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晴々舞台  作者: 森屋鯨
3/5

万年子供天国

 今日は早朝から快晴の空が地上を見守っていた。人間、植物、皆が待ち望んでいたかのように空を見上げ、微笑む。夏の朝は案外過ごしやすいのかもしれない。

 貝浜小児医療病院 第二病棟。朝を迎え、食事を運ぶカートが廊下を行き交う中、小窓に射しこんできた陽光に目を細める少年がいた。

「あと、二分か」

 リクは左手首の時計を一瞥し、大きな欠伸をした。

白いTシャツにデニム生地の短パン。首からは赤い平紐で面会カードが掛けられている。面会開始は、朝七時半から。それより前に患者のいる病室には入れないため、面会希望者は廊下で時間がくるのを待つ必要があるのだ。

 この前、カヤからカミングアウトされた衝撃事実は今もリクの中を渦巻いていた。カヤにとってトラウマでもある暗い過去の影響で、晴れの日以外では何かの呪いのように体や精神が若返ってしまい、記憶も切り離されてしまう。彼女の言う事であるから、信じてやりたいという気持ちもあるが、同量の疑念もあった。

 だが、いつかは決めなければならない。その日は必ず訪れる。

『面会開始時刻になりました』

 看護師のアナウンスが廊下に響く。それを待っていたかのように、リクの隣に立っていた少年は早速病室の戸を叩きに行った。ここは小児医療専門であるから、少年がこれから会う人物は兄妹もしくは友人だろう。

 不幸に見舞われた人のために人は見舞いに行く。字面だけ見ると頭がおかしくなりそうだ。

「‥‥‥」

 しばらくの間、思案を巡らせていた様子のリクはようやく目の前の病室へと一歩踏み出した。彼にとって、今日は試験よりも大事な日である。自分の考えを伝え、カヤの願い事を聞く。三年もの間、心待ちにしていたことだ。

 ─────コン、コン、コン

 触っただけでは素材不明の硬い戸が、小気味よく三回鳴った。

「はい」

 朝だからか、この前よりも細い声が返事をした。

「入るぞ」

 リクは戸に手を掛け、ゆっくりと力を加えた。つい最近、増築されたばかりの病棟だからか、戸は滑らかに動き、奥の世界へと道を拓いた。


 カヤの病室は別段特別仕様というわけではないが、彼女の好みの色が白ということもあり、椅子や置き時計から私物の櫛まで。ベッドと壁紙は勿論。全てが白に染まっていた。

「今日‥‥‥よく晴れてるな」

 カヤは出された朝食には手を付けず、真っ白なブックカバーを纏った本を読んでいた。

「そうだね」

 面会開始時間から、既に十分が経過していた。リクは白い椅子に腰掛けて、ベッドの上の美少女をすっかり惚れ込んだように見つめていた。

「な、なぁ。俺たちって喧嘩でもしたか?」

「した覚えはないけど、どうして?」

 頁を繰る手を止め、カヤが首を傾げる。連動して、こげ茶のポニーテールが揺れた。

 ──────リン

「それならいいんだけど。‥‥‥カヤがずっと本読んでるから心配になった」

「ごめんね。今、いいところだから」

 子供のような顔をしているリクがよほど面白かったのか、カヤはくすっと微笑ってから視線を文字に戻した。

 ‥‥‥それでも、読むのね。ま、いいけど。

傍からみたら怪しい人物に思われかねないが、リクはカヤの横顔を眺めているだけで、十分満足だったのだ。それこそ、彼女から無視され続けることの不満を余裕で消し飛ばせるほど。

「あ、そうだ」

 冷房の効きすぎた部屋で患者衣一枚纏っているカヤをじっと見ていたら、ふと声が出た。リクは椅子の下で倒れている黒いリュックサックを手で引き寄せ、その中に手を突っ込んだ。

「‥‥‥どうしたの?」

 少し遅れてカヤが訊く。

「えーっと。どこだっけな‥‥‥。あ、あったあった」

 リュックの中の柔らかい感触にリクはほっと息を吐く。離さないようにそれをしっかりと掴み、外界に引っ張り出した。

「‥‥‥これ、あげるよ」

 リュックの中で他の物に揉まれ、皴のついてしまったそれを真っ直ぐカヤに突き出す。

鈍い息子に代わって、母親が贈った物。

「母さんの、要らなくなったやつだけど」

 静かに見開かれたカヤの瞳に、純白のカーディガンが映る。生地は薄くなく、厚すぎもしない。胸元に刺繍された金色の小鳥は、それが有名ブランドの物であることを示していた。

「え? いいの? これ? 本当に?」

 栞を挟まず本を閉じると、カヤは震える手でカーディガンを包んだ。

「うん。母さん、最近の病院は寒いからって笑ってた」

 このときの笑みは、自分に向けられたものではないと、リクはわかっていた。親の言う事を聞かず志望校を決定し、変更には断固拒否。こんな息子をどう思っているのだろう。

思考を挟むまでもなかった。

 ‥‥‥母さんは、俺よりカヤが大切なのか。

 嫉妬に満ちた叫びだ。子供だ。それもとっても幼い。

「ありがとう‥‥‥って、お母さんに伝えておいて」

 よほど冷えていたらしく、カヤはすぐにカーディガンを羽織り、それから破顔した。

「わかった」

 リクの目線の先には、カヤの背後で一人時を刻む置き時計があった。真っ白な壁に飲まれそうになりながらも、刻みを止めない黒い秒針。リクはそういうものになりたかった。余計な感情に支配されかけて、自分の立ち位置を見失うような、半端者にはなりたくなかったのだ。

「わかった」

 焦点の合わない相手からの二言目に、カヤは心底不思議そうな顔を浮かべる。

「‥‥‥ごめん。ちょっと考え事してた。‥‥‥どうだ? あったかいか?」

 リクもその様子に気づき、すぐに首を振った。思考が再開し、脳内で既に構築されていたセリフがこぼれだす。

「うん。とっても」

 “晴れ”に愛された少女が、ひとつ瞬いた。

「それなら‥‥‥いい」

 ‥‥‥俺は、母さんとカヤの橋渡し。俺は、母さんとカヤの橋渡し。カヤの笑顔は、俺に向けられたものじゃないんだ。

 リクの視線は自然と下がり、難破船が漂流するように掌の上に流れ着いた。

 自分と共に成長しているからか、不思議と大きくとも小さくとも感じない手底。

 ‥‥‥何も掴めなかった、情けない手。

「カヤ‥‥‥俺のこと、恨んでるか?」

 かつて掴み損ねたものと今対峙している。望んでいたことではあるが、心から喜べないのが現状だ。胸の中に刺さった何かを早く取り除いてしまいたい。リクは五指を曲げ、拳を作った。

 自分を殴るための。きっと彼女は罰を下さないだろうから、自分で自分に罰を。

「なんで恨むの?」

 突然の問いに戸惑いの表情を見せながらも、カヤは落ち着いた声で返す。この娘は知らない。知る由もなかったのだ。ただ無知なまま、そこに座っている。

「なんでって。だってそうだろ。俺は、あのとき、泣いているカヤに何もしてやれなかった。何かしようとした結果何もできなかったんじゃない。何をしようとも思わなかったんだ。‥‥‥俺がカヤだったら、恨んでいると思う。もし助けて欲しかったならなおさら」

 手。腕。情けなくも男らしく成長したそれらは、今血管を浮き立たせて怒りを露にしている。

 手はあのとき動いてくれなかった腕に憤慨し、腕は動かしてくれなかった主に憤怒の矛を向ける。

 これまで一方的にカヤの話を聞いて慰め、自分からは何一つ話をしなかった。自分は、リクは、罪から逃れようとしていたのだ。それが際限なく湧き出てくる怒りの元凶だった。

「助けて欲しいなんて思ってないよ。私が、私が勝手に飛び出しただけ。たった一つの願いの為に」

 リクにはわからなかった。自分を泣かすほど苦しめてまで、叶えたい願いが何なのか。どんな色で、どんな温度なのか。どんな味で、どんな触り心地なのか。

「‥‥‥俺を一回殴ってくれ」

 わからないから、狂いに狂った基準で判断するしかなかった。

 ‥‥‥きっと、俺が悪いんだ。

 自分は最上のもので、その他はその下で序列を形成する。最上を超えるものは存在しない。だから、最上を犠牲にしてまで、優先するものはない。仮に、その優先した物事が最上に何か見返りをもたらすのなら話は別だが、最上が涙するという時点でその線はないと断言できた。

「どうしたの? どこか具合が悪いの?」

 カヤはリクの拳を両手で優しく包み込み、額と額を合わせる。しかし、カヤが感じるリクの体温はそこまで高くない。ほとんど同じ。即ち平熱。

「なぁ。だって聞いてくれよ。俺は‥‥‥罪を誤魔化すために、このやり場のない何かを紛らわすために、カヤをアヤという偶像として見てきたんだ。ないお金をはたいて、あたたかい居場所も貰って、アイも貰って。‥‥‥薄々は気づいてた。オタクが抱えるやり場のない何かと俺のやり場のない何かは違うものなんじゃないかって。‥‥‥でも、誤魔化した。考えないようにした。カヤから、裁かれるのが怖くて。覚悟はできていたはずなのに」

 リクの声は掠れていて、所々震えている。正気ではないことは、リク自身もわかっている。カヤも気づいている。

「‥‥‥それでも私は、リクが好きだよ、大好きだよ。だから今、ここにいるの。大好きな人をなんで裁きたいと思うの?」

「それが‥‥‥わからないんだ。だいすきってなんだよ。すきもわかってないのに、だいすきなんてもっとわからない。‥‥‥それを理解しないと、たぶんカヤの言いたいことは理解できない。だいすきって、そんなに強いのか? 自分を犠牲にできるくらい大きなものなのか? カヤを助けようともしなかった俺を許せるほど、優しいものなのか?」

「‥‥‥痛」

 カヤがこつんと、リクの額に自分の額をぶつけた。

「馬鹿。本当にリクって馬鹿。‥‥‥馬鹿みたいに真面目」

「は?」

「もっとリクは馬鹿になったほうがいい。今ので脳細胞が何百個か死んだかな。ちょっとはリクも馬鹿になったんじゃない? どう?実感ある?」

「ねぇよ」

 仏頂面で、小さく言う。

「じゃ、もう一回‥‥‥えいっ」

 こつん

「どう?」

「なってない」

「‥‥‥えいっ」

 こつん

「どう?」

「なってない」

「‥‥‥それっ」

 こつん

「どう?」

「なってない」

「‥‥‥」

 こつん

 こつん

 こつん

 こつん

 こつん

 こつん

 こつん

 こつんこつんこつんこつんこつんこつん‥‥‥

「‥‥‥もう、私の方が先に馬鹿になったかも。ぜーんぶ忘れた」

 リクの肩に手を置いて、カヤはゆっくりと額を離した。

 カヤからは、ほんのり赤いリクの額が。リクからは、ほんのり赤いカヤの額が見える。

 同じ形の、赤い跡。

「でも。カヤが忘れても、俺の罪が消えたわけじゃない。俺は‥‥‥」

「もういいよ。もういい。私だって、苦しそうなリクは見たくないの。もうやめようよ」

 カヤの温かい手が、リクの頬に触れる。ぐずる子供を慰めるように、優しく撫でる。リクはそれを払うようなことはしなかったが、仏頂面はやめなかった。

「俺は‥‥‥」

「俺は、カヤが羨ましい」

 カヤは一回、二回、三回と瞬いて、リクの瞳を覗き込む。

「どういうこと?」

「‥‥‥俺の知らないことを知ってる。『だいすき』でなんでも済ませることができる。だって、俺が知らないから。無知な相手には言い放題だ」

 今のリクは自分のことで頭が一杯だった。目の前の少女のことなんて、考える余裕はない。

 無意識に放った棘のある言葉は、カヤの中に入り、その表情を歪めた。

「ね、ねぇ。やめよう。もうこれ以上はだめ」

「なんでやめたがるんだ? 俺は知りたいんだ。俺が知りたいことに、なんで答えてくれない?」

 カヤの肩をぐっと掴んで、リクは食い気味に言う。目の焦点は合わない。合わせられない。カヤの瞳は、揺れていた。

「やめて。私も、苦しいの‥‥‥」

 すがるような声も、置き時計の刻みが掻き消してしまった。

 リクは幼い頃から、知らないことを恥じるような子だった。知らないことは調べて、その日寝るときには全て解決して闇に落ちる。だが、そのサイクルは三年前から狂い始めていた。抑えられない何かが溜まって、脳内を飽和して、思考を鈍らせる。

「願い事だってそうだ。カヤは教えてくれなかった。それが、『だいすき』のヒントになると思ってたのに。‥‥‥今でもいいよ。教えてくれよ。教えてくれよ。教えてくれよ」

「だめ、なの。教えたら、きっとリクは私を責めるし、私も私がわからなくなっちゃう」

「‥‥‥ずるい。カヤ。俺は、こんなにもお前のことを考えてきたのに。罪から解放してくれないのか? 裁いて、解放してくれないのか?」

「なんで、そんなこと言うの‥‥‥。私、私‥‥‥」

 カヤの瞳から、とくとくと涙が溢れてくる。色白の頬を伝い、純白のカーディガンに零れ落ちる。

「ずるい。俺が、お前のためにどれだけ泣いてきたと思ってるんだ? 何も言わずいなくなって、俺を苦しめて‥‥‥」

 いつだって自分が最上にして最高。自分が狂い始めて、制御が及ばなくなったのなら尚更、本能であるそれを掲げて、カヤに当たることしかできない。

 今朝、リクが目覚めたときには考えもしなかった状況が今完成している。

カヤは、晴世茅乃は、自分という最上のものを苦しめる、敵。

「‥‥‥く」

 それでも、暴力だけ振るってはならない。リクの中に刻み込まれた何かが、働いた。

振り上げそうになった手を止めて、唇を噛む。

 カヤ=敵=憎むべき相手=不快+抵抗=‥‥‥大嫌い。

「カヤなんて、大嫌いだ」

骨の髄まで鋭く染みる声。それを放ったリクも、受け取ったカヤも同じように感じた。

「‥‥ん‥」

 女の子のすすり泣くような声が病室の壁に当たり、散布する。

リクは芯まで深く刺さる痛みに奥歯を強く噛んで耐えしのいだが、カヤの痛みは彼女が耐え難いほど想像を絶するものだった。与えられた痛みが同じでも、痛みの耐性というものは一人一人異なるのだ。

特にこの二人の場合は当然である。リクとカヤの性格は真反対と言ってもいいくらい違う。リクはどちらかと言うと攻撃的。カヤはもっぱら非攻撃的。人を攻撃しないカヤは痛みをよく知らなかった。

そう、知らなかった。

 だが、この日、カヤも痛みを知ることになる。

 攻撃された側として。

 攻撃した側として。

 それは、本当に突然で。且つ一瞬の出来事だった。

 ──────パン

 空を切るような音の後、何かが弾けた。

「「‥‥‥」」

 数秒の思考停止を挟んで、リクは自らの頬に触れる。痛い。熱い。カヤは毛細血管が切れじんわりと痛みが広がる左手を右手で覆った。

 リクは瞳を見開いた。ベッドの彼女を凝視し、一回瞬く。

「ごめん。‥‥‥俺、一旦帰る」

 自衛心か、場の空気か。存在不明の何かがリクにそうしろと促した。いや、半ば強制的にそうさせたのかもしれない。

 リクは、椅子の下のリュックを奪い去るように取り、病室の出口へと駆けた。

 そして、戸に手を掛けて、言う。

「一旦‥‥‥は、嘘かも」

 それを残して、リクは廊下へと消えた。

 ‥‥‥走れ走れ。もっと速く。ヤツが来る前に、はやく。


 あぁ、きっと。


 リクの脳裏で、数十秒前のカヤの姿がよみがえる。

 カヤは小刻みに震える左手を、右手で覆うように隠していた。


 俺は、


 自分の頬に触れる。まだじんじんと痛みを訴えている。


 嫌われてしまったんだな。


 カヤから初めて与えられた痛みが、一番の証拠だ。

 リクの本能はあの痛みで、すぐに顔を引っ込めた。時間経過と共に増す痛みを受けるのは、入れ替わりで表に出された雨宮陸斗という意識。

「‥‥‥っ」

 走る彼の瞳に、涙はなかった。まだこれからなのだ。痛みは表層を彷徨っている。それが深層に辿り着いたとき、初めて涙するのだろう。それが一時間後か、二時間後かはわからない。

