇した九割九分の人間が同じ反応を示すに違いない。
‥‥‥カヤ。
だが、リクと違ってそういう場面に対応できる者も存在する。
肝がすわっていて、どんな状況下でも冷静を保っていられる明晰な者だ。
‥‥‥ごめん。カヤ。俺。
そういう人は、常に先のことを考え、瞬時に最善の選択をとることができる。
「‥‥‥‥‥ぁ」
彼女もまた、リクと同じく暴力の眠りから目覚めていた。視線を上げ、驚いたように目を見開いたが、すぐに最善をとるための行動に出た。
「お、兄様‥‥‥‥‥」
霧島心咲である。彼女だけがこの場で唯一、動くことができた。松葉杖が見当たらないため大きなことはできないが、最低限の抵抗はできる。
「っ‥‥‥一体、いつから。くそっ」
彼女は兄の元まで這って進み、油断している隙に手を伸ばして残り二つの小瓶を掴んだ。
そして。華奢な身体からは想像もつかないほどの剛力を以てして瓶ごと白紐を引っ張り、奪還を試みている。
当然それに対抗するように、男も手に力を込めていた。二人の表情は、徐々に険しくなっていく。霧島は力を入れるたびに走る激痛に。大男はこの望まぬ状況と、未来を想像して。
「‥‥‥ちっ。離せ。女」
自分で触れた時から男はわかっていた。この白紐の強度はそこまで高くないだろうと。繊細な割れ物のように丁寧に扱わねばならない、そう思っていた。彼は彼なりに注意を払って今まで戦闘してきたのだ。
だが。それは今崩されそうになっている。
倒れた状態で自身の体重も乗せて両手で紐を引く妹。片手ではあるが、その剛腕で負けじと引き返す兄。まるで、綱引きのようだ。二人の亀甲する力は、白紐にゆっくりと、しかし確実にダメージを蓄積させ。
やがて、ぷつんと切ってしまうことだろう。
「‥‥‥‥‥」
妹はそれを目論んでいた。一見、武力の差からして大男が有利に映る戦場だが、実は小瓶を掴み、引きはがすように引っ張っている霧島の方が有利な状況ではあった。
ぎしぎしと悲鳴を上げ始めた紐から一瞬だけ目を離し、霧島はリクの方を見る。その琥珀色の強い視線で、何かを伝えた。背中を押すように。託すように。何かを。
‥‥‥貴方だけが頼りです。リクさん。
「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥心咲の勝ちです。お兄様」
兄妹の戦いの終結は、妹の清らかな声によって宣言された。タイミングを見計らって殊更強く彼女が引いたせいで、ついに、紐が切れてしまったのだ。
「‥‥‥‥っ」
その様を見開いた目で視認し、取り返そうとすぐに手を伸ばしてくる大男。自分の方に迫るそれに霧島は気にする素振りも見せず、むしろ挑戦的に笑って見せた。
それは今日、兄が初めて見た妹の笑顔だった。
‥‥‥これは。
兄は自分の背中を冷たい汗が這うのに気づく。
‥‥‥まずい。
「リクさん!」
霧島は声を上げ、二つの小瓶をリクの方に投げつけた。運命のバトンは、リクへと渡されたのだ。
────『後は、お願いします。逃げてください』
遅回しの景色の中、血と悲鳴で満ちている公園には不釣り合いなほどきらりと輝く小瓶を、リクは、その両の手で、しっかりと抱きかかえた。
ずっしりと、重みがのしかかる。
これはきっと自分の腎臓の重さなのだろう。三分の二になってしまったが。思いは減らない。
あとは逃げるだけだ。何も考えず、逃げる。カヤのために。
たったそれだけのことなのに。
しかし、リクは固まってしまっていた。ベンチの奥まで深く座った腰を上げることは容易なことではなかったのだ。
‥‥‥小瓶が一つ無くなっても、計画は遂行できるのか?
一つの疑問が、何トンもの重りにもなって、リクの腰にのしかかる。
これが霧島とリクの決定的な違いだと言えよう。リクは行動する前に、不安要素を排除してから動く傾向にあった。今回もそうだ。それが自分の足を止めてしまうとわかっていても止められない。霧島はその点、動いてから考えよう、とにかく動こうと即時行動に移す性格だったので、小瓶の奪還も可能だった。
大きな性格の違いは、大きな結果の違いも生む。
「‥‥‥‥」
リクがようやく腰を上げて公園の出口を目指そうとしたその時。銀色に光る何かが彼の足にぐさりと刺さった。激しい痛みが走り、思わず膝を突く。一体どうしてしまったのか。リクは自分の足を確認しようと視線を後ろに流した。
「‥‥‥っ」
見てからすぐに、更なる強い痛みが襲ってきた。こんなことなら見なければよかった。
リクの足には、白銀のナイフが突き刺さっていた。皮膚を破り、筋肉まで到達しているように見える。血が、溢れんばかりの血が、とくとくと川のように流れ、地面に染みていく。
‥‥‥くそっ。
その様からすぐに目を逸らし、リクは視線を上げた。探さずとも、投げた犯人はわかった。
「‥‥‥‥駄目ですよ。逃げるなんて」
犯人が自分から名乗りを上げたからだ。
「この‥‥‥人でなしが。お前、一体何がしたいんだ」
ナイフを投げた張本人、宮島を拘束していた少年は、本当に愉しそうに嗤っていた。その狂気じみた笑みの恐ろしさと言ったらなんの。少年があどけない顔をしていることもあってか、リクは背筋にとどまらず全身が凍りつくような異様な感覚に陥っていた。
「よくやった‥‥‥」
その凍りを砕くように、大男が低い声を漏らし霧島を蹴り飛ばす。何かが折れる鈍い音が響く。
「あぁぁ! ぅぐ‥‥‥‥っ」
今日一番の痛々しい悲鳴。リクはつい、耳を塞いでしまった。
‥‥‥俺のせいなのに。ごめん。ごめん、ごめん。ごめん。
昨日、いやつい先程まで会話をしていた人がいまは地に身体を沈め、血を流している。あの痛々しい音から推測するに彼女の肋骨は数本折れてしまっているだろう。可哀想。悲しい。代わってあげたい。だが、リクはそんなことを思える立場ではなかった。
‥‥‥俺の、せいで。本当に。
何もかも全て、彼の仕業で起こされている事態だったからだ。
だからこそ、余計に心が痛い。
‥‥‥誰のせいにもできない。だって、これは、俺が。
ここで他の誰かのせいにできたのなら、どれほどよかっただろう。現実から逃げることができたのなら、どれほど楽だったのだろう。
‥‥‥俺が、始めたんだから。
────『カヤを助けたい。人工消雨を実行しよう。決めたのはあんたよ。あんたが始めたのよ』
