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晴々舞台  作者: 森屋鯨
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晴世茅乃と雨宮陸斗の軌跡


 その日も雨宮陸斗、リクは“いつも通り”通学鞄片手に帰路についていた。いや、少々訂正が必要だろう。彼の“いつも通り”はこんな様子ではないのだから。

「♪~、~♪‥‥‥‥」

 リクは珍しく鼻歌交じりに軽快な足取りで歩いていた。いつもは一日過ごした疲労に押し潰されてここまでする余裕はない。何か、良い事でもあったのだろうか。

 その答えの一つは今日の日付にあった。七月十九日。あと一日学校に行ってしまえば、待ちに待った夏休みが始まる。夏休みが嬉しくない学生はいないだろう。鼻歌を漏らしてしまうのも仕方ない。

 では二つ目は?

「‥‥‥♪」

 歩く度に揺れるのは、麻紐に通され、首から下げられた真っ白の貝殻。彼が今、意図的に触れないよう努力しているある娘が『奇跡の貝殻』と称し、与えた代物だった。これを見る度に苦しい気持ちになる。だが、外すことはしない。これが唯一自分のできる罪滅ぼしなのだから。

 ‥‥‥あの時、俺が、『俺もすきだ』って返してたら、どうなってたんだろうな。

 息が続かず、鼻歌が途切れたふとした瞬間に、後悔の念が一斉に押し寄せてきた。リクは慌てて頭を振る。毎年、蝉の声が、嫌な温度が肌身に染みてくる季節になると、過去が彼の足を掴みにやってくるのだ。掴んで、心身の身動きを封じてしまう。

 過去を断ち切るには。

 夏休みを平穏に過ごす為には。

 もう、鼻歌を歌って誤魔化すしかなかった。これは、何度も過去と向き合おうと努力した暁に彼が辿り着いた、一つの答えだった。

 ‥‥‥ごめん、カヤ。恨んで、いるよな。流石に。

 あの日突然、自分の前から姿を消した彼女。快晴のように明るく、爽やかな笑顔が似合う少女。付けられた名は、茅乃。だから、カヤ。

 カヤは居ない。生きていたとしても、自分の元へはもう来てくれない。理由はわからない。何度も考えたが、わからない。もし、彼女を害する存在がいたなら、自分がその息の音を止めてみせるのに。せめて、理由がわかったら。どれほどよかっただろう。矛先の向け所がない、行き場のない気持ちは、三年という月日をかけて、ゆっくりとリクの身体を蝕んでいた。

「‥‥‥‥‥」

 いつの間にか鼻歌は途切れ、足は止まってしまっていた。リクは再び脳みそを振って足を進める前に、ふと、いま自分が通り過ぎたばかりの公園に視線を向ける。いつもは誰もいない公園なのだが、今日は誰かが一人寂しく錆びついたブランコを漕ぐ音が響いていた。

 ブランコ、滑り台、砂場、シーソー。それしかない小さな公園には、一際目立つ大きな木が生えていた。本当に、眼を見張るような大きな樹だ。恐らくは縦幅十二メートル。横幅二十メートルといったところだろうか。

 『大樹の木漏れ日公園』。神を思わせるような風貌の大樹から名をつけられたその公園は。

音があるとはいえ今日も静かで。今日のような曇天の下では、黄昏に持ってこいだった。

断じて、邂逅に相応しい場所だとは言えない。もっと華やかで、ロマンチックな所は他にもあったはずだ。だが、運命の神様は、此処を選んだらしい。

「‥‥‥‥あ」

 その一声を発して、リクの喉はすぼまってしまった。発声も、呼吸もできない。目も見開きすぎてどうにかなってしまいそうだ。けれど、止められない。止まってくれない。この動悸も。

「カヤ‥‥‥‥‥‥‥?」

 独りブランコに乗っていた人物は、既視感のある少女だった。解かれて靡いているこげ茶色の長い髪も。手首の鈴がついたヘアゴムも。どこか懐かしい麦わら帽子も。

 そして、自分の声に気づき振り返った可愛らしい顔も。

 だが、彼が再会を待ちわびていたあの人ではないと断言できてしまう決定的なものがあった。

「え。お兄さん。どうして私の名前、知ってるの?」

 想い人を思わせる風貌の少女はブランコから飛び降りると、麦わら帽子を傾けて、その、あどけない顔を覗かせる。

「あ。え、な、何でだろうな。俺もわかんねえや‥‥‥」


 少女の愛らしい顔も、身長も、ランドセルが似合うような幼子のものだった。

彼が追い求める十七歳の女性のものではない。


   ◇


 人々、特に社会人は夏が嫌いな場合が多い。学生のように、長期休暇があるわけでもない。どれだけ暑くても、働かなくてはいけない。理由は他にもあるだろう。

 その一つとして挙げられるのは、急な降水だ。夕立や、夕立でなくともいきなり降り、せっかくの服を濡らすだけ濡らして去っていく雨は多い。その度に頭を悩ませ、唸ってしまう。

 しかし、それに関しては、つい最近、二〇三五年の春に現在の技術が綺麗さっぱり解決してくれた。

 未来五十日間の天気を完璧に言い当てて見せる技術。通称、『天気発表』が登場したのである。降水がある場合は、その時刻を秒単位まで割り出し、文字通り発表してくれるものだ。今までの天気“予報”とは異なり、決して外すことのない天気“発表”は、人々の夏の憂鬱を少しばかり和らげてくれることだろう。

 今日、七月二十一日。貝浜街は、この日は朝から大雨に見舞われていたが、当然、傘がないためにその身を雨に濡らす者はなく、皆乾いた服のまま、それぞれの行き場所に到着していた。

 日夜仕事と闘うサラリーマンならば、戦場である会社に。

 勉学に勤しむ学生ならば、静かな学び舎に。

 それぞれが、それぞれの第二の生活圏へと足を運び、今日も何事もなく朝を迎えられたことを友人たちと祝福し合っている。

「おはよう。雨宮君」

「ああ、おはよう卯月」

 二年八組の教室の窓際の列の最後尾。机の中にもロッカーの中にも入りきらなくなった教材が纏められた段ボールをずらして、リクは自分の席に腰掛ける。彼が一息つくのを確認すると、前の席の卯月夏樹が早速話を切り出してきた。

「で、でさ! あの続きはどうなったの!? 雨宮君、途中で寝落ちしたでしょ。僕、気になって寝られなかったんだからね! そもそも、本当の話なの? あんな小説みたいな‥‥‥」

 まだ眠たい目を擦りながら、『本当だけど』と零しながらリクは机の中を漁る。しばらくして何かを見つけたのか、探る手を止めて机の上にコトンと置いた。

 消毒液、ティッシュ、小さな絆創膏、大きな絆創膏。それらが入った透明なプラケースだ。

「あの後は、何もなかった。何か人違いしたって言って帰った。‥‥‥小説だなんて、大袈裟だろ」

「大袈裟じゃないよ。だって、ずっと会えてなかった幼馴染に似た幼い少女が居たんでしょ? 公園に。何か始まるとしか僕は思えないよ。それに明日から夏休みだし‥‥‥」

 例の幼馴染に似た、しかしまるで若返ってしまったかのような姿の少女と出会った。

 初めて聞いた時、卯月はスマホ越しだと言うのに、唾が飛んできそうなほど大いに驚いて叫んでくれたものだ。カヤのあれこれを掘り下げて話したことはないが、その存在は何回か話題に上がらせたことはあるので、卯月の反応は何ら不思議ではなかった。

「あとで話すから。ちょっと、顔見せろって‥‥‥うわ、今日もひどいな」

 大きな溜息を吐いてから、やれやれといった具合に眉を下げる。今日も厚い手当が必要だと、むず痒い面倒くささに駆られるが、これは支え合いなので仕方がないと、リクは自分に言い聞かせて消毒液に手を伸ばした。

「‥‥‥いたっ」

「子供かよ、これぐらい我慢しろよ」

 性格も、趣味も、出身も、何もかもが違う彼ら。しかし、一つだけ共通しているものがあった。

 それは、日常的に親から暴力を受けているという点だ。

 ‥‥‥こいつは、小学の時からだもんな。義父だか、義母だか。ひどいもんだよな。

 それに比べ、リクの場合は中学一年の春に父親が病で死んでから、感情の矛先を向けられるように母親に殴打される日々を送ってきたので、まだ新米兵士と言えよう。暴力の程度も彼と比べると軽い方だ。

「‥‥‥その、いつもありがとうね、雨宮君」

「何だよ今更、気持ち悪いな。傷口に毒盛るぞ」

 親から愛されなかった。

 決して良い共通点とは言えないが、それでも良き理解者として互いを親友と呼べるぐらいまでの関係を築くことは出来た。

 ‥‥‥今思うと、互いの親には感謝しなくちゃだな。

 そう、この出会いを評価できるのは、やはり親友との日々がかけがえのないものだとリク自身も認識しているからだろう。

 さてと、と軽い手当を終えると、リクは今度、自分の額に消毒液を含ませたティッシュを当てた。これは昨晩、母にフライパンを投げられた時に出来た傷である。初めて暴力を受けた日から、リクは心の傷は塞がらないものなのだと悟り、身の治癒に専念しようと決めていた。

 傷を放置していると病気になりやすいし、周りから余計な心配をされる。まだ誰もいない早朝の学校に集合し、傷を手当することは二人の中ではもはや日課となっていた。

「言いたくないならいいけどさ、昨日は何で揉めて何をやられたの、雨宮君は」

「ええっと‥‥‥」

 リクは答えに窮した。目の前に居る、いつも自分の背中を金魚の糞のように付いて回る彼。リクの記憶が正しければ、互いの秘密を明かし、毎朝のように彼の暴力の傷を手当するようになってから彼は自分を慕うようになった気がする。

 嬉しい。誰かに慕ってもらうのは喜ばしいことだ。

 だが、同時に恐れもあった。一つ一つの言動で彼から見放されてしまうのではないかという恐怖が、重みとなる。いつも、大人らしく、頼りがいのある姿を見せ続ける必要があったのだ。

 ‥‥‥昨日の喧嘩は、俺の我儘で起こった。

 きっかけは、母に志望大学を聞かれたことだった。リクは小さい頃から、『天気に関われるような仕事に就く』という何を犠牲にしても、何としてでも叶えたい夢があったのだ。それ故に、母子家庭でお金がないことは承知の上でこう言ってしまったのだ。

『俺は何としてでも京葉大学に行く。母さんには関係ないだろ、俺の将来に口を出すな。もう自由にしてくれ』と。

 京葉大学はトップレベルの気象学を学べる環境が整っていたが、同時に私立大学でもあるため学費が馬鹿にならない額であった。

『聞いたよ。学費、一二〇〇万円かかるらしいじゃない。‥‥‥私らにそんな金あると思ってるの? ‥‥‥ねぇ、ちょっと。大学行かせてあげるだけでも有難いことだと思いなさいよ』

『うるさいな。黙ってろよ! 母さんなんてクソだ! 全部、何もかも!』

 酒が入ると暴力的になる母であったので、普段はリクもこういう反抗的な態度をとることが可能だった。もしかしたら、身体が大きくなるにつれ、母という絶対的な存在や、それが与えてくる暴力に対する恐怖心が弱まってきたこともあるのかもしれないが。

 いや、きっと、それだ。現に、その後に勃発した喧嘩では高校生のリクの方が優勢だった。予想外の方向から繰り出されたフライパン攻撃には反応できなかったが。それ以外は全て避けきった。

 ‥‥‥流石に、言い過ぎたし、やり過ぎたとも思う。

 この事実を知ってしまったら、恐らく卯月は幻滅してしまうだろう。

 だから、言えない。言わない。

「あんまり覚えてねえや。うーん、何だったかな。確か、母さんが庭に入ってきた野良猫を退治する為に金属バットを持ちだしてきたから、俺が止めて。そっから俺と母さんの戦いになったって感じだったかな」