 リクは走った。廊下ですれ違う人が心配そうに見つめてくる。だが、気にしない。

 ヤツが来る前に早く、人目につかない場所に逃げたかった。

 ‥‥‥俺、最低だ。

 少年はその後、ヤツと称された『涙』に打ち勝つことができたのか。やはり負けてしまい、廊下の隅で泣いてしまったのか。それは彼のみぞ知る、秘密の物語だった。


 同日。同時刻。海凪街に位置する最大の図書館にて。

 また、一人の少女の物語が紡がれようとしていた。彼女の名は、霧島心咲。赤毛の三つ編みとトレードマークとも言える丸眼鏡が可愛らしい、ただの少女と称するのには勿体ないくらいの美少女である。

 彼女はいま、三階構造となっている図書館の二階で、本とにらめっこをしていた。夏休みの宿題か、個人的なものかは定かではないが、何かとてつもなく難しいことを本のみを頼りに調べているのだろう。そういう顔をしている。

 寝不足なのか、小さな口を開けてひとつ欠伸をした。

「‥‥‥‥‥」

 少女が座る席は、ガラス窓に近い所だった。今日は気だるいぐらいの晴天。外の世界からの陽光が彼女の背に降り注ぎ、冷房で冷えた体を温めている。

 こんなにいい天気、本当に寝てしまおうか。

 一瞬だけ悪魔の囁きがよぎるが、そんなものに屈する彼女ではなかった。

「‥‥‥‥いけません、いけません。溶けてしまうところでした‥‥‥」

 すぐさま体を叱咤し、しかしどこか名残惜しそうに空を一瞥してから、別の本に手を付け始めた。ぺら、ぺら、と紙が繰れる軽快な音のみが響く。彼女の特技“二行同時読み”は今日も絶好調らしい。

「なるほど‥‥‥。そういうことですか‥‥‥あれ? この記述はおかしいですね」

 少し考え込むように、うさぎ柄のペンを顎に当てる仕草さえ可愛らしい。しかし、彼女が今日も今日とて人目を引いてしまう要因は他にも存在していた。彼女が纏っている服装である。

 通気性のよい素材の白いボウタイブラウスに、サスペンダーで吊られた黒いズボン。小さな顔にそぐわない大きめな丸眼鏡。背後からも人を魅了するダイヤ型の貴金属が交えられた三つ編み。なるほどこれは仕方ないと誰もが頷いてしまうような美貌は数々の相棒たちによって完全に完成されていた。

「‥‥‥‥‥うーん。難解ですね。著者を呼びつけて説教をしてやりたいぐらいには難解ですね‥‥‥しかし、諦めませんよ。だって、茅乃ちゃんのためですから‥‥‥!」

 一旦ペンを置き、再び気合を入れるが如く腕まくりをし、ふんっと息を吐く。

 よいアクセントとなっている丸眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が眼光を放った。

「ん?」

 さあやるぞと少女が再びペンを握った時、急に机の上の本の山が震え出した。何事かと慌てて掘り起こすと着信中と表示された携帯電話が出てきた。こちらも、うさぎ柄のケースに包まれている。

 少女は一度周囲を見渡すと思案顔で液晶を見つめ始めた。出るべきか、マナーにしたがい遠慮すべきか、判断しかねているのだろう。だが、最終的には出る方を選んだらしい。周囲の人に軽く頭を下げると、小声で話し始めた。

「雪ちゃん、どうしました?」

 相手は同じアイドルグループに所属する木下雪。可愛いからと言って霧島にうさぎ柄のあれこれを勧めた張本人。会えばいつも他愛もない話に花を咲かせるのだが、今日ばかりは二人共緊迫した声音だった。

『急に悪かったわ。でも、今決めておきたくって。‥‥‥あの話は結局どうするの? もう私たちには時間がないわ。彼‥‥‥リク、に本当に相談するつもり?』

「はい。最近よく見舞いに来ているのは確かなんですよね? だったら行く他はないです」

『で、でも‥‥‥』

「大丈夫ですよ雪ちゃん。心咲たちを裏切ったあの男とは違います。リク、リクさんは茅乃ちゃんの幼馴染なんですよ? 彼は信用できます。それに‥‥‥茅乃ちゃんのあの思い出話が本当なら、彼が加われば‥‥‥実現する可能性があがるはずです」

『実現って、天気を変える、を指してるのよね?』

「はい。リクさんは、気象学に精通しているそうなので‥‥‥何かが掴める可能性は大いにありますよ。心咲たちで解決してしまうのが、一番よいとは思いますが‥‥‥‥それが難しいからこそ、です」

『‥‥‥そう、よね‥‥‥‥‥けれど、天気改変って、そんな簡単じゃないと思うわよ』

「でも、茅乃ちゃんの、自殺を止めるには‥‥‥必要です」

『それはわかってるわよ‥‥‥はぁ』

 何やら疲れている様子の木下に、慰めの一言でもかけてやろうとしたが、そこで霧島は隣席の壮年男性に肩を叩かれ、振り向くと首を横に振られた。流石に長いと。もうみんな迷惑してるからやめなさいと。言われているようなものだった。霧島は小さく『すみません』と頭を下げてから、電話口に申し訳なさそうに言う。

「ごめんなさい。これ以上は通話できないみたいです‥‥‥とにかく、リクさんの説得は心咲がしに行きます。‥‥‥茅乃ちゃんの件も含めて、今後のこと、少し寮で話しましょう。今から帰宅します」

『‥‥‥わかったわ』

 返事を最後まで聞き、にっこり笑ってから通話を切る。例え見えずとも、電話の向こうにいる者を安心させようという姿勢は心根の優しい彼女だからこそ。

 そもそも、仲間の為に“天気改変”を提案したのも彼女だったのだ。

 通話を切った後、霧島はそのまま『天気発表』のサイトを開き、ある日にちを確認した。

 八月三十一日。天気はやはり、大雨。

 これが覆ることは、奇跡でも起きない限り有り得ない。

「奇跡は、起きるのでしょうか‥‥‥」

 まるで神に語り掛けているような、声だった。



 急に大量の本と共に机に放置されていた霧島の携帯が震えた。普段なら、図書館という場をわきまえて通話は外に出てからするのだが、今日は少し違った。

 いつも通り、外へ駆けだそうとしていた足を元の位置に戻し、周りの人に小さく頭を下げてから液晶に触れて通話を開始する。

「‥‥‥茅乃ちゃん。何かありましたか?」

『うん。ちょっと、ね‥‥‥』

 彼女から電話がくるのは至極稀なことだ。それもそのはず、電話の相手は自分の携帯を持っていないからだ。

 知らない番号から電話が掛かってくる。それはつまり、電話帳未登録の相手が自分と話したがっているということと、相手が自分の連絡先を知っているということの二つを意味する。生真面目且つ慎重な性格の霧島に至って、そういったことは滅多に起きない。

 だから、憶が一、そのようなことが起こった場合には自動的に『茅乃』からの通話要求だとわかるのだ。

「緊急、ですよね。今は少し離れたところにいますが、すぐに来いということであれば、そうですね‥‥‥十分あればそちらに行けます。どうしますか?」

『‥‥‥ごめん。来てくれると嬉しいな。ちょっと電話じゃ、言いにくいことで』

「わかりました。すぐに向かいます」

 内心の焦りは噛み殺し、最後まで冷静な声音を維持する。緊急であれば、それは必須だ。

 通話を終えると霧島はすぐに席を立ち、机に散らかった本たちを抱えた。

 霧島の腕の中で小高い塔を作る本たちは上から『魔法』『魔術』『異能力』とオカルトじみたものばかりだが、彼女の趣味というわけではない。一人の仲間のために、必要だったのだ。

 幸い、ジャンルが同じ本ばかりだったので本を元の場所に戻すのに、そこまで時間はかからないだろうと霧島は予想していた。このまま本を借りて持っていくということもできたが、それをしなかったのはこのためだ。

 予想通り、ものの数分で本の片付けは終わった。

「‥‥‥本気で行けば五秒は余るでしょうか。待っていてください、茅乃ちゃん」

 吹き抜けの建物の最上階で揺れている巨大な振り子時計を確認し小さく頷くと、霧島は図書館を飛び出した。

 季節は夏。節気は大暑。外気温は体温を軽く超す。それでも、汗ひとつ掻かず茶髪の美少女は街の中を駆け抜ける。


   ◇


 女児、男児、小学生、中学生、高校生。そして彼らの保護者。病院の待合室はいつも通り、(主に女児、男児の声が響いていて)賑やかだった。

 最低男、リクは数多ある席の一つに腰を落とし、頬杖を突いて溜息を漏らした。

 ‥‥‥馬鹿だ俺。馬鹿だ俺。時間を戻したい。

 面会カードも、あの貝殻も今日はない。そしてカヤも、ない。何もなくなってしまった手は、居所を探るかの如く、空っぽになった胸元を自然と強く握っていた。

 後どのくらいここに居ようか。そんな簡単なことすらも考えられないまま、ただ何かを待つ。

 ‥‥‥断罪か、救済か。許しか。

 途中であまりにも険しい顔をしていたせいか、大丈夫ですか、と看護師に訊ねられたが、体は健康そのものなのでリクは無言で首を横に振った。

「‥‥‥‥くそっ」

 ここでいくら悔やんでも、仕方ない。過ぎたことは、もう消せないのだ。

 ‥‥‥これも、もう飽き飽きしてる。俺は何をしたらいい?

 普通の人ならば、悔やみ飽きた末に相手に謝る言葉を考えるのだろうが、この男は違った。元来、人との会話において言葉を選んで衝突を控えてきた彼のことだ。万が一にも生じてしまった衝突時にそれをどう解決したらいいか、わからなくても、仕方ないのかもしれない。

 ‥‥‥カヤ、ごめん。

 わからないリクでも、こんな言葉で妥協してはいけないことぐらいはわかる。もっと言葉を連ねるべきだ。自分がどういう過ちをしたのか、それによって相手がどんな被害を被ったのか。しっかりと述べた上で謝罪の言葉を持ってこなければ意味がない。

 ‥‥‥俺は、どうしたら、いい?

 だが、それが出来るのならば世の中の民は苦労をしない。リクの表情はだんだんと険しさを通り越した色に染まり始めた。冷房の暴力の中、額に汗すらも浮かべる。

 ‥‥‥誰か、助けてくれ。

「失礼します。今、人を探しています。‥‥‥名前は雨宮陸斗。彼を知っている方、もしくは当人でも構いません。緊急です。名乗り出て下さると助かります」

 彼の助けを求める声は、心中であっても叫ばれることはなかった。待合室とそれに繋がる廊下が成す喧騒の中に、一際よく通る声を見つけたからだ。

 ‥‥‥断罪か? 救済か? 許しか?

 一周考えて、首を振る。

 ‥‥‥とにかく、今は。

 リクは何かを決心したかのように頷くと、額の玉を拭い、立ち上がった。一切の迷いなく突き進み待合室の戸を開ける。

「あっ‥‥‥すみ、ません‥‥‥」

 同じく廊下から戸を開けようとしていた、あの声の持ち主とちょうど鉢合わせた。

 ‥‥‥こいつ、どこかで。まあ、いいか。


「‥‥‥この、男で間違いないか?」


 四方を白い建物に囲まれた中庭。

 外から見る廊下の窓からは行き交う人々の姿が見えた。そこから目を剥がし、リクは隣の人物を再度見つめる。

 木々や花壇の花々。それらと共に中庭の極彩色を担いつつ、風が吹けば一緒に揺れる赤毛。ライトオークルの頬には薄めた桜色を浮かべ。印象的な丸眼鏡と琥珀色の大きな瞳に愛らしさを収束させている少女。改めて見てリクは確信した。自分が感じた妙な既視感は間違いではなかったと。

「その、突然すみません‥‥‥」

少女が膝を曲げると、黒光りしているベンチブランコが力なく揺れた。

「いいや、俺は暇だったし」

 リクの体もそれに連動して揺られる。ちょうど昼下がりの良い時間帯であったせいもあり、少しの眠気に襲われた。目を閉ざしはしないが、瞼が下がりかける。

「‥‥‥陸斗さん、大事な話があります」

 しかし、こちらを向いた美少女にかちり、と音が鳴りそうなほど真摯に瞳孔を覗き込まれてその眠気も一瞬で吹っ飛んだ。

「えっと‥‥‥‥‥もしかしなくても、晴世茅乃が関わってるだろ。その話」

 図星を突かれたのか、少女は大きく瞬いた。ベンチブランコにどっかりと座り、足を組むという悪態をつく彼からは想像もできない推理力である。

「どうして‥‥‥わかるんですか? 心咲は、まだ、何も‥‥‥」

「お前から答え言ってるじゃん。心咲って。お前、カヤと同じグループのミサキだろ。俺は一ファンだから知ってる。ユキのこともな。病院で会った」

「‥‥‥そういうことですか‥‥‥まさかリクさんが。すみません、その情報は知りませんでした。けれど、それなら、こちらの自己紹介は不要ですね。話に入りやすいです」

 いきなり呼び方が変わったことに不審感を抱いたが、リクは眉を動かすだけで口にはしなかった。それよりも、いまは問うべき事項があった。

「話はちょっと置いておいて。お前‥‥‥あいつ‥‥‥カヤから、何か聞いたか?」

 それは彼にとってとても重要な質問だった。

 ‥‥‥何か聞いたのか? いや、何て言ってたか、カヤ、俺のこと。

「なぁ、何か‥‥‥聞いてたり‥‥‥」

 ‥‥‥俺は本当に、カヤに、もう、嫌われてしまったのだろうか。

 本人がいないのだから、その代理人たる霧島に訊くしかない。彼女なら自分が不在の間にも見舞いに行っていて、カヤの真意を知っていることだろう。

 そう、リクは期待していたのだが。

 幸か不幸か。必然か偶然か。

「え、何のことですか? 心咲は何も、言われていませんよ。‥‥‥何か、ありましたか?」

 返ってきたのは、嘘は吐いていなそうな、きょとんとした顔だった。

 ‥‥‥まだ誰にも言ってないのか、カヤは。でもなんで?

 再び疑問が生まれるも、今回ばかりは問う相手もこの場にいないのでどうしようもなく。疑問を舌で転がして、覚えた苦味にただ顔をしかめるに留めた。

「‥‥‥‥」

「どうかしましたか、リクさん?」

 無言のまま視線を下にしていると、心配するように無垢な瞳を向けられて、リクは慌てて頭を掻いた。

「あ、いや。ちょっとな。でも、もう平気だ。ああそうだな。もう、お前の話に入ってくれて構わない」

 ドキリともちくりとも鳴りかけた胸に手を添え、あははは、といつまでも掠れた笑い声を漏らす。

 ‥‥‥あっぶね。あっぶね。あっぶね。あっぶねっ。

 その結果、やはり心配されて横顔を凝視されることになるのだが、リクはなんとか堕ちずに耐えしのぐことができた。

 ‥‥‥あっぶね。危うく、さらに自分が嫌いになるところだった。

 この時の彼は知る由もなかった。この後の会話が、自分を鏡も覗き込めないほど嫌いにさせてしまおうとは。


「‥‥‥これはまだ未発表なんですが‥‥‥その、心咲たち、もうすぐ解散するんです」


 は?

「え。解散って何をだ?」

 この場面で、この少女が言う『解散』とは。わかりきっていることではあったが、リクはたまらず訊いてしまった。微かな希望にすがりたい思いもあったに違いない。

「グループです。アイドルグループ。‥‥‥理由はたくさんあります。そうですね、一番の要因はやはり、半年前、事務所のお金を持って逃走したプロデューサーさんでしょうね」

 表情も、声のトーンも変えず霧島は淡々と言う。怒りも、悲しみも感じられない。文字通りの“開いた口が塞がらない”状態のリクには、最初それが強がりに見えた。

 だが、段々とそうでなかったと思い知らされる。

「‥‥‥怒ってないのか?」

「怒っていますが、どちらかというと諦めに近いです。プロデューサーさんの代わりにここまで経理を務めてきた雪ちゃんはいまも心の底から怒っていると思いますけど」

「その解散って、もう、どうしようもないのか? よくわからないけど、ここまでやっていけてたんだよな?! じゃあ、これからだって‥‥‥!」

「いいえ」

 返された声は、短くも酷く冷たい。何度も言ってきて言い慣れているようにも感じられた。

 ‥‥‥でも、でも。だって。

 同じベンチに座り、少し俯く少女と、今にも肩に掴みかからんとする前のめりの少年。年の頃は同じくらいだろうが、背後に積み重なった経験には差異があるように見える。

「やって、みないと‥‥‥わからないだろ‥‥‥‥‥な、なぁ」

 その時リクの頭の中には一人の少女が浮かんでいた。願いを抱えてここまで走り、母親をも犠牲にした彼女。アヤでもあり、カヤでもある異質な存在。

 その幻影の名は晴世茅乃という。


『アイドルは願いを叶えるための通過点なの』


 アイドルと願いにその身も捧げた儚くも麗しき少女である。

 ‥‥‥じゃあ、それが絶たれたら?