ふと、誰かの言葉が蘇ってきた。リクはまた、泣きそうになってしまう。でも我慢して後ろを振り返った。
「‥‥‥‥‥」
それを言ってくれた彼女もまた、屍の如く存在している。きっと海霖片を守るために戦ってくれていたに違いない。思い返せば、彼女はいつも自分以外を守るために行動してくれていた人だった。
‥‥‥ごめん。
本当は彼女のそばまで寄って謝りたいところだったが、リクは心中で囁くにとどめた。視線をすぐに剥がし、自分の腹にもっていく。ダンゴムシのように、小瓶を守るように丸まった。
「‥‥‥あとふたつ。まだ終わっていない」
化物が自分の方へ近づいてくるのが見えたからだ。
それはずしんずしんと地を震わせながら歩み寄ってくる。
見なくとも巨大な体躯を有した大男であることが伝わってくる。
恐怖で、リクは震えた。自分も彼女たちのように、悲惨な未来へと連れていかれてしまうのではないか。嫌な想像はこういう時に限って鮮明に、より的確に身を刺してくる。
霧島を見て代わってやりたい等と強がっていたくせに、いざ自分の番となればこうだ。
‥‥‥俺って弱いな。弱い。だからお願いします。
リクは自分という存在を本当に憎々しく思いながらも。しかし浅ましくも神に祈った。
‥‥‥神様、お願いします。
首から下げ、いつも肌身離さず持っていた真っ白な貝殻を強く握り締めながら。
‥‥‥俺、やることはやりました。もう、どうしようもないんです。
自分の無力さに唇を噛みながら。
‥‥‥本当に、貴方しか、頼れる方が。
大男の足から繰り出される蹴りに。背骨に響く鉄拳の殴打に。耐えながら。
‥‥‥嗚呼、一生のお願いです。
願い事を。心から、願ったのだ。
これは彼が初めて使った“一生のお願い”だった。
‥‥‥どうか、俺の代わりにカヤの願いを、叶えてやってください。余力があれば、俺も助けてください。
神は、そんな欲深い少年を、見放さなかった。
パキリ。
「ちょ、ちょっと君たち。こんな夜中に何してるんだ!」
リクは突然降り注いできたあまりの出来事に驚き、目をはち切れんばかりに見開く。
街の治安維持の為に巡回していた警察官が自分たちを見つけてくれたからではない、すがるように握り締めていた貝殻がパキリ、と割れてしまったからでもない。
‥‥‥嗚呼、神様。
大男の暴力により、丸まったまま大きく横に倒されてしまった身体。そこに降り注ぐ光。
‥‥‥本当に。
照明灯りに照らされていたのは、他でもない、『奇跡の貝殻』の割れた破片。粉々になった小さな破片。それらは、薄っすらと青色を放っていた。
‥‥‥ありがとう、ございました。
だから、リクは驚いていたのだ。
「もういい! 小瓶は一つ焼いたんだ。十分だろう。さっさと逃げるぞ!」
大男の怒声が、閑寂の世界に響いた。
巡回中の警察官が見つけてくれたことは、今すぐにでも助けを欲していたリクたちにとってこの上ない救済だったが、それは同時に厄介を招き入れるということでもあった。
「は? で、電話番号? 家の?」
警察官は非行少年を補導する為に巡回していたからだ。深夜の公園で怪しげなことをしていた彼らは正にその対象だ。
「ついでに、交番まで来ようか。何か、事件に巻き込まれていたんだろう」
おまけに、今回に限っては事件性も高いということで身柄の保護も言い渡されている。先程まで助けを欲していたリクではあったが、そこまでは望んでいないし、はっきり言って余計なお世話だったので困り顔を浮かべ、答えに窮していた。
‥‥‥厄介だな。
リクは心中で難しそうに唸る。警察官は、何とも言えない目つきでリク、宮島、そして倒れている他三人を見つめている。
もはや、言い逃れはできなかった。だが、ここで退くわけにはいかない。
‥‥‥時間がない。こんな所で保護なんて、計画に間に合わなくなるだけだ。
倒れている者たちの怪我も気になったが、彼らもきっとこれを望んでいるだろう。
リクは放心して隣で置物のようになってしまっている宮島をちらっと確認し、それから欠伸を応用して浮かべた涙を武器に警察官に挑んだ。
高校生といえ、まだ少年である彼が送ってくる視線に警察官は少し身構えた。彼は、自分の娘、息子を思い浮かべているに違いない。
「ちょ、ちょっと‥‥‥君‥‥‥‥」
こんな夜中に泣かれると困る。自然と手が伸びた。しかし、少年はそれよりも先に警官の服にしがみついた。顔を上げ、上目遣いの視線を問答無用でぶつける。
「‥‥‥っ」
そして。
「泣き寝入りなんて、嫌です。お願いします。こいつら、俺の大切な友達で、そんなやつらを傷つけた犯人が許せないんです。面識はありません。何か、危ない団体かもしれません。お巡りさん、お願いです。今すぐにでも、彼らを逮捕してください。‥‥‥大切なっ、友達のためなんですっ」
リクは彼なりに精一杯演じて見せた。ついでに、ぽろりと涙も流しておいた。
状況が状況だったので、自然と悲劇の主人公という立ち位置に感情移入することができ、そこまですることができたらしい。
当然ながら効果はてきめんだった。
「わ、わかった。きっと追う。で、でも。君たちを保護することが最優先事項であって‥‥‥今日巡回一人だから、どっちかしかできない‥‥‥」
「だったらお願いします。深夜に公園で遊んでいたことは反省してます。お巡りさんが戻ってくるまでここで反省してます。だから、お願いします。無念な彼らの、為にも」
まるで俳優のように、自然と身振りが大きくなる。悩む警官の肩を掴んで、強く揺らした。
「し、しかし‥‥‥‥」
目で言葉で行動で、リクは更に希う。警察官は哀れな少年の様にたじたじになっていた。
「お願いします‥‥‥!」
「‥‥‥わかった、わかったから。君たち、ここで大人しくしてるんだよ。必ず戻るから」
そう言ってからの行動は早かった。流石、警察官と言うべきか。すぐさま無線で仲間に何かを伝え、少年に助けを呼ぶための笛を渡す。それから、公園の片隅に停めておいた自転車に乗って颯爽と夜の街に溶けていってしまった。
「おい、お前、いつまでぼーっとしてんだよ。さっさと逃げるぞ」
警官の背中を見送ってから、リクは宮島の額を指先で弾く。宮島は我に返ったようにキョロキョロしただした。
‥‥‥こいつ、本当に年上なのか?