 嘘で、繕うしかない。この行為をあの人が嫌っていると理解していても。

「ほー。さっすが雨宮君だね。正義のヒーローが負う傷って、なんだか浪漫があるよね。それ、直さなくていいんじゃないの? 勲章みたいな感じで残しとけば?」

 目の前の彼はいつも、自分が望む言葉を紡いでくれる。それが、リクを饒舌にさせる引き金となった。

「‥‥‥‥そうだ、聞いてくれよ。この前の模試の数学のテスト、俺、学年三番だった」

「えー、ほんと? すごいなぁ。やっぱり敵わないや」

 本当は十番だったが、つい、いい気になってしまったらしい。

「でも、お前はいいよな。物理、すげぇもんな。この前の土曜講座の時もお前、講師の大学教授に目つけられてたって聞くぞ」

「あはは、雨宮君に言われると照れるな」

 本心からの言葉だったのだろう。卯月は本当に照れ臭そうに頭を掻いていた。それを見てリクも目を細める。

 相手の株を持ち上げてやることも重要だ。自慢ばかりでは、気に入ってもらえない。

 まるで彼を支配しているかのような優越感が、リクをほんの少しだけ気持ちよくさせた。

 どこまでも従順な親友。最高の仲間だ。

「あのさ、ちょっと話は変わるんだけどさ‥‥‥‥」

 しばらく優しい眼差しを注いでいたら、今度は卯月の方から口を開いてきた。慕っている相手だからこそ。自分の一番の理解者であるからこそ。卯月は発言するに至ったに違いない

「ん、なんだ?」

「‥‥‥‥」

 一度唇を開きかけるが、すぐにつぐんでしまう。数秒の躊躇いの後、ようやく卯月は子供のような声を漏らした。


「‥‥‥‥‥雨宮君って、アイドルに興味ある?」


「‥‥‥‥」

 汗が、つるりと頬から滑り落ちる。

 教室の外では朝から蝉たちが大合唱をしていた。種類が違う者同士、仲睦まじく鳴いている。どこからかランニングの声も聞こえてきた。本当に、沈黙の魔法にかかってしまったのはこの教室にいる彼らだけのようだ。

「‥‥‥‥‥‥」

 リクは予想外の問いかけにまたしても答えを見つけられないでいた。

 まさか、この卯月から“アイドル”なんて言葉が出るなんて。ここまで共に学校生活を送ってきて、リクは卯月の様々な一面に出会いもした。だが、大抵は“学者”らしい彼の姿だったのだ。

 ‥‥‥あの卯月が? だって、あいつ、キモイぐらい、あれだぞ。

 例えば、入学初日から教室の床や机をアートの如く数式の旋律で埋め尽くし、それを目撃した困り顔の先生から計算用紙として与えられた鈍器のようなコピー用紙の束を嬉しそうに抱きしめる姿。進級したり、単元が変わったりして新たなテキストが配られると、表紙に喜びのキスを捧げてしまうような異常者ぶり。学問を愛し、愛された少年。ただ貪欲にそれを追いかけて、これからもそうしていくのだろうとリクは勝手に思っていた。

「‥‥‥‥やっぱ、興味、ないよね。気持ち悪い、よね」

 そう言って自嘲気味に笑ってから卯月は眉を下げる。

「え、趣味、なのか? お前、だって、なんか、そういう、娯楽とかに惑わされないで、物理一筋みたいな奴じゃねえか」

 やっと言葉が出た。言ってから、偽りの自分を曝し過ぎていないか、彼を傷つけるようなことを言っていないかと確認の為の反芻し、ひとつ息を吐く。リクは相談に乗る先輩の如く優しい瞳を嵌め込み、卯月を見つめた。

「これは僕の裏側だからさ。隠してる面‥‥‥雨宮君も知らないのは当たり前だよ。あはは、僕、嫌われちゃったかな‥‥‥」

「そんな、そんなわけないだろ。趣味って人に言わないような物を抱えている人も多いって聞くし、俺も、そういうところ、あると思う」

 卯月からの突き刺さる言葉に、しかしリクは表情を変えないで返す。遅効性の痛みが襲ってきそうで身を縮こまらせた。

 ‥‥‥俺だって、嫌われたくないんだ。お前に。だってお前は。

 同じ痛みを分かり合える、唯一の仲間なのだから。裏切りは有り得ない、そういう関係だ。

 だから、この瞬間も、リクは味方でいることを選んだ。

「ああそうだったな‥‥‥興味あるか、だったよな‥‥‥‥うん、興味あるよ、すごいある。‥‥‥お前の趣味、楽しそうじゃねえか。ちょっと安心した。お前もちゃんと、娯楽に耽る、人間なんだな」

 肩をぽんぽんと叩きながら笑ってみせる。その瞬間、卯月の表情が太陽にも劣らない輝きを宿した。

「ほんと!? じゃあ、ちょっと、見て欲しいんだけど‥‥‥」

 興奮する手つきで財布を開き、小さく折り畳まれた写真らしきものを取り出した。

「‥‥‥‥」

 折り目が傷の如く刻まれている色褪せた写真。そこに映る、卯月が『ちなみにこれが僕の推し』と指し示している人物。リクは思わず息を呑んだ。

 先程卯月から告げられたことにも驚いたが、少し種類の違う驚愕の表情を浮かべ、呼吸も瞬きも何もかもに強制停止をかけた。思考することに力を回さなければ、状況を理解できそうになかったからだ。

 今はもう、近くの蝉の音も、遠くの葉の音も、ランニングの声かけも、全てが掻き消されていた。フラッシュバックする数多の記憶と共にリクを襲った耳鳴によって。

「‥‥‥‥明日ライブがあるんだけど。そこでおひとり様一つまでのグッズの販売会があるんだよ。観賞用と保存用に二つ確保しておきたくってさ。その‥‥‥もし、少しでも興味持ってくれたなら、いい機会だし、一緒に、どうかなって‥‥‥‥‥」

 言葉を選び、ずっと燻ってきたことを伝えてみた卯月だったが、生憎のところ、伝えられた方はそれどころではないらしく、全く話が耳に入っていない様子だ。それは卯月も不思議に思ったのか、声のトーンを少し落として探るように言った。

「あ、あの、雨宮君。‥‥‥‥ど、どうしたの? 何か、あった? もしかして具合悪い?」

 心なしか顔色も悪くなってきているような気がする。卯月は無言でリクの手を掴み、保健室へと連れて行こうとしたが、リクは自分から掴まれた手を払った。

「へ、平気。ちょっと、考え事、してた、だけっていうか」

 ‥‥‥‥間違いない。

 写真の中で美しく咲く花のように笑っている彼女。そのこげ茶の髪が揺れ、銀色の鈴の音が響く様は写真という制止の枠を飛びぬけて、リクの脳内では滑らかな映像として映し出されている。

 間違いなかった。長年再会を待ちわびていた、カヤの姿だった。

 ‥‥‥なんで、カヤがアイドルなんて。

 ‥‥‥どうしよう。卯月に言うべきか? いや、止めておこう。

『世界で一番好き』

 卯月の沈む顔を、リクは見たくなかった。

 積み重なった疑問と、導き出した答えを交互に見つめながらリクは思う。

 ‥‥‥運命、なのか。これも。

 カヤが何故アイドルをしているのか。最大の疑問への答えは一向に出ず、代わりに冷汗だけがたらたらと伝っていく。しかし、この写真を通しての再会だけは、運命という言葉で簡単に片づけることが可能だった。

「あ。もしかして、雨宮君‥‥‥考え事って。この子に惚れちゃった? それで色々考えてた?この子、アヤって言うんだよ。天使みたいな子で、僕の生きがいの一つでもあるんだ。まず、ダンスが上手。天界の舞とか言われてるみたいでさ。‥‥‥あ、そうそう。あと、実は字も綺麗なんだって。ファンレターの返事を直筆で書いてくれたこともあったらしくて、なんか、いかにも女の子って感じの綺麗な字だったって、友達が‥‥‥‥。明日は晴れるみたいだからきっとその素敵な姿を拝めること間違いなしだよ! どう? 推さない? 雨宮君も!」

 卯月は緊迫した様子はどこかに捨て去って、また声のトーンを上げて言う。リクはそれに適当に相づちを打っているだけ。

「本当!? 今、頷いたよね。え、じゃあさ、明日、一緒にライブ行ってみない?」

 ‥‥‥どうして、カヤが。

 何の為に、アイドルを? リクとの関係を断ってまで、したいことだったのだろうか。リクより優先すべきものだったのだろうか。しかし、彼女はあの時泣いていたのだ。別れを悲しんでいた。『好き』とも伝えてくれた。

 ‥‥‥じゃあ、なんで。

「‥‥‥‥‥ああ、行く。持ち物は、なんだ?」

 何を思って彼がそれを言ったのかは、表情で察することができる。

 覚悟を決めたような表情。真剣な眼差し。卯月は思わず後ずさってしまった。

「な、なんか、凄い剣幕だね。た、たぶん、そういう気持ちで行くところじゃないと思うけど。‥‥‥ああ、これは語弊かな。うーん、何て言うんだろう。その、もっとラフな雰囲気で行ったほうがいい場所って言うのかな、ね、だからさ、ちょっと肩の力抜こうよ」

「わかった。抜いたぞ、触ってみろ」

「いや、雨宮君。触ってわかるもんじゃないでしょ、それ。だ、大丈夫、疲れてる?」

 やはりどこか様子がおかしいなと思いつつも、卯月は必要な持ち物等含め、今まで溜め込んだライブで役立つオタク知識をリクに伝授した。

 明日から始まる長い長い夏休み。青春駆け抜ける少年たちは、早速、その嵐の中に飛び込んでいくこととなったようだ。

「じゃあ、明日は貝浜駅集合ね」

「了解」

 後ろを振り返ってはいけない。秋を迎えるその日まで、駆け抜けろ。


 朝早くから家を出て貝浜駅に集合し、駅のホームから見える広大な海の景色を讃えながら、列車を待った。

 リク、卯月。二人の少年がこれから向かう先は、海凪という名の街だった。彼らの学校がある貝浜街から数駅経たところに存在する大きな都市である。大企業のオフィスが転々とし、雑貨屋等も多いその街は、『第二の』とも称されるほどありとあらゆる物が揃っており、ここらに住む学生にとっては良い休日の遊び場でもあった。

 夏休み初日ということもあり、やはりやってきた電車には既に多くの若者が詰まっていた。思わず嫌な顔をしてしまうリクと、相反するように笑顔のままの卯月。彼が笑顔なのは、これから始まる楽しい時間への希望で目の前の嫌なことなど忘れてしまっているからだろう。きっと傷のことも頭にないに違いない。

 味のある色合いに褪せた列車に乗り込み、夏休みという魔物を背負っての海沿いを往く旅だ。窓から見える景色はぽつぽつと浮く白い雲が良いアクセントとなっている、青い海と青い空を主役として描いた絵画だった。貝浜の街に住んでいるリクにとっては、この列車に乗ること自体が珍しい為、目を輝かせ、窓を開けた上に身まで乗り出して全身で鑑賞していたが、卯月は普段の通学からこの列車を使う為、大仰な反応は示さなかった。

「今日も暑いなぁ。海って観る分にはいいけど、僕ん家みたいに潮風が直であたるような所に住んでる人からすると、あんまり晴れる思いで観れないんだよね」

 つまらそうに景色を眺めつつ、卯月が言う。

 リクは景色に心を奪われているせいか、返答まで少し時間があった。

「何がそんなに嫌なんだよ。自分の部屋から海が見えるなんて最高だろ。我儘言うな」

 黒髪を潮風に泳がせながら、眉を顰める。『せっかくの景色なのに、マイナスなことを言うな』と瞳だけは怒らせていた。

「色々だよ。窓のサッシの所とかは潮風でサビちゃうし、車もそう。外に置いておいたら大変なことになるんだよ。雨宮君はいいよね。まだ陸の方だから。‥‥‥リク、だけに」

「だまれ」

 くだらない会話ではあるが、良い雰囲気ではあった。リクも、久しぶりに幼馴染に会えるという事実に、胸を躍らせているのかもしれない。

 海凪駅に着いてからも、彼らの旅は続いた。背の高い建物が多く立ち並び、色とりどりの広告や看板で溢れ返っているその街は、耐性が無い者からすると歩いているだけでもクラクラとしてしまうような所だ。当然裏道等も多く、恐らくは初めて来たであろう中高生の女子たちは早速迷ってしまったらしく戸惑いの声を上げている。

 だが、リクたちの歩みには一切の迷いがなかった。何度もここを訪れ、自動販売機の一つ、道の一本一本すらも把握している卯月が先導しリクが後ろをついていく。迷いが生まれる方が不思議だ。卯月の“秘密の近道”を用いたこともあり、予想されていたよりも早く目的地に辿り着くことができた。