 考えるまでもなかった。

 リクは急に恐ろしくなり、顔面蒼白のまま視界を手で覆った。彼がこれほどにまで現実から逃げたいと思ったことはいまだかつてなかった。

 ‥‥‥どうして、どうして、どうして。こうして? ああして? そうして? どうする?

「ですが‥‥‥‥‥」

 しかし、リクはその絶望の淵で隣人の囁きを耳にした。まるで砂漠に零れ落ちた雫のよう。もしくは、刺された刃から滴り落ちる血のよう。

 ‥‥‥ですが? ですがって、なんだ?

 その言葉は希望か、更なる絶望か。判断し兼ねたが、リクは一筋の希望に期待することにして次の言葉を待った。

 返答はそれから間もなく。手に覆われた両眼の解放も同時に。

「‥‥‥心咲は、茅乃ちゃんを助けたいです。リクさんもそうでしょう?」

「‥‥‥‥え?」

 気づいた時には、リクは顔を上げていて、両手は霧島に握られていた。こうしている間もああいしている間も、思い返せばいつだって、空は晴れていたのだ。

「‥‥‥ああ、も、もちろん。助けたいに決まってる。当たり前だろっ」

 慌てて、言い直した。

 「貴方の助けが鍵となります」霧島は落ち着いた声音でそう言い、空を見上げる。

「心咲たちの最後の舞台となるのは、アイドルフェス、通称ドルフェスです。そこで最後のライブを行います。そして、ファンの皆にお別れの言葉を告げる。‥‥‥これは表向きの話です。実は、ドルフェスには裏の顔があります」

「‥‥‥もしかして、お前たちがアイドルを続けられる何かがあるのか?」

「はい。その通りです。ドルフェスの裏では、新たなグループ創設を目指すプロデューサーによる選抜試験が行われます。彼らは、二十グループ、総勢百名のアイドルの容姿、歌唱、ダンスを評価し、欲しい人材を引き抜く。‥‥‥これによって、グループの解散は免れませんが新しいグループでアイドルを続けることはできます。‥‥‥あ。それと、賞金も忘れてはいけませんでした。選ばれたアイドルたちには、各プロデューサーから賞金が手渡されます。フェスに参加するようなアイドルは皆、心咲たちと同じような境遇の方たちですから、これ目的に参加する方も大勢います。‥‥‥とまあ、概要はこんなところでしょうか」

 話を聞いていたリクはあまりの長さに疲れ切っているが、話していた当人は息も切らさず元気そうである。

「‥‥‥‥‥なるほどな。‥‥‥となると、後は選抜されるか、されないか。だな」

 リクは独り言のように呟き、現時点の問題点を洗い出す。目の前の彼女は、カヤを助けたいと言った。その後には『貴方の助けが鍵となります』と付け加えた。つまり、何かあるはすなのだ。カヤを助ける、カヤにアイドルを続けさせるために、障害となるものが。

 容姿? いや違う。歌唱かダンス、どちらかに問題があるのだろうか。

「‥‥‥」

 考えている間、リクは無言になった。それを見て、霧島は不思議そうに首を傾げる。

「茅乃ちゃんが、選抜に落ちると思っているのですか?」

「‥‥‥だって、そうだろ。お前は、カヤに何か足りないと思っているから、俺に声をかけたんだろ」

 霧島は大きく首を振る。

「いいえ。茅乃ちゃんには全て揃っています。彼女がフェスに参加することができれば、間違いなく選抜されるでしょう」

「じゃあ、何がダメなんだ? 俺たちが助ける必要があるのか?」

 食い気味でリクが言った。

「‥‥‥天気です」

 霧島の一言は、短くとも大きな破壊力を持っていた。口からぽつりと零れた途端、リクの表情は凍りついた。

 ‥‥‥まさか。

「フェスが開催されるのは、八月三十一日。天気発表では‥‥‥大雨です」

「‥‥‥ど、どうするんだよ。そんなの、どうしようもないじゃないか」

 無表情のまま、リクは慌てた。口元だけ動かして言葉を紡ぐ。

「ですので、リクさんに声をかけました。心咲たちでは、手に負えないと判断し、気象学に精通していると言われているリクさんに、声をかけたのです。‥‥‥力に、なっていただけますか?」

 ‥‥‥そういえば、昔カヤに将来の夢とか、独学でやってる気象学のこととか、話したっけ。

「‥‥‥」

 思い当たる節はあったが、リクは次の言葉を紡げずにいた。もし本当に精通しているのであれば、得意げに返事をしていたのかもしれない。だが、違った。やはり独学には限界があったのだ。

「‥‥‥精通、とまではいかない。全く。少し知っているぐらいだ」

 茶髪の娘にとっては、リクが唯一の頼み綱だったらしく、その言葉は彼女に何かを悟らせた。

「そう、ですか‥‥‥。そう、でしたか‥‥‥」

 あれだけ話しても元気そうだった少女が、今日初めて疲れを見せた。

霧島の脳内に、昨日読んだばかりのオカルト本の内容がちらつく。

「心咲は、甘かったのでしょうか‥‥‥」

「‥‥‥」

 問いは虚空へと消える。

 リクは表には出さなかったが、自分を殴りつけたい気分だった。情けなさ。無力さ。自分への怒り。さして変わらない感情たちがひしめき合い、襲い掛かる。

「‥‥‥でも、やるしかない。それ以外、ない」

 リクは視線を鋭くして、夜闇を睨んだ。

 ここで霧島より先に折れてはならない。リクの瞳の中で、これだけは揺るぎなく灯っていた。

「‥‥‥ですが、心咲も手を尽くしましたが、解決策が見つかっていないのが現状です。そう簡単にいくでしょうか。‥‥‥勝算が見えないというのは、とても怖いものです。‥‥‥奇跡は、起きるのでしょうか」

「起きる」

 勢いだけで断言した。目の前の少女を気遣ったのではなく、実際、リクの身に刻み込まれていた事実があったからだ。

 カヤという存在に出会い、別れ、再会した。これは奇跡というには十分すぎる代物だった。

「でも、いつ起きるかはわからない。待つしかない」

 リクは視線を緩めて、それから目を伏せた。

 これも彼の経験だ。

「待つ、ですか‥‥‥」

「そう、待つだけ。でも、何かしないといけない。奇跡に出会おうと努力している人にしか、奇跡は訪れない」

 自分の場合は、努力とかけ離れたものだったが、彼女を刻むための何かはしていた。

「では、どうすればよいでしょうか。心咲は、何をしたら‥‥‥」

 琥珀色が、リクの瞳孔に貫いた。年相応の少女が、すがる姿とよく似ている。幾分大人に見えていた彼女も、中身は子供なのだ。

「‥‥‥天気を変える方法。‥‥‥天気を変える方法を探す。ただ貪欲に。それだけやるんだ。‥‥‥勿論俺も協力する」

 リクのこの一言は宣戦布告とも言える。奇跡を待つだけの持久戦だが、夏はまだ始まったばかりで、時間はたくさんあった。

「天気を変える方法を探す‥‥‥」

 霧島は一度リクの言葉を反芻し、それから飲み込んだ。

「わかりました。そうしましょう。‥‥‥その、ありがとうございます。‥‥‥それと、彼女のことですから、心配はないと思いますが一応、雪ちゃんにも声をかけておきます。奇跡を願うなら、人数が多い方がいいはずです」

「そうだな」

 リクはもちろん肯定する。実際のところ、探し物は大勢で捜索した方が見つかり易い。もし、見つかってしまえば奇跡を願う必要などないのだ。



「リクさん、初日から遅刻するとはどういうつもりですか‥‥‥」

 恐らくは目の前の少年と同じくらいの年齢の、しかしどこか幼さを感じさせる雰囲気を纏う少女が呆れ顔で言った。本当に不満に思っているのだろう。琥珀色の目は少しつり上がり、頬がぷくりと膨れている。赤毛の髪の毛も作用して、さながらリスのような様である。

「二十分ぐらい遅刻に入らないだろ。これだから真面目な眼鏡っ子は嫌いだ」

 美少女に接近され、その上鋭い目線で見上げられる破壊力は凄まじいものだが、この男には通用しないようだ。言われた方、リクは飄々とした態度のままそう言いのけた。『ちょっと、待ってください!』と背後から裾をつまんでくる霧島を無視して、正面玄関へと突き進む。

「ほら。いつまでも気にすんな。人間遅刻ぐらいするって。早く作業したいからこんな白雲蔓延る最悪な時間帯に呼びつけたんだろ。行くぞ」

 やれやれと言ったぐらいに両手をあげ、半開きの自動扉の前で振り返りざまに言ったセリフが、チャックメイトとなった。これが少年と少女の立場が逆で行われたのなら、恋のチェックメイトに成り得たかもしれないが、現状では少年自身へのチェックメイトにしかならない。勿論、少女の怒りの矛先の標的になるという意味のチェックメイトで。

「‥‥‥煮えたぎってきました。頭が。‥‥‥‥‥‥‥もうっ」

 柔道の名家、霧島家。その長女である霧島心咲は、しかし硬く拳を握り締め、ただ怒りを鎮めることしかできなかった。一般人に武力を行使してはならない。ましてこんな些細なことで怒って。

 ‥‥‥家は出ましたが、それでも心咲は霧島家の人間。堪えないと、いけません。

声も姿も可愛らしい赤毛の少女が持つ秘密を知る者は本当に僅かだった。それこそ一部の親しい者、同じグループのメンバーぐらいしか知らない。

「お、おい。どうした? 有り得ないぐらい手が震えてるぞ」

 当然リクが知っている筈もなかった。彼にはただの少女としか映っていないのだろう。

「もうっ!」

 だから、余計に悔しい。

「知りませんからっ!」

 少女の怒号を聞いてひるんだのは、図書館の屋根にとまっていた小鳥たちぐらいだった。


 新聞を読んでいる者。館内に転々と配置されている机で勉強する者。ただ涼んでいる者。勿論、読書に勤しむ者。海凪街立図書館は今日も多くの人で賑わっていた。流石、『海沿いの本の楽園』と言われるだけはある。そもそも、この人気は圧倒的な数を誇る蔵書数と大窓から見える海と緑の景色に起因するのだが、近年ではここに出来たとある本棚が話題を呼び有名ドラマの舞台にまでなったことも人気の要因となっているのだとか。老若男女問わず、そして近隣住民のみならず遠くの町からわざわざ来る者も多い、まさに皆に愛された図書館だと言えよう。

 そんな図書館に、また二人、本を求める者たちがやってきたのは午前十一時半過ぎのこと。か弱そうな赤毛の少女とやる気のなさそうな猫背の少年だ。

「なぁ、本当にここでいいのか? 目当ての本があるようには見えないんだが」

 いつの間にか追い抜かれ、ぷんすかと先を急ぐ前の彼女にリクは訊ねる。

「‥‥‥」

「何回も謝っただろ。なぁ、まだ怒ってんのか。ああそうだ。木下はどうしたんだ? 調べものするなら人数が多い方がいいだろ。あいつ、一人サボってんじゃないだろうな」

「‥‥‥‥‥」

 いくら問いかけても大理石の白い床を軽い体重で歩む音しか返ってこない。流石のリクも参ったのか、両の手を頭の後ろに回し、大きな溜息を吐いてしまった。

 ‥‥‥なんで女っていつもこうなんだ。

 彼の古ぼけた記憶の内にある幼馴染もよく同じような反応をとっていた。申し訳ないのは理解しているので、一応は謝るが口もきいてくれない。それで丸一日潰れてしまった、なんてことも少なくない。過去から現在まで。こうも度重なれば溜息も出るものだ。

 ‥‥‥まぁ、カヤのときも、俺が遅刻したから悪いのは俺なんだけど。

 だらしなく開いた口から出るのは、だらしのない自分への溜息でもあった。

「雪ちゃんは他に当てがあるって言っていました。たぶん、おじい様の所に行っていると思います。そして、心咲は怒っているわけではないんです。イライラしているだけなんです。けれど、しょうがないですね。茅乃ちゃんに免じて特別に許してあげます。彼女にとって貴方は特別ですから」

 早口で滔々と語り、くるりとこちらを振り返る。やはり不満そうな顔なのだが、彼女の不釣り合いなほど大きい丸眼鏡が発せられている怒りを和らげていた。眉がきゅっと釣り上がっていても全く怖くない。頬も少し膨らませようものなら、自然とこちらが微笑ましくなってしまう。

「え、あ。そ、そうか‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ぷふっ」

 リクもなんだかおかしくなって、堪らず吹き出してしまった。彼には怒る霧島が近所の小さな娘か何かに見えているのかもしれない。いきなり笑い出した男にぎょっと身を引く彼女に追いつき、涙目になりながらぽんぽんと肩を叩く。

「お前、よくわかんねえわ。本当に面白いな‥‥‥‥きっと今日は楽しい日になるぞ」

 早歩きの霧島がそれを見つけて足を止め、今は彼女の背後に配置されている巨大建造物を見上げながらそう言った。

「そうやって茅乃ちゃんも口説いたんですか‥‥‥かわいそうに。あの子は純粋なんですから。変なことをしたら許しませんよ」

「してないって。‥‥‥それよりすごいな。これがバオバブの本棚なのか。俺初めて見たんだけど。‥‥‥おい、あれってゴンドラか? あの動いているやつ。行ってみようぜ」

「あ、ちょ、ちょっと‥‥‥‥‥」

 まるで遊園地ではしゃぐ子供のように。リクはなんの躊躇いもなく仏頂面の霧島の手を取り走り出す。

「おっ、ちょうど一つ空いてるじゃねえか。今下りてきた所っぽいぞ」

「り、リクさん‥‥‥! 図書館で走ってはいけないと‥‥‥‥あ、もうっ」

 二人が向かう先は重厚な黒鉄で仕上げられたゴンドラ。

 図書館の最奥に位置し、天井を設けず、一階から三階が一体の空間となっている区画に堂々と鎮座する全長三十メートルの円型の巨大な本棚。通称バオバブの本棚。見上げるほどの高さがある為、最上段に並ぶ本たちに手を伸ばすのは巨人であってとしても困難極めるだろう。それを改善するのがこのゴンドラである。乗り込み、欲しい本のジャンルや題名を備え付けのパネルに入力すれば自動的に人をそこまで送ってくれる仕様となっているのだ。

「‥‥‥ジャンルは、天気を変える方法なので‥‥‥‥オカルト本にしてください」

「はいはい了解。‥‥‥でも。わざわざなんでこんな面倒な本棚作ったんだろうな」

 きっと万人が思うであろう疑問に、霧島は自分たちを乗せ上昇するゴンドラをコンコンと叩きつつ答える。

「それは、ロマンだからですよ。きっと。これをデザインした人は心躍るものを作りたかったんだと思います。現にリクさんは先程からはしゃぎっぱなしですし‥‥‥‥手なんて、茅乃ちゃんにも握られたことなかったのに‥‥‥‥」

「ん? 何か言ったか?」

「言ってません!」

 そうは言ったものの、霧島は先程まで繋がれていた右手を開いたり閉じたりと落ち着きがない様子。リクは隣でそれをただ見ている。心底不思議そうに。首を傾げて。

 これは二人の間で禁断の何かが始まってしまうのでは。

 しかし、霧島の頬が薄っすらと薔薇色に染まりかけたところで甘い期待は無残に打ち砕かれてしまった。


『茅乃ちゃんに免じて特別に許してあげます。彼女にとって貴方は特別ですから』


 きっと、これは運命だった。

 突発的で、刹那的で、ある意味奇跡的で。どうしようもなく、残酷。そんな運命。

 そんな運命に曝された二人。

「あ」

 普段から凜としている霧島から、似つかわしくない程間抜けた声が漏れるより前に、リクは既に高く跳躍する為にゴンドラの底板を蹴っていた。

「‥‥‥っ」

 宙を泳ぎながら、上を見据え、唇を噛む。手には汗が滲んでいたが、『それ』が滑り抜ける心配はなさそうだった。

「きゃああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 自分たちが乗るゴンドラより遥か上空。リクの険しい視線の先には。機械のトラブルか、第三者による仕掛けによるものか。急停止したゴンドラからバランスを崩して降ってくる幼子の姿があった。本当に雨のように、落ちてきている。悲鳴と共に。数冊の絵本と共に。

 本来であれば、この幼子はこれらの絵本を下で待っている親兄弟の元へ満面の笑みを添えて持っていき、読んでもらうはずだったのだろう。まだ見ぬ絵本の世界へと思いを馳せていれば注意力散漫となり、このような事故が起きてしまっても何ら不思議な話ではない。

 ‥‥‥これが、デジャブってやつか。

 突然の落下事故に巻き込まれてしまった幼子は不運としか言いようがないが、ひとつ下のゴンドラから、今、安全のための柵を乗り越え、全くの善意だけで飛び出してきてくれる少年がいたことだけは幸運だと言えた。

 逆に、その少年にとっては不運となってしまうだろうが。

 ‥‥‥たぶん、平気だろ。うん、たぶんな。

 このゴンドラから飛び降りて、少女を抱きかかえつつ大理石の地面へと落ちる。リクの脳内には一連の未来の映像が走馬灯のように見えていた。

 この高さから落ちれば、死ぬ可能性もあるのに、何故だか死ぬ気はしない。

 もしかしたら、彼には過去にも高高度の場所から落下し、見事に生還した経験があるのかもしれない。その自信ゆえの出過ぎた行動だったのかもしれない。

 ‥‥‥あはは。なんかあの子の髪色、かやのと少しだけ似てないか。

 いや、違うかもしれない。

 ‥‥‥俺って馬鹿だ。なんで飛び出したんだ?