リクはその姿に呆れの表情を浮かべたが、更に言葉を並べることはしなかった。今はそんなことをしている暇はない。
地面に転がっている親友の元に駆け寄り、声をかけてから背に乗せ、意識朦朧としている霧島に肩を貸しつつ、軽トラックの方へ向かう。軽トラックは二人乗りだったので、荷台に彼らを乗せた後は、状況がわかっていなそうな宮島に木下を運び込むよう溜息交じりの指示を飛ばし自分は運転席に乗り込みエンジンをかけた。
「‥‥‥‥もう始まったか」
小雨が降り始めているのか、フロンドガラスには水滴がぽつぽつとできている。こんな夜闇の中では頭上に曇天が広がっていても気づくことが難しい。
‥‥‥さっきまで月も見えてたのにな。
しばらくして、お姫様抱っこ状態の木下を荷台に乗せ終えた宮島が乗り込んできた。免許があるから運転は代わると言われたが、無免ドライバー、リクは。
「その放心状態で事故られたら笑えない。後ろの奴もいるんだ。それに俺、何度も運転したことあるから平気。心地いい安全運転に眠るなよ」
と皮肉げに笑って返した。
‥‥‥カヤのおかげだ。待っててくれ、カヤ。
彼の元気の源は、言うまでもなく『奇跡の貝殻』がもたらしてくれた奇跡にある。それを皆に報告するのはまた後だ。今は逃げることが先決だろう。
‥‥‥カヤ、奇跡は、起こったよ。
額から滲む血を乱暴に拭って、笑う幼馴染を思い浮かべながらアクセルを踏み込んだ。
彼の傷だらけの頬に貼り付いた笑みは、物語が終わるまで、消えることはないだろう。
‥‥‥カヤ、きっと、会いに行く。
彼はきっと幼馴染に、愛に行く。
雨雲によって月が覆い隠されたとしても、それは変わらない。
「卯月、お前、熱でもあるじゃねえのか」
ぽつりぽつりと降り始めていた小雨は時間経過と共に、傘を差さないと歩けないほどの大雨へと変化していた。
雑草の上に落ちる雨の音、禿げた大地に落ちる雨の音、川に沈む雨の音。三種類の雨音がリクの耳の中で延々と回っている。だが、その音がまるで耳に入っていないかのようにリクは言葉を続けた。
「だって、おかしいだろ。な、霧島も、そう思うよな」
「すみませんリクさん。心咲からも、言わなければいけないことが‥‥‥‥」
何か決意したような彼女の表情に、待ってくれ、とリクは言いそうになる。まだ頭の中で情報の整理がついていなかった。これ以上は、パンクしてしまう。
‥‥‥雨、強くなってきたな。ああ、煩いな。
自分の耳を手で塞ぎ、リクは視線を下に落とす。見えるのはトラックの荷台だ。
『僕、雨宮君たちを、裏切ってたんだ。でも、もう裏切らないって約束するよ。僕は、用済みらしいからっ、もうどこにも居場所なんてないからっ。お願い、もう一度、仲間に‥‥‥‥‥』
‥‥‥やっぱり、あいつ、風邪でもひいたんだよ。
河川敷の橋の下に軽トラックを止め、リクは目覚めた二人と向き合うように座っていた。木下は死んだように眠ったままだ。その憐れな姿を一瞥して、眼も閉じた。
‥‥‥でも、なんだか、すっきりと頭に入るんだよな。
リクには自分が公園で目覚めるより前の記憶がなかった。いや、街灯の下で誰かに殴られた所くらいまでは思い出せる。だが、その後の記憶が一切なかった。
何か重要なことを見落としている気がする。そうは思うも、思い出せない。
‥‥‥なんだ? なんで、俺は。
何か、重要なものをこの目で見たのだ。確かに。それのせいで、『卯月の裏切り』という事実をごく自然に受け入れてしまいそうになっている自分がいる。
自分の勘違いなら、なるべく早く払拭しておきたかった。
誰かから肩を叩かれ、リクは瞼を上げる。心配そうに琥珀色の瞳に見つめられていた。
「私も、今混乱していて、おかしくなりそうなんです。でも、心咲はこれだけは伝えておく必要があると判断しました、だから‥‥‥‥‥」
リクが何か反応をする間もなく、流れるように霧島は頭を地面につける。擦りつける。
彼女は土下座していた。それも完璧な土下座だ。今まで、何度もそうしてきたかのように。幼い頃から誰かに教え込まれたかのように。言葉ではなく、身を以て謝罪を意を示すその様にされた方は、声も出せずに唖然としている。
「‥‥‥‥‥‥‥‥ちょ、ちょっと、お前まで‥‥‥‥」
「心咲は、卯月さんの裏切りに勘付いていました。しかし、自分の弱い部分に負けてしまい、仲間を信じる方を取ってしまったのです。あれだけ茅乃ちゃんを助けたいと言っておいて、計画を破綻まで持ち込んだ私は重罪です。殴るなり蹴るなり好きにしてください」
「いや、お前には、お前らには、目覚めたばっかで混乱するだろうと思ったから言ってなかったんだけど、それに関しては‥‥‥‥」
‥‥‥それに、卯月が裏切るだなんで、有り得ないから、そこまでする必要は、ない。
お前の深読みだ。そう言い切ってやりたかったが。如何せん言いたいことがあり過ぎたせいか、リクの喉は弾詰まりを起こしてしまっていたらしく、どちらも言うことができなかった。
彼が口を開けては閉じ、開けては閉じを数回行っているうちに霧島の流れに卯月も便乗してきた。
「‥‥‥‥‥僕も、本当にごめん。ごめんなさい‥‥‥‥虐められてて、脅されてて、殴られてて、痛くて、辛くて。弱さから逃げたのは僕なんだ。僕が全部悪いんだ」
と言葉を添えて霧島のを真似るように、土下座をし始める。
「っ、本当なのかよ、卯月‥‥‥‥ああもうっ、どうなってんだよ!!」
リクはもう、訳が分からなくなって、自分もつられて土下座してしまった。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
異様な光景だった。三者が向き合うように土下座をしている。これでは一生、謝罪が収束しなさそうに見えたが、リクの一言でそれは変わった。
「‥‥‥‥‥‥そうか、そうだったんだな。卯月。お前、裏切ってたのか。くそ、死ね、くたばれよ、クズ。お前なんか友達じゃねえよ、もう」
「‥‥‥」
卯月は言葉では反応しない。自分の罪を自覚し、その叱責を、身に刻み込むように受け止めている。
「‥‥‥‥霧島は、しょうがないな。俺もしょうがない。罪の重さに違いはあるけど、皆悪かった。それだけだったんだ」
‥‥‥俺が始めた物語のせいで。俺が無謀なことを始めたせいだ。俺も悪い。
まだ受け止められていないが、卯月もそれが原因で裏切りの道に進んでしまったに違いない。断じて許せることではないが、もう、しょうがないのだろう。世界はそういう風に出来てしまっているのだから。
‥‥‥嗚呼、そうか。やっと理解った。ソラも、同じだったんだな。
「なぁ、お前ら、顔上げてくれよ」
リクは籠る声で告げた後、頭を上げ、シャツを無言でめくった。遅れて頭上げた者たちの目があるものに釘付けになる。
最後まで、死ぬまでこの秘密を突き通そうとしていたのだが、皆が真実を語ってくれた今、自分だけ秘密を抱えているのは不公平でずるいことだとリクは思ったらしい。彼なりの誠意ではあったのだが、あまりにも衝撃的過ぎるカミングアウトだったのだろう、二人とも固まってしまっていた。
それでもリクは、笑いながら涙を浮かべて言う。