 マフィアが住み着いていそうな、不気味なほどもの静かな通り。雑居ビルが背比べをするように乱立しているような区画だが、そこだけは背の高い建物は一切として存在していなかった。

「ここか‥‥‥‥」

「何その戦場に辿り着いたみたいな言い方」

 昨晩降った霖雨の水たまりが残る広い空き地。四隅にまとめられている廃墟の香りがする苔の生えた瓦礫や、刃物の傷が刻まれた灰色のコンクリートで出来た地面は、多くの少年の心をくすぐる。リクもくすぐられていた。

 こんな大都市の、こんな場所。駅前の賑やかさとは程遠い寂しさを演出している涼やかな風は空き地の中央に設営されたステージを風化させようと決死の体当たりを繰り出している。

 リクはごくりと唾を飲み込んだ。夏なのに、鳥肌が立つ。

 異様な雰囲気の場所ではあるが、早朝にも関わらずわらわらと集合している人間たちの姿は更に異様だった。灰色の作業着を纏い、紫煙を吐いている中年男性。髪を金に染め、ポケットに手を突っ込んでいる半グレ少年。何故か絵を描いている控えめな印象の少女。

 まるで、デスゲーム開始前の控室である。こんなにも濃いキャラが揃っているこの場で色を出すアイドルとは如何ほどものなのか。リクは自分もその“異様”の一色になっていることは自覚しつつも、偉そうに腕を組んでしまった。

「だ、だからさ。なんか、雨宮君、勘違いしてない? ここって戦ったり、自分を強く見せようと背伸びしたりする場じゃないよ」

 リクは視線を卯月へと戻した。色の薄い少年だ。彼が何故ここに居られるのかが正直わからなかった。どちらかと言うと気の弱い部類の彼。悪い奴らに絡まれていないだろうか、と親のような心配もしてしまう。

 ‥‥‥こいつ、大丈夫かな。

 しかしそう思った時。リクは突然背後から肩を掴まれ、振り返りを余儀なくされた。

「おい」

 後ろにいたのはそばかすを散りばめたような顔の少年だった。歪に飛び出た前歯がリクに不快感を植え付ける。『なんでお前は絡まれないと思ったのか』とその表情から既に宣戦布告をしているようだ。

「あ、ちょっと。この子、新入りだから。僕の友達なんだけど‥‥‥‥」

「うるさいな、お前は黙ってろ夏樹。ここに相応しいかは俺が見分けるんだぞ! ここの統括は俺様だからな」

 言動、表情、目つき。全てが好戦的な彼は偉そうな口調でそう言い、卯月の肩を突き飛ばした。リクは当然ながらそれを見逃さない。親友に何してくれるとやり返すように肩を掴み睨み返す。

 そばかすの少年はあからさまに舌打ちをした。

「おう、やんのか? いいぞ、俺はどこを攻められても平気だからな、かかってこいよ」

「やってやるよ。お前、その面ぼこぼこにしてやるよ」

 負けじとリクも言い返し、額を突き合わせる。ただならぬ雰囲気が閑静な空き地に解き放たれた。

 このまま血みどろの殴り合いが始まるかと思われた。だが、殴打の音は愚か、拳を握り締める筋肉の軋みの音すら聞こえなかった。

 冷たい風が吹く空き地に、一輪の花が舞い降りる。


「まったく。あんたたち馬鹿なの? そんな暇があったら、これ持っててくれるかしら」


 どこからともなく現れた人物は、リクも目を奪われるような美女だった。

 外見から、雰囲気からまるで違う。

 リクは心中で納得したように頷く。

 嗚呼、これが本当の色か、と。

 本来なら、言葉で問うて確認したかったが、美女はその隙すら与えてくれなかった。

 黒く煌びやかな髪を靡かせつつ、華やかな衣装に身を包んだ彼女は、口喧嘩を通り越し、殴り合いの喧嘩を開始しようとしていた男たちの間に割って入り、拳が握られる前にその手に何かをねじ込んだ。

「は‥‥‥‥‥?」

 これは一体‥‥‥。リクは唖然としてまま、握らされたクラッカーを見つめる。よく誕生日パーティーで使われる小さなタイプのものだ。リクと対峙するように立っていた少年も同じくクラッカーを眺めていたが、同時に自分を諫めるように頭も掻いていた。何か、大事な事情を思い出したに違いない。リクが知らない。アヤのファンである少年が知る事情。

 リクが唖然の表情のまま首を傾けていると、肩を殴られた。視線を上げる。先程までガンを飛ばしていた少年が何かを堪えるように唇を噛みながら、そっぽを向いていた。

「おい、一旦休戦だ。今日の主人公が来るからな」

 ‥‥‥主人公?

 わけもわからないまま、リクは『ついてこい』と言い放った少年の後をついていく。リクの隣には歩幅を合わせて並走している美女も居た。心なしか、嬉しそうだ。

 ‥‥‥笑うなんて、珍しいな。何か、良い事でもあったのか。

 顔立ちは端正だが、口調は棘々しく。そのつり目からも気の強さが窺える。こういうタイプの人間は滅多に笑ったりすることはない。自分の気持ちに素直になれない場合が多いからだ。リクはこの美女と会ったのは今日が初めてだったが、統計的に判断して、首を傾げた。

──────リン。

 ‥‥‥っ。またかよ。

 くそっ、と。突然の来訪者にリクは今度は紛らわすように頭を揺さぶる。恐らくはカヤと同じグループに所属しているであろう美女。いや、着飾った衣装からしてほぼ確実だろう。そんな彼女との接触が引き金になってしまったようだ。

 ‥‥‥頭痛が、ひどい。

 今日はいつもより、鮮明に響いてくる。リクは思わず、耳を塞いでしまいそうになる。

 ‥‥‥どうせ一回だけだ。なら、いい。

 だが。

 ──────リン。

 再び、懐かしい鈴の声が、リクの脳内に入力された。それと同時に現実世界で鳴っているのだと、認識もされた。これは少し前からままあることだった。カヤを想う度、彼女に関わる何かを考える度に、思考を一蹴するように一つ涼しい音が横切るのだ。けれど、二回連続で鳴ったのは今日が初めてだった。

 ‥‥‥ってことは、一回目も、幻聴じゃなかったのか。

 つまり、二回ともこの音は本物であり、二回目の方が一回目よりも音が大きい辺り、自分という愚かしい存在に彼女が接近しているのだとリクは理解した。

「‥‥‥‥‥‥‥っ」

 理解した、途端。彼は急に凪のような心の水面が波及するように乱されていく感覚に陥った。

 静かな湖面に落ちてきたのは二滴の雫だ。

 記憶の奥そこから沸いたボロボロの懐かしさの作用により、鳥肌を伴って生み出された涙。

 それがまず一滴、心の水面に落ちた。そして、あてもなく波及する。

 二滴目は、血の色の雫だった。泣きながら去っていく彼女をそのまま見送った愚かしい自分を攻め、ナイフで一刺し。白銀に輝く刃から柄を伝って垂れた一滴。これもまた、果てまで何処までも波及した。

 二つの波紋は決して交わることはない。油と水のように。まず温度が違うのだ。一方は泣きたくなるほど温かくて、もう一方は氷山の雪解け水のように染み入る冷たさを孕んでいた。性質が違う感情は、相容ることはない。

 ‥‥‥俺は、どっちなんた。

「‥‥‥‥‥」

 リクは正直戸惑っていた。点滅を繰り返す二つの感情に挟まれ、どうしていいかわからなくなっていた。ついていっていた足も、薄く流れていた涙を、一旦止まる。

 きっと聞いてやるんだ。なんで、アイドルをやっているか。なんで、なんであんなことを言ったのか。

 ────『世界で一番、好き』

 昨日立てたばかりの覚悟は、薄れかかっていた。

 再会は待ちわびている。だが、会ってよいのか。こんな愚かしい自分に会う資格などあるのだろうか。

「‥‥‥‥‥‥‥」

 無言のまま突っ立っていると、ステージ上に人影が見えた。陽光に照らされて、照明に照らされて、その人の輪郭が影として浮き出ている。リクがごくりと唾を飲み込み、一度目を閉じて開いた時には、彼女はもうステージの真ん中で花のように笑っていた。

「みんな、私のデビュー三周年記念ライブに来てくれてありがとう! みんなの手紙と、花束、届いているよ! ほんと、嬉しい。泣いちゃいそう」

 当然だが、鈴の音の行進はぴたりと止んでいた。

 女性は声変わりなどしないのに、別れたあの時と全く変わらない声に、リクはじんわりと染みるものを感じていた。

 本当に、彼女がいる。存在し、笑っている。あの日のままで。その事実がリクには嬉しく、とても辛い。花のような笑顔の彼女に泣いていたカヤの姿がどうしても重なってしまい、耐えきれず胸を抑えた。

 リク一人を残して、皆がステージの前に集っている。パン、パンと各々クラッカーを鳴らしている。よく見ると、リクたちの前に現れた美女と同じ格好をしている人がもう一人いた。その人の手には大量のクラッカーが入った箱が握られており、遅れて彼女からクラッカーをもらうファンもまばらに見受けられる。どうやら“アヤのデビュー三周年”をクラッカーと笑顔で祝うことは既に決まっていたことのようだ。あの少年もそのことを思い出し、戦線離脱を決意したのだろう。

「アヤ姉ちゃん! 絵の背景は完成してるから、ステージで何かポーズとって欲しいな」

「え、小夜ちゃん。私の為に絵を描いてくれているの?」

 絵描きの少女は、ステージの最前線まで迫り、カヤを見上げていた。とびきりの笑顔で。カヤも笑っていた。本当に幸せそうに。きっと、ファンに我が子のように愛されているのだろう。絵描きの少女は勿論、ぎこちなく笑う半グレ少年からも、目を細めている作業服姿の男からも温度のある感情を感じる。

 ‥‥‥嗚呼、もしかして。いや、もしかしなくても。

 ファンの笑顔の中心で、花束を抱えている花のような少女。こげ茶の髪にはクラッカーから生まれた、くるくるとカールしているカラフルな紙テープがかかっている。白を基調とした華やかな衣装は同じメンバーであろう他二人とは飾りが段違いだった。まるで花嫁衣裳のようだ。

 ‥‥‥俺が、俺が、俺が。

 ステージ上からは角度的に視認不可能な場所にいるリクのことなど、目にも入っていない。気配すら感じていない。本当に、ただ幸せそうに、祝福されている。慥かにあったはずの過去を、忘れているようにすら見える。

 賑わいの過から離れた所に転がっている石ころのような自分。賑わいの中心で笑っている花のような彼女。ざわめきにも似た疎外感がリクと包んだ時、彼の心にまた一滴、雫が落ちた。

 ‥‥‥嗚呼、そういうことだったのか。

 諦めの味がする黒い雫だ。水面に落ちた途端、波及し、黒がじんわりと広がった。

 ‥‥‥俺が、勘違いしてたのか。

 為す術もなく『黒』は広がり、気が付いた頃にはリクの心は全てが『真っ黒』に染まってしまっていた。再会に涙する三年振りの懐かしさも。自傷して垂れた血液も。まんまと漁夫の利に刈られたように、飲み込まれてしまった。

 彼に残る感情は一つだ。名前はない。複雑に絡み合って生まれた『黒』なのだから当然だ。

 ‥‥‥カヤは、自分の幸せを掴みにいったんだな。

 自分の元から離れ、彼女は自由になったのだ。

 ‥‥‥だって、あんなに幸せそうに笑ってる。

 自由の楽園で今、笑っている。それを邪魔する者があってはならないだろう。そっとしておおくべきだ。万人がそうすべきだ。

 ‥‥‥俺が今、会ったら。

 きっと、彼女の楽園は一瞬のうちに廃墟となってしまうだろう。自分という存在が癌なのだ。

「よかったな、カヤ‥‥‥」

 リクは全てを理解し、涙を一筋流した。

 ‥‥‥幸せで、よかった。

 袖で雫を拭うこともせず、卯月に言われ、あれこれ色々なものを詰め込んだ鞄から、日射し防止用のつばの長い帽子を手に取る。そこに乱暴に頭を押し込み、目元が彼女から見えなくなるぐらいまでつばを下げた。そして、再び歩き出す。

