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晴々舞台  作者: 森屋鯨
4/5

万年大人地獄

 一年の中で、最も強烈な日射しが地上を焼く八月。とある街ではこの月のことを“炎月”と呼ぶことがあるそうだ。その理由は至って明白。太陽によって、本当に地上が焼かれ『炎』に包まれるからだ。強烈な太陽光による地上の気温上昇。気温上昇に伴う、木々の自然発火現象。それが頻発することで、街は『炎』に包まれる。街の都心部でそれが起きた場合は、近くの消防隊がすぐに鎮火に駆けつけてくれるため被害は小さくて済むが、山間部ではそうはいかない。

 山に土地を持つ者は、発火現象が起きた時、自分の土地が炎に焼かれていくのをただただ呆然と見ていることしができない。消防隊は間に合わない。

 山の麓に広がる果樹園の管理人もまた、発火現象が起きた際、ただ見ていることしかできないことが多い。特に彼らの場合は、財産とも子とも言える果樹が燃えるのだからたまったものではないだろう。

 単に暑さに頭を悩ます者も当然いるし、こういった自然災害に頭を悩ます者もいる。皆が頭を抱え、悩みの淵に落っこちてしまうのが炎月。つまり、八月なのである。

 海凪駅から徒歩数分。発火防止用のミストが噴出されている街路樹を横目に、小路を進み続けると拓けた場所に出る。そこにはどすんと一人鎮座している巨大な建物があるだろう。怪しげな宗教団体の本部のような相貌をしているが、安心して欲しい。それは、少し大きく、芸術性に富んでいるだけのただの図書館だ。

館内の入り口を通って、すぐのところにその人はいた。

“炎月”に生きる悩める男。

「心咲! 無事でよかったわ! 生きているのよね! ほんとうよね!!」

「はい、生きています。‥‥‥心配をおかけして申し訳ありません」

「お、お前らなぁ‥‥‥」

 もうすっかり、眼前の女たちとの仲間入りを果たした雨宮陸斗である。

 図書館内、それも、人が一番いる受付の前。現在彼は、再会を喜び、場もわきまえず抱きしめ合う美女たちに頭を抱えていた。休日ということもあって、三人の周りには大勢の人がおり。特に男性は、意識せずとも目に入ってしまう美女たちの熱い抱擁や、時折響く口づけの音に居心地が悪そうにもぞもぞしている。

 『ごめんなさい、朝から本当にすみません』大声を出すわけにもいかないので、そう心の中で叫びながらペコペコ頭を下げる。どうして俺が。リクの中にはそれしかない。できることなら、この女たちを黙らせてやりたかった。

「愛してるわ、心咲~」

「その言葉はもっと違う人に言ってあげてください。嬉しいですけど、心咲には重すぎます」

「重いなんてひどいわ。じゃあ、何て言えばいいのかしら」

「そうですね‥‥‥ラブではなく、ライクぐらいがちょうどいいかと」

「すきよ、心咲。リクなんて放っておいて、いつまでもこうしましょ」

「わかりました。放っておきましょう」

「はぁ。お前らいい加減にしろよな‥‥‥ああ、また出てきた‥‥‥ったく。骨でも折れてそうだな」

 リクは鼻から垂れてきた鼻血をハンカチで拭った。興奮して出したものではない。断じて違う。これは、計三回にも及ぶ木下を霧島から引き剥がす戦いによってできた傷だ。

 一回目は、暴れる木下の肘鉄が命中。鼻の骨が砕けるような物騒な音がした。

 二回目は、『シツコイわね!』と叫ぶ木下の拳から繰り出された殴打が鼻に命中。血が垂れてきた。

 三回目もさほど変わらない。決まって加害者は木下雪という馬鹿力女。怪我をするところはいつも鼻だ。もしかしたら、わざと狙ってやっているのかもしれない。

「‥‥‥しかし、退院したと言っても、当分はこれですから。満足には動けません」

「いいのよ! 心咲が生きているだけで私は満足よ! 身の回りの世話は私に任せなさい。心咲の家の道場には、女の扱いなんてまるでわかってないゴロツキだらけだって聞くし」

 松葉杖を突いている少女に抱きつくお前も、ゴロツキだろうよ。リクは口には出さなかったがそう思った。

「おい、木下。お前な、何の為に今日集まったのか忘れてないか? 霧島の退院を祝う会じゃないんだぞ」

「わかってるわよ。でも、今だけよ」

「お前なぁ‥‥‥今だけって言って、もう一時間ぐらいそうだよな」

 やれやれと肩をすくめるリクに、ちらほら同情の視線も周りから降り注いている。

「終わったら、二階に来いよ。俺は、資料でもまとめて待ってるから」

 リクはもう何度目かもわからない諦めの溜息を吐き出してから、美女たちの横を通り過ぎ、階段へと足を進めた。

 海凪街立図書館。大都市、海凪街の中でも最大の規模を誇る本の楽園だ。建物は三階構造になっていて、一階は主に文庫本や、新書。二階には、学問書が。三階には、漫画やその他娯楽書が読み手を待ってその身を本棚の中に沈めている。

 リクは階段を上りながら、最奥にある大きな本棚を何とも言えない目つきで見つめた。通称、バオバブの本棚と呼ばれるそれは、その大きな、デザイン、何もかもが素晴らしく、見た者の目を圧倒し、感動を通り越し、時には畏怖の感情すらも植え付けてしまうような、もはや芸術品とも言える代物だ。

 だが、リクの心は今。その感情を掻き消し得る別の大きな何かに強く締め付けられていた。

 恨み、恐怖とは少し違う。憎しみとも程遠い。怒りでもない。けれど、負の感情であることは間違いない。

 リクはまだ、この感情の名を知らなかった。名があるのかもわからない。

 ‥‥‥でも、慥かにあるんだ。ここには。

 霧島が大理石の床に吸い込まれていく様が、何度も何度も脳内で再生される。その度に、言われもない申し訳なさに駆られるのだ。

 ‥‥‥俺のせいだ。

 きっと、この痛みは一生消えないだろう。消えてはならないのだろう。

「ごめんな。本当に」

 階段の最後の段を乗り越えたところで、リクは後ろを振り返った。階段の手すり等はガラスで出来ているので、一階の様子がここからでもよく見える。受付の辺りに居る彼女らはまだ抱きしめ合っていた。一人は、黒髪の美女。もう一人は、茶髪の美少女、彼女に限ってはその右脚に包帯が巻かれており、松葉杖を突くことで何とか立てている状態だ。偶に、感情が昂った黒髪の方が、茶髪の頬にキスをしているが、男の目には毒以外の何ものでもないので、即刻やめて欲しい。

「まぁ、今だけなら。いいか‥‥‥‥‥って、寒」

 冷房にぞくりと身が震え、そこで初めて冷房が近くに設置されていたことに気づいた。

 いつものことだが、この図書館は少々空調が効きすぎている。長時間滞在することも考えると、なるべく冷房設備から離れた所にある空き机を探すべきだろう。

 おおよその見当をつけてから、リクは歩き始めた。


 ゴーン、ゴーンと振り子時計の音が響いていた。リクはびくりと体を震わせ、目を開ける。

「やば‥‥‥」

 指先から足先までポカポカと温もりに包まれていた。

「待ってるだなんて言っておいて、これって。あんた、舐めてるわよね」

「心咲も、ちょっとだけ怒っています」

「いや、その‥‥‥‥‥‥‥」

 視線を右往左往させながら、リクは言葉を探す。冷や汗が背中に流れる。言い訳のしようも、弁解の言葉もなかった。

 だって、そうなのだ。

「えっと。そうだな‥‥‥‥」

 リクは眠くなった時の赤子のように温もりを帯びた体を意味もなく揺らした。

「ふふ。寝顔は、可愛かったですけど」

 声音は柔らかく顔も笑っているが、琥珀色の瞳は笑っていなかった。有無を言わさない雰囲気を纏っている。

「‥‥‥ご、ごめん。ちょっと、油断してた」

 家から走って貝浜駅へ向かう、そして列車に乗って海凪街へ。いつもの道を通って、ここまでやってきた。大した運動をしたわけではないのだ。疲労等溜まっていないはず。

 しかし、“天気を変える方法を見つけた”という事実が彼に余裕と油断をもたらしていた。

 彼は、居眠りをしてしまっていた。

 そして、申し訳なさそうに視線を逸らした先で、掛け時計を捉えた。

 時刻は十二時。リクがここに来てから早二時間経過している。

 居眠りからの目覚めは、絶望という名のスパイスを添えられて食べごろに仕上がっていた。

「なんで、起こしてくれなかったんだよ」

「何回も声をかけましたよ。体もゆすりました」

「でもあんたは起きなかった。それだけよ。‥‥‥よく眠れたようで、よかったわ。さぞ、素晴らしい説明が聞けるのよね? あのメッセージのこと、嘘だったら殺すから」

 木下のその言葉に、リクは全身に電撃が走ったかのような感覚を覚えた。

 ‥‥‥そうだった。

 自分が今ここにいる理由を再認識したのだ。体を取り巻いていた緩い空気がすっと消え去っていく。

「そう‥‥‥それは、これ。これを読めばわかると思う」

 リクは手提げの中から即席で用意した資料を二部摘まみだした。

 彼が昨日、徹夜をしてまとめたものだ。文字を打つことも、まとめることも苦手だったが、なんとか伝わる内容にはなっているはずだった。

「‥‥‥‥‥」

 そう、はずだったのだ。

「‥‥‥‥‥」

「どう、だ?」

 資料に目を通すなり、眉をひそめたり、首を傾げたりと好ましくない反応を示す美女たちを見てリクは少し不安になった。

 ‥‥‥俺のやりたいこと、変か。可笑しいのか?

 そこまで突飛な内容ではないとリクは自分では思っていたのだが。

「うーん‥‥‥‥‥‥」

 やはり、美女たちにとっては、受け入れがたい内容だったらしい。

「これ、人工消雨ってやつ。本当にうまくいくのかしら。ここには、雲の中の粒子がどうだとか書かれているけど。簡単に言うと、降水を促す物質(ヨウ化銀)を雲に散布して、本来より早い時刻に大雨を降らせる。雨を落としつくして枯れた雲は姿を消す。目出度く、本当なら大雨が降っていたはずの時間には晴れ間が広がる。ってことよね。これって、そんなに簡単なことなのかしら」

 とまずは、木下が物申す。痛いところを突かれたのか、リクは表情を歪めた。

「これ知ってますよ。心咲、ニュースで見ました。確か、野外で催される大きなイベントの開会式のために、某国がヨウ化銀を含んだロケットを雨雲に打ち込んだ、とかなんとか。しかし、国がそれをやるにはまだしも、個人でやるのは色々とまずいと思いますよ。‥‥‥例えば、ここに書いてある文章。ヨウ化銀散布用のロケット、千本を雨雲に向けて発射とありますよね。明らかに現実離れした数字ですし。それに、ドルフェスの開催地は大都会のど真ん中ですよ。国の中枢機能が集まった場所で、ロケットを打ち上げるなんて‥‥‥。国が、空港が、警察が、住民が、許すと思いますか? きっと、心咲たち仲よく逮捕されて何もかもお終いですよ」

 と次に、資料の文章を指でなぞりながら、霧島がダメ出し。リクは眩暈がして、ぐったりと机に突っ伏した。

「じゃあ、どうしろって言うんだよ‥‥‥」

 リクが吐き出すこもった声には若干の哀音が含まれていた。

 人工消雨は、ネットで丸一日費やしてやっと見つけた最初で最後の希望の光だった。この世界に存在するであろう、カヤを救える唯一の方法に違いないとリクは思い、二人に告げるに踏み切ったのだ。それが打ち砕かれてしまっては、もうどうしようもなかった。

「どうしろって言われても。だって、これ現実離れし過ぎているわよ。心咲が言う通り、個人がやるものじゃないわ。‥‥‥もう一度探すしかないわよ。振出しに戻る。それを繰り返すしかないでしょ?」

 病人のようになっているリクに、木下がなだめるように言う。

「もしかしたら、貝浜や潮背の図書館になら、参考となるものがあるかもしれませんよ」

 この海凪街立図書館にない時点でそれは考えにくかったが、霧島も、そう言うしかなかった。

 目の前の彼が言った『奇跡は必ず起きる』という言葉を信じて、進み続けるしか道はなかったのだ。

 ‥‥‥こいつら、何もわかってないな。

「そんな悠長にしてられるか。もう八月だぞ。時間がないんだぞ。きっと何か準備も必要だろうから、この辺である程度の作戦は固めとかないと‥‥‥‥‥無理だぞ」

 本当はこんなこと言いたくない。仲間を責めるようなことも、急かすようなことも、リクはしたくなかった。けれど、自分に活を入れるという意味も兼ねて、言っておかなければならないと思った。

 ‥‥‥カヤ、ごめん。

 全ては彼女のために。今は己の全てを捧げても構わない。悪魔よ。居るのなら、心臓でもなんでも持っていってくれ。その代わり、お前の力で、何とかしておくれ。

 リクは、神様も天使も持ち合わせていなかったが、悪魔だけはその身に宿していた。

 彼の悪魔は囁いた。いいだろう、と。

 リクは、自分の背後に忍び寄ってきた人影に気づかなかった。

「へぇ~。少年。面白いことやろうとしてるね」

 いきなり語りかけておいて。そのうえ上から目線のこの発言。リクはぴくっと驚きながらも、きっとロクな人間ではないのだろうな、ヤバい人に絡まれたな、と背後の人物を異常者だと認識し、無視をする判断を下した。

「ちょっと、興奮してきたなぁ。こういうの、いいよね」

 首筋を男の鼻息が撫でてくる。気味が悪くてたまらない。鳥肌が立った。

 ‥‥‥マジで誰だよ、こいつ。キモイな。

 知らない人物からいきなりこんなことをされたら、誰でも同じような反応を示すだろう。

 しかしリクが耐えきれなくなり、『ちょっと、助けてくれ。ヘルプ・ミー』とすがるような視線を霧島に向けた時だった。

 霧島の唇が何かを思い出したかのように、ぱっと開いた。

「貴方はもしかして‥‥‥」

 遠慮がちに、小さな声で訊ねる。

「あのときの‥‥‥病院でお会いした‥‥‥‥‥女の子の親御さんではないでしょうか」

「え」

 男の鼻息が止まった。リクの呼吸も停止した。いやまさか、とは思いつつもリクは息を止めたまま背後を振り返り、男の顔面を覗き込む。

 その、まさかだった。

「あ、き、君は娘の命の恩人‥‥‥‥‥。それと、君も、知っているな。確か、彼女と一緒にいた少年だよね?」

 交互に少年少女の顔を指差し、男は心底嬉しそうに笑った。

 これはいい機会だ、と思ったからだ。

「あの時は本当にありがとう。一生感謝し続けるよ。‥‥‥‥‥今日は少しばかりの礼を返せそうだ」

 おほんと咳払いをしてから、男はポケットから何かを取り出した。

「はい。君が持っていてくれ」

 皺付きの黄ばんだ紙切れだ。それには小さな字で何やら色々なことが書かれている。恐らくは名刺の類だろう。リクは優しく自分の掌に乗せられたそれに目を落とし、読んだ。

「‥‥‥‥‥‥‥え。お、お前‥‥‥!」

「お、驚いてくれて嬉しいよ。私は人を驚かすのが大好きだからね。‥‥‥改めて自己紹介をしよう。私の名前は、雨ヶ谷誠智。日々を人に驚きと感動を与えられるような技術創造のために費やすしがない研究者だ。今はとある大学で教授も勤めているけど‥‥‥‥君はご存じかな?」