「自分とか誰かを支える金を稼ぐだけでも、世の大人たちは苦労して地に這いつくばって仕事してるんだ。俺はそれを最近間の辺りにした。大人だけじゃない。俺たちぐらいの年の奴らだって、自分を犠牲にして、傷つけて、金を稼いで、生きてるんだ。生きる為に金を稼ぐのに、稼ぐために生きてるんだ、伴う自己犠牲を見て見ぬフリをして。もうそういう世界なんだよ。そうするしかないんだよ。世界っていうのは、物凄く汚い。俺は『世界の汚さ』にもううんざりしてるんだ」
一度言葉を切り、リクは意味もなく唾を飲み込んだ。嗚咽が漏れそうなのかもしれない。
「卯月、お前、虐められてるって言ったよな。いつもお前の顔にあった傷はそういうことなんだな。‥‥‥虐めって酷いよな。だが、諦めろ。人間も汚いんだ」
「霧島、お前は卯月のことを、仲間のことを過信しちまったんだな。‥‥‥信じることって大事なことだって俺も思う。だが、捨てろ。諦めろ。人間は皆嘘まみれの信用に足らないゴミだ」
めくっていたシャツを下ろすと、リクは座ったままの二人から目を離し、荷台の上に立ち上がった。お前たちより自分が優れていると、先に進んでいると、知らしめるように。
「俺、わかった。全部わかった。お前たちのせいで、気づいちまった。世界も人も何もかも汚いんだ。自分も汚い。でも‥‥‥‥‥‥大人になるって、そういうことなんだな。色々なことを諦めて、仕方ないと受け入れて、泥沼に浸かりながらかっこよく生きてくことなんだな。少なくとも俺はそう思う。俺はもう、大人になった。何もかも全部諦めたからな。‥‥‥俺たち、今日をもって子供から卒業しよう。最後に、俺たちの卒業祝いに、汚い大人の世界で死ぬまで生きていっても廃れないくらい綺麗なものを作り上げて、身に刻もうぜ。天気の境目、青い空、差し込む日射し、七色の風船。晴々舞台計画って、とんでもなく綺麗なものだと思わないか? わくわくしないか? これを目に焼き付けて、もう最後にしよう。俺ら」
これが彼らのたった一つの青春だったのだ。そして、その春を経て、大人に成っていくのだろう。逆らいようもない、その必要もない。これは運命なのだから。
「ですがリクさん、海霖片が‥‥‥あれでは足りないはずです」
想定内の質問にリクは余裕の笑みを浮かべた。ポケットに手を入れ、壊れかけの貝殻を彼女の前に差し出す。
「これは‥‥‥‥」
信じられない。本当に? と驚きと歓喜が混じった雰囲気が霧島から醸し出される。卯月も驚いてはいたが、しゅんと萎んだままだった。リクは卯月の肩を叩く。
「最後まで働いてもらうぞ。お前、もう、友達じゃないけど。計画には最後まで付き合ってもらうからな」
言葉は酷く鋭いものだったが、声音は柔らかかった。表情も笑っている。リクなりに気遣って、複雑な胸の内を体現した形がこれなのだろう。ここで彼を許してしまったら、皆に失礼だ。恐らくは自分が一番怒るべき存在なのだから。だが、冷たく突き放しはしない。かつて友だった者への慈悲として。
リクはふと、卯月が自分の親友でいてくれてよかったなと思った。もし、親友でも何でもなかったら、きっと今頃彼は息をしていないだろう。
‥‥‥危なかった。親友でよかった。もう、違うけど。
親友から他人へ。付き合い方を変えるべき時はきっと今なのだ。
「卯月夏樹。お前には選択肢も何もないが、『はい』ぐらい言っとけよな。締まりが悪い」
「‥‥‥‥はい‥‥‥‥本当にごめんなさい」
「もういいって、それは。俺だって、悪いんだから。謝るべき人も‥‥‥‥まだ残ってるしな。俺も謝らないといけない」
リクは視線を卯月から木下の方へ移動させた。彼女の端正な顔には青あざが沢山できていた。それを見る度に暴力の記憶が蘇り、自分も殴られているかのように痛くなる。
きっと、今、自分が一番謝るべきなのは彼女だ。木下は霧島と違って、これからドルフェスに出る予定にある。まだ未来があったのだ。それを今日、自分が半分壊してしまった。リクは行き場のない罪悪感が募ってきて、強く唇を噛んだ。
‥‥‥ごめんな、木下。
今言っても寝ている彼女には伝わらないだろうが、それでも言うべきだ。
そう思って、リクは口を開いた。
「‥‥‥」
「わ、たしは‥‥‥かわいい、後輩の未来を‥‥‥背負ってるのよ‥‥‥‥負ける、わけ、ないじゃない」
だが、声を出したのは木下の方が先だった。夢の中ではまだ戦っているらしく、決意のこもった声が弱々しく漏れ出している。
「‥‥‥‥お前だって、未来があるだろ。馬鹿か、本当に」
それに返事をしている自分も馬鹿だなと思いつつ、リクは木下の乱れた前髪を直してやった。彼女の恋人がこの場に居たならやらなかったかもしれないが、生憎のところ彼は今不在だった。
「もうちょっとだからな‥‥‥」
宮島は今、応急手当の品々を近くの薬局で買い求めていた。雨の中、傘もささずに飛び出していったのだ。
‥‥‥本当に悪いことを、したな。
必死な宮島の姿が、更に心を刺してくる。自分がカヤを想うように、木下を想う人もいるのだと実感させられたから。リクは痛くて、痛くて、堪らず目を閉じた。
‥‥‥ごめん。木下。半分は、俺が悪い。いや、全部かもしれない。
「え‥‥‥ちょっと、え‥‥‥‥」
涙が、閉じた目から一滴零れ落ちる。ひたり、と誰かの皮膚の上で弾けた。
‥‥‥本当に、本当に。
「‥‥‥‥人の顔の上で、みっともなく、泣かないでくれるかしら‥‥‥」
もう一滴、もう二滴。今度は、誰かに手を抓られたような痛みが。そこでリクは気がついた。
驚きと安堵が混ざった表情で、瞳を開く。
「木下‥‥‥‥!」
薄っすらと目を開けている美しい女性が、そこにはいた。傷だらけなのにそう見えてしまうから、散る桜を見るような悲しい気持ちがリクの中で芽生えてしまった。感情が、様々な感情が絵具のように混ざり合って、はっきりとわからなくなる。
だが言葉は見失わなかった。
「本当にごめん。木下。俺が悪いんだ。お前、顔が‥‥‥‥ドルフェスは今日なのに」
いつの間にか、リクの隣に霧島が居て彼女も同じように心配そうに覗き込んでいた。傷だらけで帰ってきた子を見つめる母親のようだ。
「馬鹿ね‥‥‥そんなこと‥‥もういいのに」
「雪ちゃん、話さなくていいです。まだ、安静にしててください」
霧島が看護の為に伸ばした手を木下は片手で払う。
「そういうあんたも、安静にしてた方が、いいんじゃないの? 私は平気。‥‥‥そうだ。あんたたちにはまだ言ってなかったけど‥‥‥私」
唐突に浮かべられた自嘲気味の笑みに、琥珀の瞳の持ち主は沈黙を強いられた。まるで、つい先程のリクのようだ。彼もどこか哀しそうな、感情が読めない笑みで、滔々と語り始めたものだ。内容は、衝撃的かつ辛いものだった。だから、今回もきっとそうだろう。霧島の頬を嫌な汗が伝った。それが滴り落ちるのを待ってから、木下は口を開ける。
「アイドル、辞めることにしたの」
その瞬間、時間が、凍結した。終わりかけではあるが、今は夏。気温もそこそこ高い。なのに、固まってしまった。リクは勿論、霧島も想定の上を行く回答に戸惑っている。
「‥‥‥‥」
言葉が、出ない。
‥‥‥どうして、ですか? 何か、嫌なことでも。
疑問の方が先に出てしまう。自分がどうこう言ったところでどうにもならないことは理解しているのだが、それでも、霧島は考えてしまう、言おうとしてしまう。
辞めないで、欲しい。と。
‥‥‥言っても、無駄なことは、わかっています。ですが。