 これは彼の唯一の我儘だった。

 ‥‥‥でも、俺はカヤしかいない。カヤがいないと寂しくて生きていけない。

 だから。

 ‥‥‥遠くで、見守らせて欲しい。君の平穏を壊すような真似はしない。

 だから、許して欲しい。この我儘を。

「おかえり、アヤ」

 “カヤ”の名は、しばらくは忘れることにしよう。

 リクは黒い湖に半身浸かりながら、そう、決心した。


 その後、リクは黒い気持ちを抱えながら、幼馴染が踊る舞台をその他大勢のファンたちと共に見守った。踊る曲、歌う曲が変わる切れ目にはどうしても無音の間が生まれてしまい、その度に燻るように彼の心は乱される。自分から決心したことだっただが、まだ飲み込めていないらしい。

 ‥‥‥やっぱり、カヤと話したい。

 でも、一歩手前で踏みとどまりリクは唇を噛む。

 駄目だ。ここから先は、本当に駄目だ。と。

 ‥‥‥俺って、たぶん物凄く馬鹿だ。

 ライブ中は、揺れに揺れていた彼の心情だったが、ライブが終わった頃にはいくらか落ち着いてきていた。カヤがライブで見せた笑顔、ファンとのやり取り、仲間との助け合い。全てを見て、飲み込んで、やっと消化することができたのだ。

 やはり、自分はいらないと。思うことができたのだ。

 とても悲しいことだが、仕方ない。リクはカヤの事情など、何一つとして知らないのだから。

「いや~。助かったよ。雨宮君。‥‥‥おかげで、ほら、グッズ二つ買えたし。でもいいの? 雨宮君も、欲しいとか思わなかった?」

 行きと同じ道を辿って駅へ向かう帰り。世界は既に傾きかけた日がもたらす茜色に抱かれていた。

「‥‥‥‥」

「ね、どうなの? アヤちゃん、推すなら欲しくない? やっぱ返そうか?」

 カァ、カァとカラスが日の終わりの寂さを演出している中、寂しさとは正反対の笑顔で卯月はリクに話しかけていた。

「いらねえよ。でも、今は、だけどな」

 卯月の問いに小馬鹿にするような笑みを浮かべて返す。だが、彼は卯月に三度話しかけられると、一言返す程度しか元気がなかった。

 待ち焦がれていた幼馴染と一方的な再会を果たし、しかし、その後の進展はなかった。彼が自らその道を避けてしまったから。その理由が平穏な彼女の日々を壊さないためというものであっても、リクは心に深い影を落としてしまう。無理やりにでも浮かべた笑顔で、場を持たさているだけ、今の彼は褒めるべきなのかもしれない。

「‥‥‥‥‥」

 ‥‥‥やっぱりだ。どうしたんだろう。

 朝とは違って無口になってしまった親友を、卯月も卯月なりに心配はしていた。普段なら息を吸うようにできる会話が、意図するとここまで難しいものになるのかと心中で腕を組む。けれど、何か話さなければ。何か話さないと、何かがヒビ割れてしまいそうで、卯月は怖くて必死に言葉を探した。

 ‥‥‥今日の天気はよかったね、って言っても一言で終わっちゃうし。

 ‥‥‥お礼をしたって、一言で終わっちゃうなぁ。

 パッと思いつくような話題では、長い会話は続かない。かと言って、闇雲に短い話題を並べるのも良くない。自分も相手も楽しくないし、それどころか、相手に不快感を抱かせてしまうかもしれないからだ。卯月の脳内は唸りを上げながら、高速回転を始めた。


「‥‥‥なぁ、なんで、オタクってオタクをするんだ?」


 二人が暗い路地に差し掛かり、リクが惜しむように夕日から目線を剥がした時だった。

 隣から唐突にぽつりと落ちた声。それは拾われることなく、地面のアスファルトに溺れるように沈んでいく。

「‥‥‥‥‥え」

 卯月は最初、聞き間違いかと思ってうまく返答することができなかった。高速で回っていた思考がキュルキュルと減速し始めてしまう。

「お前たちオタクって、なんで、こんな、辺鄙な所に集って、るんだ? オタクとアイドルってどういう関係なんだ? どういう関係でいるのが望ましい?」

 リクは普段から言葉をフィルターに通してから投げかける癖があった。それは相手が卯月であっても、家族であっても。カヤであっても、だ。自分の失言がもたらす悪影響を恐れているのだろう。

 けれど、今の彼は一枚のフィルターも挟んでいないように見えた。心で生まれた言葉をありのままの形で、器用に喉に落とし込んでいる。本人にとっては、ある種の独り言なのかもしれない。

「そう、だね‥‥‥オタク、かぁ‥‥‥」

 だが、卯月は蚊の鳴くような小さな声も見逃さず、一度落ちた言葉を地面から拾い上げ、口に含んで飲み込んでくれた。少し考えてから、虚ろな目のリクに優しい声音で返す。

「うーんとね。これは、いわば商売なんだ。‥‥‥僕たちみたいなオタクは、みんな色々な事情を抱えていて、とにかく、居場所を求めてる。温かくて、羽を休めることができるような、居場所をね。それを提供するのが、アイドル。ファンはお金を払うことで、名前を覚えてもらったり、扱いを良くしてもらったりして居場所をより良いものにする。親切も、お金も、みんな見返りを求めて支払ってるんだよ。だって、アイドルって、本当に自分たちを愛してくれるわけじゃないから。あくまでも客と提供者。個人と店。そういうのを知りつつも、やっぱり居場所を求めてオタクたちは集う。仕方ないよ、そこ以外に居場所なんてないんだもん。行き場のないむず痒い気持ちを、発散するところなんてないんだもん。なんとなくだけど、たぶん、そういうものだと、僕は思ってるよ。どうしてそんなことを訊いたの?」

 乾いた喉を唾で一旦潤すこともせず、卯月は隣の親友に視線をやった。親友は変わらず心此処にあらずの様子でぼーっとしていたが、確かにこう返答してくれた。

「行き場のない、気持ちか‥‥‥‥‥。そうか。じゃあ、俺、オタクになるわ」

 と。

 ‥‥‥え?

 ゑ????

 昨日興味があると言っていたのは覚えている。けれど、いきなり今日ライブを見て、いきなりオタクになろうとするなんて。そもそも、オタクというのは、なろうとしてなれるものではない。それが好きで、好きで、追い求めていたらいつの間にかなっているものだ。自身も例にもれず、傷を慰める為に通い続け、無事に立派なオタクへと成長していた卯月は、驚きを隠せなかった。

 自分の趣味を友が本気に受け入れてくれた喜びよりも、やはり驚きが強い。

 ‥‥‥でも、なんで?

 リクは親友である彼にも、カヤとの秘密を話していなかった。今日発生した心情の変化を勿論伝えてはいない。

「本気で、言ってるの?」

 卯月の反応は至極当たり前のものだった。

「本気。何となくだけど、そうしないと耐えられないと思ったから。これも運命だな」

 驚かせた張本人は、表面だけは取り繕って飄々とした笑みを浮かべている。目元までちゃんと笑えていたかは、本人の知る由ではないが。

「え、すごく嬉しいけど‥‥‥‥‥‥‥」

 狭い路地の闇に一言を投げかけてから、ようやく長いセリフと、驚きのせいで乾いてしまった喉を卯月は唾液で潤す。

「これ、返せって言わないよね? もう、僕のだから受け付けないけど」

 その腕の中には、二次元化されたアヤのぬいぐるみが二体いた。

 ちょこんと顔を出し、笑っている。

 対して、抱いている卯月は、取らせないと言わんばかりの顔。笑みは消えていた。

「お前、くくっ‥‥‥」

 その、必死過ぎる表情が可笑しかったからか、会場から離れ、少し緊張が緩んだせいなのか。

「だははっ、あはははっ。お前、‥‥‥っ」

 リクはじんわりと涙の膜が張られてしまうほど大いに笑ってしまった。

「その笑いは何!? もしかして、悪役が人を殺す前に笑うアレ? あ、雨宮君、僕、たぶん美味しくないよ」

「‥‥‥くくっ。お前なんか食うかよ。腐った豚肉の方がマシだ」

「ひどいよ! 雨宮君! もうっ、絶交だからね!」

「え、いいのか。お前、俺以外で話せる奴いるのか?」

「それは‥‥‥‥‥でも、雨宮君も同じでしょ。そんなに仲いい人、いないでしょ、学校で」

「‥‥‥‥‥っ」

 それは彼にとっては好ましくない返答だったらしく、リクは足を取られるような物も何もない地面で足を絡ませる。だが、転ぶ寸での所でなんとか解いた足を出し、地を踏みしめ、姿勢を戻すことに成功した。

決して離さないように、地を足で掴む。

 ‥‥‥せめて、アヤだけは、離さないようにしないと。

 カヤを諦めたばかりの掌は、あの涙の別れの日から時を経て、無駄に大きく成長している。成長するだけして、何も掴まれていない。なんと情けない姿だろう。しかし、リク本人も、隣の卯月も彼のちっぽけな手など目に入っておらず、そのまま歩いている。何処までも歩いていく運命を抱えた獣たちには仕方がないことだった。

「おっ先!」

 薄暗い路地に射しこんでくる茜色が見えてくると、リクは裏路地を卯月よりも先に、飛び越えるように抜けて、空を仰いだ。

 風が気持ちいい。汗が乾いていく感覚が、清々しい。

 太陽の最盛期を迎える前の、長いようで短い、七月二十二日の物語だった。


   ◇


 四日、いや、五日経っただろうか。リクは心にアヤだけを映し続けて、その夏休みを謳歌していた。

ある時は、ポスターで埋め尽くされた卯月の部屋で語り合い。またある時は、ライブ映像のアーカイブを漁るように見る。勿論ペンライトは忘れてはいけない。

 生のライブにも当然赴く日々。だが、謳歌だけでは終わらないのがこの世界だ。

 楽しい時間は唐突に終わりを迎える。そして、新たな試練が課される。

 運命の神様は、そう優しくはないのだ。

 きっと、万人にやってくるであろう境を渡る日。彼の場合は新たな日々が始まってまだ一週間もたたない内にその日を迎えてしまった。

 嗚呼、全く。────────────幸運でしかない。

 それは、とても風が強い日だった。それこそ、地上を覆っていた曇天が風で流され、蒼天が一部顔を出してしまうほど。

「なぁ、前回のライブで言ってた重大告知ってなんだろうな。俺、今晩はパソコンの前に張り付くつもりだぞ。‥‥‥卯月は何か情報掴んでないのか。こういうのは助け合いだろ。同盟だよ同盟」

 まだ正午に至る前の、朝の香りが残る時刻。七月の風に吹かれつつ、リクは緑豊かな道を自転車で駆けていた。隣には、話し相手であり、親友であり、オタク仲間でもある彼の姿もある。リクはダサいと言って忠告してやったのだが、彼は変に大きなヘルメットを被ったままだった。

「何も掴んでないよ。掴んだなら言ってるよ‥‥‥‥それより、今日のことを話そうよ。わざわざ遠くまで行ってグッズを手に入れるんだからさ‥‥‥‥‥ね、聞いてる?」

「ああ、聞いてる聞いてる。‥‥‥どのルートで会場に入ればいいか考えてた。効率良く回る為に作戦は必要だろ」

 物を考えるように曇天を見上げていた視線を元に戻し、リクは小さく笑った。悲しみを抱えていたかつての表情とは大違いだ。ここ数日間で、自分の気持ちをいくらか整理できたのが原因かもしれない。

「‥‥‥‥‥え。なんか、変わったっていうか。板についてるというか。‥‥‥雨宮君、立派なオタクになったね」

 まるで親が子の成長に驚いているような発言。リクは自覚していなかったが、早くも発言ひとつひとつに“オタクらしさ”が滲み出つつあった。ここに追加で“推しのグッズ”が加われば、彼は卯月の言うように本当に立派なオタクとなってしまうだろう。

 ‥‥‥あ。

 立派なオタクになるということは、同時に本当にアヤだけを追うということを意味する。

 ‥‥‥なんで。

「‥‥‥‥‥」

 リクは卯月の発言を否定しなかった。それどころか、無言で肯定もしてくれない。まるで口を奪われてしまったかのようだ。

「雨宮君‥‥‥?」

 しかし、返答を考えているわけでもなさそうだ。『立派なオタクになったね』と言われてイエス、ノーで答えられなかったとしても、言うことはいくらでもある。ツッコむところは山ほどあるのだから。