 名刺を持ったままプルプルと手を震わせている少年に、男は優しい眼差しを注いだ。

「こ、これ、だよな‥‥‥」

 リクは震える指先で名刺に記されている文字を指していた。

 そこには、『京葉大学 気象学科教授』と書かれている。

「ここって、俺が‥‥‥‥」

 少年は今、世界一幸せな人だった。なぜなら、夢を追って、夢に生きてきた彼が、偶然とは言えど理想の自分に最も近い人物と巡り合うことができたからだ。

「もしかして、志望してくれているのかな? それも気象学科?」

 リクはこくりと子供のように頷く。

「そうか‥‥‥‥‥じゃあ、そんな君を見込んでの課題を出そう」

「課題?」

「これを、君に託すよ。‥‥‥明日の学会で必要だったんだが、また用意すればいい」

 男は胸ポケットの中から、白い粉の入った袋を取り出し、机に置いた。

「これ、何だ? 怪しい粉じゃないよな」

「逆に訊こう。何だと思う?」

 学問を愛する者として、男は少年を計っていた。この問いはそういう意味を持つ。

 ‥‥‥なんだこいつ? まぁいいか。

 自分が計られていること等露知らずのリクは、不思議そうに首を傾げた後、眼下の謎の物質に向き合った。

 リクが袋に手を伸ばそうとすると、男が止めた。男は無言で首を振っている。恐らく、袋越しでも物質に触れることはルールに反するのだろう。

 何も手を加えず、今の状況下で判断しなくてはならない。これが少年に課せられた唯一のルールだった。それを理解しなければスタート地点にすらつけない。

‥‥‥なるほどな。

「‥‥‥‥‥‥これが、ルールってことか?」

「正解だ。流石だね」

 こうして、リクは難なくスタート地点に足を踏み入れることができた。後はルールに基づいて、謎を解いていくだけだ。

 謎解きはリクの得意分野だった。予備知識があったおかげもあるが、それでもここまでの早業は常人にはまずできないだろう。

「わかった」

 リクはものの数秒で答えを掴み取り、小さく微笑った。

「おぉ。早いね。じゃあ、答えは?」

 男の声音には、驚きと喜び、期待が含まれていた。

「海霖片。火薬の一種だろ?」

 迷いは一切なかった。真っ直ぐと瞳に男だけを映して、リクは言う。

「‥‥‥どうしてそう思ったのかな?」

 理由まで説明できて、合格だ。と男が付け加えた。

 リクは得意げな顔のまま、卓上の袋を指差す。

「あれには今、日光が当たってるだろ? それが偶々じゃなくて、あんたがわざとそこに置いたとしたら。その状況を壊させないために、ルールと作ったとしたら。‥‥‥こう考えたら、すぐにわかった」

 彼は今、殺人現場で滔々と推理を述べる探偵のように見える。美女たちの眼にもそう映ったようで、ひそひそと何かを話し始めていた。

「目を細めればわかる。日光に照らされた所が、若干青く光ってるんだ。それが決め手だった。まぁ、知識として海霖片の特性とか知らなかったら、わからなかったけどな‥‥‥」

 彼が話している間も、卓上の白い粉は淡い青色の反射光を放っていた。推理も、証拠も完璧だった。男は参ったと言わんばかりに、両の手を挙げる。

「合格だ。完璧な回答だよ。‥‥‥ちなみに、その知識はどこで得たのかな? 私は大方の予想がついているけれど‥‥‥」

「じゃあ、言ってみろよ。次はあんたの番だ」

 挑戦的な眼差しが、少年から男に向けられた。彼らはどちらも学者で。これは、もはやハンデなしの語らいと言える。思考力、推理力がぶつかり合って、場が軋みの音を奏でている。

「ふふふ‥‥‥。面白いね。私の予想は‥‥‥こういえばわかるかな? 京葉大学入試問題。二〇三〇年の化学。大問三の一。問題の実験において使われた物質」

 リクは高校二年生と言えど、京葉大学を志望するレベルの学生だ。大学の過去問に手を付けていても、何らおかしくなかった。

「正解だ」

 ぱちんとリクが指を鳴らす。

 彼は血も涙もない美女たちに人工消雨の否定をされてからずっと暗い顔をしていたが、今はその面影すらない。学者という者は不思議で、同じ学問を愛す自分と似通った存在に触れると、自然と笑顔が溢れてしまうらしい。今のリクは少年のように微笑っていた。

「今日は君に、新たな知識を吹き込もうと思う。君も好きだろう? 別解紹介さ。‥‥‥この海霖片。実は最近学会で話題になっていてね。ヨウ化銀と同じく、降雨作用があることがわかったんだ。それも、ヨウ化銀よりも極少ない量で満足な降雨を得られる。なんと、千分の一の量でいいらしい。‥‥‥画期的だろ? 素晴らしいだろ? これだから学びはやめられない」

「それって、つまり‥‥‥」

「ああ、そうだ。少年がまとめてくれた資料。ちょっと目を通していたんだけど。これを使えば千本のヨウ化銀ロケットを、一本の海霖片ロケットと書き換えることができるね。一本の海霖片ロケットは、この小さな袋三十枚分程度で済むから。数字が現実的になってくるわけだ」

 『これは一つ目で。私は君に可能性を与えたに過ぎない』と男は卓上の袋を摘み、笑顔の横でシャカシャカと振ってみせた。

 近くで様子を静観していた美女たちは、一筋の希望の光が射してきたと硬まっていた表情をやんわりと崩している。

「‥‥‥」

 しかし、リクはそうではなかった。真逆の反応を示している。

「‥‥‥‥」

 男の笑みを見て、先程までの笑顔はすっと引いてしまっていた。

 学者同士にしかわからない。優しくも冷たくもある、若者への期待。その現れが、この笑みなのだろう。男が紡ぐ次の言葉を予測することは容易かった。

 ‥‥‥これが、課題ってことか。

 リクは、緊張していた。

「君の可能性を信じたい。だから、私は敢えて何もしない。他の人が困っていたら最後まで助けたかもしれないけどね。君は別だ。‥‥‥‥‥‥天気を変える。それも高校生が。ふふ。楽しみにしているよ」

 男は、手中の袋を少年に渡した。


「くれぐれも間違えないでくれよ。私が居るのは気象学科の研究室だからね。他の研究室をノックしちゃあ駄目だよ。‥‥‥‥いつかの未来で、結果を教えてくれ。京葉大学で待っている」


 少年は、本当に幸せ者だった。憧れの存在から、運命を捻じ曲げる鍵と激励を貰えたのだから。

「もう帰るのかよ」

 その場から立ち去ろうとしている男に、少年は針を刺す。もう少し色々話したい、という気持ちが強かった。

「ああ。君たちも、帰った方がいいよ。この図書館、今日の十二時半から自然発火防止のための改修工事があるからね。‥‥‥‥数日間は使えなくなりそうだ。残念。いっぱい借りておけばよかった」

 そんなこと聞いていない。リクは美女たちに視線を向けた。両方、首を振っている。

「本当か、それ」

「本当だよ。どうして嘘を言う必要がある?」

「‥‥‥‥‥‥‥それも、そうか」

 ‥‥‥まずいな。いいところまで来たのに、これじゃあ作戦会議が出来なくなるぞ。

「それより。最後に聞いていいかな、少年。‥‥‥現時点で、どうやって海霖片を撒こうと思ってる?」

「え。あ‥‥‥うーん」

 ‥‥‥今それどころじゃないんだが!!

 心中で盛大に突っ込みながらも、少年は渋々考える。この恩人に、仇を返すことも、失望もされたくなかった。

「あ」

 少年にとって、今日は一生に一度の幸の日だったのかもしれない。

 リクは見開いた瞳で、自分の真横に広がる大窓を見つめた。

「‥‥‥あ、あれは、どうだ? あれで飛ばせそうじゃないか?」

「‥‥‥‥‥ほう。やっぱり君は面白い。この建物と同じように。ロマンも詰まった光る原石だ」

 男は眼前の少年が大人になった姿を想像し、独り頷いていた。


 その日の昼下がり。リクは図書館で仲間たちと別れ、家に帰った後、ある人物に電話をかけていた。久しぶりに声を聞くからか、少し緊張している。どう話せばいいのかわからない、という不安も勿論あった。

『‥‥‥‥もしもし』

 繋がった。第一声が潤み声でなかったことにリクはほっと安堵の息を吐く。

「雨宮だけど。突然悪いな‥‥‥卯月。お前‥‥‥その、グループが解散することは知ってるよな」

 言うのが憚れるような内容だったが、いつかは話さなくてはならないことなのだ。今日が偶々その日だったというだけ。それに、何も、傷心の卯月をさらに傷つけるために電話をかけたわけではなかった。

 ‥‥‥ごめん、卯月。でも今だけは傷を抉ることを許してくれ。

『う、ん。見たよ。知ったのは、一昨日。‥‥‥悲しいことに雨宮君を巻き込んで、僕も物凄く辛いよ。自分もそうだけど。今は雨宮君への申し訳なさで胸が張り裂けそうだよ』

 思ってもみなかった返答に、言おうとしていた言葉が喉に戻った。

「‥‥‥そ、そんなこと気にしてたのか。俺のことなんてよかったのに」

『誘ったのは僕だから。雨宮君が悲しんでいるなら、きっとそれは僕のせいだよ。本当に、ごめん』

「いや、本当に俺は‥‥‥」

 会話の雲行きは既に怪しくなってしまっている。これはまずいなとリクは自分の頬を一回叩いた。

『ど、どうしたの? 今、破裂音みたいのがしたけど』

「どうもしてないから、心配すんな。‥‥‥卯月、今日はお前に幸を届けるために、電話したんだ。一旦、全て忘れて聞いてくれ」

『さ、さち?』

「──────、────」

『え? そそそそそそれ、本気で言ってるの!!!!???』

「う、うるさいな‥‥‥」

 キーンと響いた声に、リクは思わず受話器を耳から離してしまう。電話越しだと言うのに、卯月の唾が飛んできたような気がした。

 ‥‥‥あとで顔洗おう。あいつ、歯とか磨いてなさそうだし。

『いつ、それ? 一年後とか言わないよね!?』

「明後日、明後日だよ。‥‥‥つーかお前、歯磨いてるよな。なんか痒くなってきたんだけど」

『明後日ね! わかった!! 楽しみ過ぎて歯なんて磨く暇ないね。参った参った』

「お前‥‥‥‥‥。まぁいい。それと、一つ訊いていいか?」

『何?』

 リクは作戦の立てる上で、一つだけ、確実にしておきたいことがあったのだ。

 あの時、図書館の窓から見えた物。赤い風船。それが作戦に使えるかどうかということ。

「ヘリウム風船って、外で放したらどこまで飛ぶかわかるか? 俺って、物理苦手だから大気圧とかよくわからねえんだ」

『ヘリウム風船? なんでいきなり?』

 卯月はまだ、カヤの秘密も作戦も何も知らなかった。自分が一匙分すら教えてこなかった。

 ‥‥‥卯月。お前は、一番の友だから。親友だから。

 外部への漏洩を心配していたわけでも。卯月との友情が崩壊すると危惧していたわけでもなかった。ただ、自分とカヤの過去にも触れる内容なので言い出しづらかっただけのだ。

「それはだな‥‥‥‥‥‥」

 今の今まで、秘密を作り過ぎたことが悔やまれる。この軌跡と語るのに、一体どれほどの時間がかかることか。

「‥‥‥‥ちょっと必要ってだけなんだ。気になっただけ、に近い」

 ここで説明する話ではないと判断した。

『ふーん。雨宮君は、好奇心という獣に駆られてしまった、と。これ、なんかかっこよくない?え、そう? かっこいい? 世界一? いや~照れるなぁ』

「俺、まだ何も言ってないんだけど‥‥‥‥控えめに言ってダサいぞ。それ」

『‥‥‥‥‥‥そうだなぁ。ヘリウム風船か。脳内計算しかできないけど‥‥‥最近の風船は少し丈夫めに作られてるから‥‥‥‥‥‥‥ざっと高度二〇〇〇メートルぐらいかな。そこで大気圧の低下によって膨れた風船が破裂すると思うよ。うん』

「おい、無視かよ‥‥‥‥‥」

『え、何のこと? 僕、雨宮君が僕に惚れたところまでしか覚えてないけど』

「ああ~わかったわかった。お前って今まで百回ぐらい記憶喪失になってるから。今更反応した俺が馬鹿だったよ」

『それって、どういうこと?』

「いいや。気にするな。‥‥‥‥わかった。ありがとうな。一旦、お前は用済みだ」

『え、ちょ────』

 ぷつり。

「‥‥‥‥」

 自分から通話を切断し、暗くなったスマホの液晶を見つめた。そこには、液晶が鏡の役割を果たして映し出した、微笑っている己の姿がある。

「ピースは全部揃ったな。あとは、組み立てるだけだ」

 気象学を愛す少年が、雨雲の位置する高度を知らないわけがなかった。

 アイドルフェスの開催地、海凪街の雨雲は、多くが高度一九〇〇メートル前後に存在することがわかっている。

 雨雲の高度、即ち気象学で言う、天境線エンジェル・ライン。これを知らずして気象学を語る学者などこの世に存在しないのである。


   ◇


 海凪と名付けられた一帯を支配する大都市。多方面から人がやってくるものだから、街は当然汚れ、異臭騒ぎなど日常茶飯事だ。街は清掃員を雇っているが、彼らが綺麗にできる場所も限られている。汚染が洗浄を上回れば、いつまでも綺麗にならなくて当然だろう。

 しかし、清掃員たちが手を加えずとも、比較的衛生面が保たれている地域もある。街の緑化政策の対象となった地域だ。街路樹や緑のカーテンが至る所に設置されており、訪れた人は異世界に迷い込んだのか、と戸惑ってしまうこともあるとか。

 そんな場所。静かな緑に包まれた一角に、ひっそりと建つ建物があった。自然発火防止の塗料が薄く塗られたログハウスだ。住民たちは一貫して『寮』だと主張しているが外見は『別荘』というに相応しいもので。内装も、万人が想像するような『寮』とはかけ離れたものだった。

 一言で言えば、優雅。

「うーん‥‥‥すげえな。ここ」

 それこそ、唸り声をあげてしまうほど。

「ん‥‥‥‥?」

 『寮』に招かれた男、雨宮陸斗は場にそぐわないような質素な格好で、ある女性の部屋を徘徊していた。一応の配慮はあるのか、決してクローゼットの中は開かなかったが、部屋の隅に設置されている白い机の引き出しは躊躇なく開けた。その中で、何かを見つけた。

 リクは、大切な人に送る手紙のように綺麗に折り畳まれた純白の厚紙を手に取った。

「なんだ、これ?」

 机の中にはそれしか入っていなかったので、本当に大事なものなのか、もしくは本気で隠したいものなのか、の二択になりそうだとリクは思った。

 ごくりと唾を飲み込む。好奇心の赴くまま、指を動かして解剖を開始した。

 ‥‥‥そういえば、カヤって折り紙が得意だったよな。鶴の折り方、教えてもらったっけ。

「‥‥‥‥‥」

 解剖と言っても、中身は手に取ることのできる物として存在しない。

「‥‥‥‥‥‥‥あ」

 彼女以外の人間がその意味を解くことができなくとも、慥かに意味は存在する。

「これ、懐かしいな」

 厚紙の正体は写真だった。リクはそこで笑っている二人の頭を指で撫でる。

 幼き頃の自分の彼女。純粋や真っ白。無垢。そういった言葉が似合う時代が自分にもあったらしい。

 ‥‥‥今の俺は何色だろうな。

 黒だろうか。蒼だろうか。

 ‥‥‥白のままが、よかったな。

「‥‥‥‥」

 過去から乖離し過ぎた自分が辛くなり、もう写真から目を離そうか。と思った時だった。

「ん?なんだこれ。目指せ一千万?」

 自分の指で隠れていた所に。写真の右端で。


 リクは中身を見つけた。


「何の、数字だ?」

 汗ばんだ指先で刻まれた文字をなぞってみる。消えない。歪まない。

 写真の右端に小さく在る文字『目指せ、一千万』は油性のペンで書かれたものだった。一文字一文字の形が整っておらずガタガタと歪なのは、これを書いた主がかなりの筆圧で書き殴ったからだろう。文字に沿って厚紙が沈み、例えこれが鉛筆で刻まれたものであっても、簡単に消すことはできなそうだ。

 常人が持ち得ない、とても強い意志の、現れ。

 リクは得体の知れない何かにぶるっと身震いがして、慌てて写真を元のように折り畳んだ。

 何か、何か。見てはいけない物を見てしまった気がする。

 意味はわからない。なのに、そう感じてしまう。

 ‥‥‥本当に、カヤなのか? 違う人みたいだ。


「ちょっとリク。五分経ったわよ。早く降りてきなさい」


 一階からの声だ。

 ‥‥‥そっか。俺二階にいたのか。

「わかったー。今行くー」

 そう木下に返事をしつつ、写真を戻して引き出しも閉じた。

 ‥‥‥まるで、夕飯の時に母に呼ばれる子の図だな。

 階段を下りながら、なんだか可笑しくなって笑ってしまった。


 一階のリビングに設置されている円卓。リクがやって来たときには既に住民たちともう一人の招かれた者が用意された席に着いていた。

 円卓は四人が座れるようになっている。ちょうど自分の真正面には、黒く長い髪を持つここの住民一人目、木下雪が。右斜め前には、可愛らしい丸眼鏡を掛けているここの住民二人目、霧島心咲が。そして、左斜め前には、特徴といった特徴もない。強いていうなら発汗量が一人だけ異常な彼、招かれた者二人目、卯月夏樹が鎮座している。

 卯月はリク以上に異物感を放っていた。それもそのはず、彼は。

 落ち着いた様子の他の円卓メンバーとは相反して。

「足揺らすな。もう少し落ち着けって」

 一人だけで落ち着きがなく、常にそわそわしているからだ。

「だって、まだ情報の整理がついてないし。それにそれに、アヤちゃんが大変なことになってるんでしょ? 落ち着いてられないよ。‥‥‥‥‥雨宮君はどうして落ち着いていられるの?」

 困ったことに。ここに来るまでの旅路で、カヤとの過去やカヤの現在、その他諸々のことを教えてから卯月はずっとこうなのだ。

 この円卓会議に“乱れ”は不要だ。円卓の古参として何か言ってやらねば。

「‥‥‥‥‥」

 しかしリクは、答えに窮していた。

 言葉が見つからないのではない。

 実は、表に出さないだけであって、彼自身もまた平常心ではなかったのだ。

女性の寝室に忍び込んだような。隠しカメラで盗撮した映像を見ているような。経験は全くなく、ただの想像でしかないが、何かそういった背徳感と興奮、緊張が共存したものが現在進行形で彼の心を乱していた。

 ‥‥‥俺。女子の家、女子の部屋初めて入った。この騒めき、俺が変態なだけなのか?