 リクが一匙の後悔の苦味に顔を顰めた時。


「茅乃ちゃんは、貴方を選んだんです」


 急に耳元で誰かから囁かれ、自分の体が元々いたゴンドラへと強い引力で引き戻されるような感覚に陥った。

 え?

 そして直後、見開かれた両眼で入れ替わるようにして赤毛の少女が飛び出していくのを捉える。

 揺れる赤毛の三つ編み。ゴンドラの底板に落ち弾む丸眼鏡。横を通り過ぎるまだ覚えたばかりの花の香。

 最後に、琥珀色に瞳が向けられた。

『茅乃ちゃんの泣き顔は、見たくありませんから』

 少し偉そうに、鼻高く気取った表情からは一つまみの恐怖も感じられない。

 ‥‥‥お、お前、は? お、おい。

 強い大人な女性。丸眼鏡が封じ損ねた彼女から受ける第一印象は、それだった。


 この日の、この場面のリクの記憶は、彼女が幼子を抱きかかえつつ白い大理石の地面へと吸い込まれていく所で終わる。

 地上二十メートル地点を上り続けるゴンドラの底板にただしがみつき、落ち行く彼女らを上から見つめることしかできない無力な己の姿は記憶されることはなかった。

 同じ瞬間にこの図書館の何処かで、誰かが囁いた声も同様に。

『愛しのカノンちゃん。僕やったよ。少しくらい褒めてくれてもいいのにな。なーんてね』

 記憶されることはないのだろう。目に入るはずもない三人称視点の己の姿と同じく、遠くで囁かれた言の葉は耳に入るはずもないのだから。

『ミサキ、脱落おめでとう』

 これはまだ、『最悪』の始まりに過ぎなかった。


「うわぁぁぁああああああああああああああああ!!」

「クソ爺、帰ってきてやったわよ‥‥‥って、ええええええええええ!?」

 ────ばきり。

 無機質な大理石の地面とは程遠い緑豊かな温かい土地にて。黒色の長髪と端正な顔が麗しい美女、木下雪に小さな不運が降りかかってきたのは、その古びた屋敷の戸を開け、半歩足を踏み入れた時だった。

「‥‥‥痛っ。もうっ‥‥‥誰よ‥‥‥‥え‥‥‥あ、あんた!!」

「えへへへっ‥‥‥ちょっとドジしたっす‥‥‥」

 午前八時十二分。この三時間後の未来では、とある図書館で救急車が呼ばれる騒ぎが起きるのだが、そんなことは露も知らない。

『最悪』の裏舞台、海凪の地から離れた潮背の街で織りなされる乙女の物語は、まず、幼馴染と再会するところから始まった。

「‥‥‥はる、と? 晴人、よね?」

「久しぶりっす、雪。俺のこと、覚えててくれたんすね‥‥‥」

 驚き人差し指を突き立てる女と、何やら照れ臭そうに頭を掻く男。実は彼らにとっては三年振りの邂逅だったのだが、用意された舞台はそれに相応しい形をしていなかった。

 古い木で出来た玄関。そこでしゃがみ込み、痛そうにぶつけた頭を抑えている二人。彼らの頭上には交換中だったのか、垂れ下がったままの電球と、それにあと腕一本で届きそうなところまで伸びている脚立の頭がある。

 何があったのか伺わずとも様子からわかる。これは日常の断片で起こってしまった紛うことなき事故であった。

「ひ、久しぶりね‥‥‥それより、あんた‥‥‥‥どうしてここにいるのよ‥‥‥‥」

「そ、それは‥‥‥‥ちょっとした事情があってっすね‥‥‥」

 怪我人は二人。どちらも軽く頭を打っただけの軽症なので“事故”と表現するのも少し過大かもしれないが。それでも、晴人、と呼ばれた男にとっては、ぼさぼさ頭に白いTシャツ。パンツ一丁という出で立ちであったので、間違いなく今世紀最大の事故だと言えた。

「当たり前よ! それは!! なんの事情もなしに女の子の、それも祖父の家に居ていいわけないじゃない!」

 なぜなら。

「‥‥‥そ、そうっすよね‥‥‥」

 なぜなら、彼は。宮島晴人は。

「‥‥‥‥はぁ、白状するっすよ‥‥‥えーっと、その。俺、漁師になることにしたんすよ‥‥‥‥だから、雪のおじいちゃんのところで弟子入り修行というか。見習いをやってるんす。一応、今は俺の部屋もここにあるっす。ここで寝るし、ここで飯も食べるし、ここでくつろぎもするっす。‥‥‥‥その、つまり‥‥‥」

 三年間、いやそれより前からずっと。

「え、それって、まさか‥‥‥‥」

 ただ一人の幼馴染、木下雪のことを。

「そうっす、そのまさかっす‥‥‥‥‥」


「俺、いま、ここで暮らしてるんすよ」


 ずっと好いていたのだから。


「えぇぇええええええええぇええええええええええっ!!!」

 屋敷に木霊した木下の絶望の叫びは、近隣の木々すらも微かに揺らすほどだった。くしゃりとしゃがみ込んだまま、小さな子供のような半泣き面で先程の落下で利き手から離れたものを探す。

「わたし、私‥‥‥‥‥‥」

 今となっては在っては欲しくなかったが。

「私、わたしも‥‥‥‥」

 パジャマ、歯ブラシ、下着、お気に入りの服、難しくて読み進めていない科学の書物。

「ここで、しばらくは、過ごそうと思ってたのに‥‥‥‥‥」

それらが詰まった旅行鞄は、彼女が横目を流した先に、ちゃんと地面に転がっていた。



「クソ爺! 帰ってきてあげたわよ! ‥‥‥あら。いないのかしら」

 古びた屋敷の扉を開け、木下は玄関に一歩足を踏み入れた。と同時に、黒い何かが上から落下してきた。

「え──────」

 ぐしゃり。避ける間もなく黒髪の男と黒髪の女はそこで衝突し、両者共々仲よく玄関に倒れ込んだ。

 ‥‥‥え、え? 何が起こったの?

 木下は、すぐに体を起こして、落下物を確認する。

 いた。

 それはすぐにそこに転がっていた。

「あ、いたたたた‥‥‥。ごめんっす。ゆ、雪さんっすよね?」

 寝癖だらけのぼさぼさ頭に、夏にそぐわない真っ黒なシャツ。下半身は下着のみしか穿いていなかった。

「ふ、不審者‥‥‥!‥‥‥‥‥‥‥ん?あら、あんた」

 木下はその姿に初めは驚き一歩後退ったが、遥か遠くの記憶で男の顔と合致する人物を見つけ、安堵の息をこぼした。

「俺のこと覚えてるんすか? まぁ、忘れてても、責めはしないっすけど‥‥‥」

「宮島晴人。忘れるはずがないわ。あんたほどの変人、中々いないわよ」

 宮島と呼ばれた男は、目をキラキラ輝かせた。女児、男児のそれだ。木下は、眩しすぎて思わず目を背けてしまう。

「くっ。相変わらずキモイわね‥‥‥‥‥‥あ、それよりも‥‥‥あんたとは、五年振りよね。その間に何があったかのかは知らないけど、今ここで訊くわ。あんた、なんでクソ爺の屋敷にいるのかしら? なんで天井から落下してきたのかしら? その格好は‥‥‥何?」

 疑問符の三連続に、宮島は困ったように眉を下げた。でも、心なしか嬉しそうだ。

 宮島は玄関に胡坐をかいて座り、頭を掻いた。

「俺、漁師になることにしたんすよ。今は、爺さんの弟子っす。他にも何人かいるっすけど、一番出来がいいのは俺っすね! それで、その‥‥‥俺は、家も遠いからってことでここに住まわせてもらってるっす!! もう四年ぐらい経つんで実質、マイホームっす。だから、この格好っす。それと、今は玄関の照明を変えてくれって親方に頼まれて、やってたところっす。‥‥‥その、本当にごめんっす。雪さんに驚いて足を滑らせたっす‥‥‥」

 宮島の背後には、照明へと伸びる脚立が聳えていた。それが目に入っていなかったわけではないが、木下は自分の祖父の性格からして、何か作業をした後、ただ単に片付けが面倒になってそれを放置しているだけかと思い込んでいた。

 ‥‥‥なるほど。どうりで薄暗かったわけね

「ってえええええぇぇぇぇぇえええええ!!」

 危うく頷いてしまうところだった。木下は、叫んだ後、ぜえはあと息を荒げた。

「あ、あんた、ここに住んでるの???」

「そうっす。お邪魔してるっす」

 木下とは正反対で、宮島は落ち着いて様子で手を振っている。

「終わりね‥‥‥私。あんたと‥‥‥」

 木下の左手には大きな鞄が握られている。彼女のお気に入りの普段着、寝巻、靴、歯ブラシ。おおよそ私生活で必要な物が詰め込まれていた。

 そう、彼女はしばらくの間、祖父の家で生活するつもりだったのだ。

 突然鳴り響いた地獄の生活の幕開けのゴングに、重い頭を抱える木下。

「よろしくっす」

「クソ爺!! 今すぐ絞め殺すから待ってなさい!!!!」

 木下の怒号で、屋敷の屋根にとまっていた鳥たちが一斉に飛び去っていった。


 潮背街は、近隣の街の住民から珍しいものを見るような視線を受けることが多い。理由は簡単だ。まるで時代に取り残されたかのように発展が止まっているからである。街の行政機関が緑豊かな街並みと透き通る青い海を守るために街の景観保持を促すような取り組みを行ったことがその重たる要因であった。

 冠せられた名『潮背』恥じない広大な海を持つ地。サンゴ礁や一部をリゾート地として開拓することによる観光業はもちろん、昔から盛んであった漁業も今もなお健在だった。

「で、どうしたあんたはまた、漁師なんて‥‥‥‥‥楽しいだけじゃないわよ、きっと」

 この地に住まう少年で、将来の職業において漁師を志望する者は多い。恐らくはその内の一人であろう彼は、久しく目にする眼前の美女に見惚れつつも首を捻った。

「きかないっすよ、それは。もう何回も言われてるっすから。俺は誰になんと言われようとも漁師になるっすよ」

 きっぱりと言う声が、静かな屋敷内の一室に響き渡る。少年の視線は幼馴染から剥がれると次に壁に数多並べられた肖像画に移された。

 彼らが今いる部屋。中央には白く上品なテーブルクロスを纏った大きなテーブルがあり、それに引け目を取らない凝ったデザインの椅子に座り対峙していることから、恐らくはリビングルームであろうことが邪推できる。本来であれば家族が食卓を囲み、団らんに花を咲かせる場所のはずだが、この家は違うようだ。

『こうやって、潮背の漁師会の長者の方々に睨まれながらこの地でとったものを食べる。何か残そうものなら肖像画から叱責が飛び、海の悪魔に殺されるんだとか。食べる生き物に感謝するために、こういう配置にしてるらしいっす』

 何か嫌なものを見るような目で眉間に皴のお偉い様方を睨む木下に宮島は諭すように語る。彼はここで暮らし始めて二年目になるが既に言い慣れた常套句らしく、すらすらと、言葉に詰まる様子は一切なかった。

語る姿にも、少しばかり貫禄があるように見える。

『ふんっ、馬鹿みたい』

 だが、可愛らしく首を捻る幼馴染には、苦笑いを返すことしかできないまだ幼い少年でもあった。

 ‥‥‥三年ぶりっすもんね。俺たち。

 温かな空気が流れるこの空間で。三年振りの想い人との再会を果たしているこの状況。

 まだ少年の心を持っていた宮島には、次の話を切り出すのは困難に思えた。

 ‥‥‥でも。

 ‥‥‥ずっと気になっていたことを、そのままにしたくはない。

 ‥‥‥燻っている小さな悩みを早く解消したい。

 好奇心にも似た気持ちが最後には勝った。


「ねえ、雪さん。その、アイドルってまだやってるんすか? 調子はどうすか?」


 他人行儀な“さん”付けでついつい問うてしまった。自然と手に力が入り、くしゃっとテーブルクロスに皴がよってしまったがそれを洗うのも、皴を伸ばすのも彼の役割なので誰も何も言えない。

「‥‥‥‥‥」

 ぴたっと動きを止めた木下もまた、閉口したまま何も言えずにいた。

 ‥‥‥あんたには言うべきなのかしら。

 隠していた思いを、吐露すべきか、しないべきか。賢くはない小さな頭が演算し、ぱちりと答えを弾き出すのを待つ。ただそれだけの時間。たったそれだけの時間。

 ‥‥‥これ。まだ、誰にも言ってないわ。心咲にも、茅乃にも。

「‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

 ただ幼馴染と視線の交差を繰り返すだけの沈黙の時間。傍から見てもわかる気まずい状況。しかし、宮島も木下も途中で手洗いに逃げるような真似はしなかった。

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 沈黙が帳を下ろしてから、一体どのくらいの時間が経っただろうか。

 部屋に備え付けらえている振り子時計が一際大きく鳴った所で、木下はようやく口を開いた。

「やってるわ。でも‥‥‥‥‥もう辞めようかと思ってるの」

 その瞬間、テーブルクロスの皴は何事もなかったかのように消え去った。

「え。本当っすか、それって‥‥‥‥辞めるって‥‥‥‥」

「本当よ。詮索はしないで欲しいけど、まぁ、簡単に言うともう潮時かなって。ほら、私たちもう十九だし。最近のオタクたちって、中高生が好いみたいなのよ。‥‥‥‥本当はそれだけじゃないけど。あんたには関係ないし、もう言わないわ。はいお終い」

 ぱんぱんと手を叩き、『喉乾いたわ』とだけ言い残して台所に行ってしまった。

 その後、木下が紅茶片手に戻ってきてからは、その話題に触れるような会話は一切しなかった。本当に日常の他愛もない話。空白の三年間の出来事等々。明るい話題に花を咲かせてゆく。

「ねえ、そういえばあんた、あんたの友達の茶髪の癖っ毛の子、彼、今漫画で食ってるらしいわよ」

「え、そうなんすか‥‥‥。なんて題名っすか。ちょっと読みたいっす」

「嫌だ。教えない‥‥‥あんたがさっき恋バナ拒否したから」

 ‥‥‥やっぱ楽しい。こいつの前でそんなこと言えないけど。

時間を忘れて話込み、太陽もどんどん動いていく。

「え、漁師ってそんなことまでするの!? もしかしてあの爺って意外と凄い‥‥‥?」

「そりゃそうっすよ。いまじゃここのリーダー的存在っすもん。でも、俺も凄いっすから。あの沼の主、最近釣り上げたんすよ。それもひとりで! ‥‥‥ほら、ずっと昔に雪と一緒に挑んで二人で仲良くびちょ濡れになったじゃないっすか」