しかし、言い淀んでいると、彼女の願いは、違う者の口によって代弁されてしまった。
「どどどうして!? 辞めないでよ、ユキちゃん!」
ずっと沈黙を貫いていた卯月が、身を乗り出して、大声で言ったのだ。リクは少し煩そうに耳を抑え、霧島はゆっくりと瞬きをした。
「急なのは、わかってるわ。でも、もう決めたことだから。あんたにも、悪いと思ってるわ。ごめん。まだ他のファンには言ってないから、秘密にしていて欲しい」
「で、でも‥‥‥‥!」
「卯月、もう少しボリュームを落としてくれ。耳がぶっ壊れるだろ」
少し苛立ちを感じさせる声音で告げられ、卯月は我に返り、慌てて口を噤んだ。自分がこの場では悪役で、異物であることを再認識してしまったらしい。
‥‥‥僕が、とやかく言う資格は無いのに。僕って馬鹿だ。どこまでも。
そうやって、すぐ自分を責めてしまう。責めた続けた結果が、現状であることをまだ理解していない。
「心咲にも茅乃にも、後でじっくり話すから。メンバーは家族みたいなものなのに、勝手に抜けるなんて、ずるいって思われるかもしれないけど、いい機会だから。‥‥‥心咲、本当にごめんね」
「い、いえ。雪ちゃんが、決めたことなら、私は、平気です、それで‥‥‥‥‥」
「心咲の『私』なんて初めて聞いたわ。‥‥‥本当に、ごめん。いきなり」
霧島は木下の指摘に顔を赤らめたが、またすぐに白くなってしまう。琥珀色の瞳には薄っすらと、涙の膜ができていた。
本人も本当に悪いと思っているのだろう。霧島の様子を見て、話題を変えるように言った。
「そうよリク、あの男たちはどうなったのよ、それから、海霖片も。‥‥‥一体どこから情報が漏れたのかしら」
「それは、えっと‥‥‥‥」
彼女はまだ何も知らないのだ。無知なのだ。
‥‥‥良い知らせと、悪い知らせがあるんだよな。どうするか。落差で風邪ひかれたら困るしな。
「そこ三人だけの秘密ってことかしら‥‥‥‥ひどい」
弱々しい声でぼやく様が、どうしてだか赤子のようにリクには見えた。
‥‥‥言うか、どっちも。いいよな、お前ら。
ちらりと、卯月、霧島の顔色を見た後、リクは意を決したかのように息を吸う。
「まずは、ごめん。木下‥‥‥よく聞いて欲しい」
リクはそれから、彼女に自分が知り得たことを全て話した。卯月のことも、霧島のことも、海霖片のことも。全部、余すことなく。そして、再度頭を下げた。
最初、木下は戸惑っていた。薄っすらとしか開いてなかった瞳をぱっちりと見開いて。当然だろう。仲間だと、ファンだとも思っていた人が、敵側だったと聞いて平然としていられる方が不思議だ。だが、時間が経つにつれ、少しずつ受け止められるようになったらしく。卯月のことは無言で肩を軽く殴ってから許し、霧島には『隠し事はしないでください、何かあったら相談してください。って言ってたわよね! もうっ!』と何故か抱きつきながら、潤み声をぶつけた。
しかし、本当に最後には、彼女も自ら深く頭を下げた。最終決戦を起こしたのも、それに付随して霧島とリクを傷つけたのも、全部自分のせいだと述べながら。
「私、なんで木箱投げつけっちゃったのかしら‥‥‥本当に馬鹿よね」
「お前が脳筋だからじゃねえか。俺だったら、しないな。脳みそ詰まってるからな。猿とは違う」
一番悪い者、そうでない者、勿論存在するが、皆が皆、悪かったことに変わりはない。リクが無謀な作戦を立てたことも。霧島が秘密を抱えていたことも。卯月が寝返ったことも。木下が後先考えずに行動したことも。
それに、何にせよ、『奇跡』のおかげで最悪の事態は免れた。
だから、ある程度互いを許し合うことができる。
「私が猿って言いたいのかしら、リクは。私が猿ならあんたは蟻んこよ」
「蟻の方が賢いって知らないのか?」
「え。そうなの? じゃあ、私が蟻で、あんたが猿」
「くくっ、やっぱり馬鹿だ」
こんな仲間に囲まれていたからこそ、気が付いた時には、霧島も、薄っすらと笑えるくらいまで回復していた。
「他人に相談しないで、仲間を裏切ったヤツもいるし、秘密を作ったのもいるし、勝手に個人行動を始めた奴もいる。私も馬鹿だった。認めるわ、そこは。リク、何か思うことはない?」
「ああそうだな。締まりがない、ってことだな、木下?」
「そう」
笑って返事をしたリクに、木下も笑顔を返す。
「やるわよね?」
「当たり前だろ」
そして、紆余曲折を経て此処に集結した四人の晴天部員たちは。
「皆、いくわよ」
最低な雨天の下、まあまあそれなりに最高の円陣を組んだ。
「やるわよ、晴天部。 えいえいおー!」
「えいえいおー!」「ぇ、ぇぃぇぃぉー」「‥‥‥‥‥‥‥」
「おい、卯月」
「ああ、ごめん。‥‥‥え、えいえいおー‥‥‥‥‥‥‥」
────『雨宮陸斗と晴世茅乃の奇跡』 終。
『終夏』
「あ、そうだ、赤の他人・卯月夏樹。お前は元裏切り者だから、罰だ」
「え、何?」
「腹の虫がおさまらないからな。一番辛い思いをしたお前には、更なる追い打ちを。いいかよく聞け。今からお前を仲間外れにする。俺たちがせっせと計画を遂行している様を羨ましそうに指を加えて見てろ。ベンチだ、ベンチ。罰としてポジションはやらない」
そんな会話も挟みつつ、晴々舞台計画は始まったのだった。
◇
人々はその日を、名残惜しさにも似た喪失感を覚えながら迎える。八月三十一日。夏の終わり。新たな季節の始まり。学生にとっては“夏休みの終わり”だ。皆が、再び動き出した生活への不安感に苛まれる日でもある。
そんな日の、しとしとと雨降る静かな朝。
しかし、とある集合住宅の一室の前では落ち着いた朝とはかけ離れた激しい状況が作り出されていた。
「お願いです。友達の為に、晴れを届ける必要があるんです。少しの間でいいですから‥‥!」
「今、何時だと思ってるんだ。朝の六時だぞ、六時。俺なんか起きたばっかりなんだけど。うちの子供も起きちゃうから、早く帰ってくれないかな。迷惑なんだよ、君」
恐らく、この会話を聞いている他の部屋の者たちは『お前たちの会話も迷惑なんだ。もう少しボリュームを抑えてくれ』と苛立ちを感じていることだろう。
「わかっています。それは承知の上でお願いしてるんです‥‥‥‥」
「だったら、早く帰れ!」
数多の浮遊する風船を糸で束ねたものを握る茶髪の少女と顎髭がだらしなく生えている下着姿の男性が、朝の静けさを壊すように何やら言い合いをしていた。
男の方は、もう玄関の扉を閉めかけていて、強制的に会話を切断しようとしている。
「もう一度、話を聞いてください」
だが、その企みは男の眼下にいる小柄な少女によって食い止められてしまった。力なんてまるでなさそうな華奢な彼女だが、その細い腕から伝わる力は凄まじいものだった。成人男性をしのぐほどの剛力に扉を抑えられ、びくともしない。男は激しく動揺した。
「なんだ、なんだ! ちょっと、やめてくれないか。警察を呼ぶぞ!」
「ちょっとあなた、どうしたのよ‥‥‥‥」
男が大きな声を出したせいか、家の中からもう一人、心配そうな面持ちの女性が姿を見せた。
このチャンスを逃すものかと、霧島はすぐにターゲットを変え、男の妻と思われる彼女に目線を送る。
「突然すみません。‥‥‥ですが、少し時間を頂けませんか? 三十分程度で終わります。この風船を一つ、持っていただいて。六時半になった時に、空に放して欲しいんです」
「風船?」