 ‥‥‥嗚呼、過去に戻りたい。あんなこと、言うんじゃなかった。

 それは二日前の図書館での出来事だった。教授を名乗る男が去り、館内に帰宅を促すアナウンスが流れ始めた頃。

『本当にしばらくは使えないんだと。これじゃあ作戦会議も満足にできないな。どっかいい場所ないのか? 外は暑くて危険だからやめよう』

『そうですね。他の図書館が空いていればいいのですが‥‥‥』

『さっき話してた人がいたけど。なんか一斉の改修工事らしいわよ。他もダメじゃないかしら』

 リクたちは館内を闊歩しながら今後の活動場所を巡って小さな話し合いをしていた。

 ああでもない、こうでもない、と自由に話す中、リクがぽろっとこぼした軽口が後に彼の安定した精神を崩すこととなる。

『ん~そうだな。お前たちの寮はどうだ?』

『『え?』』

『いいや。ダメならいいんだけど。言ってみただけだって。ほら、俺って女子の家行ったことないから、その、なんだ‥‥‥夢を語った? みたいなもんかな』

『いいですよ。歓迎します』

『えっ』

『心咲がいいって言うなら、私も構わないわよ』

『えぇ』

 ‥‥‥ラッキー、なのか? アンラッキー、なのか?

 ‥‥‥うん。アンラッキーだな。これは確定だ。

『‥‥‥‥‥‥タイムマシーンとかないかな』

 こうして今に至るのである。

「ねえ、あんた。もしかして緊張しているの?」

「し、してるよ。ちょっとだけ、ね」

 円卓に着いてから木下の視線攻撃を喰らいっぱなしの卯月は、もう汗でシャツがぐっしょりと濡れている。

 彼自身、女性の家に足を踏み入れることに躊躇いがないわけではないが、あくまでもファンサービスの一種だと自分に言い聞かせることで、リクが陥っているような動揺をうまく回避していた。

「そろそろ、始めましょうか。時間は限られています」

 円卓の中心に、自分たちが描かれたポスターの束をどんと置き、司会進行役の霧島が皆の注意を引いた。

「おい、紙って俺言ったんだが」

「紙ですよ。これも」

 計算用紙を用意しろとリクに頼まれ、寮中を探し回ったが見つからず。結果、ポスターの山を持ってくるしかなかったという霧島の事情をリクは知らなかった。

「‥‥‥‥‥」

 霧島もまた事情を話さなかった。

 適当な紙すらも用意できないほどお金に困っていると伝えるのは、やたら彼に心配をかけるだけなのではないか。と考えたからだ。

「まぁ‥‥‥‥‥‥‥‥‥いい、か」

 全くよくはないのだが、体が不自由な彼女にこれ以上の探索をさせるわけにもいかない。リクは少し申し訳なさそうな目で卯月を見てから、その束を彼の目の前に移動させた。

 卯月はきょとんとしたまま首を傾げている。

 ‥‥‥本当に、ごめんな。

「それでは‥‥‥作戦会議を始めます。今日集まって頂いた面々が“茅乃ちゃんに晴れを届ける”晴天部の全部員です。早速ですが、手元の資料をご覧ください。これはリクさんがまとめ、清書したものなのですが‥‥‥」

「‥‥‥」

 卯月が無言で挙手をする。

 『どうぞ』と琥珀の瞳が言うと、卯月は口を開いた。

「僕は、何をしていれば‥‥‥その資料もないし」

 確かに彼の手元にだけ、資料がなかった。あるのは、サインを書いてくださいと言わんばかりに置かれたポスターの束とマジックペンだけ。

「貴方には、これから指示を飛ばすつもりでしたが。そうですね‥‥‥では、今から取り掛かってもらいましょう。いいですか? リクさん」

 こくりと頷く。卯月を直視できなかった。

「貴方にはそのポスターを計算用紙にして頂いて。天気発表が開示している風向き、強さの情報を基に、ヘリウム風船を飛ばす地点を割り出してもらいたいのです。雨雲の動き程度なら、こいつなら余裕だ、とリクさんが仰っていましたから。頼みます」

「そ、そんなぁ。僕、これに書くなんてできないよ。絵踏みと同じだよぉ」

「いいや、やるんだ。お前しかできなことなんだ。‥‥‥ほら。日にちと、開催場所と、諸々の前提条件はスマホで送ったから。天気発表のホームページには繋がるな?」

 ここに来るまでの間で、リクは卯月に作戦の概要も伝えていた。

「で、でも‥‥‥」

「あの時、任せてって言ったのはお前だろ。マジで頼むよ。物理の神様」

 必死の剣幕で迫られ、卯月はぎょっと身をひく。

「う。わ、わかったよ‥‥‥‥‥‥‥ごめんなさい、本当に」

ポスターの山に一礼。手を合わせ、許しを乞ってから卯月はペンを握った。


 走るマジックペンが、始まりを告げる旋律を奏で始めた。


《フェスまで残り 二十八日》


   ◇


 『 晴々舞台計画(作戦)仮     文責 雨宮陸斗

   

   実行日は八月三十一日 水曜日。フェスの開催は午前十一時から。作戦は左の通りと

する。(時程は実行日のものである)

   

   《午前一時半》

   大樹の木漏れ日公園に集合。ヘリウムボンベと風船、海霖片を忘れずに! 二時間で

   全ての風船の中に海霖片を入れ、ヘリウムを注入せよ。その後、各々、ヘリウム風船

   を放す地点へ移動。

   《六時》

   到着目安。

   《六時三十分》

   時刻ぴったりに、一斉に風船を空へ放す。

   霧島、木下は病院に行き、晴世と合流。そのまま会場へ。

        ───終───

   

   ・海霖片による降雨作用は三~四時間後に発生し、また、雨雲が雨を降らし終わるまで

    に三十分程度かかる予定(信用できるネット情報)。

   ・ヘリウムボンベ(四五〇〇リットル×三本)や、風船(九インチ×一三〇〇個)、海霖片(四五〇グラム)の購入に必要な金は皆で稼ぐ。 

   ・海霖片は火気厳禁。                            』

   

   ◇


《フェスまで残り 二十七日》


「ひい、ひいい‥‥‥‥よし。次は‥‥‥‥‥」

 時間が刻一刻と過ぎていく中、卯月は必死に与えられた任務を遂行していた。

 彼が手を動かし始めてから早二時間が経過し、ポスターは三十枚目に突入している。目の疲労がひどいのか、卯月は途中で手を止めては虚空を見つめ、凝り固まった眉間をほぐしたりしている。

 だが、そんな中。

「円卓の名に恥じぬよう、俺の全力を以てしてお前を潰してやる」

「威勢だけはいいのね。でも、私、腕相撲、心咲以外に負けたことないわよ」

 リクと木下は円卓から離れ、小さなテーブルにその身を移し、互いの手を強く握り締め合っていた。

「まだ力を入れてはいけませんよ。‥‥‥‥‥‥あの、二人とも、力入ってますよ。抜いてください」

 審判は勿論、霧島だ。彼女はその右手に既に自分が獲得した『チラシ』を握っている。リクの真っ赤になっている肘と、木下の内出血を起こしている手から、この二人を薙ぎ倒して手に入れた物だと推測するのは容易い。

「はじめ!」

 霧島の合図で火蓋が切られた。両者、腕に血管の浮き立たせながら、ぶつかり合う。

「ぐっ‥‥‥」

「ちょっと、弱すぎないかしら。もう、つきそうよ」

 一目瞭然で敢えて言うまでもないが、彼らは今、腕相撲をしていた。

 しかし、ただの腕相撲ではなかった。

「高級レストランのバイトは、俺のものだぁ‥‥‥」

「あんたには、コンビニバイトがお似合いよっ」

 そう、自分たちが行くバイトの決めるための、腕相撲をしているのだ。霧島は既に、図書館業務のバイトを募る『チラシ』と持っている。長々と書かれた応募文を読めば、体が不自由な彼女でもこなすことのできる仕事だとわかる。

「くっ‥‥‥はぁ」

「雑魚ね。ハンデが必要だったかしら」

 そして今、この勝負の勝敗がついたようだ。近場の高級レストランの『チラシ』を手に取ったのは霧島。自動的に、街の端の辺鄙な所に建つコンビニの『チラシ』を掴まされたのはリクだった。

「僕も腕相撲したいなぁ‥‥‥‥。雨宮君が羨ましい」

 卯月は既にバイトをしているということだったので、この勝負とは無縁の存在だった。

「ユキちゃん、一回僕ともやってくれないかなぁ‥‥‥頼むよぉ」

 浮かべた卑しい表情から、その発言の意図を察することは難しくない。大方、アイドルと『握手』できるチャンス、とでも思っているのだろう。

「嫌よ、絶対に」

 当然木下は首を振り、拒否を示した。リクは彼らのやり取りを見て、一つ溜息を吐く。

「卯月なぁ‥‥‥。お前には、任務があるだろ。それに専念してもらわないと。それが終わったら木下がやってくれるらしい、顔がそう言ってる」

「何言ってんのよ、リク。私、そんなこと言ってないわよ」

 よほど嫌なのか、木下は利き手である右手を左手で包み、絶望的な表情を浮かべる。

 雲の動き、風の動き、大気の状態。諸々を考慮して、それを手で計算することがどれだけ大変なことか。物理には疎いリクだったが、その難しさは何となくわかっていた。

 まさかすぐ終わるとは思わない。今はとりあえず、後先考えず餌を使って励ましておくのが妥当だろうと考えていた。

 だが。

「ふっふっふっ‥‥‥‥終わったよ。たった今。数秒前。腕相撲‥‥‥」

 卯月は、得意げな顔で、ペンを煙草に見たてて紫煙を吹かしてみせる。

「え。マジかよお前」

 声を出さずとも、リク以外の者も驚きを隠せない様子だった。霧島は、自分が松葉杖を突かないと歩けないことを忘れ、一歩足を進めて転びそうになる。木下は、必死な思いをして勝ち取った『チラシ』を手からこぼれ落としてしまった。

 皆が円卓に歩み寄る。

「うわっ。すげえな。これ‥‥‥。でも、合ってるんだよな」

「え。才能の無駄遣い、とは思わないけど。居る場所間違ってるわよね。オタクやってる場合じゃないわよ。海外の有名大学に飛んでいって、二度と帰って来なければいいのに」

「称賛に値します。素晴らしいです。‥‥‥これ、ちゃんと褒めてますからね」

 卓上には、数枚のポスターが貼り合わされてできた海凪街の手書き地図と、その地図上に置かれた数枚の硬貨。それから、彼の努力を知らしめるように山を形成している計算用紙たちが居た。

 それらの生みの親である卯月は、疲労感を一切感じさせない面持ちで語り始めた。

「検算もしたからこれは完璧だよ。で、えーっと。どこから話そうかな。‥‥‥ますは硬貨からかな。地図上に五十円玉硬貨、百円玉硬貨、五百円玉硬貨があるよね。順番に、その地点で飛ばす風船の数が、五十個、百個、五百個になってるよ」

 卯月が指し示す地図には、海凪街のフェス会場を中心に同心円状にペンで線が引かれており。線上、もしくは線と線の間に、四枚の硬貨が置かれている。

 見知らぬ街の駅前に五百円玉が一つ。

 よくニュースで見聞きするような超大都市のど真ん中にも五百円玉が一つ。

 この辺りでは珍しい、山林の中に百円玉が一つ。

 そして。

「ここが、どうしても厄介なんだよね。僕、計算しながら不安で仕方なかったよ」

 ちょうど卯月の指が重なった地点。街々から離れた海上にぽつんと存在する、小さな島。そこには、五十円玉が配置されていた。

「これって。よくないな。確かに」

 卯月が描いた地図であるから、正確な距離感で出来ているわけでもないし、縮尺もないが。簡単に行ける場所でないことは一目瞭然だった。リクは頬杖を突いて唸った。

 島だ。それも、とても小さな島。フェリーや飛行機といった移動手段が確保されている所とは到底思えない。

 ‥‥‥筏を作って渡るか?

 ‥‥‥広大な海を?

 ‥‥‥誰が?

 卯月は本当によくやってくれた。自分がそう言える立場でないことはわかっているが、それでも何か褒美を与えたいと思えるくらいには、感謝していた。

 ‥‥‥残りは俺の役目、任務だな。

 卯月は物理が得意だ。この辺りの優秀な生徒が揃う学校でも『物理の神』と呼ばれるほど素晴らしいものを持っている。才というものが存在するのであれば、神は彼に『圧倒的な計算能力』と『圧倒的なマニュアル遂行能力』という二つの宝石を与えたのだろう。『圧倒的なマニュアル遂行能力』は、『脳内にある数多の公式の中から、状況に応じた適切なものを選択する力』と言い換えることが可能だ。それに計算能力が加わることで、卯月の所持する『神領域の物理』が完成する。

 では、マニュアル外の、柔軟な思考が求められる場面ではどうだろう。

「‥‥‥」

 先程から沈黙しっぱなしの卯月を見ればわかる。

 ‥‥‥あいつはこういうのは苦手だからな。頭、思考、凝り固まっているんだよな。

 卯月は専ら戦力外だった。

 しかし逆に、柔軟な思考能力が秀でているのが、雨宮陸斗という人間だった。

 神にはなれないただの人間だけれど、自分なら神にできなかったことができる。

 自らを鼓舞して思案すること数十秒。

 思考が収束したのか、ぱちんと指を鳴らした。

「風船に入れるヘリウムの量を減らして、中の気圧を低くする。そうすれば、上空で破裂するまでの時間が長くなるよな」

「あっ、そういうことね。それで、いい感じに風船を放す場所を調整できるってことね。うまいこと島からずらせれば‥‥‥」

「ちょっと、ちょっと。何か面倒くさそうなこと話しているけど、孤島に行くぐらい私なら朝飯前よ。‥‥‥‥‥それに、調整って言っても島の周りは海よ。陸地がないなら調整も何もないんじゃないかしら」

 男二人の会話にいきなり割り込んできたのは、『これが目に入らぬか』と言わんばかりにスマホの画面を突き出している木下雪だった。

 メッセージアプリが開かれており、『宮島晴人』という人物とのやり取りが映し出されている。

「えーっとなになに‥‥‥“緊急よ、私のために船を出しなさい。断ったらどうなるかわかってるわよね。爺の変な思想に縛られてるなら、私が脳天かち割って目を覚まさせてあげるわ”」

「‥‥‥“ひ、ひどいっすよ。脳天かち割られたら即死っす。俺は別に思想に縛られてなんてないっすから。でも色々と言われるんすよ、勝手に船使うと。って言っても、無駄ってことはわかってるっすから。わかったすよ、今回だけっすよ”」

 情感たっぷりに音読した後、リクと卯月は顔を見合わせた。

「ふふ。感謝しなさい。私に」

「‥‥‥これって脅しだよな。殺すって言ってるようなもんだしな」

「この人が可哀そう。僕涙出てきたよ」

「ちょ、ちょっと」

 最高潮を迎えた議論を蒸し返す一石。あらぬ方向から飛んできたそれは、まさかの相手を脅しての力技だったが悔しいことに最適解には近かった。

 悔しさが勝ってしまい中々頷けない、そんな男二人をなだめるかのように、霧島が言う。

「手段は選んでいられませんからね。今回は雪ちゃんの力を借りましょう」

 これから始まる大きな計画。出来ることなら、ここに集った皆を平等に活躍させたいという思惑もあったのだろう。彼女は人を束ねる者として、常にどう行動すべきかを経験則に基づいて判断しているのだ。

 これは、仲間に活躍の機会を与えるというある種のケアと言えよう。

 そして。

「しかし、有益な情報も得られましたから、悔しがることはありませんよ」

 突き出されたスマホの液晶を勝手にスワイプして、霧島はふふっと微笑んだ。男性陣及び木下は顔を真っ赤に染める。

 ────“次は、映画館がいいわ”“大賛成っす。あ、今日撮った写真送るっすよ”

 ────“暇すぎるわ。ちょっとかまって”“一緒に漁に出るっすか?”“もうっ。ばか”

 ────“俺たちって、付き合ってるんすよね” “何よ、いまさら。不満でもあるの?”