「ああ、あれね。覚えてるわ‥‥‥‥‥ま、それぐらい成長してもらわないと幼馴染として私が恥ずかしいわ」

 ‥‥‥雪ってば、ちゃんと色々覚えててくれたんすね。いつもはそっけないくせに。


「あ、もうこんな時間‥‥‥‥‥でも、もう少しだけ」

 木下がふと部屋の時計を見たときにはもう夕暮れ時になっていたが、途中で話の腰を折ることはしなかった。いや、できなかった。

 今まさに話題に上がっていることが、本日の最重要事項に当たるからだ。

 少しだけ声を低くし、内緒話をするように彼の耳元で囁く。

「あの爺、まだ例の怪しい趣味やってるのよね?」

 それが何を示すのかは、ここに住みついている宮島には聞かずとも理解できた。無言のまま頷く。

「そう、よかったわ。ちょうどお昼の時間帯だし、爺も帰ってくるころかしら。帰ってきたら捕まえて訊かないと‥‥‥‥」

「え。でも、本当に見つかると思ってるんすか‥‥‥‥‥‥その、天気を変える方法なんて」

 自分ではない誰かの為の運命の日。八月三十一日。その日の大雨を晴天に変えること。

 初めて聞かされたときは、宮島も半分冗談かと上の空で相槌を打っていたのだが、ここまで来るといよいよ信じずにはいられなくなったのだろう。身を乗り出して、早速玄関に向かおうとしている霧島の肩を掴んだ。そして、本気なのか、と言わんばかりの強い視線で覗き込む。

「なによ‥‥‥止めても無駄よ。それに、あの爺のことよ。ただ好きってだけでオカルト研究会なんてたてちゃって。今もユーフォ―の観測してるって言ったのあんたじゃない。聞いたら何かわかるかも‥‥‥‥‥わからなくても、退けないわ。もう」

「でも‥‥‥‥」

「邪魔しないで」

きっぱり言い切ると、木下は自分の肩を掴む手を払い席から立ち上がった。居間から出ようと数歩床を軋ませながら歩く。

「‥‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥うそ」

「‥‥‥‥‥‥ん? ど、どうしたんすか? 雪さん?」

 きっとこのときの彼女は、今まで幼馴染にも見せたことがないような顔をしていたのだろう。着信を受けた携帯片手に居間の扉の前で立ち止まり、すがるようにこちらを見てくる視線に宮島は何か嫌なものを覚え、怖くなった。

「ど、どうしよう‥‥‥‥‥‥」

 普段の強気な口調も、年相応かそれ以下の少女のものになっている。かろうじて釣り目から涙が落ちていないのだけが唯一の救いと言ったところか。

 ‥‥‥こいつの前で、絶対に泣けない。

 だが、そう思っている間にも視界を歪ませている自分がいることに木下は気づきだした。きっと見間違いだろう。その少しの希望にすがってもう一度液晶に視線を落とす。

 ‥‥‥嗚呼、もうっ、駄目。駄目よっ。

 けれども、やはり文面は変わっていなかった。

 希望は涙を堰き止めていた堤防と共に無残に打ち砕かれ、粉々になってしまう。

「心咲が‥‥‥‥‥死んじゃう」

 メッセージの相手は、彼女がつい最近連絡先を交換したばかりの男だった。機械全般に疎いタチなのか、病院でもたった一文打つだけでも慎重に液晶を触る姿は何度か目撃していた。


『霧島がきゅうきゅうしゃで運ばれた。でも大丈夫だ。俺が付き添いで乗ることになったからな。お前はお前のことをつづけてほしい。ほんとうに、大丈夫だ。これは事故なんだ。誰も悪くない。だから、お前も悪くない。きっと、大丈夫だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ』


「全然、大丈夫じゃないじゃない‥‥‥‥‥」


彼らしかいない、しんと静まり返った屋敷の扉が勢いよく叩かれたのは、正にその時だった。


 どうやら最近始まったボケのせいで鍵を忘れ、扉を叩くことしかできなかったらしい。屋敷はそれなりの広さがある為、開錠しに行ったときには、その人は既に疲れ果てた表情で地面に座っていたのだが、木下は構わず飛びかかり、再会のハグを交わしたあと、腕を引っ張って屋敷に迎え入れた。疲弊しながらも自分に気づくとすぐに朗らかな笑みを浮かべ、夕日を背負って鎮座するその姿が彼女には神像か何かに見えたのかもしれない。実際、その人との再会は木下に“神にしか成し得ない何か”を齎すものだった。

「ねえ、爺!」

 まるでよくなついた犬のように、近寄って言う。

「‥‥‥あぁ、ちょっと待っててな」

 それに老人も、犬猫をあやすように頭をぽんぽんと叩いて返す。彼は今日一日を共にした様々な道具たちを所定の場所に戻すため、広い屋敷の中を歩き回っていた。

 しつこく追いかけまわし、木下が服を引っ張る。それに待ってくれよと優しく返す老人。もしかしたら、この娘が今よりももっとわんぱくな少女であったときから、帰宅後はこのような絡み合いをすることが常となっていたのかもしれない。『ねぇ、じい! きょうはどんなおさかなとったの!』とか『ねえ、じい! つぎはいつあそんでくれるの?』とか。とにかくお話をしたくて袖を引く幼子の姿は想像に難くない。

きっとそのせいもあるだろう。慣れた様子で木下を扱う老人は、彼女が少しくらい声を荒げたところでさして気にも留めなかった。

 じたばたとふたつの足音が屋敷で繰り広げる不毛な問答。延長戦に延長戦を重ね、飽きた宮島が居間から自室へと移ったあとも続いていたのだが、流石に三十分もすると終息した。

「‥‥‥‥‥」

 片付けをあらかた終え、くつろいだ様子で居間の卓で茶を啜る祖父に木下は対峙するように立つ。ちゃんと彼がごくりと飲み込んだのを見てから、口を開いた。

「ねえ、爺‥‥‥‥‥再会話とかは、とりあえず置いておいて‥‥‥‥」

 声に敢えて覇気を乗せなかったのは。彼の喉が動いたのをしかと確認してから言ったのは。

「天気を変える方法、知っていたりしないかしら」

 頭のみならず、喉までもボケてきた祖父が自分の発言に驚いて茶を咽ないようにするため。

 もう唯一の頼みの綱となってしまった彼に、そんなことで、今ここで死なれては困ると思ったからだった。

 ‥‥‥お願い。お願いっ。

 言った後、彼女が硬く目を瞑り、机の上からは見えないところで両の手をぎゅっと握り締めたのも同じ理由だった。

 ‥‥‥もう、爺しか、いないのよ。助けて、助けてっ!

 目の前の老人でもいい。今ここで誰かにすがりついて泣きじゃくることができたのなら、どれだけ気持ちが楽になるだろう。しかし一瞬だけ考えて、木下はすぐに首を横に振った。唇を噛み、今にも震え出しそうな声も一緒に噛み砕く方を選択する。

 ‥‥‥もう十九なのに。

 もう十九だから。

 ‥‥‥泣けない。まして、子供みたいに泣きじゃくるだなんて。

 到底不可能だった。

「‥‥‥‥まぁ。ほれ。一旦、座ろうな。雪」

 老人は数秒、皴まみれの皮膚を引き伸ばして目を見開いていたが、次第にいつもの柔和な表情を取り戻し、まずは孫に椅子に座るよう促した。

「‥‥‥うん」

 何かを隠すように小声で言い、木下は至って従順にそのままぺたんと床に座り込む。

 座り込んでからも、しばらくの間は命乞いをする子供の如く黙り込んだままだったが、祖父が椅子から立ち台所から温かいお茶を持ってくると素直に受け取って飲んだ。

「実はね、爺‥‥‥‥」

 ぽつり、ぽつり、と今にも消え入りそうな声ではあるが、ゆっくりと話しだす。

 家族同然の仲間が、二人とも大変なことになっていること。救うために、どうしても天気を変える必要があったこと。いくら文献を探しても、見あたらなかったこと。最後に頼ったのが爺であったこと。

 賢くない頭の中から言葉を選び、震えないように慎重に声に落とし込んでいく。

 祖父は、始めは優しく相づちを打ちながら聞き、途中で木下が声を詰まらせてからは加えて背中もさすり始めた。その手から齎される温度。大仰せず、丁度よいくらいの慰めの言葉をかけてくれる気遣い。これらを前にして泣かないでいるのは木下には困難に思えた。今は大泣きしていなくとも、一秒後、二秒後の自分はどうだろうか。考えるだけでも、涙が伝ってしまいそうになる。

 ‥‥‥私はもう、子供じゃないのに。

 そうだ。もう、子供ではないのだ。お前はもう、違うのだ。心中であったが、改めて呟いてみると、その重みを再認識させられる。木下は自分が自分に与えた痛みを堪えるため、また唇を噛み締めた。

「そうかぁ。そうかぁ。‥‥‥‥‥よく、言ってくれた」

 老人の、落ち着きと深みが詰まった声が返ってきたのはそれからしばらく経ってからだった。生まれてこの方、七十八歳。ロクに学も持たず、ただ海を目指して生きてきた老兵。きっと、この言葉も頭の中で思案に思案を重ねて、やっとのことで紡ぎ合わせたものなのだろう。

「よく、話してくれたなぁ。わかった、わかった。よく、頑張った。‥‥‥イタズラや嘘でわしらを困らせてきたあん時の雪とは違う。ちゃんと、抱えてるんじゃな。成長、してるんじゃなぁ。それだけで、爺は満足じゃ。万々歳じゃ。じゃから、じゃからな‥‥‥‥」

「‥‥‥」

「じゃから。雪がそんなにも一生懸命なら。‥‥‥わしらも、協力は惜しまない」

 木下の口角が少しだけ上がり、瞳に光が戻りかける。無言であるが、祖父を見上げた目線には『ほんとうに?!』と声が乗っていた。

「ああ。本当だとも‥‥‥‥‥」

 しかし、そう言ったあとに、老人は初めて朗らかな表情を崩した。一瞬だけ、苦虫を噛み潰したような顔が入り混じる。

 ‥‥‥ありがとう。やっぱり、爺は最高ね!

 次に言おうとした言葉は、すぐに喉の奥に引っ込んでしまった。

「‥‥‥‥‥協力、してくれるのよね? 天気を変える方法、教えてくれるのよね??」

 代わりに出てきた声は、木下自身も驚くほど震えていた。まるで残酷な自分の未来を悟ったかのような、震え。それが、またしても彼女を自傷させてしまう。

「大丈夫。大丈夫。わしらも、一緒に探すからな。だから、大丈夫じゃ」

 木下にはその『大丈夫』が大丈夫には聞こえなかった。

 ‥‥‥だって。

 暗に言っているようなものだ。『天気を変える方法なんてない。ダメもとで今から探すしかない』と。

「それって‥‥‥‥どういうことよ。つまり、どういうことよ!? ここまで私に言わせておいて、慰めておいて、何が言いたかったのよ!」

 ‥‥‥遅い遅い遅い。今から探すなんて、きっと、間に合わない。

「そう、じゃな。‥‥‥つまり、そういうことなんじゃ。でも、可能性はゼロではないじゃろ。わしら、オカルト研究会はメンバー総動員で、協力を‥‥‥‥‥‥」

 ‥‥‥遅い遅い遅い。言って欲しいのは、そんな言葉じゃないのにっ。


「もうっっ!!!」


 直後にぱりんっと、自分の怒りの叫びをも掻き消す高音が響いたことに気づいた。木下は思わず目を瞑り、呼吸さえも止める。

 ‥‥‥え、もしかして。わたし。

 ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと瞳を開いたあとの視界。いつの間にか脚は立ち上がっていて、先程まで手元にあったはずの湯飲みの感覚は消失していた。

「‥‥‥‥‥‥」

 どうしていいかわからない。という表情をしていたのは、何も木下だけではなかった。彼女の向かいに座り、たったいま、己の額にぶつかって砕けた湯飲みと、着衣についた熱々の汚れを見つめている彼だ。

 ‥‥‥あんた、あんた。あんた。

 もしここで『人に物を投げるなんて。なんてやつだ!』と叱ってくれたなら、木下がこうも切なくなることはなかっただろう。

 ‥‥‥茅乃。心咲。爺だって。ぜんぶ、私にとって大切な人なのに。

 大切な存在を、守ろうとしていた自分が、いま、一人傷つけた。

 ‥‥‥ねえ爺。なんで。あんた。

 確かに、傷つけた。それだけは間違いない。この二人きりの閉鎖空間で。自分が握っていた湯飲みだけが、飛んでいったのだから。

 ‥‥‥なのに。なのに。なのに。

 怒ってもいいはずだ。怒鳴ってもいいはずだ。睨むぐらい、するべきだ。

 けれども、彼女の目の前の老人はすでに驚いた表情を崩し、また朗らかな顔を浮かべていた。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥すまんなぁ。すまんなぁ‥‥‥‥‥‥辛い話、させるだけさせておいて。何もできない‥‥‥頼りない、情けない、この老人を許しとくれ。知ってるじゃろ。わしは昔から石頭なんじゃ」

 傷つけられたにも関わらず、笑っている。眉を困ったように下げ、瞳に弧を一線描かせて。仏のように笑っている。きっと今も額に飛び散った茶は熱いだろうに。

 ‥‥‥ああ、もうっ。

「‥‥‥‥‥っ‥‥‥」

 木下は。

「‥‥‥‥‥‥‥ぅっ‥‥‥」

 木下雪は。

「‥‥‥‥‥‥‥‥うぅっ‥‥ぐっ」


 もう、色々と限界だった。


 ‥‥‥最低。私。

 祖父を置いたまま、逃げ出すように居間を飛び出し。

 ‥‥‥子供みたい、私。

 長い廊下を、足をもたつかせなが走り抜け。

 ‥‥‥馬鹿みたい、私。

 靴下のまま。

 ‥‥‥笑われるかな、晴人に。

 気がついたときには、玄関の扉を、突き飛ばすように開けていた。




「‥‥‥‥‥‥‥」

 そのときの彼女は一体何を思っていたのだろう。

 後悔か。逃避か。最低か。

 半笑いを浮かべ、手を伸ばしていた。

 囂々と燃え盛る夕の空に。


「ちょ、ちょっと、雪さん!」


 矢の如く放たれた、よく通る声。突然の背後から呼びかけに、木下はびくりと体を震わせた。

 恐る恐る後ろを振り返る。

 彼は玄関でドタバタと砂埃を立てていた。ようやく靴を履き終えると、謎の雄叫びを上げながら砂埃を裂いてこちらに駆けてくる。

「来ないで。来たら殺すわよ」

 顔を隠した。こんな泣きっ面、見せられるわけがない。

「殺すのは困るっすけど。‥‥‥その、さっき俺の部屋の窓から見えたっすから、雪さんの泣き顔。隠さなくていいっすよ」

「最低最悪、馬鹿なのあんた!」

 自分でも滅茶苦茶なことを言っているなと木下は思った。馬鹿なのは、間違いなく家を飛び出した自分で、追いかけてきてくれた彼には、他に伝えるべき言葉があったのに。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿。本当に、」

 ‥‥‥馬鹿、私。

 勿論、そんなこと言えない。今の状況もどうしようもできない。

 悔しい、悔しい、悔しい。情けない、情けない、消えたい‥‥‥


 悪魔の悪戯が判明したのは、その時だった。


 自分の弱さが嫌になって唇を噛み、『見ないで!』と顔を背けた時、

 木下はあるものを見た。“見た”というよりは“吸い寄せられた”に近い。

 ‥‥‥あれって、もしかして。

 屋敷の門に支えられて立っている逃亡道具。夕焼けを反射して輝く赤色のロードバイク。昔、一度見たことがあった。あれは、宮島の私物だ。

「もうっ。知らないっ」

 木下はそう言葉を吐くと、足元に転がっていた鉢植えを片手で軽々と持ち上げ、宮島目がけて思いきり投げつけた。

「え────」

 彼女の投擲は綺麗な軌道を描いて見事命中。宮島は盛大に後ろに吹き飛ばされ、屋敷の扉に背中を打ちつけた。

 ‥‥‥もう、どうにでもなればいいわ!