男とは相反して優し気な雰囲気を纏う女性は、少女を突き放すことはせず、ただ小首を傾げた。その姿を見て男は諦めたように家の中に戻ってしまう。
彼の妻は、困っている人を放っておけない性分なのだ。
「ったく、朝飯は俺が作っとく。‥‥‥ただそれだけだ」
キッチンから聞こえてきた声に女性はくすりと笑った。少女も遅れて頭を下げる。
「心咲は、私はここ周辺の住宅にこれを配るという仕事をしていまして‥‥‥。住民の方々の力を借りて、ヘリウム風船を広範囲から一斉に飛ばす必要があるんです。飛ばして、それで、大切な人に晴れを届けたい。‥‥‥その為の、力になって、くれますか?」
「なんだかよくわからないけど‥‥‥それで、貴方の大切な人が喜ぶのよね?」
「はい」
少女は子供のように頷く。
「だったらわかったわ。‥‥‥私も協力する。あと‥‥‥‥‥」
女性はこれから朝食を用意するつもりだったのだろう。手には畳まれたエプロンが握られていた。だが、それを紙屑を捨てるように玄関の靴箱の上に放り、サンダルを履いて一歩外の世界に出た。
「ただ三十分間待っているのも退屈だし、その風船、半分預けてくれないかしら?」
「え‥‥‥」
空っぽになった手を伸ばし、『ほら、私も手伝うわ』とにこりと微笑まれたので、少女の中の遠慮の気持ちはすっかり消え失せてしまった。
「この恩はいつか必ずお返しします。ありがとう、ございます!」
もう一度深く頭を下げて、にこりと笑い返した。
彼の少女のように、話を素直に聞き入れ協力してくれるような優しい人に出会える者がいる一方で。ほぼ同時刻、国の中枢機能が集中する大都会のど真ん中で、出会いの不運の嘆き、途方に暮れている者もいた。
それは一人の少年だった。彼の手にも風船から伸びた紐が握られている。
「お願いします。話を聞くだけでも‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
若桜街の中でも最も交通量が多いとされている大きな交差点の渡った先で待機し、信号を渡ってきた者に片っ端から声をかけている。だが、これから仕事に向かうであろうサラリーマンたちは聞く耳すら持ってくれないようだ。
‥‥‥くそっ。話聞くぐらいいいだろ。こいつら、早死すればいいのに。
稀に話を聞いてくれる人がいたとしても、大体は少年の話を聞くなり『馬鹿馬鹿しい。そんなことできるものか』と相手にしてくれず。しかし、それでも有難いと感じてしまうほど、九割九分の人間は少年の声かけにすら答えてくれず、揃って無視を決め込んだ。その度に少年は心中で呪いの言葉を吐いているらしい。
「‥‥‥‥あ、すみません。俺たち、天気を変えようと‥‥‥‥‥‥」
それでも、少年は笑みを絶やさなかった。どれだけ苛立っていても、辛くても、笑顔で相手と接する。そして笑顔で見送る。これは深夜のコンビニバイトで彼が学んだ処世術だ。
「あ、そうですか。忙しい、ですか‥‥‥‥」
風船配り開始から既に二十分経過。かつての彼だったら、もう二、三人には殴りかかっていてもおかしくない時間だ。怒りを飲み込んで、大人しくしているというだけでも彼の成長が窺える。
‥‥‥ここで何かしたら、全てが無駄になる。
彼は今、何万段にも積み上がった不安定な石の山に立っている心地だった。
「‥‥‥はぁ」
もう何度目かの赤信号になった。少年はまだ早朝だと言うのに疲労滲む表情で近くの置物の上に座った。 そして、深い溜息をこぼす。
本当に疲れているのだろう。瞼が下がりかけているし、瞳も虚ろだ。
また信号が青に変われば、来たる人の群れの中に飛び込んでいかなくてはとわかっていても。重い瞼も、腰も上がらない、やる気も起きない、そういう疲労の限界というものはいずれ訪れるものなのだ。
‥‥‥俺って、無力だ。
他の皆は今頃どうしているだろうか、とリクは現実から逃げ、想像を巡らせた。一番心配なのは木下だ。彼女は無事に孤島に到着したのだろうか。卯月の空席を補うために宮島が動員された影響で、船の舵は宮島の友人が担っていると聞かされている。彼の人物像を把握していないリクにとってはそこが唯一の懸念事項だった。
‥‥‥もう裏切られるのはこりごりだからな。誰がか知らんが、頼んだぞ。信じてるぞ。
遠く離れた場所にいるリクには、祈ることしかできない。今も神に祈っていた。恐らくは自分が一番それを欲していることに薄々気づきながらも。
‥‥‥宮島と霧島は平気だろ。たぶん。霧島はあの性格だし、宮島は、は‥‥‥やっぱダメかも。ま、信用はできるから、うん。たぶん、平気だろ。
そこまで考えて。さてと、とリクはついに重い腰を上げることにした。
‥‥‥次は何人聞いてくれるかな。
信号が青に変わったのが見えたからだ。不思議と力も少しだけ回復していた。彼がここに来てから、それは勝負開始のゴングのようなものになっているらしい。ただのゴングではない、選手を奮い立たせる希望のゴングだ。
「‥‥‥‥」
だが、立ち上がってから彼の足が前に進むことはなかった。棒立ちのまま、交差点を渡ってきて自分の横をすれ違う人々に声をかけることもせず。ただ見開いた目で、その人を見ていることしかできなかった。
‥‥‥こんな、ところで、あいつと。
その人も、交差点の反対側で自分と同じように固まっている。
きっと、今が春だったなら、自分たちの間を東風に乗った散った桜の花弁が彩ることだろう。
きっと、今が冬だったなら、その人のダークレッドのマフラーが寒風に揺られて泳いでいるのだろう。
‥‥‥嗚呼、そうか。
きっと、今が夏だから。その人の海の宝石のようなオーシャンブルーの瞳が美しく見えるのだろう。
『‥‥‥‥リク』
その人の唇が動いて、自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
少年と少女の邂逅はほんの一週間ぶりだったのだが、当事者の二人にとっては運命を感じさせる特別なものとなった。
「そうなんだ。リクは、それで‥‥‥‥なるほどね」
道の隅の小さな置物の上に二人揃って座っていた。こう見ると、彼らはまるで気の通い合った親友、または恋人のようだ。再会はどちらも望んでいたようで、座ってからは会話が途切れなかった。
「お前にはまだいってなかったよな。‥‥‥馬鹿にされると思って、言えなかったんだ。だって、天気を変えるって、馬鹿みたいだもんな。実際どうだ、聞いてみて。‥‥‥馬鹿に、するよな?」
「え、ひどい。ぼくをそんな風に見てたの? 馬鹿にするわけないじゃん! というか、言ってくれたらもっと早く手伝うのに‥‥‥」
「そ、そうか、悪い」
リクはてっきり馬鹿にされるものかと思っていたので、その回答には内心驚いていた。
‥‥‥嗚呼、そうか。
しかし、感じるものは驚きだけではなかった。
‥‥‥これも、運命なのか。運命だよな。
少年は身の丈に合わない重すぎるものを抱え、途方に暮れていた所に現れた少女に神の導きを感じていた。
「‥‥‥それ、そんなに美味いか? がっつきすぎだろ」
「うん、空腹だから、何でも美味いよ。いやー、それにしても、ちょうどよかったよ。バイトでここに来てたんだけどさ、お腹減ってヘロヘロになっちゃってて。でも交通費しか持ち合わせてなくってさ。お金使ったら帰れなくなっちゃうから困ってたんだよね。‥‥‥リクと会ったときは運命的な何かを感じたよ」