「えっえっえっえっーー! 雪ちゃん、これってぇぇ」

「‥‥‥見てないって言って」

「無理、だな。なんか、こっちまで、恥ずかしくなってきた」

「心咲は、ちょっと安心しましたけどね。雪ちゃんがちゃんと恋愛しててくれて、嬉しいです」

 一方に肩入れし過ぎない。損した側には得を。

 これも、仲間のケアである。


 自らの恋路の一部を覗かれ、耳まで真っ赤になってしまった木下を霧島が団扇で仰いであげたり、いつまでも放心状態の卯月にリクがちょっかいをかけたり。

 穏やかに流れる夏の日にかまけていると、時間はあっという間に過ぎてしまった。もう良いお昼時だ。

朝食を抜いたらしい卯月が空腹で死にそうになっていると、まるで初めからそうする予定にあったかのように、昼食が次々と円卓に並べられ、唖然としていると霧島が手にフォークとスプーンを握らせてきた。

「これぐらいはさせてください。一応、客人ですから」

「え、いや。そういうことじゃなくて‥‥‥‥」

「心配無用です。今朝、作り置きしておいたものなので。腐ってませんよ」

「そういうことでもなくて‥‥‥‥‥」

「あぁ~幸せ。僕って、オタク一の幸せ者だなぁ」

 中々料理に手をつけようとしないリクとは真逆に、もう一人の招かれた客は眼下の食事にがっついていた。美味しい、美味しい。と幸せそうに頬に手を当てている。

「お前な‥‥‥なんか、遠慮とかないのか」

「え、遠慮? ないけど‥‥‥雨宮君の分も僕が食べてあげようか?」

「いいや、絶対にお前にはやらない。お前に食わせるぐらいなら、俺が食べる」

 そう言って、リクが卯月に見せびらかすようにスプーンで料理をかき込んだので、霧島は思わず微笑ってしまった。母が子供に注ぐような、柔らかな眼差しが男二人を包み込む。

「こんな家に、こんな料理。僕たちだけ贅沢してていいのかなぁ。なんか後ろめたさって言うのかな。モヤモヤした気持ちが湧いてきたよ」

「うまい飯にがっついている最中のお前が言えるセリフじゃないぞ。それ」

「はは。確かに。‥‥‥‥‥あ。そういえば、アヤちゃんはどうして、計画に参加しないの? こういう言い方はしたくないけどさ、仲間外れって感じだよね。たぶん、僕の後ろめたさの原因はそれだよ」

 一旦、スプーンを机に置き、もぐもぐと咀嚼しながら卯月がぼやく。

 言われてみればそうだ。天気を変える方法を探す際にも、リクたちはカヤに一言も声を掛けなかった。意図して、遠ざけているように見える。

 リクはどうして、そのような判断を下したのだろう。

 友の自然な問いに、リクは答える。

「霧島とも相談した結果なんだ。カヤはこの計画に関わっちゃいけないって、最初から決まってた。‥‥‥カヤの性格って、お前は知らないだろうけど、物凄く頑固なんだ。たぶん、俺たちがあいつのためにバイトしたり、活動したりしているのを知ったら、自分の静養なんてそっちのけで、意地でも俺たちの力になろうとするだろうな。最終的に自分のためだったとしても、仲間とか友達には、尽くしちまうような奴なんだよ」

 カヤには安静にしていて欲しい。だから、言わないんだ。ごくりと口の中にあったものを飲み込んでから、リクがはっきりと言った。

「な、なるほど、ね」

 自分だけが、彼女のことを『アヤ』と認識していた。今更になって気づかされたその事実が言いようもない場違い感を産み付け、卯月の食べる動作を完全に停止させる。

「‥‥‥‥僕、頑張るよ。負けないよ。晴天部の一員だから。‥‥‥雨宮君、カヤちゃんを必ず助けよう」

「なんだ今更。当たり前だろ」

 彼女のことを、『カヤ』と呼んだのはこれが初めてだった。


 ‥‥‥神様、一生のお願いです。どうか僕を最後まで雨宮君たちの仲間でいさせてください。


 食後は、卯月が描いた地図を基に、誰が何処の地点で風船を放すか等を話し合った。

 見知らぬ街の駅前には、霧島が。超大都市の中心には、リクが。山林には、卯月が。孤島には、木下が。それぞれ向かうことになった。また、卯月と木下に関しては、風船を飛ばす地点周辺に目立つものがない土地だったので、卯月が計算して導き出した『緯度・経度』に従って後日、赤い旗を立てに行くが新たな任務として加えられた。

「‥‥‥なぁ。なんか、締まらなくないか」

 諸々のことが決定し、計画が現実的になってきた頃。リクが遠慮がちに心中に渦巻いている割り切れない気持ちを吐き出した。

「締まらないってどういうことかしら?」

「いや、なんか。‥‥‥計画が、うまくいかなくなりそうな予感がするんだ。途中で何か起こる気がする。作戦が甘かったんじゃないかって、心配になるんだよ」

 自分が立てた計画に、他人が加わってきて、事がどんどんと大きくなっていく。望んでいたことではあるのだが、眼前でもの凄いスピードでそれが展開されていくものだから、不安になってしまったのだ。もし、失敗したらどうしよう、と。

「心配症ね。あんたが言い出したのに、自信なくしてどうするのよ」

「俺の立場に立ったら、お前もわかると思うけどな。‥‥‥あぁ、胃が痛くなってきた」

 お腹を押さえて椅子に座り込むリクを見て、木下が『あ!』と何か閃いたように声を上げる。

「円陣組むのはどうかしら。一体感とかも出るし、締まると思わない?」

「いい案です、雪ちゃん」

「それ、すごくいいと思うよ」

「‥‥‥じゃあ、やるか」

 全会一致で円陣を組むことになったので、健常者三人に囲まれていた霧島も『今だけは』と松葉杖を手放し、両腕を自由にした。これで“円”陣が組める。

 ふらふらと片足立ちで不安定になっている霧島の脇に卯月がすかさず入り、それに対抗するように反対側に木下がついた。最後に、リクが卯月と木下の間に入り、円陣が完成した。


「やるわよ、晴天部! えいえいおー!」


「「「えいえいおー!」」」


   ◇


 『 晴々舞台計画(作戦) 八月三日の会議の要点集合  文責 霧島心咲

  

  一、バイト先について

   ・千ヶ崎町 コンビニ→リクさん  横田町 郵便局→卯月さん

    貝浜街 図書館→心咲  海凪街 レストラン→雪ちゃん

   ・四人で稼いだお金で、目標の五十万円に到達しない場合は、緊急会議

    開く予定です。

   ・不慮の事態に遭遇し、バイトの継続が困難になった場合は、心咲まで

    連絡をお願いします。

  

  二、風船解放地点について

    若桜街(若桜スクランブルテトラ)→リクさん

    霖斎山(北緯三十七度五十四分四十三秒・東経百三十九度三分四十秒)

    →卯月さん

    彬大駅(主に付近の住宅街)→心咲

    鈴原島(北緯三十八度二分零秒・東経百三十八度二十二分零秒)

    →雪ちゃん

   ・赤旗は後日配布します。卯月さんと雪ちゃんは忘れずにお願いします。

    

    心咲の連絡先(kirisimamisaki412 biron.com) 』


   ◇


《フェスまで残り 二十六日》


 脱いだ靴を手に持ったまま、歩く。裸足で波打ち際を、進む。

 今日の朝日は実に美しかった。それは母のようでもあり、父のようでもある。女神と表現する者もいるかもしれない。

 木下は頭に被っている真白のつばの長い帽子を抑えつつ、歩いてきた道を振り返った。

「‥‥‥‥合ってそうね」

 歩数は頭の中でも数えていたが、目で見て数えた方が安心できた。

「十七歩。ここが十七歩よ!」

 大きな声でないとあの人に伝わらない。今は朝で、街中で同じことしたら、きっと近所のご老人から叱責を受けることだろう。だが、今はそれが必要とされていたし、その心配もなかった。

 何故ならここは、自分たちが来るまで人っ子一人いなかった、無人島なのだから。

「了解っす。俺は、三十二歩のところで、止まってるっすから。‥‥‥俺は、今から、南に向かうっすから、雪さんは、西に進んで、欲しいっす」

 島のジャングルのように木々が生い茂っている所から、彼の声が聞こえた。かなり声を張っているのか、息が続かないらしく声が途切れ途切れだ。

「わかったわ!」

 孤島で二人。自分は砂浜に居て、宮島は木々の中に居る。夏が始まったときには、予想だにしなかった状況が出来上がっていた。予想できなかったほど、恐ろしいのでも怖いのでもない。予想を遥かに超える“楽しさ”だ。

 西の方角に歩きながら、木下はふと、小さい頃に読んだ、美しい文字で綴られた一冊の小説のことを思い出した。其れは、一人の少年の冒険譚だった。不思議な生き物と出会うところから始まり。二人で一緒に木を切って、筏を作り。それから、川を渡り、大きな家に囚われた友を救う。今振り返ると、そんな世にありふれた物語だった気がする。だが。それでも。あの時の自分は。

‥‥‥心から羽根が生えて、飛び立っていくような。

 とても“楽しかった”。今のように。

「‥‥‥あ。おーい、雪さんっすよね?」

 木下が思い出を噛み締めながら歩いていると、前を歩く宮島が視界に入ってきた。

「あんたこそ、晴人よね?」

 北から南に向かってきた彼と東から西に進んできた彼女。二人の足跡は十字に交わり、そこに目立つ色のした旗が立てられた。

 旗の色は赤。

 赤の生地には黒いペンで何やら数字が記されていた。

──────38.03333; 138.36667.


《フェスまで残り 二十二日と十五時間》


 なんでこんなところに赤い旗があるんだ?

 恐らくは、ソレを食べる人が皆疑問に思うことであろう。旗の存在意義がわからない。お前はどうしてここにいるのだ、と問い詰めたくもなるが、非生物にそれをしても無駄だ。

「お前、寂しくないのか? ていうか、なんでそこにいるんだ?」

 もし本当に問いかける者がいたとしたら、その者は、頭もしくは心の病に侵されているか、ひどく疲れているかの二択だ。

 透明なフードパックに閉じ込められた黄色の地表。そこにぽつんと突き刺さっている赤い旗。手に持って見下ろしているのは、緑色のエプロンを纏った雨宮陸斗だった。

 彼のエプロンには、ここのコンビニ店員であることを知らしめるかのように、でかでかと店名が印字されている。また、彼の持つフードパックにも、その存在を知らしめるかのように白いシールが貼られていた。

────超濃厚! お子様オムライス ¥330

「ははっ」

 乾いた笑い声が響いた。恐らくは自分の声だ。

 ‥‥‥俺って、疲れてんのか。こんなものに存在意義を訊いても、なぁ。

 思えば、ここ最近シフトが続いていて、常にコンビニに居たような気がする。ここまで来るともはや家だ。業務風景が記憶の大半を占めているのだから、実家のような安心感すら感じてしまう。

 ‥‥‥いっそ、一生ここに住みつくか。

 無論、そんなことはできない。彼には帰る家と、大切な仲間たちがいるのだから。

 ‥‥‥さて、仕事仕事。店長に見つかると、またうるさいからな。

 落ちかけていた瞼を無理やりこじ開けて、リクはオムライスたちが陳列されている棚へと足を急がせた。

「‥‥‥‥」

 睡眠不足。焦り。カヤのことでいっぱいな頭。これだけ条件が揃えば、注意力散漫にもなる。別にリクだけの話ではない。生きとし生ける者、皆がそうなってしまうだろう。ただ、今日の彼の場合はたまたま運がなかった。不運だった。それだけなのだ。

 正面から迫ってきていた店員に気が付かなかった男と、同じく男に気が付かなかった店員は。

「いたっ! ‥‥‥‥おい、小僧。何処見て歩いて‥‥‥」

「あっ、すみま‥‥‥」

 お手本のような正面衝突をしてみせた。

「「‥‥‥‥‥‥‥‥!」」

 そして、両者、目を剥く。

 店員は、目の前の客のスーツに不時着したオムライスを見て。驚いて。

 男は、地面に落ちたフードパックと、自分のスーツに染みこむ黄色の液体を見て。怒って。

 双者は、それこそ、獣のように、目を見開いた。


《フェスまで残り 二十二日と十四時間》


 リクが滞在する町から遠く離れた街。浜から貝が沢山採れる。古くからそこに住む人々たちの手に包まれ、守られてきたその名は、今でも受け継がれていた。

 貝浜街。

 その長い歴史の最たる象徴とも言えるのが、ここ、貝浜街立不動図書館だ。古めかしくはあるが、威厳に満ち溢れている相貌。その名の通り、貝浜街が生まれた年から、増築・改築を重ね、ずっと“不動”で佇んでいる建物である。

 今日も昔日と変わらず人々の憩いの場となっているそこに、珍しい組み合わせの男女が本当に偶然居合わせていた。

「卯月さん?」

 初対面の時、卯月の“卯”の字を“卵”と勘違いし、今日まで謝罪に謝罪を重ねてきた霧島と。

「心咲、ちゃん‥‥‥」

 君がそう呼んだなら、と役所で苗字の変更を図ろうとして、色々な人に止められた卯月夏樹である。

 リクや木下といった、他の晴天部の部員たちの姿が無く、本当に二人だけ、という状況は実のところ彼らにとって初だった。

「今、休憩中?」

 この状況を前に緊張しているのか、卯月の声は少しだけ震えている。

 そんな、仕草も声もぎこちない『仲間』を見て、観葉植物の隣の椅子に座っていた霧島は。

「はい。卯月さんはどういった用で?」

 静かに目を細めた。彼女が緊張したり、動揺を示したりすることは恐らくはないが、もしあるとするなら、自分より強い者が目の前に現れたときぐらいだろう。

 だからか。

 彼女は、己より弱い存在を前にすると、安堵、そして余裕から派生した、どうにか守ってやらねばという母性本能を発揮してしまうらしい。母親のような温もりを宿した琥珀色の瞳に、卯月は思わず泣いてしまいそうになった。

「‥‥‥」

 漏れそうになった嗚咽を噛み殺し、無理やり笑ってみせる。その笑顔もぎこちなかったが、霧島は何も言わず、ただ言葉を待ってくれていた。

「‥‥‥ちょっと、ほ、本を読みたいなって思って」

 言いながら自分の頬に涙が伝っていることに、卯月は気づいていない。顎から滴り落ち、自分の服に染みこんでも尚、涙を拭うことをしない。

「そう、ですか‥‥‥‥‥。感動する小説ですか?」

「ううん。自己啓発本」

「感動する自己啓発本ですか?」

「ただの、自己啓発本だよ」

「卯月さん。もしかして‥‥‥何か、悩みが‥‥‥‥‥?」

「な、ないよ。そんなもの」

 会話がぎこちない。噛みあっていない。霧島は、卯月の涙の理由を推測し、幾つか候補をあげていたのだが、一連の会話でそれが全て消え去った。

 彼女が今日初めて、笑顔を絶やした。真顔になり、疑問符を浮かべた表情で首を傾げる。

「では‥‥‥では、どうして卯月さんは今、泣いているんですか?」

「え。僕、ないて、る?」

 そこで初めて、卯月は自分の涙に気づいた。手で、袖で、慌てて雫を拭う。だが、数多の川が流れ込む海の水を全て拭うことができないように、絶えず涙を生産し続けている瞳の湖も、完全に拭い去ることはできなかった。視界に映る少女の顔が、ぐにゃりと歪んで、卯月は平衡感覚を手放しそうになる。