 木下は屋敷の門まで全速力で走り、成人男性の身長程の高さのそれをよじ登って突破した。

 いよいよ、本当の外の世界だ。

 鳥籠から放たれた鳥の如く。

 牢屋から解き放たれた囚人の如く。

 彼女は自由な外の世界を前に、胸の高鳴りを感じた。

 この解放感が清々しい。もう、どうにでもなれと、全てを投げ出した後は、身軽な体しか残らない。何所へだって、行ける。

「追ってきたら殺すわよ!」

 幸い、ロードバイクに鍵は掛かっていなかった。鉢植え攻撃から復活して、こちらに走ってくる宮島の姿は見えていたので、木下は急いで茜色の銀輪に跨った。

 ロードバイクに乗るのは初めてだったし、サドルの高さも当然合っていない。

 だが、そんなこと、関係なかった。

「待つっすよ。雪さん、何所行くつもりっすか」

「言うわけないでしょ。‥‥‥遠くの国でおばあちゃんになるまでのうのうと生きるから。さようなら、鍵を掛け忘れたお間抜けさん」

 宮島に手を振ってから、木下は夕日を目指して発進した。風に靡く真黒の長い髪が、夕焼けを背景によく映えている。

 せめて今日ぐらいは。彼女に許された数時間限定の、現実逃避だった。


 黒髪の麗しき逃亡者は、屋敷の前に広がる坂道をロードバイクで下り、通りに出た。そのまま通りに沿って進むと、ガードレールの立つ急なカーブが見えてくる。カーブに差し掛かった所で、一旦停車した。

 ガードレールの向こう側で、海に浮かぶ茜色の太陽が手を振っている。

 さぁ、早く。こちらにおいで、と。

「今、何時かしら‥‥‥」

 相棒に跨ったまま、木下は小さく呟いた。

 屋敷を飛び出す前に居間の時計を確認していたから、大体の時刻は把握しているはずなのだ。

 では、何故彼女は問うたのだろう。

 答えもまた、彼女の口から紡がれた。

「朝日、みたいね」

 汗ばんだ額、一日過ごして疲れ切った身体。それらを除けば、自分の眼前の景色は朝日としても映るのだろうな、と思ったのである。

 海からの風が涼しい。木下は少しの間、涼風に自分の髪を遊ばせてやった。

 まだ、夕日は遥か彼方。

 木下は一つ息を吐いてから、ロードバイクを再発進させた。

 ────嗚呼、自分はなんてちっぽけな存在なんだろう。

 夕の風を肌に掠めながら、木下はふと思った。例えば、ある砂浜で男女の美しい物語が紡がれているとしよう。恐らく、ラストシーンでは男女は波打ち際で身を寄せ合い、彼方の水平線を眺めながら愛を囁き合うのだろう。これはまだ小さな世界だ。では、海を挟んだ真反対にも大陸があり、砂浜もあったとしよう。その砂浜には失恋に心を痛める少年がいた。波打ち際にちょこんと座っている。彼の足を撫でては離れていく波や、無限に広がる水平線は少年に言いようのない悲しさを与えるだろう。こうなれば、もう大きな世界だ。

 木下はロードバイクを走らせながら、もう一度ガードレールの向こう側に眼を向けた。

 自分が今見つめている先にも、誰かがいるのだろうか。仮にいたとして、彼もしくは彼女は自分の気持ちを理解してくれるだろうか。

 ‥‥‥理解ってくれたらいいのに。

 慰めの言葉の一つや二つ、かけてくれたら嬉しい。だが、そううまくはいかないだろう。まず言葉が違う。意思疎通が困難だ。それに、もし自分が彼彼女の立場だったらどうだ。水平線の彼方にいるかもしれない赤の他人の気持ちを理解することができるのか。否、自分のことで精一杯で無理だ。

根本として、個々の感情は万人が理解できるものではないのだ。

 ‥‥‥でも。

 でも、だからこそ優しい。世界の冷たさは、優しさに直結する。互いに非干渉、不可侵。木下雪という存在を認識していない人たちからしたら、彼女が彼方の地で何をしようが、何を思うおうが、関係ないのだ。嫌がりもしないし、好みもしない。

 まさしく、無知・無関心の優しさだ。

 ‥‥‥この世界に生きる何十億人の内の一人。それが私。泣いたって、ほとんどの人は知らないわ。

 この思想が、彼女の現実逃避に拍車をかけるのだった。


 逃げる者がいれば、追う者が必ずいる。

 黒髪の逃亡者、即ち木下雪を追っていたのは、少し色味の異なる常闇の髪を持つ男だった。

 歳は十九。もう、少年ではない。

「ふぅ‥‥‥ひぃ‥‥‥‥はぁ、はぁ。‥‥‥くっ」

 木下を追って屋敷から飛び出した宮島だったが、ロードバイクと生身の人では勝負にすらならなかった。今現在、彼女が何処かを爽快に駆けているであろう時。宮島は一人熱の籠ったアスファルトに膝を突いていた。息はとても荒い。

「あれ‥‥‥高いんすから‥‥‥‥本当に‥‥‥‥‥‥‥馬鹿っすね、雪さん」

 呼吸が苦しくなって、ついには両手も地面に突いてしまった。汗が頬を伝い、アスファルトにひたりと落ちる。全身が熱すぎて気温がよくわからないが、アスファルトに触れた部分がほんのりと温かい辺り、外気温は全速力ダッシュ後の体温よりも高いようだ。

 熱さのせいで思考が鈍り、誰を、何のために追いかけているのかわからなくなりそうだった。

 だから、宮島は叫んだ。

「俺はぁ! 馬鹿なあいつをぉ! 変な目に遭う前にぃ! 見つけないといけないんすぅ!」

 ‥‥‥自覚、ないんすかね。本当に、馬鹿っすよ。

 宮島の頭に浮かんできたのは、紫黒の長髪を靡かせ、すんっと涼し気な顔で見下ろしてくる“雪”という名を与えられた美女。彼の持つ彼女の印象が『見下ろす』というアングルで反映されている。

 ‥‥‥変な奴に、絡まれてないといいっすけど。

 木下は、中身こそ子供っぽいが、外身には妖艶という言葉に相応しい美しさを宿していた。

 ‥‥‥嗚呼、心配っす!!

 男なら誰だって、見つめられたら頬を赤らめてしまう。そんな女なのだ。彼女は。だからこそ、悪い大人に集られていないか心配だった。見つけて、連れ戻さないと、と強く思えた。

 宮島はギリリと奥歯を噛み締め、立ち上がる。

 ────初恋の相手は、必ず守り抜く。

 そう、自分自身に言い聞かせた時だった。


 天使の祝福が舞い降りたのだ。


「おっ。晴人やないか。どないしたん。物凄い汗やで」

 急に隣から聞こえてきた馴染のある声。驚いて首を捻ると、真横には、スレスレを攻めて乗り付けられた原付バイクがあった。

「おっ、雪斗。いいところに来たっす」

「は?」

 雪斗と呼ばれた彼は、宮島より少し身長が高く、海の色に似たプルシアンブルーの髪を肩まで伸ばしていた。

「ちょ、ちょっ。何のつもりや‥‥‥おい」

 日に焼けた肌や、ヘルメットの代わりと言わんばかりにちょこんと付けられたハチマキ、足から胴までをすっぽりと覆う合羽からは、漁師らしい風体を感じさせるが、彼は断じて漁師ではない。

 宮島と同じ、まだ漁師になる前の『弟子』である。

「俺の言う通りに運転頼むっすよ!」

 嫌がる雪斗の手を払い、何とか原付に跨ることに成功した宮島。

「いざ、出発っす!!!」

 彼の一声が、男二人の小さな旅の幕開けを告げた。


 雨蛙通り。

 潮背の街を貫く其の大通りは、かつて水陸両用車の入水用に敷かれた道路を拡張させる形で発展を遂げたという過去から、その名が冠せられている。

 全長四十キロメートルを誇る、正真正銘の直線道の始点は、街の中心。終点は、海。その間に通りに立ち並ぶ古風な建物の数々や、終点において海に完全に沈んでしまう道路は、国内外問わず多くの人々を魅了し、今や街の重要な観光資源になっているという。

宮島たちの旅路が始まった頃、木下はそんな通りにひっそりと建つ小さな商店の前にロードバイクを停車させていた。

 店の名は、黒屋。時代の流れと共に潮背街でも失われつつある駄菓子屋のような見た目の店だ。

「‥‥‥‥」

 木下は相棒に跨ったまま考えていた。店に入るか、入らないか。

屋敷を飛び出していった自分を、息を切らしながら追いかけてくる宮島の姿は想像に容易い。

 ─────入らないべきだ。

 夕日が沈んでしまえば、ここまで来た意味がない。

 ─────入らないべきだ。

 そもそも、今欲しいもの等ない。

 ─────入る必要がない。

 ‥‥‥嗚呼、なんか面倒だわ。

 ─────入ってから、考えよう。

 急に考えることを放棄した彼女は何を血迷ったのか、寄り道を決定してしまった。

 嗚呼、彼女の相棒にもし意志があったとしたら、きっと止めていただろうに。

「‥‥こ、こんばんは‥‥‥‥‥‥あっ」

 店内は、夕方ということもあってかかなり暗く、足元に散乱している段ボールに時折躓きそうになる。

「‥‥‥うっ‥‥‥‥‥きゃっ‥‥」

 靴を履いていないから、硬い物を踏むたびに足に激痛が走る。少しでも商品棚に手が触れると小物が崩れ落ちるような音が響く。

 それでも、何かに惹かれるまま、木下は最奥に進んでいった。


「やぁ、いらっしゃい。‥‥‥歓迎はしないがね」


 そう、しわがれた声が聞こえてきたのは、進み始めて数分後のこと。

 忽然と姿を見せた得体の知れない老婆に、木下は思わず、

「あんた、誰よ‥‥‥名乗りさない」

 と言ってしまった。

 勝手に店に入ってきておいて、『名乗りさない』なんて。自分で言いつつ、木下は馬鹿らしくなって笑いそうになる。

 ‥‥‥これって、絶対変人だと思われるわよね。はぁ。私、疲れてるのかしら。

しかし、老婆はというと。

「‥‥‥‥‥わたしゃ、商人さね。名はとっくの昔に捨てたさ」

 皴だらけの手で紫の灯のランタンを握り、カウンターらしき物に肘を突いて煙草をふかしている。全く気にしていない。

 老婆は紫煙を吐き終えると、煙草を灰皿に押し付けた。

「ヘビースモーカー‥‥‥‥」

 老婆の手を追って自然と灰皿に目がいってしまい、自分でも言うつもりのなかった言葉が漏れた。しまった、と口を塞ごうとしたが、その手は途中で止まる。おまけに思考も止まる。

 木下は、突然老婆が浮かべた悲しそうな顔に意識を全て持っていかれたのだ。

「‥‥‥そうさ、わたしゃ、吸うのをやめられないクソ人間だよ」

 言いながら、死体の山の如く吸い殻が積もった灰皿をどけて、老婆はカウンターの下から新たに一箱引っ張り出してきた。

「クソ人間だから、こんなことをやってるのさ」

 煙草の箱を木下に見せ、力なく笑う。

「な、何‥‥‥?」

 その箱にはアルファベットで何か綴られているが、読めないので英語ではなさそうだった。フランス語か、スペイン語か、スワヒリ語か‥‥‥。

 首を傾げ始めた木下に、老婆が言う。

「これは、遠い国から輸入した一品。こいつぁ、凄くてな。煙に呪いの成分が含まれているのさ」

「呪い?」

「そう、呪い。小娘を引き寄せたのも、呪いの力さね。呪いは‥‥‥まぁ、知らなくていいかね。それより、ここまで来れた褒美に、小娘には何かやろうじゃないか。奇具販売店、黒屋の品揃えは、世界一だよ。好きな物を選び」

 きょとんとしている木下を一瞥してから、老婆は目を閉じ大きく息を吸った。

「開店~!」

 その口から発せられたのは、呪文でも詠唱でも何でもない、ただの単語。

 だが、その瞬間。店の天井に幾つも吊るされていたランタンの中に茜の灯が宿った。

 瞬く間に、店内が優しい光で満ちる。

「え、え? ‥‥‥ちょ、ちょっと、一体、どういうことかしら。言ってる意味が‥‥‥」

 今、目の前で起こっていることが全く理解できず、木下は愕きと疑念が混じった声で老婆を刺した。

「‥‥‥‥‥ったく。感の悪い娘だね。直にわかるから、大人しくしてな」

 老婆は不機嫌そうに言い放つと、木下を置いてその身一つで商品棚の方へ行ってしまった。

 ‥‥‥あ、ちょっと。

 少し手が触れたぐらいで小物が崩れ落ちる世界だ。か弱い老人を一人で行かせてしまっていいのだろうか。若者として、助けるべきではないのか。

 否、いいはずがない。勿論、助けるべきだ。

木下は腕っぷしには自信があったので、すぐに自答することができた。

「‥‥‥‥‥っ」

 ‥‥‥あれ、どうして。

 しかし、何故だろう。自分の答えは出たはずなのに、木下は一歩前へ足を出すことは愚か、老婆に声を掛けることすら叶わなかった。

「っ‥‥‥」

 老婆の『大人しくしてな』という言葉が呪いにも似た嫌な重みをもつ。

その重みこそが彼女の声帯を締め付け、足底を地面に縫い付けるのだ。

 至極簡単に言ってしまえば、木下は、ここになって少し怖くなってきたのだ。アイツに従った方がいい。彼女の内なるナニカが囁く。

 ここは、老婆の御前なのだ。

「‥‥‥‥‥」

 待つこと数分。無事、老婆が木下の元に戻ってきた。目視できる範囲での外傷なし。足を引きずっている様子もないし、腕を痛めてもいなそうだ。

 木下は安堵の吐息を漏らした。彼女の心配はどうやら杞憂だったらしい。

「持ってきたよ。‥‥‥ったく。最近の若者は老人への気遣いがなってないね。ひどいひどい」

 黒色の瓶と段ボール箱を携えて帰還してきた老婆は、不機嫌さ全開で木下と対面した。

「悪かったわね‥‥‥‥‥で、それは何かしら」

老婆が歩くたびにじゃらじゃらと中身が蠢く箱を、木下が心底不気味そうに見つめる。

「‥‥‥‥‥」

 木下の前を無言で通り過ぎ、老婆はカウンターにどすっと両手の荷物を置いた。

「商品さ。‥‥‥お勧めを持ってきてやったから、さっさと選び」

 ‥‥‥お勧め?

 疑問符を浮かべつつ、木下は恐る恐るその中を覗く。

「な、何よこれ‥‥‥!」

 彼女がそう言うのも無理はない。むしろ、控えめなぐらいだ。

 木下は段ボール箱の中に積まれている物と、黒色の瓶の中に詰められている物を一つずつ取り出し、手の平に乗せる。

「これが商品って‥‥‥‥‥」

 そこら辺に落ちていそうな石ころと、メーカーの名前が印字された薄汚れた王冠。

 ‥‥‥わけわかんないわ。一体全体どういうこと?