 例えば、既に立派なオタクになってるお前に言われたくない、とか。親目線で語るな、気持ち悪い、だとか。

 だが、それも言えないとなると流石におかしい。卯月もそのおかしさには気が付いているようだった。

「悪い、卯月。先に行っててくれ」

「え?‥‥‥‥ちょっと‥‥‥‥‥‥‥」

 先程までのどこか柔らかな雰囲気から一変して、リクは焦燥も加わった緊張感のある表情をしていた。山本体よりも麓を流れる大河の方が目立ってしまうほど小さな山。それを越える為に整備された緑豊かな自転車専用道路。一本道のため、当然信号機もない。目的地までの時間の余裕もある。焦る必要など何処にもないのに。

「ねぇ、雨宮君‥‥‥‥‥‥‥‥」

 明後日の方向を一度見て何かを再確認すると、リクは卯月に手を振ることもなく、自転車を茂みの方に走らせてしまった。卯月は慌てて背中に手を伸ばすが時すでに遅し。彼の目には最後、茂みを少し進んだ先で転んで、自分の足で走り出すリクの姿が映し出されていた。


 サイクリングロードから少し逸れた所に、この山本来の山道とも言える道路があった。アスファルトと白いガードレールで整備されている点は変わらないが、こちらは歩行者も車も、それこそ自転車も通行可能だ。その分、信号機も山ほど待ち構えているが。

 快適なサイクリング向きとは言い難い一般道は、その景色も良いものとは言えなかった。一生途切れることのない薄暗い緑の道は昼間でもどこか不気味な雰囲気を纏っており、仮に、深夜にここを通ろうものなら、左右から木々の見下ろす視線を受け、更なる恐怖とおまけに自然への畏怖すらも植え付けられてしまうだろう。道中でガードレールに添えられる形で幾つも見かける『転落注意!』の看板も恐怖心を加速させているように思える。

 くねくねと蛇のような道において、突然現れるカーブを曲がり切れず、ガードレールを突き破ってそのまま落下。痛みを感じる前に絶命した者は数知れず。そのせいもあってか、最近ではこの一般道を通って山を越える者は少なく、ほとんどの者は貸し出し用の自転車か、私用のものに跨り、景色も良く曲がりも少ないサイクリングロードを快走するようになっていた。

 ‥‥‥居た。なんで、あいつ。

 蒸し暑い夏に若者が好みそうな、死亡者が出ているいわくつきの道路。もし、そんな所に白いワンピーズ姿の色白の少女がぽつんと立っていたら。例え、彼女が目を奪われるような容姿をしていたとしても、明るい向日葵を想起させる麦わら帽子を被っていたとしても。

 皆、逃げ出してしまうに違いない。

 日中であっても、わざわざ追いかける者など変わり者として見られるだろう。

 だが、リクは一切の恐怖心もなく、少女の手を後ろから掴んだ。

「ひっ、び、びっくりした! だ、誰‥‥‥‥ってお兄さん?」

 お手本のような反応を示し、こちらに振り返った少女。後ろ姿では確信を持てなかった為、その顔を見られてリクは安堵で表情を緩めた。

「よかった。‥‥‥よかった‥‥‥‥げほっ、げほっ‥‥‥‥」

 ぜえぜえと息を荒げながら握った手を離す。咄嗟に手を取ってしまったのは少女の姿があまりにも儚げで、それに彼が抱えている状況も相まって。もしかしたら、すっと消えてしまうのではないかという危惧があったからだろう。

 消えなくてよかった。二重の安堵で、リクはくたっと地面にしゃがみ込んでしまった。少女は心根の優しい人物らしく、そんな彼をすぐさま腰を落としさすってくれる。

「かや、でいいんだっけか。‥‥‥‥この前、会ったとき、そう、言ってたよな。ほら、七月二十日」

 背に触れる手が温かい。この優しさは、まるで。

「そ、そうだけど。そんなことよりお兄さん、こんな所で何してるの? もしかして幼女誘拐? 私可愛いくて仕方ないと思うけど、捕まっちゃうよ、警察に」

 整った顔はまるで。

「馬鹿か。そんなわけ‥‥‥」

 自然と噛みあってしまう会話はまるで。

 まるで。

「ごめん、かや‥‥‥‥‥俺、カヤに言いたいことが」

「お兄さん?」

 膝を突いたまま、懇願するように見上げてくる年の離れた少年に少女は疑問の傾げを返す。

「俺、俺‥‥‥‥‥‥」

 その、言葉が出てくるのを待っていてくれているその姿すらも。

 ‥‥‥やっぱり、似てる。似てる、じゃ、言い切れない。そのまんまだ。カヤそのまま。

「‥‥‥‥‥‥っ」

 言葉が、詰まった。本当は何か言おうとしていたのだが、それもすぐに忘れてしまった。少女を見上げるリクの瞳から、涙の川が形成される。

 ‥‥‥ああ。ああっ。

 そして、それを拭うこともせず、みっともなく。

 年上なのに、だらしなく。

「えっ‥‥‥‥‥」

 白い花のような少女に、そのまま、抱きついてしまった。

 抱きついて、離さなかった。流石の少女もこれには驚いたようで、頭を撫でるようなことはしてくれなかった。

「ぅ‥‥‥っ‥‥‥‥うっ」

 本当に、ただ、突っ立っている。だが、純白のワンピースが涙で濡れることに嫌な表情を返しもしない。その優しさがリクの涙の生産を加速させてしまう。

「うぅ、な‥‥‥かっ?」

 ‥‥‥カヤ、なのか? 

 とくとくと流れる涙で、自分が溺れてしまっても構わなかった。

「おぇ、おう‥‥‥ひ、いい?」

 ‥‥‥俺、どうしたらいい?

 この後、警察に捕まってしまってもよかった。それぐらい、嬉しい。

 でも。

「おぅ、おおしてくれ!」

 ‥‥‥もう。殺してくれ。

 でも、同じくらい辛い。目が回ってしまう。

 リクが今日に至るまで、何度カヤのことを考えそうになり。何度誤魔化してきたか。何度自分に言い聞かせてきたか。表面では、笑顔で、アヤのことを思い続けていると自分すらも認識していても、裏面ではやはり違う。リクは夢で何度もカヤを追う夢を見てきた。夢というものはその人の無意識が“見せている”ものであり、自分の中のもう一人の自分が客観的に判断し、“伝えてくれている”メッセージでもあった。そこに、意志も誤魔化しも効力を成さない。

 彼の場合は、『それでも、諦められないんだろう?』と。『追いかけるんだろう?』と。何度も伝えられてきたのだ。

 それでも見ぬフリをしてきたのだから彼も頑固だと言わざるを得ない。しかし今日。サイクリングロードの木々の隙間から見えた、幼馴染とよく似ているあの少女を見つけてしまい、メッキが剥がれた。

 思考を全て彼女に捧げ。足はただ、追うだけになり。呼吸も鼓動も、それらを補助するのみとなった。

「‥‥‥‥っ‥‥‥」

 嗚呼、なんと情けないのだろう。嗚呼、なんと馬鹿々しいのだろう。リクは自分の今の姿がひどく恥ずかしいものになっていると気づき始めてはいたが、抱きしめたまま腕を解くことはしなかった。

 ‥‥‥このまま、ずっと居れたらいいのに。カヤの隣に居れたらいいのに。

 そして、ついに。

 禁忌としていたことを、口走ってしまう。


「‥‥‥‥ただいま。カヤ」


──────本当は君に、ずっとそう言いたかった。


「‥‥‥‥‥‥」

 リクが顔を上げた時、目の前に少女はもう居なかった。涙で歪んだ視界をとりあえず拭って周囲を見渡す。

 ‥‥‥あいつ、どこいった?

「あ、お、お前‥‥‥!」

 いきなり姿を消したことで、一瞬、幽霊だったのかと怖くなったが、やはり違った。少女は確かにいた。自分から遠く離れた所に。

 走っている。その小さな腕を一生懸命振って。

 リクはいつの間にか取りこぼしていた腕と、逃げるように走る少女を交互に見つめる。

 少女は自分の上を覆う木々の隙間から何かを見つけ、そして追いかけているようだった。何を見つけたのか。自分を追いかける価値のあるものなのか。それはリクの知る由ではなかったが、自分も彼女を追わなければならないことだけはわかったいた。

 少女が走る先には、人々を地獄へと手招くカーブがあった。白いガードレールはあるが、ちゃんと機能してくれるかはわからない。もしかしたら、ガードレール同士の隙間から飛び出してしまうかもしれない。

 彼女は上に気を取られており、正面など気にしていないまるで風だ。

 だから、自分が追わなければならない。何故だか、声を掛けるだけでは諦めて停止してくれないだろうとリクは思っていた。

 ‥‥‥わかってる。早くしないと。何やってんだあいつ。俺も、何やってんだよ!!

 しかし、しゃがみ込んだまま、彼は動けなかった。

 まるで自分から逃げるように、走る少女。その後ろ姿。腰の辺りまで伸びて、さらさらと揺れるこげ茶の髪。手首で鳴って、時たまこちらの意識をかき乱してくる鈴の音。

 走る彼女から零れ落ちる涙は、リクの幻覚が繕った。

「‥‥‥‥カヤ、おい、行かないでくれよ」

 小さな声では、走る少女に届きはしない。過去も今も、届きはしないのだ。

 必死に目を背けていたあの日の情景。その全ての要素が、偶然にも奇跡にも、揃ってしまった今。リクは激しい耳鳴と、眩暈、視界に入ってくる閃光に全部を支配され、完全に機能停止していた。動けはしない。あの日と同じように。

 自然と手が胸元の貝殻に吸い寄せられた。ごつごつと、滑らかとは言えない絶妙な手触りがこれまでの後悔を思い出させる。

 ‥‥‥くそっ。いいのかよこのままで。

「おい、カヤ! 止まれ!! 止まってくれ!!!」

 ようやく出たのは、足でも手でもなく、後悔に苦しめられた自分に蓄積されていた悲鳴に近い叫びだったが。

「‥‥‥‥で、でも、風船が‥‥‥‥」

 少女は、髪を綺麗に揺らして振り返ってくれた。走るスピードも落ちつつある。

 ‥‥‥よかった。

 だが、喜んだのもつかの間。少女が次の一言を紡ごうとした刹那、彼女はガードレールに顔面を強打した。すぐにしゃがみ込み、後頭部を手で覆う。


「うわぁぁぁぁぁぁぁん、痛いよぉぉぉお!! お兄さんの馬鹿ぁぁぁ!!」


 最悪の事態は免れたようだが、善と悪でいえば、『悪』のはずれくじを引いてしまったらしい。リクは背後から視線を感じた気がしたが、振り返って見ても苔の生えた地蔵しか鎮座していなかったので、なんだ気のせいか、と少女の元へと駆け寄ることにした。

「‥‥‥いや、悪かったって。でも、お前、小さくてよかったな。背が高かったらガードレール飛び越えて真っ逆さまだぞ」

「知らない! お兄さんの馬鹿! 鼻痛い! 足も痛い! 手も痛い!」

「いや、関係ないだろ。その辺は」

 さすってやろうとしたリクの手を払い、少女は報復攻撃と言わんばかりにひたすら胸板をぽかぽか叩いている。彼がこの数秒の間に永遠に等しい旅をおくっていたことなど知る由もないのだから、当然の反撃ではある。

 ‥‥‥第一、なんで急に走り出したりしたんだよ。いきなり置いてくなんてひどいな。

 喉元まで上がってきた言葉だったが、発せらる前に、少女が答えをくれた。

「風船‥‥‥赤い風船‥‥‥‥‥追いかけないと。あれ、私のなの」

「ん? なんだ? 風船?‥‥‥‥って。おい‥‥‥‥」

 少女が指差す方向。ガードレールの後ろに広がる壮大な景色には確かに赤い風船が存在していたが、驚くのはそこではなかった。

 リクも少女も思わず息を呑んでしまった。

「‥‥‥‥‥なにあれ。珍しいね。神様がちりとりとほうきでお掃除したのかな」

「そう、だな」

 鬱蒼とした木々の道を抜けてきたせいでもあるが、目の前のひらけた景色に当然のように映り込んでいる『奇跡』のようなそれは、どこまでも美しく、耐え難い何かが込み上がってくるのをリクは感じていた。