 ‥‥‥僕、もう、ダメかも。

「あ。ちょっと、卯月さん!」

渦のような視界の中、少女だけが、松葉杖を急いで掴みこちらに手を伸ばしてくれている。誰も彼もが見放したというのに、この少女だけは自分を見捨てなかったのだ。その事実だけで卯月は満足だった。

 ‥‥‥本当に、ごめんね。

 滲む視界が、突如キラキラと輝きだした。本来天井にあるはずの照明たちが目の前に降りてきたらしい。いや、もしかしたら、自分の体が大きく傾いてきているのかもしれない。

 後者が正解だった。卯月は、平衡感覚を手放し、地面に吸われている最中だった。

 ‥‥‥このまま死ねたら、楽なのに。

「‥‥‥‥‥」

 しかし、卯月の背が地面に叩きつけられることはなかった。彼が遅回しの映像を見ている間、すっと彼の背後に忍び寄り、背を支える人物が現れたからだ。

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 丸刈り頭に、白い柔道着。金字で名が刻まれた黒色の帯は彼の強さを証明し、靴も履かず裸足で図書館の地面を踏む威風堂々とした様は、周囲の人々を気圧し言葉も紡がせない。

 柔道の名家、霧島家の長女の前に突如として現れたのは、そんな強面の男だった。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥帰るぞ、犬」

 彼は、まるで物でも扱うかのように卯月を担ぎ上げると足早にそこを去ろうとする。

「‥‥‥っ」

 空を切った、卯月のために伸ばされた手。かつて空中で少女を手繰り寄せ、救った手。か弱く震えていたそれは、無意識のうちに硬い拳へと変貌を遂げていた。霧島は男を直視しないよう落としていた視線を上げる。

「‥‥‥‥‥お待ちください、」

 万人が沈黙を強いられるその場に放たれた一石。透き通るような声。


「‥‥‥‥‥‥‥お兄様」


 琥珀色の瞳は、目の前の大男をしっかりと捉えていた。

「なんだ、いたのか。女」

 どくん、どくん。その声を聞いただけで、鼓動が跳ね上げてしまう。恐怖が全身を駆け巡る。

「卯月さんを攫って。一体何の、おつもりですか?」

 霧島心咲は今。緊張し、動揺していた。


《フェスまで残り 二十二日と十一時間》


「『一体何のつもりだ!』かぁ‥‥‥。本人にも非があったんだし、それにわざとじゃないんでしょ? 私は、ひどい言いようだとは思う。バイトちゃんは、ああいう客に慣れてないんでしょ」


 その夜。世界が閑寂に抱かれている頃。とある辺鄙な町に建つコンビニの駐車場で、リクは夜風にあたりながら店長の話を聞いていた。

 二人とも、手には缶コーヒーが握られている。リクは店長に奢ってもらったらしい。

「でも、俺が気を付けていれば、とは思うから、俺が悪い。あの人に迷惑かけた」

「おっ。少しは賢くなったね。よかったよかった。バイト初日とか大変だったんだから。成長してくれて嬉しいよ。このまますくすくと育ってくれたまえ」

 乱暴に髪の毛をかき混ぜられて、リクは苦笑いを浮かべる。この店長は、二十代ぐらいの女性ではあるのだが、思春期真っ只中の男子高校生に何の遠慮もなく、イノシシの突進の如く距離を詰めてくるので少々苦手ではあった。

 ‥‥‥誘惑してるようにしか見えないよな。頼むからこっちの気持ちも考えてくれ。

 今も『はぁ~暑い暑い。コーヒーなんて飲むんじゃなかった』と呟きながら、店長は、エプロンの下のシャツの襟元を掴み、ぱたぱたと扇いでいる。

「‥‥‥っ‥‥」

 何がとは言わないが危うい状況なので、勿論目を逸らすが、女性物の香水が鼻をかすめただけで、リクは全身に鳥肌を立たせ、固まってしまった。

 それを店長が目ざとく指摘する。

「えっち」

「違うっ」

 小悪魔のような表情を浮かべるものだから、もはや赤面は免れなかった。こんなことになるぐらいなら、今からでも違うバイトを探そうか、とリクは考えた。だが、それは叶いそうにない。リクはバイト初日の時点で、早くもこの店長のお気に入りリストに登録されてしまっていたのだ。

「ここ。フランチャイズだから、実質私の店。君は終身雇用してあげるよ」

「いきなり何だよ。事が終わったらすぐに辞めてやるからな」

「え~ん。ひどい」

 大の大人の泣き真似が滑稽に映ったのか、リクは思わず吹き出した。

「笑ったからやっぱクビ」

「終身雇用はどうなったよ。録音してたからな」

「本当? それ聞かせてよ、じゃあ。‥‥‥ほら、早く」

「嘘。真っ赤な嘘。冗談。大人なんだからわかれよ」

 リクは両の手をあげて、録音機を持っていないことを示した。バイト開始からまだ間もないが彼だが、こういう冗談を言えるぐらいの関係は築けているし、職場にも馴染んできているようだ。それはこの店長も思ったのか、声音をさらに柔らかくして言った。

「よーしよし。冗談を言えるぐらいには成長したんだね。‥‥‥‥‥そうだ。バイトちゃん、さっき大人って言ったけど、君もいずれは大人になるんだよ? 大人の世界に慣れるためにもいい経験にはなると思うから‥‥‥せめて社会人になる前くらいまでは居てね、ここに」

「いい経験にはなってないと思うな。今日とか散々だったし」

 体育座りのまま更に体を縮こませて、リクがぼやく。

「それも経験なんだよ。名前をつけるとしたら‥‥‥‥責任かな。自分に非があるんだとしたら、自分から進んで謝らないといけない。当たり前だけどね。隣でお母さんが頭を下げてくれる世界じゃないんだ。君には、ここの店員としての、見習い社会人としての大きな責任がある。それを今日、学べたんじゃないかな」

 二十幾つと十七。小学校だったら同じ学び舎に居てもおかしくない年齢差なのに、自分よりも何倍も何十倍も大人に見えるし。もしかしたら、何百、何千倍も長く生きているのではないかとも考えてしまう。リクは、彼女の過去を知らなった。何ひとつ知らなかったから、そう見えてしまうのも仕方がない。

 言葉を切り、コーヒーを喉に流し込んでいる隣の大人に、リクは視線を注いだ。

「‥‥‥そうだ。いい機会だから、大人の知識をちょびっと教えてあげよう」

 少年の視線を横顔で受け止めつつ、大人は再び口を開く。

「大人になると、人間、持つものが増えるだ。さっき言った責任もそう。でも今話したいのはそれじゃない。もしかしたら、君はもう持っているかもしれないけど‥‥‥‥聞いてくれるかな?」

 少年は無言で頷いた。この人の話は聞く価値がある、と彼が判断したのだ。大人はその期待に応えるべく、にこっと笑ってから、星々が飾られている空を指差した。

「あの星々のように、人間も沢山いるよね。沢山いれば、気の合う奴合わない奴も当然いる。君はこれからどちらにも出会うだろうね。‥‥‥こう言い方はよくないんだけど。合わない奴はどうでもいいんだ。賢く距離を取ればいいだけ。問題は合う奴。特に異性。元は友情でも、ずっと居れば恋愛感情に変わってしまう。恋をして、愛を育むんだよ、みんなね。そこで一つ大人の知識を吹き込みたい」

「前振りが長いな。眠たくなってきた、聞かなくていいか」

 実のところ、これは聞かない理由作りのための嘘で、彼は全く眠くなってなどいなかった。

「ダメ。ちゃんと最後まで聞いて」

 ただ、怯えているだけなのだ。大人の知識を得て、自分が大人に変わってしまうことに。

「へいへい」

 しかし。怯えているのに、それでも気になってしまう。聞かずにはいられなくなってしまう。それが、冒険少年特有の好奇心というものの作用だ。

「これはあくまで私一個人の考えだから、そういうものだと思って聞いて欲しい。私はね、人っていうのは、誰かをすきになって、その人を更に好きになって初めて大人になれるんじゃないかって思うんだ。恋から愛への変換だよ。恋は簡単だ。誰かをすきになればそこから始まる。でも愛は違う。恋より難しいから、これが出来たら大人って名乗っていいんじゃないかって思う。愛はね、例え自分を犠牲にしても、見返りが得られなかったとしても、それでも誰かを守りたい、助けたい、支えたい、力になりたいって思う気持ちのことなんだ。難しい。とっても難しいよ。でもね、君には是非ともそう思える人を見つけて欲しいんだ。私は出会えなかったから、君にはちゃんとそれを経験してもらいたい。本当の大人になって貰いたい。‥‥‥愛を抱けるような相手と出会うこと。大人になるってそういうことなんだ。責任とかと同じくらい大事なことだよ。これが大人の知識」

 星々が映る彼女の瞳には、薄っすらと海が出来ている。

「よくわからないけど‥‥‥‥覚えとく」

 リクはそれを見て見ぬふりをした。きっと、大人は子供よりも多くのものを抱え込んでいるのだろうと、それは掘り下げてはいけないものなのだと、気づいたからだ。

「なぁ‥‥‥次は、コーラで頼むわ」

 手に持った缶々を、ごくっと最後の一滴まで飲み干した。

「え。私が奢る前提なの?」

「当たり前だろ。先輩が後輩に奢るなんて、天気発表が当たるくらい当たり前」

「わかった。そんな口利くならわかった。君の給料から引いて奢ってあげよう。‥‥‥勿論今日の分も、勝手に引いとくから」

「え‥‥‥えぇぇ‥‥‥‥‥‥」

 大人の苦味が全身を飽和した、そんな深夜だった。


 町唯一の二十四時間営業のコンビニ、『オーソン』。日勤よりも高い時給に惹かれて夜勤を選択したリクは、夜が去り、朝日が昇ってきたのを確認してから、エプロンを脱ぎ捨てて帰宅の準備を始めた。

────名札は無くさないように、ロッカーにきちんと戻しておけ。

「‥‥‥完了」

────エプロンは皴にならないよう、綺麗に畳んでおけ。

「‥‥‥‥‥完了」

────退勤するときは、タイムカードを必ず切れ。

「‥‥‥‥‥‥‥完了」

 店長が掲げた“猿でも出来る三箇条”を完遂し、『よし、帰るか』となった時だった。

「おっ‥‥‥びっくりしたな」

 ポケットに入っていた携帯が、突然震えた。こんな時間に一体誰だろう。リクは訝し気に眉をひそめつつ、携帯を耳に当ててみた。

「‥‥‥もしもし」

『リクさんですか? その、朝早くからすみません。心咲です』

 彼女にそぐわない、焦燥に駆られた声。リクは何か重大なことがあったのだと察し、夜勤明けの脳みそに覚醒命令を出した。

「何かあったのか? いつ何処で誰がどうした?」

『は、はい。心咲に連絡が来たのはつい先程です。卯月さんが、卯月さんが‥‥‥‥バイトを辞めると仰っていました。理由は何も言ってくれませんでした』

「‥‥‥‥あいつ、正気か?」

 冷汗が、たらりと背筋を伝った。晴々舞台計画に必要な金は、四人が決行日ぎりぎりまでバイトに勤しむことでやっと賄える額だったのだ。

『早急に卯月さんの代わりを決めないと‥‥‥』

「俺がやる。今呑気に決めてる時間はない」

 ‥‥‥マジであいつ、しばき倒す。

『で、ですが‥‥‥‥‥』

「大丈夫。それより、何か心当たりはないか? 卯月の奴、いきなり‥‥‥」

『な、ないです。これっぽっちも、ないです‥‥‥』

「そ、そうか。ならいいんだ。わかった。連絡ありがとな。俺も急がないと‥‥‥‥」

『リクさん、本当にいいんですか?』

「ああ、平気だ。本当に。とりあえず、後で連絡する!」

 叫ぶように言ってから、リクは携帯をポケットに戻した。

 ‥‥‥マジであいつ、しばき倒す。

「あ、おはよ─────」

「‥‥‥‥‥‥」

 コンビニの入り口で待機していた日勤の者に挨拶もせず、逃げるように早朝の世界に躍り出た。朝の冷は、リクの熱の灯った頭を少しばかり涼やかにしてくれるが、考えていることは変わらない。

 ‥‥‥マジであいつ、しばき倒す。

 疲弊少年は、外の世界に殺意の籠った吐息を放した。


 一本の電話を受け取ってから、十分忙しかったリクの生活にさらに加速し始めた。

 理由はなんであれ、卯月がバイトを続けることが困難になった。稼ぎ手が一人減った。彼の代わりを誰かが努めなければならない。疲弊した我が身が心配ではあったが、代わりは自分がするとあそこで宣言していたので、迷いはなかった。だが、悩むことはたくさんあった。

 まずは、時給の問題だ。夏休みといえば、若者が多くバイトに手をつける時期だと言える。故に、七月の時点で好待遇のバイトはほとんど埋まってしまうのだ。リクたちは、八月に入ってすぐにバイトを探したが、それでもやっと三件手に入れただけだった。今日は八月九日。八月に入ってから既に一週間以上も経過してしまっているため、良いバイトは当然残っていない。

「はぁ‥‥‥‥どうすんだよ」

 それに、時間の問題もある。どんな人間でも、一日として与えられた時間は一律で増やすことはできないし、睡眠もしっかりとらなければ死んでしまうだろう。リクは、最低限の睡眠時間を確保しつつ自分のバイトをこなし、時間をやりくりして卯月の代わりも務める必要があったのだ。それがどれだけ困難なことか。自分の計画に皆を巻き込んでいるという責任を感じ、進んで引き受けた役目であったが、もう既に後悔していた。

「はぁ‥‥‥‥‥‥‥どうすんだよぉ」


『死んで、お母さんに詫びないと』


 リクはふと、何時ぞやかのカヤのセリフを思い出した。

「くそ‥‥‥」

 慌てて耳を両手で塞いだ。目も閉じた。

 それなのに。あの時の、苦しそうな、痛みに耐えているような彼女の表情も、芋づる式で思い出される。

 ────晴世茅乃は、自分でも手が負えないほど、頑固だ。

 その事実が追い打ちをかけて、リクはもう、どうにかなりそうだった。頭がはち切れそうだった。

 ‥‥‥考えることが、多すぎる。

 恐らく、彼女は願いが叶わなかったその時には、本当に死を選ぶだろう。誰の制止を聞かず、頑なに死のうとするだろう。

 ‥‥‥きっと、俺でも。

 彼女が自分を好いてくれていることは、何度も伝えられた言葉から理解している。

 ‥‥‥止められない。

 しかしながら、その気持ちを以てしても彼女の考えは曲げられないのだ。

 ここまで、十七年間、常に一緒というわけではなかったが、多くの時間を共に過ごしてきた。その中で一度でも彼女の方から折れてくれたことはあっただろうか? 