「さぁ、早く」

 何かを察したのか、老婆が急かすように言う。

「え、でも。これって‥‥‥」

「ちゃんとした商品さ。魔法の力が込められているからね。‥‥‥例えばこの金色の王冠。金運アップの効果があるよ。お金に困ってないかい?」

「え‥‥‥‥‥‥こ、困ってるわよ。恥ずかしいけど、本当に困ってる」

 今思い返せば、全ての始まりはそれだったのだ。

 金がない。グループ解散。ドルフェスへ出場。カヤの救済。そして、今の自分。

 点と点が、線で繋がる。自分の血で、どす黒く染まった運命の線だ。

「そうかい。じゃあ、これを持っていきな」

「‥‥‥‥‥‥‥ほんとよね? これ、持ってれば、全て解決するのよね?」

 ただ、すがりたかっただけなのだ。

 ずっと自分の中で燻っていた何かを、解消したかっただけなのだ。


『茅乃ちゃんを、助けましょう』


 最年長の自分が何もできないなんて、情けなくて死にそうだった。

「ねぇ。何か言ってよ! これで、全て‥‥‥うっ、ん」

 ごくりと、喉奥からこみ上げてくる熱いものを呑み込み、木下は押し黙る老婆の胸倉を掴んだ。ただ、頷いて欲しいだけなのだ。


『霧島が救急車で運ばれた』

 どうしてよ、心咲。私より先に死んだら許さないんだから。

『皆一緒に殺される。海の怖さを知らない愚か者のせいで』

 どうしてよ、爺。そんな酷い言葉、あんたの口から初めて聞いたわよ。


 ‥‥‥全て、解決すればいいのに。


「ねぇ! 何か─────」

 老婆は面倒くさそうに溜息を吐いてから、喚く娘の口を皴だらけの手で塞いだ。

「うるさいね。するさ。解決、するさ」

 老婆の目に光はなかった。彼女もきっと、自らの血で染まった運命の線を持っているのだろう。

 ‥‥‥こっちだって、吐きたくて嘘言ってんじゃないんだよ。生きる、ためなのさ。

 どす黒い血を見飽きた人間の末路が自分なのだと、老婆は理解していた。

 ‥‥‥あんたは特に危険だ。まだ若いんだから、血迷ってもこっち側に来ちゃいけないよ。

 だから、声音を少し柔らかくして目の前の娘に言う。

「‥‥‥でも、諦めることも、時には大事さね。クソ人間には、なっちゃいかんよ」

「嫌よ‥‥‥‥‥諦め、たくない。‥‥‥そんな言葉よりも‥‥私に、力を、勇気を頂戴よ」

 娘の瞳から、ぽろりと雫が落ちた。老婆は驚いて、目を見開く。

 たった一度を除いて今まで、人を騙して傷つけることも厭わなかった老婆だったが、この日もあの日と同じように、眼前の娘を見て何故か同情心という稀有なものが芽生えてしまった。

「‥‥‥‥‥ちょっと待ちな」

 そう言って、老婆はカウンター下をガサゴソ探り始める。

十秒もしなかった。ごとり、と重厚な物が木下の前に置かれた。

「‥‥‥」

 ぱちりと木下の瞳が瞬く。

涙の膜が張られたその眼に映るのは、手の平程の大きさの白銀の天秤だ。右の皿だけ下がっているのは、左の皿に本来あるべき物が乗っていないからだろう。

「こいつはな。ある神社で千年もの間祀られてきた、神様の一部なのさ。‥‥‥気休めにしかならないかもしれないが、持っていて損はないね」

 老婆がソレを右の皿から摘まみ上げると、空だった左の皿が下がり、天秤は釣り合いを取り戻した。

「小さいから、無くさないように麻紐を通すのを勧めるよ」

「‥‥‥‥‥‥‥これは、本当にご利益があるのよね」

 老婆から自分の手の平に乗せられたソレを見て、訝し気に眉をひそめる。

「あるさ」

 老婆の目は弧を描いていた。

「そいつには名前があってな‥‥‥‥‥‥‥奇跡の貝殻っていうのさ」

「奇跡の貝殻?」

「ああ。‥‥‥この響き、懐かしいね。あれは何年前だったかね」

老婆は最近剥がれつつある記憶を思い返し、他の誰のためにでもなく、自分のためだけに独り言を紡ぎ始めた。


 あれは、五年前の夏の日だったかな。

 わたしゃ、初めて会った小娘に、何でだか“可哀想”という気持ちを抱いちまったのさ。

 生まれて初めての感情だったから、そりゃ、戸惑ったもんさ。

でも、あん時のわたしゃ、悪くねえなって思えたんだな。

そんで。

 迷って、悩んで、抱えて、考えて。

 あの子にソレを渡したのさ。


 老婆はソレを受け取った時の娘の顔を思い出して、自然と表情が綻んでいくのに気づいた。

「馬鹿だねぇ。わたしゃ‥‥‥」

 ──────リン。

 彼女がぺこりと頭を下げた時、耳通りの良い綺麗な音が店内に木霊した。

 それから、頭を上げて、満面の笑みで言うのだ。


『勇気と力をくれて、ありがとうございます。私、頑張ります。だから貴方も、頑張って!』


 老婆の心の深層に届いた、初めての声だった。

「こげ茶色の髪の、綺麗な子だったねえ。‥‥‥あんたも負けず劣らず美人だから、わたしゃ、美人に弱いのかもしれないね」

 名も知らない娘に、こうも感情を揺さぶられるとは。

 老婆は、瞳に現れた薄い水の膜を隠すべく、ゆっくりと瞼を下ろした。


「‥‥‥‥‥‥」

 まるで涙の如く、汗が頬を伝い、顎で滴り落ちる。

 原付バイクに揺られる彼の人、宮島晴人は、額に浮かんできた玉の汗を面倒くさそうに袖で拭った。

 ‥‥‥もうっ。どうしてくれるんすか!!

 彼は今、『憤慨』していた。

 簡単にああ言ってしまった自らの甘さへの『嘆き』が二割。

 あそこでああ言いやがったアイツへの『恨み』や『怒り』が八割だ。

「ちっ‥‥‥‥」

「まだ怒ってるんか。ほな、飴ちゃんでも食べるか?」

「‥‥‥‥‥‥」

 “もう子供ではない”宮島が“生まれたての子供”のように怒りを露にすること。

 それは、余程のことがない限り、起こり得ない。

 ‥‥‥雪斗は、本当に余計なことしかしないんすから!!

 そう、余程のことがあったのである。

 彼はまだ、彼が思っているより、色々な意味で“子供”だった。

 あれは、某街にある某通りの、信号待ちでの出来事だった。


「まだっすか? この原付遅いっすね」

 遠くに見える夕日を横目に、宮島は前の運転手に口を尖らせて言う。

「文句言うな。勝手に乗ったのは晴人なんやで。‥‥‥‥‥‥そうや、晴人。お前、雪のことがすきなんやろ。顔でバレバレや」

 退屈そうに信号待ちをしていた雪斗は、ふと昔のことを思い出し、息を吸うようにそんな事を話し始める。『バレバレ』と言いながらも、言った本人はまだ確信はしていなかった。彼にとっては、真実か誤解か等どうでもよく。本当にただ、暇つぶしになりそうな話題が欲しかっただけなのである。

「そうっす。すきっす」

 だが、『弟子』仲間の彼は、なんの躊躇いもなくそれに頷いてしまう。

「は!?」

 自分で訊いておきながら、雪斗は驚きのあまり、アクセル全開で交差点の中に突っ込みそうになった。

「なんすか、悪いっすか」

「いや、悪くはないんやけど‥‥‥その、親方がいい顔せんとちゃう?」

 彼がこの恋に驚愕するのには、それなりの理由があった。

「あんなの、聞いてないフリっすよ」

「いやでもな。弟子の間は恋愛禁止って、親方何回も言ってるで。聞いてないフリなんてできんやろ」

「じゃあ、止めるっすか。雪斗は、俺を止めてくれるんすか?」

 声音が少しだけ鋭くなった。雪斗は、後ろで不満そうに唇を噛む宮島が想像できて思わず吹き出す。

「止めるわけないやろ。おま、晴人。俺をそんな風に見とったのか?」

「でも、そう訊いてきたってことは‥‥‥って誰でも考えるっすよ、普通」

 宮島の言う事は最もだった。自分にわざわざそう訊いてきた彼の意図は何なのか。宮島が真っ先に弾き出した答えが、『忠告』なのだ。

 だが、彼は違うと言った。

 『忠告』でないのならば、雪斗は一体何をしたいのか。

「悪いな。心配させてすまんな‥‥‥」

 雪斗は歩行者信号を見つめた。もうすぐ、信号が変わりそうだ。

 ‥‥‥ええ暇つぶしにはなったな。

「‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

 雪斗は、そこから一言も喋らず。終いには、満足げに鼻歌を歌い出した。会話から完全に離脱している。宮島はたまらなくなって、自分から口を開いた。

「ちょっと。終わりっすか? 何か、ないんすか?」

「え、何か?」

 全く。果て何のことやら。とでも言いたげな顔で、雪斗は後ろを振り返った。

 雪斗からしたら至極当然の反応ではある。仲間の恋模様を聞いたところで、自分は咎めるつもりも、告げ口するつもりもない。あとは、ハッピーエンドを願うのみなのだ。

 だが、依然として宮島は何か言って欲しそうだ。

 ‥‥‥何やこいつ。何が望みなんや。

「‥‥‥‥‥‥」

「あ、ちょっと。雪斗、前見るっす」

 ちょうど信号が変わったのだ。周りの車は既に発進している。

「‥‥‥‥‥‥」

「おーい。聞いてるっすか? 雪斗」

 目を固く閉ざして考え込んでいる運転手の肩を叩く。

「わかってるわ。でも、今、考えとるんや。ちょっと待ち」

 彼は宮島の手を払い、さらなる熟考を始める。

「え、いや。でも。後ろにもいるっすから」

「うるさいって言うとるねん! 黙っとけ」

「言われてないっすけど‥‥‥」

 だが、それ以上は宮島も何も言わなかった。彼はこういう性格の人なのだと、長年の付き合いを通して理解していたからこその諦めだ。

 ‥‥‥でも。

 もし、彼女ならどうしていただろうか。と、ふと渦中の女性のことを考えてしまう。

 ‥‥‥雪さんならきっと。


「ちょっと! 何処のどいつだか知らないけど、皆困ってるじゃない! さっさと行きなさいよ!」


 ‥‥‥嗚呼、そんなこと、言いそうっすね。

「って、はぁっ!?」

 宮島は急に脳外から吹っ掛けられた声に驚き、キョロキョロと視線を動かす。

「‥‥‥‥‥‥‥‥あ、あんた‥‥‥どうして、ここにいるのよ」

 相手もこちらに気が付いたようだ。

 彼女は、対向車線のさらに奥の歩道をロードバイクを手で押しながら歩いていた。

「雪さん、こそ‥‥‥」

 二人の視線は、車道を挟んでゆっくりと交わり合う。

 まるで、数年振りに再会した恋人たちの見つめ合いだ。

 先程までけたたましくクラクションを鳴らしていたドライバーも、舌打ちをしてその手を止めてしまうほど。

 彼らを応援するべく、信号機が桜色に灯りたくなるほど。

 最高の味付けのために、夕日がさらに囂々と身を焦がすほど。

 熱い熱い視線の送り合いだった。

「あ、そうや!」

 しかし、その何かが始まりそうな空間を変異させてしまうのが。


「つまり、俺が晴人と雪の月下氷人を務めればええってことやね!! そんなもん、任せときって。俺は、仲間の恋愛成就のためなら、身を粉にできる男やで!」


 南部雪斗という男なのだ。



   ◇


 目の前の道が果てなく何処までも続いていればいいのにと男は思っていた。彼の人生を原付バイクの旅が食いつくし、死に際に後悔することはあるだろうが、これから待っている『羞恥』を人生という尊きものに刻むことの方が、よっぽど辛く耐え難いと感じたのだ。

 しかし、希っても、無駄だった。

 原付バイクが緩やかな減速を挟んで、完全に停止した。

「着いたで」

 時間は進み続ける。止まってくれない。止まるのは、やはりバイクだけなのだ。

「‥‥‥‥‥‥」

 旅を共にしてくれた運転手に礼も言わず、彼は不貞腐れた顔のまま原付から降りた。

 夕日に見守られた世界に、二人の男の影が落ちる。

「雪が来るまで、どっかいくなよ、晴人」

「‥‥‥‥わかってるっすよ」

 そう言いつつ、砂浜に沈む自分の足に視線を落としている宮島と。

「綺麗やな。一日の終わりは、夕焼けやな」

 海上に浮かぶ茜色の珠を眩しそうに見つめる雪斗。

 彼らはまるで、その時を待っている死刑囚と執行人だ。

「‥‥‥もう機嫌直してくれもええんとちゃう?」

「‥‥‥‥‥」

「‥‥‥やけどな、ええ機会だとは思うんよな」

「‥‥‥‥‥」

 彼らの間に事務的な会話以外は決して発生しない。雪斗が会話を振っても、宮島が尽く薙ぎ払ってしまうのだ。

「おい、お前な‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥」

 最後の晩餐もなく、教誨室に通されることもなく、見せしめと言わんばかりの海辺での執行を待っている宮島は、憐れとしか言いようがない。

 潮風だけが、彼を慰めている。

「‥‥‥‥‥」

 もう、彼の固く結ばれた唇が緩く解かれることはないように思われた。

「‥‥‥‥!」

 だが突然、それは訪れた。

 背後から響く、キキッとブレーキがかかる音、ザザッとタイヤが滑る音、ガタッと何かを立てかける音。

 宮島の唇が、一度小さく開かれ、閉ざされる。何度か瞬きをして、頬を桜色に染めた。

「来よったな」

 ようやく二人目の死刑囚が到着したのだ。間もなく執行の時だ。執行人は二人の邪魔にならないよう、宮島の肩を一度叩いてからサッ、サッと軽快な足取りで砂を踏んで何処かへと姿を消した。

 彼の足音が完全に消え去った後、今度は一歩一歩をしっかり踏みしめるような、簡単に言えば、偉そうな足音が近づいてきた。些細なものだが、それを聞くだけで、不思議と性格もわかってしまう。

 宮島はこの足音の主が誰だか、確信していた。

 その相手もまた、後ろ姿だけで宮島晴人という男を認識することができたのだろう。

 宮島が振り返らずとも、足音はすぐ隣で止まり。潮風に揺られた彼女の髪が彼の肌を優しく撫で始めた。

「‥‥‥来たんすね、本当に」

 語るのは自分から。こういう場面では、第一声を互いに譲り合って沈黙が続きがちだ。気まずさが体を刺すような、痛い沈黙が続くのは、双方にとって良いことではない。むしろ、関係にさらなる悪影響を与えかねない。宮島はそれがわかっていた。

「来るわよ。雪斗が逃げるなっていったから、当然でしょ。‥‥‥それに、私も話したいことがあったし」

「そうっすか。俺も、話したいことがあったっすから丁度よかったっす」

 恐らく。いや、確実に、木下は雪斗のあの言葉を聞いてしまっている。もはや、逃げ道等ないのだ。宮島はごくりと粘り気のある唾を飲み込んだ。

 ‥‥‥言わなきゃっすよね。

 彼はここで青春を賭けたギャンブルをすることを強いられていた。勿論、それが親方に禁止されているのは承知の上で。

 宮島は海の空気を大きく吸った。

 ‥‥‥やるっすよ、俺。

「「その‥‥‥!」」

 二人の声がぶつかる。ぶつかって、相殺された。

「あ、先いいっすよ」

「あんたこそ、先、いいのに」

「「‥‥‥」」

 これはよくない。沈黙の種が生まれそうな状況だ。何か言わなければ。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 しかし、宮島は中々言葉を紡げないでいた。当然である。たった一言でも、闇雲に放って良い言葉と、慎重に吟味してから放たなければならない言葉があるのだから。これ以上気まずい空気になるのは、何が何でも回避しなければならない事項だ。

 ‥‥‥まずいっす、まずいっすよ。

 いきなり思いを伝えるのは得策とは言えない。言った途端、放心状態になるからだ。思考停止し、その後の返しがうまくできないと、相手に思いを伝えきれない。

「‥‥‥‥‥‥あの、ね‥‥‥」

 苦し気な宮島の表情から何かを察したのか、今度は木下の方が第一声を買って出てくれた。若干声が裏返っているが、気になるほどではない。

 それよりも、急に口調が柔らかくなったことが、宮島は気になっていた。

「私、ね‥‥‥子供っぽい自分が嫌で‥‥‥‥家、飛び出しちゃったの。爺と少し揉めて。友達が大変な目に遭って。涙が、止まらなくなっちゃったの。‥‥‥泣くのは、恥ずかしいでしょ? 子供っぽいでしょ? だから、一旦忘れたかったの。全部。外に出たら、夕日が綺麗だった。こんな私でも、包んでくれそうだなって」

「で、俺に鉢植えを投げつけたんすか?」

「あれは‥‥‥! あれ、は、あんたが邪魔しそうだったし。泣いてるの、見られたくなかったから」

 今にも泣きそうなのか、木下はちらりと隣を見た後、砂浜にしゃがみ込んだ。首を捻るだけで簡単に相手の顔が見えてしまうこの状況は良くないと思ったのだろう。

 いつ自分が泣き出すのかわかるのなら、そうはしない。だが。

「いつからの付き合いだと思ってるんすか? 雪さんの泣き顔なんて、小さい頃に飽きるほど見てきたっすけど」

 感情というものは、不確かな要素が複雑に交差して成る織物のようなもので。

「もうっ。恥ずかしいから忘れなさいよ!! 馬鹿晴人!!」

 その爆発を事前に予測するのは、本人ですら困難なことなのだ。

 今、木下は突然投げかけられた宮島の言葉で、『恥ずかしさ』が爆発しそうになっていた。

 ‥‥‥ああっ。こいつの前で泣くなんて、絶対にムリ!!