 ‥‥‥風の、せいなのか。

 先程までの在った曇天を払い、顔を出している蒼天。

 ただ、それだけではない。

 晴と曇の境界線が、定規で引いた線の如く真っ直ぐと伸びている。まるでこの世界の天気がそこで二分割されているようだ。

「‥‥‥痛いけど、なんだかいいもの見れたから許す。お兄さん、アイス買ってよ。ねぇアイス!」

「お前、なんかちぐはぐだし、根に持つタイプだろ。頑固だろ、絶対」

「がんもどき? あれ嫌いだからアイスがいい。買わないと一生恨むから!」

「‥‥‥‥‥‥はいはい。ってか、家に帰らなくていいのか。ありゃ、風船は無理だからもう帰った方がいいぞ。あ、なんなら送るぞ。家まで」

 二人の会話は、誰もいない道路の上で静かに流れていく。記録されるのも、彼らの脳によるものだけだろう。

 ‥‥‥下山したら、ゆっくり話すか。

 どうかこのまま穏やかであれ。何も起こるな。

 しかし、こういう穏やかな会話のひとつひとつすら、彼の“謳歌”に入ってしまっているのなら。

 運命の神は、それを許さないに違いない。

 二人は為す術もなく、境界を渡ってしまうのだ。

 ‥‥‥っ。まずい。

 リクは『それ』にいち早く気づいて、胸に押し込むように少女を抱擁したが、二人の体重だけでは『それ』の重みには勝てなかった。


 ばんっ


 二つの命を刈り取るにはあまりにも軽すぎる音が響き、二人はガードレールを越えて宙に投げ出された。リクは、それでも少女の手だけは決して離さなかった。

 ‥‥‥ああ、神様は憎い。

 リクは、遅回しの映像の中。

 嫌に眩しいヘッドライト。石を踏んでふわりと上がる車体。恐らくは来世でも好きにはなれないあの色。拝めなかった、一生恨むはずだった運転手の面。

 ‥‥‥カヤ、最期まで一緒だからな。

 幼馴染との日々を思い返すわけでもなく。

 ただ、薄暗い道路に突如として現れ、数秒前に自分たちを跳ねた白いトラックのことを思い出していた。

 ‥‥‥これから、死ぬのか。

 不思議と死ぬ感じはしなかった。

 ‥‥‥死なせたくない。俺が二回死ぬ方がいい。

 強く握り返された少女の手は、自分のものより温かい。とく、とく、とく。一生懸命脈も打っている。尊い命が、そこには確かにあったのだ。

 恐らくはこのまま、二人揃って地面に着地してしまうのだろう。着地といっても、そこに生命は伴っていない。ぐしゃりと生々しい音は伴うだろうが。

 リクは完全に諦めたのか、少女の肉片を見たくないからか、目を、硬く閉ざしてしまった。それを真似るように少女も涙を零しながら、視界を闇に落とす。

 ‥‥‥私、この人とどこかで会ったことがある気がする。


 どく、どく、どく。とく、とく、とく。どく、とく、どく。とく、どく、とく。


 生命の終わりまで秒読みのふたりは。


 握り合った手中に後悔を隠しつつ、空を飛び。


 天気の境を、一緒に渡った。


「リク?」


 そして。最期に。大地へと────────────着水を遂げた。


   ◇◇ 『追憶:あの人の行く方に』


「‥‥‥どうして、たすけてくれたの‥‥‥‥」


 蚊の鳴くような、説教中の子供が弱々しく謝るような、そんな小さな声で少女は言った。彼女は既に大泣きした後らしく、頬に涙の跡がある。こげ茶の髪も乱れている。

「うるさい。お前なんか、誰が」

 そんな彼女に潤んだ瞳で見上げられ、たじたじになっている少年。そっぽを向いて尖らせた口で放った言葉が本心からのものでないことは大人たちから見れば瞭然なのだが、実際、言われた方は、もう泣き出してしまっていた。

 ‥‥‥泣き虫はきらいだ。

 少年は自分で泣かせておきながらそう思う。胸元につけられた名札を、なんということもなく握り締めた。

 ‥‥‥こいつは、訳が分からない。

 自分にここまでさせる彼女がよくわからない。彼女の何がそうさせるのか全くわからない。少年は今より数分前、ここで親友とも呼べる間柄の少年をふたり、ひどい有様になるまで殴ったばかりだった。自分の手は血に染まり、彼らは泣き喚いていた。『ひどい!』『もう友達じゃない!』突き刺さる言葉を投げつけながら。

 どく、どく、どく。今更になって、心臓が慌てだす。とんでもないことをやってしまったのではないか、と思考が揺らぎだす。

 ‥‥‥あいつら、今頃チクってるかな。

 いつもは一緒に先生を困らせて、よく怒られた間柄だ。それが今日になって、まさか自分だけが叱られる側になるとは思いもしない。少なくとも、少年が昨晩眠りに落ちた時は、そうだった。

「くそっ‥‥‥‥」

 後悔とも焦りとも似つかぬ顔で名札を更に握り締める。彼の母親が知れば、まずはぐちゃくちゃにしてしまった名札の説教から始まるに違いない。鬼のような形相で怒る彼女を宥める病弱な父親の姿まで少年の脳裏にははっきりと浮かんだ。

 ‥‥‥父さんは絶対に怒らない。

 そう言えるほどの確信が少年にはあった。なぜなら、つい最近、彼は父親から言われたばかりだったからだ。

『いじめ、はいけないんだよ。もし、されてる子がいたら、助けてあげて欲しいと父さんは思う。でも、それでお前がいじめられるようなことがあってはいけない。‥‥‥うーん。世の中、難しいね。父さんも、もう長くないかもだし。世の中、残酷だ』

 普段は酒も飲まない父親だったが、その日は珍しく赤らめた顔で夢を見るように語ってくれたものだ。あまり興味がなかったので、少年は流すように聞いていたのだが、いざその場面がくるとその声が背中を押してくれた。


『おい、お前ら、何してる‥‥‥!』


 古びた小学校の、ボロ屋敷に近い風貌の鶏小屋。彼がそれを目撃したのは、給食を終えたばかりの昼休みだった。

 いつも教室の隅で本を読んでいる変わった奴。何故だかは知らないが、常にどこかしら怪我をしている物静かな奴。本当に目立たない、恐らくは一番自分が彼女のことを観察しているし、知っている。

そんな、彼女が、親友二人に棒きれで殴られていた。

 ‥‥‥信じられなかった。

 面白いから先生を困らせる。叱られるのは少し格好いい気がする。彼らもきっとそうだと少年は勝手に思い込んでいたのだ。

 まさか彼女の怪我の原因でもある“いじめ”に加担していたとは。

 しかしその時は、疑問よりも先に、怒りがきてしまったらしい。

 少年は何も考えず突き進み、気が付いたら親友二人を再起不能に陥れてしまっていた。

「‥‥‥っ‥‥でも、ありがとう。こわかったから、ありがとう」

「知るかよ。俺は、人を殴った最低な奴だ」

 彼と彼女の始まりは、そこからだった。


「ねぇ、ねぇ、聞いてる!?」

「うるせえ。なんでついてくるんだ!」

 少女、晴世茅乃はその日から廊下で彼を見かければひたすら追うようになり。

「おい‥‥‥最近は大丈夫なのか」

「え、うん。なんともないよ。‥‥‥アキ君たちとはまだ仲直りしてないの?」

「するか。あんな最低な奴らと」

 少年、雨宮陸斗は自分の気持ちに気づき始めていた。

 だが、彼はまだ幼い。恋とか、愛とかそういう言葉は知らない。ただ“すき”という感情がこれなのかとわかってきただけ。当然、伝えるに至るまで大きい想いになっていないし、その勇気も持ち合わせていなかった。

「りく、リクって呼んでいい? お友達になろうよ!」

「いやだ」

 後ろから袖を掴まれ、友達契約を結ばされそうになったことも数多い。リクはその度に断っていた。

 ‥‥‥恥ずかしいだろ。やめろ。

「かや、カヤって呼んでよ! もう、親友だよね!」

「まだ、と、も、だ、ち、でもないからな」

 しかし、やがて彼も気づくようになった。

「ねぇ。そろそろ、友達‥‥‥‥」

「お前って、頑固だろ。父さんにそっくりだ」

「え、がん‥‥‥? なにソレ?」


 ‥‥‥リク。私はリクのためになりたいの。これはもう、決めたことなんだ。


 少女の難儀な特性は、例え麗しい人に成長しても、決して消えることのないものだった。いつまでもそれを抱えて、生きている。

 抱えて、舞台へあがっている。

 抱えているせいで、苦しんでもいる。

 だが、想い人は、そのことを知らない。

 ‥‥‥ごめんなさい。ママ。

 傷もまた、決して消えることはないのだ。


   ◇◇


 冷たい何かに揉まれる全身。苦しい呼吸。真っ逆さまに落ちたせいか、頭部に激しい痛みが走っていた。だが、生きている。そう、リクは、彼らは運よく麓に流れる大河に着水し、一命を取り留めていたのだ。

 ‥‥‥泳がないと。

 生きているのはいいが、このまま沈めば死んでしまう。混濁する思考の中でも、それぐらいはわかった。リクは自分の体を叱咤し、なんとか手足を動かした。

 泳いで、泳いで、泳ぐ。自分が救うべき人を探しながら。

 一秒たりとも無駄にできない。

 しかし、流石に大河というだけあって、流れも水深も馬鹿にできなかった。リクは一旦水面に顔を出し、息継ぎをしてから姿が見えない彼女を探すことにした。

 ‥‥‥かや。

 ぶくぶくと、口から溢れる泡たちを背景に、リクは少女のことを思い浮かべた。まだ小学生とも言えそうな小さな体躯、顔立ち。おまけに服を着ている状態。彼女が自力で泳いで陸までたどり着けるとは思わなかった。

 ‥‥‥俺が、助けないと。

 何度も取り逃がしてきた手は、嫌でも目に入ってしまう。泡も水も、やはりすり抜けていく。結局、今日も声でしか呼び止められなかったと、頭に鈍痛を伴う後悔が流れ込んできた。

 ‥‥‥俺って、なんでいつも。

 堪らなくなり、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。

 だが、そんな時。

 透明な壁の奥の奥で。


 ‥‥‥あ、いた。


 リクは宝物を見つけ、目を見開いた。

 こげ茶の髪を水中で泳がせながら、漂っている麗しいもの。リクの視界に突如として入ってきたのは、人魚姫のような少女だった。それも何故か裸で。高校生のような体躯で。

「(いた?)」

 ぼこぼこと、ただでさえ枯渇気味の空気が、彼の中から抜けていく。思わず、声を上げてしまったらしい。ただ、水中であるため音は生まれず、泡が出るだけで終わってしまったが。

 ‥‥‥え。

 もし陸上だったなら、さぞ裏返った驚愕の声に自分でも笑ってしまっていただろう。

 ‥‥‥でも、だって。

 いきなりトラックで跳ねられた。死ぬと思っていたのに、何故か生きていた。かやかと思っていたのに、違った。一息吐く間もなく与えられ、交差していく濃い情報たちに、リクは自分が水中にいるのも忘れて、息を吸いそうになる。

 ‥‥‥でも、今は。

 しかし、今はと。ぎりりと歯を食いしばり、リクは己の手に三度目の正直を賭けて彼女に伸ばした。

 ‥‥‥今、は。

 鼻を抑えながら、上を漂う彼女の細い腕を掴み、引き寄せる。顔を覗き込むと、もう、耐えられなかった。目は死んだように閉ざされていて、あの時のように泣いても、笑ってもいないのだがやはりそうだった。

 ‥‥‥見間違えじゃ、なかった。

 彼女は、紛れもなくカヤだった。

 ‥‥‥絶対に。もう。

 再会して、三年振りに彼女に触れた。本当は飛び上がるほど嬉しいはずなのに、不思議と彼にそのような感情は湧かなかった。裸体を見て生まれそうな卑しい気持ちも、また同様に。