 リクは自問する。

 ‥‥‥なかった。

 それが、全ての答えだった。

 諦めるしかないのだ。

「晴世茅乃は、そういう奴なんだ。小さい頃からずっと。‥‥‥今日も俺の負けだよ、カヤ」

 皮肉げに笑いながら、独りごちる。

「‥‥‥‥もうこれしかない。やるしかない」

 汗ばんだ手には、一枚の『チラシ』が掴まれていた。


《フェスまで残り 二十二日と一時間》


「急募、短期バイト‥‥‥‥土木作業‥‥‥‥日中‥‥‥月、水、金‥‥‥‥だよな?」


「そうだけど。ボク、何かおかしいことしたかな?」


 夜勤明けの眠たい目を擦りつつ、何とか辿り着いた仕事現場。一応、『チラシ』に書かれていた通り、長靴と汚れても良い服を着てきたのだが。

「ボクの名前は、雨宮奏楽。よろしく。君の名前は?」

 そこでリクを出迎えてくれたのは、泥だらけの場所に不釣り合いな、黒く短い髪を持った美しい少女だった。

 右手にはシャベルを。左手には汗拭き用の白いタオルが握られている。彼女は、海で遊んできた後の子供のように、肌も顔も何もかもが焼けていて。そのせいか、可愛らしい顔に二つだけ嵌め込まれているオーシャンブルーの瞳はどんな宝石よりも鮮やかで輝いて見える。

「‥‥‥‥」

 リクは返答に困っていた。表情筋が硬貨してしまった。傍目から見れば、彼女の美しさに見惚れて言葉を忘れてしまった、叶わぬ恋に落ちてしまった、そんな憐れな少年に見えるが、実際は違う。

「‥‥‥‥‥‥」

「ん?」

 無言でいる少年に、少女、奏楽は、不思議そうに小首を傾げる。自分は何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。少し心配になったが、それは杞憂だった。彼が次に紡いだ言葉が、答えを教えてくれた。

「お、俺の名前は‥‥‥雨宮陸斗。短い、間だけど、よろしくな」

「え。えぇぇぇ!? もしかして、同じ苗字なの? 雨宮って。雨に宮?」

 奏楽は言いながら空に指を走らせていたが、動きが速すぎてリクは何を書いたのか読み取れなかった。

 ‥‥‥せっかち、なのか? 性格まで俺と同じだな。

「雨に宮だけじゃわからないけど、たぶん同じだな。ごめん、俺もちょっと驚いてて。実は昨晩ろくに寝てないから、今冷静じゃないんだ、思考が。だから、一瞬混乱した」

「へぇ~。そういうことかぁ。‥‥‥‥じゃあさ、せっかくだから」

「せっかくだから‥‥‥?」

 奏楽は突然持っていたシャベルの先端をリクに向けた。二人の距離は二メートルぐらいあったが、シャベルに付いていた泥は綺麗な軌道を描いて見事リクの頬に着弾した。

 意図してやったことなのかは、彼女の表情を見ればわかる。


「君は、リク。ボクは、ソラ。お互い、そう呼ぶことにしようよ」


 ソラはいたずらっ子のような笑みを浮かべて、そう言った。


《フェスまで残り 十五日》


 その日、海凪街は極稀にみるような、大雨に襲われていた。本来青々と美しいはずの空は、灰色、または黒色の雲に覆われ、緑を優しく愛でているはずの風も、葉や花と巻き込みながらビュー、ビューと吹きすさんでいた。

 この大雨の中、出歩く者は少ないが、ゼロではない。

 ぽつり、ぽつりと人々がやって来て、そのレストランの扉を開けるのだ。開閉と共に鳴るベルはレストランの紋章にも姿を現す、象徴のようなものである。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?‥‥‥二名様。そうですね。二名様でしたら、あちらの席がいいでしょう。案内します‥‥‥あ、傘はそこにお願いします」

 『鷹ノ丘キッチン』。国内を中心に数十店舗を展開する、言わずと知れた高級レストランだ。外装は、味のある深緑の屋根にミルク色の壁。所々にくり抜かれている窓ガラスは外の人からの視線を遮断し、中の客が料理に集中できるよう、特殊加工が施されている。

「ご注文が決まりましたら、こちらのベルを鳴らしてください‥‥‥え? これですか? これは、当レストランの創業者が海外で見つけ、一目惚れ、いや、一耳惚れして持ち帰ったとされています。‥‥‥はい。そうです。‥‥‥では、ごゆっくりどうぞ」

 よく見ると、ミルク色の壁に紛れて真白の扉が身を隠すように存在しているのがわかるだろう。そこが入り口となっている。

 ────カラン、カラン。

「ほら、雪ちゃん。また来たわよ」

「は、はい、行ってきます」

 入り口のベル音は、店内の隅から隅まで美しく響き渡り、何処かにいる従業員まで確実に客の来訪を知らせてくれる。

 ピシリと店の制服に身を包んだ木下は、受付に声を掛けられ、珍しく後ろにまとめた髪の毛を右往左往に揺らしながら入り口へと足を運んだ。

「いらっしゃいませ」

 薄く口紅が塗られた紅唇からは、いつもの彼女を思わせない落ち着いた声が奏でられる。木下は女性にしては高身長で、顔も完成されているため、並みの大人より更に大人らしく客には映るだろう。

「‥‥‥え、頼んでいない? あ、隣のお客様でした。申し訳ありません」

 対応がぎこちない部分があったり、ミスもあったりとまだ新入り感が漂うが、そこは愛嬌ということで。

「あ。加藤さん。もう帰られますか? ‥‥‥そうですか。足元が悪いので気をつけてくださいね。‥‥‥またのお越しを! あ、またのお越しをお待ちしております」

 自分の仕事をノートにまとめたり、常連客の名前を単語カードで覚えたりと誰よりも努力家で。言葉遣いや礼儀も正しく。何処で学んだのかはわからないが客の前では巧みに表情を操って笑顔をうまく作り、愛想良く接待してくれるので。

「‥‥‥‥いい子ね、あの子。私の娘と交換したいぐらいだわ」

 バイトの募集を掛けた店長は彼女を微笑ましく見ていられた。このまま正規雇用をしてもいいぐらいだった。

 だから、余計に辛かった。まるで自分が、彼女の何もかもを踏みにじるようで。


「え。か、解雇ってどういうことよ?」


 店長に大事な話があると言われ、裏方に呼び出された木下は、そこで衝撃的なことを聞かされた。

「うちの店裏の落書きの件、あるでしょう? あれ警察にも相談したのだけど、今のままだと手がかりがなさ過ぎて動けないそうなの。‥‥‥私、貴方が心配で。一時的な解雇をするのが英断だと、ベテランさんたちも仰っていて、それで」

 二人だけの薄暗い個室の中、店長の弱弱しい声だけが木下の鼓膜を揺らしていた。

「平気よ、あんなの。私ってこう見えて強いのよ」

 木下は震える声を抑えて、力こぶを作ってみせる。だが、微かに手が震えているのに、店長は気づいていた。

「貴方のことだから、きっと無理して強がるんじゃないかって。皆も、私も思っていたのよ。やはりだめね。貴方が心配。‥‥‥だから、ごめんなさいね。九月辺り、事が収まっていたら再雇用してあげるから。それまでは、本当に‥‥‥‥‥‥」

 皴と染みが刻まれた手を彼女の肩に乗せ、店長は目を合わせた。その視線がひどく悲しそうで、抉るようで、優しくて。木下は、たまらず頷いてしまった。

「‥‥‥‥‥うん」


────『鷹ノ丘キッチンに告ぐ。木下雪を解雇しろ。さもなくば、彼女に危害を加える』

血の色のスプレーで書かれた、冷酷な命令文。それが店の裏の真白の壁で見つかったのは、数日前のことだった。


 油性のインクは、幾らブラシで擦っても、雑巾で拭いても、消えない。

今日のような大雨に曝されても、色褪せることすらない。

明日、もし晴れたら、専門の業者を呼ぶのがいいだろう。


《フェスまで残り 十五日》


 最悪の雨は、海凪街に限らず、辺鄙な所に位置する小さな町にも降り注いでいた。

 降水量は海凪ほどではないが、かなり振っている。まるで、バケツをひっくり返したようだ。

 だが、最悪は海凪と同じ質量で、地上の人を押し潰そうとしていた。

「‥‥‥‥」

 千ヶ崎町、某コンビニ。時刻は午前三時。この時間帯になると深夜のトラックドライバーぐらいしか客が来なくなるので、店員は暇になりがちだ。レジに一人配置しておけば、店は問題なく回る。

「お、おい! 店長! これ、どういうことだよ!?」

 交代制でレジを見ていたリクは、ようやく自分の番が終わり控室で本来なら仮眠を開始するはずだった。だが、ふと目に入ったシフト表のせいで、眠気も平常心も何もかもが吹っ飛んだ。

「な、なぁ。‥‥‥‥おい!」

 つい、壁に寄り掛かっていた女性に言葉で噛みつく。

「なんかうち、最近人気みたいでさ。油断してたら、バイトが凄く増えちゃったみたい」

 店長は疲れがこびりついた顔のまま、眉だけを少し下げて肩をすくめた。『オーソン千ヶ崎店』はフランチャイズ店であるため、基本的には諸々の経営は彼女に一任されている。これは彼女の難儀な性格のせいなのだが、今まで自分一人で経営を抱え、他人に助けを求めようとしなかったのだ。

 そして。仕事が溜まって、眠気もたまって、切羽詰まって、バイトの募集を下げ忘れた結果がこのありさまである。

「なんで、こんなに雇用したよ。適当に不採用にして人数調整ぐらいできただろ‥‥‥」

 リクは怒りを必死に抑えて、目の前の知らない人の名前で満たされているシフト表を再度見つめた。

 ‥‥‥俺、入れねえじゃん。どうするよ、金。足らねえぞ。

 良くしてくれる店長には多少なりとも感謝しているし、できることならこの関係を保ちたいとも思う。

「‥‥‥‥‥‥っ」

 リクが額から口へと伝ってきた冷たい汗を飲み込んで、殴りかかろうとした拳をもう片方の手で抑え込めたのは、彼女に恩があったからだ。もし何もなかったら、今頃どうなっていたかわからない。

「皆必死だったから、断れなかっただけ。家賃が払えない、とか。生活費が、とか。親が病気で、とか‥‥‥仕方なかった、本当に」

「おいおい、だからってな。‥‥‥俺だって、必死なんだけど。働かねえと、間に合わない」

 リクはここまで、カヤを助けるために必死にバイトをしてきた。途中で欠けた仲間を補うために彼の分まで働いてきた。それなのに、ここに来ての最悪とは。一体彼が、何をしたというのか。

 ‥‥‥どうして。俺が何したっていうんだよ。

 それは彼自身も抱えていることだった。

「世の中、助け合いだから。これも大人になるために必要なこと。一つ学べただけでよかったじゃない。君は十分稼いだよ。凄いよ。短期間でよく頑張ったよ。君を解雇しようなんて思わない。ただ一旦、困っている他の人のために譲って欲しいってだけだよ。一週間後か、二週間後かはわからない。でもきっとすぐに人員不足になるからさ、そのときにまた来てよ。‥‥‥‥‥‥‥君はお気に入りだから、仲がいいから、こうやって頼んでる。お願い、わかって」

「無理だ。シフト空けろ。俺の分」

「シフトは新入りが優先って、初めにも言ったでしょ? もう決まったことだから」

「おい!」

 ‥‥‥頼むよ、なぁ。

 願いを込めて吠えてみたが、彼の声は客の到来と共に響いた外の雨音で掻き消えてしまった。

 ‥‥‥もし、理解されなかったとしても。

「‥‥‥‥‥‥‥‥店長。大事な話がある。聞いてくれ」

 ‥‥‥ダメもとでも。カヤのこと。作戦のこと。言ってみる価値はある。

「俺が働く理由を、聞いて欲しい。それで、考えて欲しい」

 彼の真剣な眼差しに、店長は一瞬驚き固まったが、すぐに元の彼女に戻った。大人の余裕を宿して少年を見守る。

 『何か事情があるのね、わかった。聞くわ』。その瞳がそう言っていることを願って、リクは口を開く。

「俺、実は家族ぐらい親しい幼馴染がいて‥‥‥カヤって言うんだけど‥‥‥‥‥アイドルやってて‥‥‥‥」

 脳内で浮遊している言葉を手あたり次第に掴み、声帯に投げ込むことになりそうだが、不思議と彼女なら理解してくれるような気がしていた。

「それで、そいつが‥‥‥‥‥」


「あ、店長。ちょっと、わからないことがあって。今すぐレジまで来てくれませんか」


 リクが言う前に、控室の扉が勝手に開き、新入りのあどけない顔をした少年が顔を出してきた。焦りの表情が貼りついている。何かトラブルでもあったのだろうか。

「わかったわ。‥‥‥それって、どっちのレジ? 一番、二番?」

 店長は目でリクに謝ると、すぐに控室から出ていってしまった。少年は何故か、控室に半身を置いたまま、そこからレジに居る店長と話している。会話の内容からして、どうやら、お札を取り込む機構が故障を起こしてしまったらしい。

「お願いします! 頼りにしてますよ、店長!」

 店長の、私が何とかするからそこで休んでてという言葉に少年は元気よく返事をした。愛想が良い。少年らしい、無垢で無邪気な気持ちのいい笑顔だ。

「‥‥‥」

 控室の扉が閉じた瞬間、その表情は消え失せてしまっていたが。

「‥‥‥‥‥」

 声音だけは、少年のままだった。

「‥‥‥‥‥‥‥」


「センパイ、余計な事を店長に吹き込まないでくださいね」


「迷惑なんですよ」


「それ」


「反吐が出る」


「脅しのつもりじゃないですよ。本気です。神に誓って、その企みを、晴々舞台計画を阻止してみせます。宣戦布告です。大人しくしていてください。死体が転がっても、知りませんよ」


「カノンちゃんのための、尊い犠牲になる運命だったですよ。きっとね」


《フェスまで残り 十五日》


 同日。貝浜街。晴天部を突如襲った最悪は、徐々に広がりを見せていた。

 始まりは誰だろうか? それはまだ、彼らは知らない。わからない。ヒトの体が癌に侵されていくように、たった一つの腐敗が生じ、伝染していっているのだ。頭脳明晰な人物が彼らの中に混じっていたとしても、始まりを辿るのは困難極まりないだろう。

 故に、最悪は止まらない。

「そ、そんな‥‥‥‥」

 仲間に、人生で初めて嘘を吐いた少女、霧島心咲は炎に包まれている街の象徴を唖然として見つめていた。彼女は、動揺、していた。その原因は、眼の前の炎でもあるし、彼の幼き頃の強敵でもあるだろう。それらの共通点でもある、たった一つの要素が鉄の女を動揺の渦に蹴り落したのだ。

「こんな、ことが‥‥‥」

 得体の知れない自分より強いモノ。

 ‥‥‥一体、何が。

 霧島は、一歩、後退った。眼の前の獄炎に瞳が焼かれて、水分が吹き飛び、自然と涙も出てきた。

 得体の知れない強敵。それが、怖かった。

「おっ。流石、いつも一番乗りの心咲ちゃんだ。今まだ朝の六時だよ? 何時に起きたらそんな早くつくの? ‥‥‥あ、なんか燃えてんじゃん‥‥‥‥まあ、いっか、うん。別に」

 ふと隣から肩を叩かれ、振り返る。霧島の真横には、シルバーフレームの眼鏡をかけた成人男性が立っていた。首から下げている名札から、図書館職員であることが窺える。

「松永さん。これは、一体どういうことですか? 消防は呼んだんですか? 警察は呼んだんですか?」

「え、僕何も知らないけど‥‥‥でも、平気でしょ。警察も消防も。だって、これ、自然発火現象が火元だろうし。‥‥‥‥放火なんて、する奴いるかなぁ」

 彼はポケットに手を突っ込み、時折欠伸をしたりもする。何を考えているのか。どうしてそんなに余裕なのか。霧島は珍しく、憤りを覚えた。

「火は、火はどうするんですか? 消防車を、呼ばないと‥‥‥‥心咲、今携帯を持っていません」

松葉杖を巧みに操って正面に立ち、少し背伸びをして、男のネクタイを掴む。とある柔道の名家に生まれた少女は、脊髄を粉砕するつもりで力を入れたのだが、彼は飄々とした態度を崩さなかった。

「え。大丈夫だよ。たぶん。中までは燃えていなそうだし、外だけなら、ね?」

「ね、とは。どういうことですか?」

「ね?ってことだよ。まぁ、見てなって。‥‥‥そうだ。別に他意はないんだけど、海凪の辺りは大雨らしいね。近年稀にみる、超ビッグな雨」

「今必要な情報だけを話してください。松永さん、早く携帯を出して、消防に‥‥‥‥」

 霧島は途中で言葉を止めた。目の前の男が『しっ』と人差し指を唇に当てている。それを見て、遅れて何かを感じ取ったらしい。

「‥‥‥‥良い子だ。早朝に騒がれたら、ご近所迷惑だからね」

 男は黙る少女の頭を撫でてから、携帯を取り出した。消防車を呼ぶためではない。天気発表を見るためである。

「耳をすませてみて‥‥‥雨の音が、聞こえるはずだよ」


「5‥‥‥‥4‥‥‥‥‥3‥‥‥‥‥2‥‥‥‥‥1‥‥‥‥‥0」


 ゼロ、と男が言った瞬間。彼らの頭上を覆う曇天の空から突如として大量の水が降り注いできた。消防車が可愛く見えてしまうほどの、大雨だ。

「松永さん、まさか、これを?」

「僕、今日折り畳み傘持ってきてるんだ。相合傘しようよ。濡れちゃうとあれでしょ、ってもう濡れてるか。じゃあ、いいか。このまま、消えるの待とう。‥‥‥自然発火の小さな火災はよくあることだからそんなに大事じゃない。館長には僕から連絡しておくよ。一人で怖かったでしょ。怪我してない?」

「もしかして、口説こうとしてますか? 狙ってやっているとしたら、貴方の道徳心を疑います」

「嘘だよ嘘‥‥‥あ! 植野さん来た。‥‥‥おーい、植野さんー。ちょっと、燃えてたみたいだから、今日の業務は一時間後ろ倒し‥‥‥そう。いやー。改修工事してなかったら全焼は免れなかったかもねー。‥‥‥ははは。‥‥‥‥え、心咲ちゃん? この通り無事だよ、僕が守ったからね」