「‥‥‥ま、わかるっすけどね。その気持ち。泣くのは、子供っぽいのは嫌っすよね。一旦忘れたいって思うっすもん。俺だって、責任とか、プライドとか、諸々、全部ゴミ箱に捨てたいっすよ」

「あ、あんたも、なの?」

「勿論っすよ。‥‥‥正直怖いっす。大人になるのが」

「でも、あんたはもう大人じゃ‥‥‥子供なのは私だけでしょ」

「違うっすよ」

 宮島は、ぴったりくっつくことはせず、距離を空けて木下の隣に座った。

「俺もまだ、子供っす。雪さんと同じ、子供っす。‥‥‥‥‥‥そうだ。いいこと思いついたっす。二人で、大人になるの、やめるのはどうっすか? 一人だと、心配っすけど‥‥‥仲間がいれば‥‥」

 木下は少し考えた後、小さく首を振る。

「ダメよ。爺に、ばあちゃんに、ママに、パパに、世界に。異物扱いされちゃうでしょ。だって、あんたは、電車で大泣きしている大人を見て、何も思わないの? おかしい人だなって思うでしょ?」

「思うっす。でも、それだけっす。俺は、その人を蹴りも殴りもしないっす。‥‥‥大人の皮を被った子供がそれだけの理由で殺されるわけじゃないっすよ」

「でも。だからって。ただ生きていればいいわけじゃ‥‥‥」

「大人も、ただ生きてるだけっすよ。俺が言いたいのは、子供のままただ生きる方が幸せなんじゃないか、ってことっす」

「子供のまま‥‥‥幸せ? ‥‥‥‥私、よくわからなくなってきたわ。幸せって何よ? あんたは、何を幸せって言ってるのよ? 衣食住あれば幸せなの? 背負う物が軽ければ‥‥‥」

「はいはい、わかったっす」

 考えれば考えるほど、どんどん暗い顔になっていく彼女を見ていられなくなり、宮島はその頭に手刀を下ろした。もう考えるな、と。

「よく聞いて欲しいっす‥‥‥‥俺は、ただ諦めたくないだけなんすよ」

「何を?」

 木下が宮島の方に顔を向けると、かちりと目が合った。この感覚は本日二度目だ。

「子供でいることをっす。‥‥‥皆、子供でいることを諦めて大人になるんすよ。大人の汚さを知って、それを受け入れて。つまり諦めて、大人になるんすよ」

 木下に向けられた宮島の瞳は真剣そのものだった。

「大人の汚さって何よ」

「それは‥‥‥‥‥雪さんには知ってほしくないっすけど‥‥‥。でも、知ることも必要っすからね‥‥‥まぁ、一度知って、すぐに忘れることをおススメするっすよ」

「いいっすか?‥‥‥覚悟するっすよ」

 木下が頷くのを見て、宮島も覚悟を決めた。

 視線を彼女から剥がし、どこか別のところを見つめながら言葉を産み落とす。

「大人の汚さってのはっすね‥‥‥」

 彼女に語るには、汚すぎる話だった。宮島には、隣にいる幼馴染が純粋無垢なものとして映っている。それを汚すこと等、それこそ死刑に値するだろう。

 目を彼女から逸らしたのは、せめてもの無期懲役を獲得するためだった。目を合わせることによって、自分の視線に乗った汚れが彼女を汚してしまうのではないか、と宮島は危惧していたのだ。

「簡単に言えば、裏切り、蹴落とし合い、嘘っす」

「でも、子供だってするわよ。そんなこと」

「違うんすよ‥‥‥ものが全然違うっす」

 ‥‥‥俺はそれを見たことがあるっす。恐ろしかったっす。あれは。

「大人たちのは、汚さの次元が違うっす。子供たちのを濁った水としたら、大人たちのは真っ黒な固形物っす。血で汚れ、血が腐り、固まる。それが繰り返されて、真っ黒な汚物になるんすよ」

「どうして違いが生まれるのよ。同じ人間でしょ?」

「‥‥‥大人には、子供と違って、大きな財力、高い身体能力、高い思考能力。それから、守るべきものがあるっす。大人になるにつれ、守る人も物も増えてくんすよ。その大切なもののために、大人は子供が持ちえない力を全て使って、熾烈な蹴落とし合い、裏切り、嘘、つまり、汚いことをするんすよ。‥‥‥これが違いっす」

 自分はこれを語るには子供過ぎるなと宮島は思った。彼はまだ、自分や他者を犠牲にしてまで守りたいと思える人や物を見つけられていなかったからだ。

 その存在に一番近いと思われる隣の幼馴染ですら、いざ天秤にかけてみると、自分という最上のものに負けて、浮いてしまう。

「大人は皆、その汚れを当たり前だと思ってるっす。疑問すら抱かなくなってるっす。‥‥‥俺は、そんな奴らとは一緒になりたくないっすね。死んでもごめんっす」

「あんたは、何も汚さないで生きていけるの?」

 木下は先程怪しげな店で貰った貝殻を強く握り締めていた。割れて、粉々になっても構わない、むしろそうなってしまった方が良い事があるかもしれない、と変なことも考えた。

「いけるっす。そのために漁師になるんすから。漁師は、一緒の船に乗ればみんな仲間っす。命の託し合った仲間っす。そこで、裏切り、嘘、蹴落とし合いは起きると思うっすか? そう、起きるわけないんすよ。社会にあるような、昇進だの階級だのもないっすから、本当にパラダイスっす。‥‥‥‥‥‥‥どうするか決めるのは雪さんっすけど、雪さんの答えがどうであれ、俺は、海で、大人の皮を被って生きるつもりっすよ。おじいちゃんになるまで、死ぬまで、ずっと子供でいるっす」

 おじいちゃんまで‥‥‥

 死ぬまで‥‥‥

 そう、ずっと。俺はずっと。

 宮島はふうと息を吐いてから、ゆっくりと立ち上がり、脚についた砂を払った。

「‥‥‥私、選べないわ。今まで、子供から抜け出そうって思ってたから、いきなり子供のままでいいって言われても」

 木下はちょこんと座ったまま、目を伏せている。

 もう自分は十九なのだ。友達も、友達ではない人も。この歳では皆大人になっている。一人だけ取り残されたような感覚がチクチクと痛みを伴って全身に巡る。

 ‥‥‥これが、現実なのよね。

 薙ぎ払えるなら、忘れられるなら、どんなに良いだろうか。

「不安よ。皆と一緒に大人になった方が、安心だわ‥‥‥。奇異な目で見られることもなくなる。自分を恥じなくてよくなるのよ、きっと」

 でも、皆そうだから、と目に見えないナニカが彼女を抑え込んでしまうのだ。

「かと言って、大人になるのも不安なの。怖いのよ」

 得体の知れないもの。未知なもの。そして、無知な自分がひどく恐ろしいものに感じる。

「今すぐ決めろなんて誰が言ったんすか。ゆっくりでいいんすよ。まだ、一年あるっすから」

 宮島が、人差し指をびしりと水平線の方に突き立てた。

「‥‥‥ほら。前、見るっすよ」

 言われて、木下は下を向いていた顔を上げた。

「‥‥‥!」

 思わず息を呑み、目を見開く。

「汚い話をした後っすから、口直しっす」

 美しい夕凪の海が目の前に広がっていた。

 無風。無波。夕日だけが、そこに在る。まるで、時間が止まったかのような、静かで優しい世界だ。

「一旦、難しいことは忘れたほうがいいっすよ」

「‥‥‥‥そう、ね」

 何処までも続いていそうな凪の海。自分たちの会話が、世界中の人に筒抜けになっているような気がして、これ以上は何も話したくなくなった。

「‥‥‥‥‥」

 こんな時間が永遠に続けばいいのに。美しい景色が眼前に展開されているというのに、心中はいつだって、時のことばかり気にしてしまっている。

 ‥‥‥勿体ないわね。

 何か、『無』になれるものがあれば‥‥‥。

 ‥‥‥あ。

 木下は自分の手に握られていた物の存在を思い出し、それを使ってみることにした。

 貝殻は生まれ育った海の音を、ずっと覚えているらしい。

 耳に当てれば、その音色が耳に入り込んでくることだろう。

 木下は、黒糸の髪を耳に掛け、貝殻を優しく当てた。

「‥‥‥‥」

 心地良い潮騒が鼓膜を静かに揺らす。

 これは、どこの海の音なのだろうか。海鳥の声は聞こえないだろうか。遊ぶ子供たちの声はどうだろうか。

 つい、時を忘れて想像を膨らませてしまう。だが、今はそれでいいのだ。

 ‥‥‥うん、やっぱり落ち着くわ。

「‥‥‥‥‥‥‥その、雪さん。今から大事なこと言うっすよ」

「今いいところなのよ。それに、今は喋りたくない」

「じゃあ、聞いてるだけでいいっす」

 ‥‥‥雪さん、俺は。

「‥‥‥‥‥俺は。今日、この瞬間から、子供になるっす」

 機を見計らっていたわけではないが、言うならここだ、ともう一人の自分が囁いてきたから。

 子供になれば、何も考えず、背負わず、言う事ができると思ったから。

 ずるい男だとは思いながらも。

 ‥‥‥雪さん、俺は。やっぱり君のことが。

 宮島は文字に命を吹き込んで、飛ばした。


「俺、雪さんのことが、世界で一番すきっす」


 ‥‥‥世界で一番、すきなんすよ。

 要した勇気は、目の前の海、五杯分に相当する。

 宮島晴人の、正真正銘、人生初の告白だった。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 しかし、その後に、言葉は続かない。驚きの声も、喜びの叫びも、拒絶の悲鳴も。何もなかった。彼女は本当に黙って聞いているだけだった。

「何か、ないんすか?」

 自分で聞いているだけでいいと言っておきながら、宮島はつい訊いてしまった。こうも無反応だと、本当に言えたかどうか心配になってくる。

「‥‥‥‥‥」

 だが、それでも木下は何も言わない。

 ‥‥‥あんた、馬鹿よ。

 彼女の性格を考えれば当然である。

「‥‥‥っ‥‥」

 何か言ったら、声でバレてしまう。だから、何も言わないのである。

 木下は体育座りのまま、膝に顔を埋めて、ぽたぽたと水滴が染み込んでいく砂の地面を見つめていた。

 声が漏れないように、唇を噛み。頬は意識しなくとも、勝手に赤く染まっていく。

 ‥‥‥嫌だ。子供みたいじゃない。

 こんな顔、見せられるはずがなかった。

「‥‥‥うっ‥‥‥っ」

 何も彼の告白が泣くほど嫌だったのではない。

「‥‥‥‥っ‥‥‥」

 感情というものは、不確かな要素が複雑に交差して成る織物のようなもので。

「な、泣いてるんすか?」

 その爆発を事前に予測するのは、本人ですら困難なことなのだ。

「‥‥‥ち、がうっ‥‥‥っ」

 ‥‥‥本当に、馬鹿なんだから。

今、木下雪は突然投げかけられた宮島の言葉で、『嬉しさ』が爆発しそうになっていた。

いや、もう既に大爆発していた。

「‥‥‥っ‥‥‥‥‥‥もうっ! 晴人の馬鹿ぁ!!」



 くすり。

『‥‥‥晴人のヤツ、やりおるな』

 物陰に隠れていた執行人は、彼らの様子を見て相好を崩した。

『頑張れよ』

 くすり。また静かに笑った。


    ◇


 少年少女は決してあきらめない。何があっても。何が敵でも。

 木下と宮島が海岸で合流したころ、一方では、また違う二人の少年少女が再会を果たしていた。

 古びた街の外れにある病院、建付けが悪いせいか、少年が勢いよく引き戸を開けるとミシシッと嫌な軋みの音が病室に響いた。けれど彼は構わず、そのまま駆け込むように彼女の元に近寄る。

「だ、大丈夫なのか? 処置中だって言われてて、もしかしたらやばいんじゃないかって」

 “再会”と少し過大な表現を使っても尚、足りないくらいには彼の表情は焦っていた。まるで見舞いの相手が九死に一生を得る体験でもしたかのようだ。

「ええ。大丈夫です。身体は頑丈な方ですから」

 反対に見舞われた方、少女はいたって冷静に相手をしている。だが、彼女の怪我の度合いが軽いわけではなかった。彼女は、年季の入ったパイプ枠組みのベッドに腰をかけつつ、専用の器具でその右脚を吊るしていた。

 それを見て、少年は恐る恐る訊ねる。

「‥‥‥これ、全治は? ドルフェスには、間に合うのか?」

 白い包帯と、仕込まれた硬い板。彼女の脚の骨が折れていることはもはや明らかだろう。回復が間に合わないのなら、命が助かってもひとりのアイドルとして、彼女は死に絶えてしまう。

 ‥‥‥なんでこんなに冷静なんだ? まさか、いや、そんな。

 悪い予感は、すぐそこまで迫っていた。ゆっくり、ゆっくりと毒の如く回り、病室内の空気さえも感染させていた。

 患者服を纏ったアイドルは、衣装を纏いたかった少女は、長い沈黙ののち、唇を開ける。

「残念ながら、全治は───」

 少年は次の言葉を聞く前に、思わず耳を塞いでしまいたくなった。自分のせいだと、自分が死ねばよかったのにと責めたてて、さらに彼女を悲しませてしまうと思ったからだ。

 ‥‥‥嫌だ。嫌だ。なんで、また。

 悪い結果は、すぐそこまで迫っている。もはや“予感”の域を出ていた。その足音さえ耳を澄ませば聞こえてくる。

「全治は──────」

 全治は。結果は。運命は。未来は。

 ‥‥‥俺には、でも、それをきく責任が。

「ここだよ! おねえさんのへや! お父さん!」

 彼が全てを受け止めようと、覚悟を決めたところで。

 しかし、突如として元気な幼子の声が廊下に響き、彼女の声を掻き消してしまった。

 まさか、という表情で固まる少年と、薄く笑みを浮かべる少女。二つの視線は病室の入り口へと向けられる。少年が乱暴に開けたせいで、それは依然として開け放たれたままだった。

「ほら、無駄ではなかったんです」

 優しい声色のまま、琥珀の瞳の少女は言う。すると、寸秒数えぬ間に、幼い少女が廊下から姿を見せ、後から続いてその父親らしき、白衣を纏った人物も現れた。

 彼にとっては、彼女はまさしく娘の命の恩人で、感謝してもしきれない存在なのだろう。姿を見るなり、ゆるゆると涙腺を緩め始めてしまった。

「ああ、君がっ‥‥‥。本当に、どうお礼を言ったらいいか‥‥‥くっ」

 伝っては落ち、伝っては落ちを繰り返す大人の涙。彼の真白の袖はすでに濡れていて、使えそうにもなかった。霧島はハンカチを彼に差し出す。

「当たり前のことをしただけですよ。そう、幼い頃から教え込まれていますから。それに、これは心咲の性のせいでもありますから。どうか泣かないでください」

 男は首を振った。

「そんな‥‥‥ハンカチまで濡らすわけにはいかない。本当に‥‥‥わたしは、君になにをしてあげたらいい?」

「何もいりません。礼だっていりません。そのために助けたわけではないのですから」

「そんなっ‥‥‥そんなっ‥‥‥‥。くっ。いや、でも。言わせてほしい。本当にありがとう。必要があれば何でもすると誓う。心から、君に感謝したいっ」

 男は深々と、地に頭が付きそうなくらい腰を折って、礼をする。

 隣に立ち、泣く父親をただ見上げていただけの幼い少女もハッとし、父親に続いてペコリと頭を下げた。「いいんです。お二人共、頭をあげてください」とすぐ霧島がらしいことを言っても十数秒はそれが続いた。


「おねえちゃん、ありがとう。わたしも、なんでもするから。ほんとうにありがとう」


 霧島の病室を出る前に、改めて幼い少女が言った一言。

 完全に蚊帳の外の人だったリクだが、その声は鋭くしみた。


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