 ただ。

 ‥‥‥死んでないよな。死んだら許さないからな。

 救いたい気持ちが、先行していた。


 それから、事態は川の流れのように静かに、しかし確実に進行していった。

 まず、無事に陸に引き上げた少女に自分の服を与え、徐々に猛熱に侵されていくように顔が赤くなっていく彼女の変化に、生存と緊急事態を察知し、近くの病院へと送り込んだ。

 携帯電話は水没して使い物にならなくなっていたが、幸い近くに病院があった為、お姫様抱っこをして搬送する形となった。

「え、あ、はい。そ、そうですか‥‥‥‥」

 全身水浸しの少年少女。それに、何故か少年の方は上裸で何処かの民族かと疑いたくなるような恰好をしている。受付の女性が怪訝な態度をとるのも無理はない。だが、リクにとってはそんなことはどうでもよかった。それよりも、望まぬ事態が待ち構えていたからだ。

「大変申し訳ないのですが、本日、外来は受け付けておりません。そもそも、ここ、小児専門の病院ですし。大きな病院からの招待状がないと、診療もできませんよ」

「いいだろそれぐらい。一人ぐらい、いいだろ。こいつ、なんとか生きてる。でもなんかすごい体とか熱いんだ。これって、普通じゃないだろ。四十度くらいあるぞ。な、なぁ」

「いいえ、しかし、決まりですので‥‥‥」

 苦言交じりに言われて、リクは怒りと焦りのままに受付の机を拳で叩きそうになる、が、途中でなんとか堪えた。ここでいくら騒いでも、地団駄を踏んでも意味を成さないどころか、更に事態を悪化させる要因にしかならないと、本人も理解はしているようだ。

 とりあえずは、と受付から渡された柔らかいタオルで彼女を包み込み、待合室の一席を借りて沈黙するしかない。触れてもいるし、荒い息遣いも聞こえるほど近くにいる。彼女の全てがここにある。それなのに、救えない。手の空いた受付の者が他の病院に電話をかけてくれているようだが、リクの焦燥感、無力感は増すばかりだった。

 ‥‥‥かやは、カヤで。カヤは、かや、なのか。

 考えていると頭が可笑しくなりそうな疑問は初めから諦めて、考えないようにしている。今はとにかく、カヤが無事でいることが望みで、その為のことを思考するのがリクの役目だった。

「って言っても、俺に何ができるんだ。まるで意味ねえじゃねえか。‥‥‥余計なことばっかり学んで、大事なことはひとつも‥‥‥‥‥くそっ。くそっ、くそがっ!」

 痛いほど拳を握り締めても、現状は変わらないのだ。世界は自分中心に回ってはいない。自分より優秀な人は山ほどいて、その人たちが創ってくれた世界に生かされている。仮に世界を掌握できる力を手に入れたとしても、自分中心に回すことは不可能だろう。

「今は、こうするしか‥‥‥」

 そう、諦めるしかないのだ。

 ‥‥‥くそっ。

 力なく視線を下ろしたが、自分の膝の上で苦しんでいる彼女を直視できず、リクは視線を病院の窓へと逸らした。てっきり、胃が痛くなるような曇天が広がっているかと思っていたが、すっかり晴れていた。彼方の空には虹が見える。どうやら、リクは相当な時間受付と押し問答をしていたようだ。

 ‥‥‥奇跡みたいな虹だな。何か、良い事ないかな。カヤを救える良い事。

 例え、いま自分に宇宙に漂う全ての物体が隕石として降り注ぐ不幸がやってきても、カヤ一人救える幸と引き換えなら構わないとすらリクは思う。

 実際は隕石着弾の瞬間にカヤもろとも木端微塵になってしまうため、意味がない。

 意味がないが、今の彼がやることと言ったらそれぐらいしかなかった。

 ‥‥‥祈るしか。

 神は聞いてくれているだろうか。聞いていたとして、救いの手を差し伸べてくれるのだろうか。

 馬鹿みたいだが、リクはちゃんと天井を見上げながら両手を合わせていた。

 ‥‥‥よく考えれば、俺って十分不幸な人生歩んできてるよな。今日もそうだし。

 父親の早死。母親の暴力。想い人の喪失。そして、トラックとの衝突。

 思い返せば、色々あったなとリクは唸る。

 ‥‥‥ん。待てよ。

 もしかしたら、神は存在しないのかもしれない。

 ‥‥‥これって、いつ幸運が訪れてもおかしくないよな。

 ただの偶然なのかもしれない。

 だが、人々はそういう暗闇の中で見つけたたった一つの偶然に、喜びや笑顔を吹き込みこう呼ぶのだ。


 奇跡、と。


「あ、カヤ! やっぱりここに‥‥‥! ってあんた、あの時の」

 偉そうな口調、偉そうな目つき。偉そうな態度。総じてやはり、偉そうな人物。

 息を切らしながら病院の入り口を突破してきたのは、頭に一葉を乗せた長い黒髪の持ち主だった。


「なぁ、本当なのかよ」

 幼馴染を負ぶり、突然の来訪者に手を引かれて院内を歩くこと数分。

「本当よ。なんか、あんた、運いいわね‥‥‥‥‥ここよ」

 リクの前に、美女がいった通りのものが姿を見せた。

 無機質な素材で作られた真白な戸。纏っている温度も夏にそぐわず冷たい。ただ、アクリル板で保護されている紙面だけが、その部屋の持ち主を示していた。

「なんか、不気味なところだな」

 何に対してその感情を抱いたのかは聞かず、美女はただ戸に手を掛け、開けた。そのひとつ動作すらも美女にとっては辛い仕事らしく、小さな溜息をついた後、表情が不自然に歪むのをリクは一瞬だが捉えた。

「ここで、今はカヤが生活してるんだな」

 病院受付のある棟から少し離れた所に位置する病棟。そこには一階から五階まで長期入院や検査入院をする患者の為の病室が連なっていた。リクの眼前の部屋もそのひとつのようだ。

 ‥‥‥天国みたいじゃないか。

『二〇五号室 晴世茅乃様』と、可愛げもない名を与えられた部屋に入る瞬間、リクはふとそう思った。

 羨ましい、という意味の『天国』ではない。恐らく、彼が『天国』だと思ったのは、入った部屋が壁紙から調度品のひとつまで総じて真白で統一されていたからだろう。人は何かと白に天国を連想しがちだ。

「‥‥‥‥‥」

 ここの病室で実際に息をひきとり、本当に天国へ旅立った者も勿論いるだろう。リクは表情筋を一時停止した後、気味悪いものを追い払うように首を振った。

 ‥‥‥そんなこと、有り得ない。

「おい。‥‥‥お、お前、こっちは手が塞がってるんだから戸を閉めるぐらいはしろよ」

「お前、じゃないわ。私の名前は雪。木下雪。‥‥‥あんたには、カヤのことの礼もあるし、特別にそう呼ぶことを許可するわ」

「なんだよ、偉そうに。‥‥‥まぁいい。俺はカヤの、実は幼馴染で、名前は‥‥‥」

「リク、でしょ。よく知ってるわ」

 部屋唯一の色でもある大窓を背景にその言葉を紡ぐ美女の姿は、幼いいたずらっ子のようにリクに映った。何か、二人の過去や秘密を知っていそうな表情だ。

 ‥‥‥もしかして。いや、もしかしなくても。

 幼馴染であることを良い事に、他人に知られたくないようなセリフをカヤに放ったことは多々あった。

 リクは少し考えてから、赤面し『さっさと戸を閉めてくれ!』と怒鳴った。


 カヤの担当医が到着したのは、それから数分経ってからだった。

医者というのはなんと忙しい生き物か。その出で立ちから多忙極める日々を想像するのは難しくない。

「はぁ。私、機械に生まれるべき人だったのかも‥‥‥‥あっ。つい独り事が。まったく私、しっかりしないと。‥‥‥って、また。もう、恥ずかしいからやめてよね私」

 それから、恥ずかしそうに笑い出す始末。まだ入室する前の、閉ざされた戸の前でもう一人の自分と話しだす様は、もはや解説不要の疲労の証拠だ。

 では、本題の出で立ちはというと?

 これも同じくらいひどいものだった。

 まず、彼女と対面する者が見るのは、隈をこさえた目元、すっぴんの顔。寝癖がないのは恐らくは奇跡だ。彼女の腕の良さ、それゆえの請け負う患者の多さをも反映する、首から下げられた幾つもの院配布の携帯は行く先々で使い分けられているのか、背面にはメモ書きが貼り付けられていた。

「すいません。自分たちの患者も覚えられない忘れん坊の受付ちゃんを叱ってたら遅れちゃいました‥‥‥」

 それでも終わらず、ようやく戸を開けてリクの前に現れた女医は、鈍器のような無数の書類を抱え、ボロボロに朽ちてしまっているサンダルを引きずって入室してきた。

「‥‥‥」

色々戸惑っているリクに代わり、木下が返事をして彼女を迎えた。

「先生、いいのよ。それより、カヤよ。今はベッドに寝かせてるから落ち着いてるけど、さっきまでは息も荒かったし。熱は今もひどい。それになんか、高いところから落ちたとか、こいつが‥‥‥‥」

「そうですか。わかりました。‥‥‥ちょっと君、状況を詳しく訊いてもいいかな?」

 医者ならではの落ち着いた雰囲気のまま、女医はベッドの隣の椅子に腰掛ける。恐らくはひどい目にあったのであろう少年と目線の高さを合わせて、優しく問いかけた。

「‥‥‥‥」

「ちょっと、あんた」

「ああ、はい‥‥‥!」

 背を叩かれて、リクはびくりと体を震わせた。何から話せばいいのやら、と頬を指先でぽりぽりと掻いて思案しているようだったが、反対の手はその間も常に背中をさすっていた。もしかしたら、相当な一撃を木下からもらったのかもしれない。

 ‥‥‥卯月がやられたら絶対に喜ぶな、これ。あ。ってか、そういえば。

 親友は今もひとりで自分の到着を現地で待っているのだろうか。少し心配にはなったが、連絡するにも携帯は水没しているし、会場が開けば笑顔で駆け回り、一人楽しむ彼の姿は容易に想像できた為、リクは放っておくことにした。

「‥‥‥もしかして、何か言えないコト?」

「いいや、別に、そんなことは‥‥‥」

 親友を憂いるよりも、彼にはいま、現状を伝えるという重大な役割があった。

「その、なんというか。‥‥‥端的に説明すると、山道で車に跳ねられて二人揃って真っ逆さまに落下。死んだかと思ったけど、大河に落ちてたみたいで生きてた。カヤは陸に上げた時から熱は出してたから慌てて連れてきたって感じだ。‥‥‥‥‥あっ、あと。怪奇現象みたいのも起こったんだ。車に跳ねられる前はかやだったのに、川に沈んでたのはカヤだったんだ。おかしくないか? これ」

 それを聞くや否や、女医は考え込むように自分の毛髪にペンをねじ込んで、回し始めた。ぐるぐる、ぐるぐる、と。まるで渦を巻く彼女の脳内のように。

 しばらくしてようやく何かに至ったらしく、リクの肩に手を伸ばし、優しく叩きだした。

「えーっと。君、理系でしょ。絶対に‥‥‥うん、やっぱそうだよね。まぁ、君の可哀想な国語力は置いておいてですね‥‥‥ちょっと、こっちから色々と補足説明しないといけないことが出てきたみたいなんだ。おっと、そんな身構えることでもないから。そうそう、深呼吸、深呼吸」

 そして、女医は人差し指を上げて、口を開く。これから告げられることが、重要な内容であることは無論リクも理解はしていたが、彼の予想は大きく裏切られることになる。重要を通り越して、最重要。驚愕を通り越して、唖然。全く予想すらできない内容が吹っ掛けられたからである。

「茅乃ちゃんはね、アイドルやってるらしいんだけど。私もよく知らないんだけどね、いきなり家を飛び出してきちゃったみたいなの。親が反対したのかな‥‥‥。事務所のオーディションには受かってたみただし、しかも寮もついてたらしいから、心配事が少なくて、思い切って家出しちゃったらしいわ」

 語る女医の瞳には真摯に聞いているリクが映ってはいるが、何か違うものを見ているようにも見えた。病院に連れ込まれ、泣く泣く経緯を話す過去の彼女を見ているのかもしれない。