「守られてません!」

「ごめん、何か反抗期みたい、この子」

 良くも悪くも、火災がなかったことになりつつある朝。決して穏やかな一日の始まりとは言えないが、どうせ、いつも通りの時間が過ぎて穏やかな一日の終わりを迎えるのだ。なら良いではないか。

 ‥‥‥たまたま、ですよね。

 晴天部の行動力、つまり足をリクとするなら、頭脳、即ち頭は、卯月と霧島になるだろう。

 そんな頭脳枠を担う彼女は、今、不安から逃げるために考えることを止めてしまった。

 これが後に、さらなる最悪をもたらすだろう。逃走にはいつだって代償が伴うものだ。


《フェスまで残り 十四日》


 海凪街立図書館。改修工事を終えたその建物は、平日とはいえ朝から沢山の人を抱え込んでいた。

「‥‥‥」

 館内のとある部屋にぽつんとある、四人用の半円型のデスク。調べ物用なのか、記録用なのか、デスクの真ん中にはパソコンが備え付けられていた。そしてそれを囲むように着席し、重々しい雰囲気を醸し出している彼ら。

「‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥‥」

 卯月を除く晴天部の三人は、顔に難色を示していた。会議にはもってこいの冷房付きの一室を借りたというのに、だらだらと流れる汗は止まるところを知らない。リクは額の汗に苛立ちをぶつけるように乱暴に腕で拭った。

「皆さん、現状報告を‥‥‥お願いします」

 霧島が好ましくない雰囲気を切り裂くように、言った。貸出時間は限られている。八月三十一日も刻一刻と迫ってきている。時間は、無駄にできなかった。

「‥‥‥俺は、コンビニバイト停止。卯月の代わりでやってる土木バイトしかない。‥‥‥そういえば、今日もあいつ来てないよな。霧島、何か聞いてないのか? 連絡先渡してただろ」

「音信不通です。彼が今どこで何をしているのかは、わかりません」

 机の下の他の人の目が届かない所で、茶髪の少女は手を強く握り締める。爪が平に食い込み、珍しく痛みを覚えたが、やめない。得体の知れない恐怖を、痛みで相殺させようとしているのだ。

 ────『なんだ、いたのか、女』

「‥‥ぅ‥っ‥‥‥」

 反射で息を呑んだ。

 ‥‥‥言ってしまったら、そこでお終いです。あの人からは、皆を守れない。

 頭を丸めていただけで、実は彼も霧島と全く同じ茶色の髪を有していた。柔道の名家。男尊女卑の古い考え方が残っており、階層を重んじる家。原則として一家に伝わる茶の髪は男だけが見せることを許されていた。女は、黒に染めなくてはならない。

 ‥‥‥心咲は、掟を、無視して。

 家を出て、都会に住み、髪の毛を染めることをやめた。茶の髪を露にした。彼は怒っているだろうか。自分に制裁を加えるだろうか。どんな暴力が待っているのだろうか。

 ‥‥‥だから、あの人が動いた。きっと、この現状は、心咲のせいで、起こっています。

 あの時は運がよかった。自分たちの周りには、衆の目があったのだ。いくら彼でもそこで暴力を働こうとは思わなかったのだろう。本当に運がよかった。間一髪だと言える。

「どうしたのよ、心咲。お腹でも痛いの?」

 心咲は自分でも気づかないうちに、痛みを堪えているような、苦しそうな表情を浮かべていたのだろう。それを不審に思った木下が訊ねてきた。

「いえ。考え事を、していただけですので。お気になさらず」

「そう。ならいいわ。‥‥‥私もリクと同じく、レストランバイト停止。私の解雇を促すような落書きが店裏にあったらしいわ。やっぱりおかしいわよね。リクの所も、いきなりシフトが埋まったんでしょ?」

「ああ‥‥‥」

 リクは少し考えるように腕組をしつつ、言葉を続けた。

「俺、実はコンビニでバイトしてた時に言われたんだ。新入りの奴だった。『晴々舞台計画は、必ず阻止する』って。な、わけわかんないだろ?」

「‥‥‥え。それって本当なの? もしかしたら、卯月も、そいつらに巻き込まれて‥‥‥監禁されてるんじゃない!? ど、どうするのよ!?」

 木下は机に手を突いて、身を乗り出して動揺をふりまく。

「俺も、わかんねえよ。‥‥‥もうずっとわけわかんねえ。お前が教えてくれよ。なぁ」

会議に“乱れ”が不要だと決まっているのは、こうした場合に周りの全ての人にも“乱れ”が感染し、冷静な判断ができなくなるからだ。今のリクがそうだと言える。感染してしまい、判断力を欠いている。

しかし、霧島だけは感染していなかった。彼女も周りの全ての人に含まれているが、効かなかったらしい。

「‥‥‥‥‥」

 それもそのはず。彼女にとってこれは、大方予想できていた事態だったからだ。卯月が自分の兄に攫われた。図書館が燃えていた。バイトのシフトが急に埋まったと、リクから電話で聞かされている。木下の件もまた同様に。判断材料は十分にあった。

 何かが裏で動いている。卯月が危ない。対策を打ち出さなければ。

だが、脳内に浮かんだ二つの予想案と、行動案に決定の印を押そうとした時だった。

「‥‥‥!」

 印を持つ手が突然止まってしまった。震え出したのだ。冷たい汗が、背筋を伝う。

 ‥‥‥その方は、どうして晴々舞台計画の名前を、知っていたのでしょうか。

 ‥‥‥リクさんの土木バイトだけ、何の影響を受けなかったのは何故でしょうか。

「‥‥‥‥‥ど、どうしたの? 心咲。やっぱり具合悪いんじゃないの?」

 内通者がいて、彼または彼女が計画の内容を漏らしたから。

 内通者は、卯月の穴埋めとしてリクが働いていることを知らなかったから。

 答えはすぐに出てきた。もしかしたら、今までもそれは頭の片隅に存在していたのかもしれない。それを見ないよう、自分が目を逸らし続けたから、発覚が遅れたのかもしれない。

 ‥‥‥内通者。音信不通。連絡不能。内通者は、内通者は、もしかして卯月さん?

 卯月夏樹が、計画の内容を漏らしたから。

 卯月夏樹は、連絡を絶った弊害で、自分の穴埋めとしてリクが働いていることを知れなかったから。きっと、彼は自分の代わりを誰かが務めるなど予想だにしなかったのだろう。だから連絡を絶っても平気だと判断した。

「‥‥‥問題、ないです。平常です。至って健康です」

 霧島心咲。晴天部の頭脳を担い、今まで部員を導き、まとめ役として賢い働きをしてきた少女の名だ。

 ‥‥‥全て、繋がってしまいました。心咲はどうしたらいいのでしょう。

 彼女は、とても強く。そして同じくらい弱い。


『やるわよ、晴天部! えいえいおー!』


『『『えいえいおー!』』』


 また、『仲間』思いでもある。『仲間』のために、自分を殺せる優しい人間。

 だからこそ、だった。

「問題、ありません。‥‥‥今は兎に角、もっと、もっと安い海霖片、ヘリウム、風船を探しましょう。心咲たちには時間がありません。しかし、今まで稼いできた分の少しのお金はあります。それに、ほんの少しですが、雪ちゃんと心咲にも貯金があります。‥‥‥‥卯月さんは心配ですが、それよりも今は、計画成功の可能性を探り、掴むべきです。そうでしょう?」

 ‥‥‥きっと、何か心咲の中の邪悪な存在が、嘯いているだけです。

 ‥‥‥卯月さんが、そんな。信じられませんし、『仲間』は信ずるべき存在です。

 ‥‥‥内通者は存在しない。卯月さんも関係ない。そうでしょう?

「そうだな‥‥‥‥それしかない。俺は賛成だ。お前も、賛成だよな?」

 リクはそう言って、霧島の肩をぽんと叩く。

「はい?」

 彼は今、動揺に感染し、判断力を欠いていた。ただそれだけだったのだ。

 もう、晴れ間は見えない。


《戻 フェスまで残り 十五日》


 リクがソラの秘密を知ったのは、日射しが眩しい日だった。

「あ、今日も来たんだ。やっほー。じゃあ、この前教えた通りに‥‥‥」

 工事中の道路の隅で、褐色の肌の美少女が自分に向かって手を振っている。空は快晴。何時ぞやかの大雨が嘘のようだ。

「わかった。今日は暑いからノルマ済ませて早めに帰ろうと思って。お互い、頑張ろうな」

 やはり、晴れが似合う人だなとその笑顔を見てリクは思う。彼の思い人は、現在とある事情で晴れの日しか姿を現さないので、何というか、晴れの女神のようなソラには、彼女と近しい特別な何かを感じてしまう。

 ‥‥‥俺って、最低だな。

 かなり近いが、恋心ではない。しかし、友達と言ってしまうと温度が低すぎる。友達よりも温度が高く、恋人ほど熱いものではない。きっとこれは、親しみとか懐かしさ、という名前が付けられているものなのだろう。

 だが、ソラをカヤの代わりにして、自分一人だけ慰められていることは変わらないので、最低、なのだ。

 ‥‥‥最低人間。俺って、本当に。

「おい、ソラ。危なねえぞ。足元、しっかり、見ろって‥‥‥‥‥は?」

 いついかなる時も、運命の扉というものは突然現れ、勝手に開くものだ。地上に生きる一人間にはどうすることもできない、その時が訪れたなら、ただただ従うしかない。

 この日のリクも、そうだった。

 道を行く自分の視界の端で、先程まで向日葵のような笑顔を浮かべていた少女が突然萎れ、工事中の泥んこまみれの大穴に真っ逆さまに落下していく様をただただ見ていることしかできなかったのだから。

「ちょっと、ま、マジかよ。熱中症か何かか? こんなとこでぶっ倒れるなんて、らしくないな。‥‥‥‥‥ちっ」

 そんな彼女を周囲の大人は誰一人として助けようとしなかった。皆煙草を吹かし、スマホに目を奪われている。少し離れた所にいたリクだったが。それでも大人の耳に届くほどの舌打ちと溜息をこぼし、すぐに救出に向かった。

 ‥‥‥嗚呼、やっぱり俺って。

 泥沼のような大穴に飛び込むことにも、躊躇はなかった。これはきっと、自分がソラにカヤを重ねているからだと、思わずにはいられなかった。

 ‥‥‥最低人間だ。

 泥に染まった自分を見るのは、己への良い見せしめになるだろう。

「‥‥‥‥おい、大丈夫か?」

 泥沼の中、リクはひんやりとした褐色の腕を掴んだ。


 彼女の体に触れた時から薄々感づいてはいたが、やはり、熱中症ではなかったらしい。ソラを大穴から引き上げ、リクが助けを求めたところ、大人たちが呆れ顔で口を揃えて言ったのだ。『よくあることだ』『そういう体質なんだ』と。もしや、彼らはスマホに目を奪われていなくとも、助けていなかったのでは。いつも、彼女は自分独りで這い上がるなり、処置をするなりしていたのでは。

 いやまさか、と嫌な推測を拭い去ろうとするのだが、脳内では独り木陰で休んでいるソラの姿が浮かんできてしまい、リクは静かに恐怖した。

「兎に角、どっか休む場所ないのか? まずいだろ、これ」

 泥まみれになった服は気にせず、ただ、いま自分の背で脱力している少女のためだけにリクは訊く。

 しかし、返されたのは棘だった。

「そんなの、気にしなくていいって。それよりも、仕事だよ仕事。できない奴から死んでくだけだ。金がないと生きられない。‥‥‥いいよな学生は。他人を気遣う余裕があるんだから」

「は? お前、何言ってんだ?」

 リクは思わず、返事をした大人の胸倉を掴みそうになる。もし、背中に人を負ぶっていなかったら、確実に、胸倉を掴んで持ち上げ、顔に拳をめり込ませるまではやっていただろう。

 背から聞こえるソラのうめき声だけが、リクの感情制御装置を担っていた。

「俺たちは知らん。そいつだって、いつも勝手に再起動して勝手に仕事始めるぞ。お前ぐらいだ。気にしてるのは。言っとくけどそれって昼寝みたいなもんだからな。ここの連中はそういう認識で、そいつもそれを受け入れている。‥‥‥郷に入っては郷に従え。新入り君も重要な働き手なんだから、さっさと仕事に戻ってもらわないと」

「‥‥‥‥」

 リクはもはや呆れていた。こういう大人には絶対に、絶対になりたくないな、なるくらいなら死んだ方がマシだな、と強い執念が生まれた瞬間でもあった。

 ‥‥‥一生そこの泥水でも飲んどけ。クソ野郎。

 ちらりと自分の背に視線を流す。自分たちの会話を聞いていたせいだろうか、彼女の身体は拒絶を示すかのように呼吸を荒げていた。当然、美しいオーシャンブルーの瞳は閉ざされたままである。

 ‥‥‥生きてるなら、ひとまず安心だ。今休めるとこに連れてくからな。

 そう決心して大きな一歩を踏み出す。だが、男が大きな体で進路妨害を図ってきた。

「‥‥‥‥‥‥駄目だ、行かせない。雇われてるんだから、わかってるよね」

「うるせえ。‥‥‥どけ」

 岩のように自分の前に立ちはだかっている中年男性に金的を喰らわせ、地に伏せたところでトドメの蹴りを入れた。

「‥‥‥‥‥」

 このぐらいではバイトをクビにならないだろう。

 だって、この大人たちは、か弱い少女にもっと酷いことをしてきているのだから。

「一旦抜けるな。三十分ぐらいしたら戻ってくるから」

 返事も待たないで、リクは道路の白線をソラと一緒に越えた。



────『どうしよう。わたしたち、どうしたらいいの?』


────『大丈夫。お姉ちゃんがついてるから!』


 秋の稲穂が揺れる世界で、少女は手を伸ばしていた。誰に伸ばしているのかは、本人もわかっていない。ただ、そうしなくてはいけない気がして。そうするしかなくて。

 ‥‥‥これも、そう。そうするしかなかった。

 自動的に、言ってしまうのだ。


「‥‥‥お母さん‥‥‥‥‥‥‥」


 褐色の瞼が上がった。先程まで稲穂の景色が流れていたのに、今は何故か見覚えのある河川敷の草原にいた。視界いっぱいに広がる背の高い草が夏風に撫でられて波打っている。まるで、海のようだ。頬を撫でる風も気持ちいい。

「いつから俺はお前のお母さんになったんだよ。ほら、一応水分とっておけよ」

「ひっ‥‥‥‥‥」

 突然隣から投げかけられた声に、ソラはびくりと体を震わせたが、首を捻ってその人物を確認すると自然と安堵の息が漏れた。彼と出会ったのはつい最近のことなのに、何故か懐かしさを覚えてしまう。自然と、自動的に、受け入れてしまうのだ、全身で。

「あれ、これってもしかして。ボク、また倒れた?」

 『ああ』と返事をするリクの手からペットボトルを受け取る。夏の日なのにまだひんやりと冷たかった。彼が気を利かせて、近くの自動販売機で買ってきてくれたのだろう。そして、恐らくは川の水にさらして、自分が起きるまで冷たさを保てるようにしてくれたに違いない。底に少し付着している藻が何よりもの証拠だ。

 ‥‥‥普段は気の利かないのに。

「ありがと。ボク、リクのことをすきになったかも」

「やめとけ。世の中の男って簡単に勘違いするからな。お前なんて引く手数多だろ。ちゃんと選んでから言え」

 リクはアイスコーヒーを飲んでいた。大人みたいな言を囁きながら。夏の風に当たりながら。前髪を揺らしながら。

ただし、頬を少しだけ桜色に染めて、そっぽを見つめながら。

「ははっ‥‥‥」

 笑うつもりは微塵もなかったのだが、そんな彼を見ていると何だか可笑しくなってしまってつい声を上げてしまった。ソラが心から笑ったのは本当に久しぶりのことだった。そのせいだろうか、涙も出てきてしまい、彼女もまた、慌ててそっぽを向く。

「‥‥‥」

「‥‥‥‥‥」

 不思議と沈黙も気まずくならない。それは、リクもソラも感じていることだった。

「あのさ」

 けれでも、ソラは自分から沈黙を破りにいった。

 彼しかいない。きっと、彼なら。

 何も言わずにただ頷いて、聞いてくれると思ったから。

 ‥‥‥ボクの秘密。

 独りで抱えるには、あまりにも大きすぎる秘密だった。

 息を吸う。夏で体が満たされる。血液へ、細胞へ、臓器へ、自分へ。脈々と繋がって夏色で身が染まるのだ。しかし、彼女の場合は、一部夏色に染まれない所も存在した。

「四百万円あったら、リクは何する?」

 やっと吐き出せた問は、彼女の全てだった。

「は? いきなり、なんだよ」

 当然、彼は気づけないが。

 ‥‥‥聞いてくれるだけでいいから。

「ボクはね、四百万あったら、全部、妹に使ってあげるんだ‥‥‥」

 一言、一言を噛み締めるように、心中で何回も反芻したから紡ぎ出した。いつも、自分の声、話し方を耳にする度に嫌な気持ちになるのだが、今日ばかりはそれは感じなかった。彼には気を遣う必要がない。その事実は、ソラの中では心臓と同等かそれ以上に大事なものという位置づけで君臨している。