「‥‥‥‥‥」
リクは、もぐもぐと自分が奢ってやった軽食を食べる小動物をじっと見つめる。小雨の中でも輝くオーシャンブルーの瞳。やはり、綺麗だ。いつ見ても、透き通るような新鮮な心地になる。このような気持ちを抱いてしまうこと自体、男としてあるまじき姿なのだが、つい気になってしまうのだ。
‥‥‥カヤ、怒るかな。いや、もう怒ってるか。
惚けるように見つめていたら、ようやくそれに気づいたのか、不審者を見る眼差しが返ってきたので、リクは慌てて目線を逸らす。微妙な空気感を紛らわす為に、雲空を眺めながら口を開いた。
「さっき話したとは思うんだが、どうしたらいいと思う? 早くこの風船配りきらないと計画が終わりなんだよな」
本当はこんな呑気なことをしている暇もないのだが、出会って早々、しかも無償で相手をこき使うような真似はしたくなかった。
「うーん。ま、感情に訴えかけるのがいいよね‥‥‥‥。あー。あれがいいかな。人って皆そうだから。サラリーマンでも、あれは効くよなぁ」
買い与えられた食料を食べ終わったのか、口の周りを満足気にぺろりと舐めると、ソラは唐突に語り始めた。
「は? どういうこと? あれ、ってなんだよ?」
「まぁ、まぁ。落ち着いてよリク」
身を乗り出すリクをソラが片手で抑える。ゆったりとした語り口から伝わる自信と同様、その表情にも自信満々の笑顔が貼りついていた。
「落ち着いてられるかよ。お前、もう食い終わったならこき使わせてもらうからな。時間もないんだ。早くしろ」
「わかったわかった。今から話すから、ぼくのとっておきの作戦をね」
ぱちんと片目を閉じて、ソラが言う。リクはその無邪気な笑顔が不安でならない。彼が稼ぎ、財布に貯蔵していた金で買った、サンドイッチ。しかも高級肉が使われている割高のもの。それをぱくりと平らげて得た糖分で脳を動かし、演算を重ねて導き出した案とは如何ほどのものなのか。値段に見合うものでないと困る。
‥‥‥こいつ、本当に大丈夫なのか。
麗しい黒髪。嵌め込まれた青の瞳はまるで宝石のよう。歳相応の幼さが残る顔立ちだが、既にパーツは完成されている美顔。しかし、賢そうには見えない。頭の回転など、自分の方が数倍も速そうである。
リクはつい、心配になってしまうが。
「その名も“死んだ愛犬作戦”‥‥‥内容はシンプルだよ。あるところに、愛犬を亡くした哀れな少年、“リク”がいました。きっと天国に行ったであろうその犬。生前はカラフルなボールで遊ぶのが好きだったことを思い出した彼は悲しみに打ちひしがれながらも、毎年、愛犬の誕生日には数百個の色とりどりのヘリウム風船を天へ一斉に飛ばすことを決意。‥‥‥‥これは、一人の少年と一匹の犬の“さようなら”と“ただいま”の物語」
作戦の内容を聞くと、すぐにそれは解消された。
‥‥‥これで嘘を吐くのは最後にするよ、カヤ。だから、許して欲しい。
現実世界の“リク”もまた、そう決意し、立ち上がった。
「明日、泥棒になってても知らないからな」
「ふふっ、望むところだよ」
こうして、彼らの“死んだ愛犬作戦”は始まったのだった。
霧島の担当する彬大町での“晴々舞台計画”。
リクが担当する若桜街での“死んだ愛犬作戦”。
霖斎山を滝のように流れる汗と雨に頭を悩ませながら登る宮島。
何処かに漂流することなく、鈴原島にようやく辿り着いた木下。
各々に課せられた任務は、滞りなく順調に進んでいるように思えた。
一切の進みがない者など、いないように思えた。だが、一人だけ、該当人物が居た。
ポジションから外され、ベンチ役を任された卯月夏樹である。ベンチと言ってもそのベンチすらないのだから、進もうにも進めないのは当たり前のことなのかもしれない。
後退さえしなければいい。簡単な役職だ。眠たくなっても仕方ない。
「‥‥‥‥‥」
そこからは、貝浜の街を一望することができた。家々や、山々。全てに雨が降り注ぎ、世界は灰色一色に染まっている。
彼は、自分が通う高校の屋上にいた。
夏とは思えないほどの冷たい風に、一度、くしゃみをする。ぶるっと震える体を抱きながら、卯月は思った。仮眠なんてするんじゃなかった、と。
卯月夏樹の傷は、彼の仲間たちによって一度塞がれたかに見えたが、実は違っていた。表層の傷が癒えたとしても、精神に刻まれた深層の傷は決して癒えない。きっと永遠にそうだろう。数時間前、仲間たちと円陣を組んだ時に、彼の中に何か温かいものが芽生えた。それは『希望』や『居場所』のように、温度のある言葉で言い表せられるものなのだろう。それが彼に生きようと強く思わせる効果を発揮していた。
だが、耐え難い眠気に襲われ数時間仮眠してしまったがために。
雨に、打たれ過ぎてしまったが故に。
その温かい気持ちは、とっくに冷めてしまっていたのだ。もう『ぬるい』を通り越して、『氷点下』まで下っている。
人は、一日を終え、眠りにつく時、たいてい明日への決意を抱いてから瞼を閉じるものだ。明日は何々をしようだとか。はたまた、明日は何もせずにゆっくりすることに努めようだとか。しかし、そういった決意というものは、寝ている間に夢という獣に食べられてしまうらしい。翌朝目覚めた時には、昨晩唱えたはずの決意等何処かに消えていて、何もやる気が起きなくなってしまう。これは、典型的な人間という生き物の特徴だ。
そして彼も、仮眠中に夢を見てしまっていた。
「‥‥‥‥‥‥‥」
卯月は無言のまま、靴を脱ぎ屋上の手すりの上に足をかけた。起きたばかりということもあり、思考に靄がかかったかのようにぼーっとしている。霧の中、ただ黒く輝く何かを追いかけてここまでやって来た。やることは、ただ一つだ。
‥‥‥もうどうでもいい。早く死にたい。僕は最低な人間なんだから。
生きる希望だった『偶像』。自分なんかに寄り添ってくれていた『親友』。自分という人の『価値』。全て失った彼には、血肉を纏った、体という器しか残っていなかった。
そんな彼が後やることといったら、やはり死ぬことぐらいしかなかった。
「‥‥‥‥‥‥」
さぁ、これがお前の見る最期の景色だ。と手すりの上に立ちながら、卯月は目を、大きく開いた。
しかし、それが思いもよらなかった感情へと繋がってしまう。
「‥‥‥‥‥っ」
後に彼は悔いることだろう。嗚呼、眼なんて開くんじゃなかった、と。
「‥‥ぅ‥‥ぅうっ‥‥‥っ」
視界が、雨とは無関係に歪む。もう、どうしようもなかったのだ。
灰色の世界に突如として飛び込んできた色彩。七色の風船が、海上から上がってきていた。涙を拭うこともせず、彼は次に遠くの山へと目線をずらす。やはりそこにも同じ光景が広がっていた。
死にたい、消えたい。それだけが脳を飽和していたのだが、その瞬間、もう一つ、言葉が加わった。
「‥‥‥‥‥き、綺麗」
『綺麗』という魅了の言葉だ。
‥‥‥本当に、綺麗。
また同時に、こうも思った。この風船たちが雲空を切り裂き、払った後には一体どんな景色が待っているのだろう。きっと、もっと、美しいに違いない。それを見てからでも、死ぬのは遅くないのではないか、と。でも、それを見てしまった後には、きっと生きようと強く思ってしまう気がする。身に刻まれ、一生明かりとなる希望が植え付けられてしまう気がしてならない。嗚呼、困った、とも。