「そ、そうかよ‥‥‥‥‥‥‥よかったな‥‥‥‥いくつなんだ? お前の妹」

 ‥‥‥嗚呼、やっぱりだ。

 彼は聞いてくれるのだ。思えば、最初からそうだった。

 ‥‥‥リク、ボクの話し方、笑わなかった。それに、男の子みたいな短い髪のことも。

 周りから突き放され、過酷な環境で育ってきたソラにとって、それはこの上なくありがたいことだった。

「今年で十一になったぐらいかな。ボクとは四歳差。‥‥‥あ、でも仕事だと年齢偽っているから。ここにいるときだけは、五歳差かな」

 ‥‥‥皆、突き放すのに。笑うのに。リクだけは、聞いてくれる。

 この世には、リク以外にも彼女の真面目な話し相手になってくれる人は沢山いるはずだ。

男っぽい口調を笑わず、男っぽい髪型も受け入れ、普通に接してくれる人は山ほどいるはずだ。

けれど、十五年の人生の中で出会えなかったから。常に十も二十も年上の者たちに囲まれて地を這って生きる、そんな過酷な環境が巡り合わせに向いていなかったから。

 ‥‥‥ありがとう。

 この夏、彼と出会えたことが、流れて流れて、涙が枯れてしまうほど嬉しかった。

 ソラがリクに抱く『懐かしさ』は、彼を、かつて自分のことを受け入れてくれていた人に重ねることで初めてもたらされるモノだった。

 ‥‥‥お母さんも、こうやって話聞いてくれてた気がする。もう、いないけど。

 冷たい事実から目を逸らすように、ソラは頭をぶんぶんぶんと振る。少し、頭痛が悪化した気がしたが、次倒れてもリクが居てくれるなら、と安心できた。

「‥‥‥‥‥住む場所を確保して。いっぱい、お洋服買って。美味しいものを食べさせてあげて。誕生日も盛大祝ってあげるんだ。ボクはいいけど、あの子には惨めな思いはして欲しくない。だから、四百万円あったら、そうするんだ。普通の子みたいに、食べて、笑って、安心して床に就く。それでボクは満足なんだ‥‥‥‥‥‥‥リクはどう思う?」

 この黒髪の娘は、夢を見るような目で語りながらも、表情には現実を刻んでいて。

 こちらに向けられた瞳も弧を描いているのに、頬には涙の道が出来ていて。

「‥‥‥‥‥‥」

 彼女を取り巻く全てがちぐはぐで、リクは額に銃口を突きつけられたかのように、ぴたっと固まってしまった。

「‥‥‥‥‥‥‥‥どう思うって、どういうことだ?」

 ようやく絞り出した声は、か弱く震えていた。どうしてだが、こちらも泣いてしまいそうになるのだ。

「どうって。いいか、悪いかってことだよ。この、ボクの四百万円の使い道の是非」

 いいか、悪いか。あの選択を下した日から、自分の中で燻っていた問いを最後に吐き出した。ここまで話して、ソラは黙り込む。

「‥‥‥‥」

 彼の返事は大方予想できていたので、安心して瞼を閉じることができた。

 瞳を閉じるといつも、昔の記憶が再生される。壊れかけの映写機で映された景色は所々に靄がかかっており、大事な部分が見えない。

 自分と妹が手を繋いで、稲穂揺れる昏い世界に佇んでいる。遠くに見えるのは、二人と同じ色合いの黒髪を持つ女性だ。しかし彼女の顔には靄がかかってしまっていて、誰だかわからなかった。母親なのか、それとも姉なのか。叔母なのか、はたまた赤の他人か。

 でも、その人が言った言葉だけははっきりと覚えていた。


『奏楽、朱音を頼んだわよ』


 幼き頃のソラは確か、こう返した。


『うん。わかった。いってらっしゃい』


 今よりももっと幼い声だ。けれど、笑ってしまうほど力強い声でもあった。

 無知で無垢で、元気しかなかった頃の自分なのだ。ただ言ってみただけで。きっと何の覚悟もなかったのだろう。

 ‥‥‥それから、あの人が帰ってくることはなかった。


「いいんじゃねえか。別に、自分の金ならどう使うか、自由だしな。目標とか夢とか、持つのは大事だと思う。それを掲げて、今日まで頑張って働いてきたんだろ?」


 再び開いたオーシャンブルーの瞳には湖ができていた。湖には、至極平和な夏の日の河川敷が揺れている。

「うん」

 痛くて、涙が出てきてしまったのだ。何が、そんなに痛い? 自分で決めたのに?

「‥‥‥もし、ボクが既にその夢を叶えていて、妹も笑顔にできていたとして。でも今現在この瞬間、痛くて苦しくて辛くてもがいていたとしたら。それでも、リクは答えを変えない?」

「‥‥‥」

 リクは問いの意味がわからなかった。彼女の涙の意味もわからなかった。

「難しいよね‥‥‥ごめん。でも、変えないで、欲しいな」

 そう言いつつ風に揺れる髪の毛を耳にかけると、少女は自然な動作で自分のシャツの裾を摘んだ。

 そして、唐突にそれをめくった。顔と同じ色の褐色の肌が露になる。

「はっ? ちょ、おい。やめとけって。そういうの」

 彼女のへその形まではっきりと見えてしまうほど豪快にめくられたシャツは、タイミング悪く迷い込んできた夏の風を孕み、更に膨れ上がった。流石にまずいと思ったのか、ソラは慌てて服を抑える。

「危ない、危ない。今日、下着着てないから。危なかった。へへへ」

「その情報いらねえわ。やめろ。本当にやめてくれ」

 顔を赤くしながら、リクは何かを堪えるように唇を噛んでいる。思春期を疾走している男子高校生には少々刺激が強すぎたようだ。

 しかし、そんな彼への配慮もなく、ソラは懲りずにまたシャツをめくった。今回はほんの少しだけ、控えめに肌をさらす。

「見て」

「無理だ」

「もう‥‥‥はいっ」

 乱暴に髪を掴まれ、ぎしぎしと毛根が悲鳴を上げ始めたので、リクはそっぽを向いていた首をたまらず少女の方へ捻った。褐色の生肌が、目に入る。と同時に、リクの瞳はある物を捉えた。

 縫い目だ。黒い糸で閉じられた肌が、痛々しくそこに存在している。

 ちょうど、腎臓の辺りだ。

「腎臓ひとつ、四百万円。もしこれで、大切な人を笑顔にできたとしても。自分が笑顔でいられなくなるなら、やめた方がよかったのかな。‥‥‥‥‥‥ねぇリク。教えてよ。ボク、正しかったのかな。これで良かったのかな。もうよくわかんなくなっちゃった」


「‥‥‥」


「‥‥‥‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥」


「   、      」


 そのときリクが告げたのは、後先考えない子供が言いそうな、非現実的で、その場しのぎの慰めの言葉だったが。それでもやはり、少女は、少女には─────


「‥‥‥リクって‥‥‥っ‥‥ぅ‥‥ずる‥‥い‥‥‥‥っ」



《達 フェスまで残り 十四日》


「えっ。これってどういうことよ! こんなの、払えるわけないじゃない!!」


 木下の怒号が部屋中に響き渡り、やがて静かになった。静寂の中、リクは怒りで顔を赤くしたり、恐怖で青ざめたりと忙しい様子。霧島は、完全に思考停止していた。

 そんな三人に覗き込まれ、仕方なく現実を突きつけている液晶パネルも、心なしか萎んでいるように見える。

 ───当然である。

「五十万って、会計担当の卯月が調べたんだよな。俺の記憶が合っていればだけど」

「そうよ。計算得意だからって、卯月に押し付けたもの、私が」

 ───何せ、自分たちが五十万円だと思っていた計画に必要な諸々の費用が。

「くそっ。あいつ、海霖片の値段、見間違えてただろ。安いの探そうと思ったら、これかよ!確認しなかった俺もそうだけど、あいつっ‥‥‥‥迷惑しかかけねえんだから!」

 ───本当は総額三百九十二万円、海霖片だけで三百九十万円を占めていることが判明したのだから。

 コンビニで夜勤を重ね、昼間は炎天の下で土木作業。睡眠時間など、良くて三時間程度の生活を送っていたリクが、しかも先程、動揺に侵され判断力を更に欠いていたのだから、これは仕方ないのかもしれない。

 ‥‥‥くそが!

 会議室に備え付けられているパソコンに、リクが怒りに任せ鉄拳を繰り出そうとした。それを木下が寸での所で腕を掴んで止める。

「馬鹿なの、あんた‥‥‥いくら何でも」

 力には自信がある彼女だったが、制御が外れたリクの拳を止めることはそう容易なことではなかったようだ。表情が険しい。

 ‥‥‥弁償なんて、御免よ。

 彼女自身もリクと同じく激しく動揺していたが、この状況にさらなる追い打ちをかけ得るある一点が歯止めとなり、冷静な行動に及ぶことができた。

「ここで、お金は無駄にしたら、本当にお終いよ。お願いだから冷静になって。あんた、いつもそうなんだから。本当に‥‥‥‥子供ね」

 言いながら、耐え難い痛みを伴ってごりっと心が抉られても尚続ける。

「子供、子供、子供、子供。あんた十七でしょ。少しぐらい、大人になるっていう自覚を持ったらどうなのよ。‥‥‥カヤを助けたい。人工消雨を実行しよう。決めたのはあんたよ。あんたが始めたのよ」

 不思議なことに、この動揺の川というものは、一旦その流れを堰き止めてしまうと、途端に源流から干上がってしまうらしい。

 木下は喋りながら、段々と冷静さを取り戻し思考が冴えてくるのを感じていた。

「今はそうしている場合じゃないでしょ。今は、もう、考えるしかないのよ。問題解決のために。‥‥‥ほら、三人寄れば何とかって言うじゃない。皆で知恵を振り絞って、それで‥‥‥」

 ぴたり。木下の声が突然停止する。呼吸も停止する。横顔だけしか見えないが、木下の身体の機能を停止させるのにはそれで十分だった。

「あんた‥‥‥‥‥」

 リクの横顔、頬には涙が伝っていた。それはまるで草原を彩る小川のように蛇行しながら彼の口元へと流れていく。虚ろな瞳が源流、しかし涙の本当の根源はそこではなかった。

 大人になりかけているこの少年は彼自身もよくわかっていない、未来という得体の知れない霧に視界を奪われてしまい、恐怖していたのだ。その恐怖の念を押し流すための、涙だった。ヒトの涙の根源はいつだって、その人の弱い所に生まれる感情に根を下ろすのだ。どんなに猛き人も、どうすることもできない。

運命とよく似ていた。

「そ、そうだよな。今は、怒っている場合じゃないよな。俺、わかっていたのに‥‥‥いつまでも、子供じゃ、駄目だって。もう大人に、なるんだもんな俺たち」

 まるで、その運命を悟ったかのように、瞳に限らず彼の表情からも感情が消え失せた。無表情で、無感情。死者のような冷たさをもたらす瞳。しかし、涙の川だけはとくとくと勇敢に流れている。彼もまた、ソラと同じくちぐはぐな存在だった。

 そう、ソラと同じく。

 ‥‥‥カヤ。

 もう頭の中は、思考は飽和寸前のはずなのに、少し気を抜くとそんな言葉が浮遊してしまう。自分でも思う。これは一種の病気なのではないかと。

 ‥‥‥待っててくれ。

 しかし、直そうとは思わないのだ。不思議と、このままでいいのだと、この病を肯定することができた。

「‥‥‥‥‥‥止めないでくれ。木下」

 リクは、涙を貼りつけたまま、覚束ない足取りで会議室から出ていった。


 海凪駅から一駅挟んだ所に彼の第二の職場はある。本日は木曜日。まさか彼が来るとは思わなかった少女は、その姿を遠目で確認し、初めは驚き歓喜の声を上げようとしたが、近づいてくる彼の顔に見たこともないような表情が浮かんでいるのに気づいて、喉元まで上がってきていた声を息と一緒に呑み込んでしまった。

「‥‥‥‥」

 ‥‥‥り、リク?

 そしてその直後。ソラは再び、息を呑むべき言葉をリクから貰うこととなった。


「ソラ、腎臓の売り方を、教えて欲しい」


「え‥‥‥」


 これはきっと、運命だった。


   ◇


「絶対に、無理だよ。そんなの。だって、だって‥‥‥」

 ソラは先程からずっと機械のように同じことしか言わないリクを、必死に抑えていた。ここから先は地獄への道だと。己を地獄の門番に重ねて、もう自分の中では大切な人と定義されている彼の肩を持ち、揺らす。

 きっと、疲れているのだろう。そうであって欲しかった。

「お前と同じなんだ。大切な人のために、俺は、やらなくちゃいけない」

 リクは褐色の手を払った。久方ぶりに『腎臓の売り方を教えてくれ』以外の言葉を発した気がする。この言葉は、少し味がした。

「ボクにとって、リクは大切な人なんだけど。だから、言わないよ。教えないよ。‥‥‥よく聞いて。腎臓って二個あるけど、一個無くなったら、どうなるかわからないんだよ? 普通に生活している人もいるけど、ボクみたいに、毎日のように頭痛に襲われて、萎んでいくみたいに力が抜けて、ぱたって倒れちゃう人もいっぱいいるんだよ?」

 それはソラにとっては、自分にも突き刺さる言葉で。小さく燃えている後悔の念に薪をくべるのと同じことだった。しかし、止めなくてはならないから、強い意志を持ち、歯を食いしばって相対する者を見つめる。

「‥‥‥‥わかってる。お前を見てれば、わかる」

 ターコイズグリーンの瞳に映る彼は。

「でも、頼む」

 もう泣いていなかった。いや、泣けなかった。涙が、枯れてしまったのだ。

「なぁ」

 リクに大きな一歩で迫られ、ソラは小さな一歩後退る。

「‥‥‥ボクには、ああ言ったのに。リクがボクと同じ側に立ったら、お互いに救いがなくなっちゃうよ。だ、だから‥‥‥」

 彼が自分に投げかけたあの言の葉。

 ‥‥‥あの温度が忘れられない。

 母親の声すらロクに覚えていないソラだ。彼女にとっては、他人から手渡しされた初めの温度のある言葉だったに違いない。

 ‥‥‥あの温もりが恋しい。

 今まで数多とぶつけられてきた罵倒、叱責より、手渡しされた一声の温もりが勝ってしまうのは言うまでもないことだ。

 もはやこれは、『親しみ』だけで済まされるようなものではなかった。

────『ありがと。ボク、リクのことをすきになったかも』

 もう頭の中は、思考は飽和寸前のはずなのに、少し気を抜くとそんな言葉が浮遊してしまう。自分でも思う。これは一種の病気なのではないかと。

 ‥‥‥ボク、もしかして、本当に。

「頼む、頼む‥‥‥‥‥‥好きな人の、ためなんだ」

「え、す、好きな人?」

 緑の瞳が今日一番の動揺を示した。恥ずかしいくらい、声が裏返る。

「‥‥‥‥」

 ソラの問いかけにリクは無言で頷いた。頷いてからは、もう目を合わせてはくれなかった。

 ‥‥‥そう、なんだ。リクって。

 ‥‥‥でも、だからって、止めないと。ボクが。

「で、でも‥‥‥‥‥‥‥‥」

 ────『ありがとう、おねえちゃん。だーいすき!』

 雨宮奏楽もまた、愛を知っていた。愛を知っている大人だったのだ。

 友でも恋人でもなく。愛したのはたった一人の妹だったが、一つの愛に変わりはない。

 ‥‥‥嗚呼、あの時も、すっごく温かかったな。


「‥‥‥‥‥‥わかった。教える、教えるよ。でも、五日ぐらいはかかるから、今すぐにお金を手に入れるのは無理だけど」


 もしかしたら、悔しかったのかもしれない。ほんの意地悪のつもりだったのかもしれない。

 何せ、雨宮奏楽が恋を知ったのは、彼と出会ってからのことなのだから。


──────『いつか、俺が買い戻す』。



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