卯月は、もう使わないと思われていた携帯をポケットから取り出し、時刻を確認した。
午前六時三十分二十秒と記されている。
‥‥‥嗚呼。
そうして、もう一度空に浮かぶ色彩たちに目を向けて、ぼやくのだ。
「‥‥‥やっぱり、君には敵わないよ。雨宮陸斗」
‥‥‥ありがとう。雨宮君。僕ってやっぱり、単純な奴だな。
一斉に現れた『綺麗』な色彩たちは何処までも昇る。
とある小さな町から。誰もが知る大きな街から。
海に浮かぶ孤島から。山に聳え立つ木々の隙間から。
昇って昇って、白雲を穿つ。昇って昇って、紅い朝日を迎える。
更に昇って昇って昇った先で、気圧に負けてやがては破裂する。
そうして、ようやくばら撒かれた白い粉々。霖雨の種。海の欠片。それらは朝日の祝福を受けて何処までも青くきらきらと輝きを放つ。
家々へ。雑居ビルへ。地上へ。更なる豪雨をもたらし、雲の水分を枯らし。
その『青』の輝きが消えた頃にはもう、世界は『晴れ』に包まれているだろう。
晴々舞台計画は、もうじき完遂する。彼女も、もうじき目覚める。
◇
雨上がりはやっぱり好きだ。
少し温度の下がった空気と。
白雲を払った第一風が運ぶ、大自然の息吹を纏った水々しい匂い。
でも、葉から滴る珠が一番綺麗だ。虹もあると更にいい。
傘なんて放り投げて、太陽に手を伸ばして。
でも、眩しいから片目を閉じて。
実際は人の目のせいでできないけど、もし誰もいない世界に生まれたならやってる。
でも、そんな世界も欲しいとは思わない。
お前がいなくなるからな。
お前がいない世界なんて、生きる価値もない。
でも、きっと。俺はそんな世界に生まれても死ぬ勇気なんてないから。
ただ、君を探すんだと思う。生きてしまうんだと思うな。
君を見つけるまで。会いに行くまで。
「言いたいことも、言わなきゃいけないことも沢山ある。だから、カヤ。
──────いまから会いにいく」
やっと見つけた。
◇
とある海沿いの街の、人目に付かない高架下で小さな花が揺れていた。白く、華憐なその姿は近くに生えている雑草たちを魅了し、彼らの目を釘付けにしている。まるで、アイドルのようである。
そして今、一陣の風が吹き込み、その花の花弁を一枚、巻き上げて掬い取った。夏の風ではない。秋の風でもない。人工的に作られた、偽物の風だ。白い小さな花びらは連れ去られるように、空へ、天へ、舞い上がっていく。飛んで、飛んで。昇って、昇って。ようやく辿り着いた先は、大きなお祭り会場のような所だった。何故だか、その上空だけ、誰かが引き裂いたかのうように白い雲がひらけ、青い空が広がっていた。
『見えますでしょうか!? あれが、噂の空です! 原因は全くわかっておらず、専門家も究明に努めているそうです。‥‥‥しかし、こんなものが見られるだなんて。まるで、何かの奇跡のようですね。天気発表が初めて天気を外した事態も含めて、スタジオの皆さんはどう思いますか‥‥‥‥‥‥‥』
白雲に突如として現れた数キロメートルにも及ぶ青。しかも、天気発表は今日、この地域一帯の天気を『大雨』と打ち出していた。この未曾有の事態に、メディアやマスコミはてんてこ舞いになっていた。恐らくは局内で自由に動けるリポーターを見つけられなかったのか、休みの日にいきなり現場に駆り出された女性のリポーターはすっぴんのまま現場の実況を行っていたが、眼前で展開されているあまりの事態に気をとられ、もはやそんなことは気にしていられない様子だ。
裂け目の中心を飛んでいたヘリコプターは、地域住民からの騒音被害を避ける為にリポートを終えると足早に去っていった。
あの白い花弁も、そこで風の拘束から解かれ、真下の会場へとひらひら落下していく。
まさかこれらが一人の少年率いるある集団が齎した出来事だとは誰しも思わない、午前十一時三十分のことだった。
『それでは次は、ミラクル・スターズ所属、アヤさんの登場です!』
青空の真下。白い花弁の終着点。大きなステージには、白い面に赤い文字が印字された板が掲げられている。
「ちょ、ちょっと、どけって‥‥‥おい。くそっ‥‥‥‥」
『アイドルフェス 二〇三五年 夏の陣』が開催されていた。午前十一時を回った時点で来場客数は三万人を記録しており、ごった返す人々の隙間を縫ってステージに近づくのは困難を極めていた。だが、諦めきれないのか、何か諦められない事情を抱えているのか、一人の少年は立ち塞ぐ肉壁を掻き分けつつ、押し潰されそうになりながらも少しずつ進み続けていた。背伸びをして見上げたその瞳にはただ一人、ステージ上の彼女しか映っていない。
‥‥‥カヤ。今から会いに行く。それで、けじめをつける。
本当に出来るのか。以前の彼だったならそう問われた時に答えあぐねていただろう。だが、今の彼は違った。
『やっほー。みんな、いい子にしてたかな? アヤだよ~。今日は来てくれてありがとう。いきなりだけど、いつものやっていいかな。‥‥‥うん、いい返事をありがとう。じゃあ“すきを叫ぶコーナー”やってみよう! みんなの想いが、私の原動力になるから、いつも以上のを頼むね! 準備はいいかな?』
彼はもう『子供』ではなく、『大人』になっていた。『すき』ではなく『好き』を言えるような、相手を見つけていたのだ。
『せーの!!』
ずっと前から、十数年も前から、そばにいてくれた人へ。
彼は大人と成った今。初めて、愛を叫ぶ。
『ちょっと待ってぇぇぇ!!』
沸きつつあった会場に、突然、何倍にも大きくなった少年の声が響いた。彼はステージに一番近い、最前列の位置に何とか食い込むことが出来ていた。右手には、どこから持ち出したのか、どでかい拡声器が握られている。
当然のように万人の視線を浴びる彼。だが、平気な顔をして立っている。
‥‥‥俺は、ここにいる。
その勇者の姿はステージ上の彼女の目にも入っていた。彼を見つけた時から、華やかな白い衣装を纏った幼馴染は目を見開きっぱなしだ。リクは小さく嗤った。会場にいる大勢のオタク共を。
‥‥‥こいつは、俺のものだ。
その目に、嘘はない。確固たる意志と、真実を宿して、真摯に幼馴染に視線を注いでいる。
嗚呼、少年よ。お前は愚かだ。自分の臓器を売ったりして、本当に大馬鹿者だ。
だが。それでも。
吹き飛ばせ。青い世界に吹きすさぶ、春の風のように。
叫べ。愛を知った、狼のように。
少年は拡声器の電源を切り、投げ捨てた。会場に居る者たちは、皆、呆気に取られていて声すら出せていない。きっと今なら、肉声で、想いを届けられるだろう。
「ごめん。ただ、聞いて欲しい」
ごくりと、場の空気が唾を飲み込む音が響く。
「‥‥‥‥俺は、世界でたった一人の君のことが。世界で一番」
「──────大好きだ!!!!」
きっと、一生涯消えないだろう。少年も、少女もわかっている。
二人は、誰にも邪魔できない。
少女は、カヤはつんと響く言葉に胸が高鳴った。自然と涙が出てくる。
「‥‥‥‥っ」
言葉が、出ない。仮に出せたとしても、ここで出しては、いけない。絶対に。願いの、為に。
だからカヤは、幼馴染だけが知るもので返事をした。
‥‥‥ありがとう。リク。ごめんね。リク。やっぱり大好きだよ、リク。
ただ、笑った。涙で濡れてしまった顔で。纏った白い衣装の裾を握り締めて。
一輪の白い花のように、笑ったのだ。それだけで、もう。彼らは十分だった。