「それから、月日は過ぎて。茅乃ちゃんもようやくちゃんと親御さんと話す決意がついたみたいで、家に連絡して、お母さんと事務所で会う約束をしたらしいの。きっと、いっぱい悩んで、謝りたいこと、伝えたいこと、考えてその日を迎えただろうね。でも‥‥‥」

 まるで大きな物語を語るような話し方に、リクはごくりと唾を飲み込んだ。物語の主人公は自分がよく知る幼馴染なのだが、違う世界で生きる彼女の方は全く知らなかったのだ。

 『でも』の後には何が続くのだろうか。主人公はどんな事件に巻き込まれてしまうのか。

 彼はすっかり、聞き手に腰を落ち着けていた。

「でも。お母さんはその日、現れなかった」

「なんで?」

 たまらず、聞いてしまった。だが、女医は答えることなく、制するように手のひらを見せる。

『黙って聞いていろ』と、鋭い視線による二重攻撃も受けて、リクは説教中の子供のように小さくなった。

「不思議に思った茅乃ちゃんは、もしかしたら迷ってるのかもって待ち合わせのレストランから出て辺りを少し歩いて回った。‥‥‥そして、数分歩いて、辿り着いた交差点」

「‥‥‥」

 言葉に出すことも憚られるのか、女医は一息ついて前髪を掻き上げる。まだ若い人ではあるが、額には疲労以外の皴が刻まれていた。

「茅乃ちゃんは、見てしまった」

 またも、自分の喉が何かを飲み込む音がリクには聞こえた。ただ、先程のとは違ってひどく乾いていて、飲み込んだ後、喉がからからになってしまった。

「何を?」

 掠れ声でそう言いつつも、つい気になって隣で静観している木下に視線を流す。彼女は大人しく椅子に座っている。目を固く閉じ、腕を組んで。しかしそれ以上に、言葉で言い表せないような難しそうな顔をしているのが彼の中ではやけに引っかかった。

 ‥‥‥そんなに、目も当てられないような話なのか?


「お母さんの死体を」


「‥‥‥交差点で大型トラックに引かれて、ぐちゃぐちゃになったお母さんの死体を、見てしまった‥‥‥‥」

 その声すら痛々しい。聞き手のふたりには当然、語り手である女医の脳内にもその惨劇の図が鮮明に映し出された。内蔵をぶちまける母親。呆然と立ち尽くす娘。自分の目で実際に見た映像にはモザイク処理は施されない。ありのまま、映し出される。当時の彼女は、さぞショッキングな映像を細部まで見てしまったことだろう。それこそ、今後一生消えないトラウマを抱えてしまうほど。

「その日は、大雨の日だった」

 落ち着いた声音で、残酷な響きを纏って告げられた言葉により、映像は完成される。

 灰色か、白色か、はたまた彼女には血涙で紅く見えたのか。そこは聞き手の想像の余地ありだが、大空を覆う雲たちも。

 そこから降ってきて、交差点で川を成し、最愛の人の血を運ぶ雨粒たちも。

 全てが明瞭に、浮かび上がった。

「‥‥‥‥っ」

 リクは咄嗟に手で口を覆ってしまった。何かが喉元に上がってくる感覚を覚えたらしい。

 ‥‥‥そうなのか。そうなのか。そうなのか。そうなのか。そうなのか。

 自分たちの中心で眠り姫の如く静かに瞳を閉じている少女。表情は一見して苦しいものには見えないが、もしかしたらと、考えると堪らなかった。

 ‥‥‥もしかして。今も。


 母親の死に姿を、夢で見ているのではないか、と。


 こうして、少女は晴れの日は、正常に成長した高校生の姿に。

 雨の日、または白雲蔓延る曇りの日は、トラウマを発動し、誰かに守って欲しいのか、幼子の姿になってしまうようになった。

 薄暗い病室で女医から告げられた物語の結末は、信じられないような内容だったが、リクには何か心当たりがあったらしく、終始唇を噛んでは涙ぐんでいた。

 ‥‥‥あの馬鹿。

「一応、二人の『カヤ』の記憶は別々らしいから、私たちもむやみやたらに幼い方にはこの話を持ち掛けないようにしてる。流石に、残酷すぎる話だからね。適当言って、誤魔化すしかないの。だから君も、お願いね」

「‥‥‥‥」

 リクはそれに、すぐに頷けない。

「あと、そうだなぁ‥‥‥。茅乃ちゃんが検査も兼ねての経過観察の為に七月の半ばくらいから入院してることは知ってるのかな?」

「ついさっき聞いた。こいつ‥‥‥木下から」

「そう。じゃあ、もう話すことはないわね」

 沈黙するリクと木下の頭をひと撫ですると、女医は椅子から立ち上がった。自分がいま一番集中すべき患者を覗き込み、額に手を当てる。

「‥‥‥確かに、熱いわね。‥‥‥この子のことだから、何か負荷をかけたり、リハビリを自主的にしたのかな。いや、そうね。そうしないと、こんなにひどくならないもの‥‥‥」

 本人はお得意の独り言のつもりだったが、内容は外に駄々洩れだ。

 はっと遅れて気づきはするも、特に取り繕うこともなく少年少女に向かって言った。

「何か、この子の今後の予定を知らない? ほら、遊園地に行くとか、旅行に行く、とか」

「そんなもん、知るかよ」

「し、知らない‥‥‥わ‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥あら、そう。わかった。ありがとうね‥‥‥‥あっ、そうだ」

 木下の反応に一瞬だけ眉を顰めるが、女医はすぐにもとの表情に戻った。何か、重大なことを思い出したらしい。突然小気味よく手を叩いた。

「少年、車で跳ねられたって言ってたよね? それ、どこの山かな? それから、その車の特徴とか。‥‥‥知り合いに、敏腕刑事がいるのよ。すぐにとっつ構えて、そいつの首を断絶機で跳ね飛ばしてみせるわ‥‥‥!」

 嬉々とした態度で言っているが、語る内容は人の命を救う医者に相応しくない。けれども、そのちぐはぐさが功を奏し、重い空気が少しだけ軽くなったのもまた事実である。

 ‥‥‥こいつ、これでも医者かよ。

 何かまずいものを垣間見た気になっていたリクも、ついついぷふっと吹き出してしまった。


 よほど腕の立つ医者なのか、女医は患者の周りを一周くるりと回ると、すぐに判決を下した。彼女の病状の原因と、その解決方法を下したのだ。それは、リクにとっては酷、というか大変なことだったが医者に言われた以上、従うしかなかった。

 時刻は夕刻。貝浜街小児医療病院。二〇五番目の病室には、女医の命令を受けて一時帰宅をして戻ってきたリクと、いまだ眠り姫状態のカヤしかいない。木下は何やら用事があるらしく、リクにカヤを任せて早々に帰ってしまっていた。

「はぁ‥‥‥」

 左手には寝間着、歯ブラシ、タオル等々学生が修学旅行に持っていくような物品が入った鞄。右手には祖母から託された見舞いの品。そんな彼の表情は少しだけ薔薇色に染まっている。カヤが目覚めていないのだけが唯一の救いといったところか。

 ‥‥‥明日まで目覚めなくていいのに。

 口に出そうになった言葉を唾と一緒に飲み込み、そんな冷たい、最低な考えを一瞬でも自分が持ってしまったという事実に、二つ目の溜息も出てしまった。

「はぁ‥‥‥」

 そしてもう一つ。

 ‥‥‥あの馬鹿女医め。

 自分がこうまでなってしまう原因を作った張本人。リクはそれが憎くて仕方なかった。

あの、ずるがしこい大人がするような笑みで伝えられた言葉が、脳内で回って、いつまでも、どこまでも帰ってくる。

『茅乃ちゃん、ちょっと精神が不安定になってるみたい。高熱の原因は恐らくそれだね。‥‥‥そこで少年に協力して欲しいのだが』

『なんだよ』

『ここって小児専門だから、小さな子が夜寂しくないようにって、申請すれば夜も見舞い人が滞在することが可能なんだよ。よく、親が利用するサービスだね』

『で?』

 ここまででも嫌な予感はびんびんに感じていたのだが、そこで話の腰を折ることができるリクではない。もしかしたら、一匙のやましい気持ちもあったのかもしれない。

『君、幼馴染なんだよね? だったらさ、添い寝でもしてあげて。それで、悩み、聞いてあげて。少しは楽になるかもしれない。茅乃ちゃんの精神安定剤に、君はなってもらうよ』

 もはや、最初から拒否権などないようだ。呆然としているリクに微笑みかけ、女医は申請書にサインだけ残して去って行ってしまった。

『もし変なことしたら、殺すわよ』と脅しの言葉を吐いて帰宅する木下を見送り、それから自分も帰路につく。もう一度ここに来るのだから、『帰路』なんて大層な言葉は相応しくないのかもしれない。

 帰宅後はすぐに準備を整え、また同じ道を辿って戻ってきた。

「‥‥‥起きたカヤになんて言おうか」

 大きな鞄と見舞いの品が入ったビニール袋を空の椅子に置き、夕日差し込む部屋でリクは幼馴染の寝顔を見つめる。

 大人の女性ように美しく整った、それでいて子供のような顔だ。

 ‥‥‥三年振りに、本当に、再会するのにな。

 リクは痛そうに頭を抱えた。

 彼女の美貌の中に溶け込んでいる無垢さが、更なる罪悪感を彼に植え付けるのだ。植え付けられた罪悪感は、心に深く根を下ろし、そこから背徳感や心からの申し訳なさにも派生していく。もはや、負の感情の連鎖は止められそうになかった。

 ‥‥‥いっそ、死んじまうか。

 例え心中であっても、それを心の病に侵され苦しんでいる者の前で言うのは禁忌だ。見舞い人として最低だ。わかっているのか、いないのか。それとも、もう全てが疲れてしまったのか。リクは何もかもを投げ出すように、全体重を椅子に預け、夕焼けを背景にうな垂れてしまった。

「‥‥‥ちっ」

 けれど、ずっとそうはしていられない。チッ、チッ、チッ、と響く秒針の鼓動が彼に次の行動を促し続けるのだ。これは、夜道で何者かに追われているのではないか、と警戒する心と似ている。そうすると、つい、じっとしていられなくなる。何か行動せねばと心臓がざわつき始めてしまうのだ。

 ‥‥‥リンゴでもむくか。

 ざわめきに追いやられるがままに、ビニール袋から丁寧に包まれた赤林檎と果物ナイフを取り出し、握る。一見不器用そうな男子だが、リクにとって、リンゴをむくなど朝飯前のことだった。こうして単にナイフを握っただけで、明日の夜、帰りが遅い母親の為に作り一緒に食べるものまで自然と考え始めてしまうほどなのだから。

 ‥‥‥カレーにするか。味濃いものだと、もしかしたら毒盛ってもばれないかもな。

 ははっと笑ってみるも、誰も反応してくれない。リクはなんだか自分が情けなくなってきた。幼馴染の過去に飛び込む勇気もない奴に、人ひとり殺す勇気など無いに違いない。嗚呼、なんて愚かで、いくじなしなんだろうと。

 ‥‥‥まして、自分の命なんて。

 最近入ってきた暗いニュースは、著名人が唐突に自らの命を断ってしまうというもの。

 リクからすれば、強い意志を持ってして自らの命を断とうとする自殺者は自分とは生きる世界の違う新人類であり、『死ぬのは惜しい人』に値した。尊敬、とは違うが、彼らの勇気と行動力には、それに近しいものを抱いているのだろうなと思う。

 きっと、そんな場面に出くわしたら、自分は止めることなんてできないんだろうなとも。

「‥‥‥‥」

 リクは何を思ったのか、一度動作を止めると、恐る恐るナイフから手を離しベッドに体を寄せ、カヤの長い髪をひと房握った。そして、すぐに離す。きらきらと、煌めいて落ちるこげ茶色。リクが望んでやまなかったもの。

 ‥‥‥せっかくお前の近くにいるのに、こんなこと考えてちゃだめだよな。

 今だけは、恥ずかしさも感じないらしい。

 秒針と、廊下を行く看護師たちの声しか存在しない世界。柔らかく降り注ぐ茜色も相まって、無機質で冷たい白世界は、心落ち着く空間へと変貌を遂げていた。

 壁紙の白色も、調度品の白色も、他の色に染まることができるのだ。時には、冷たく、時には、温かく。患者と見舞い人と包んでいく。その為の白なのだと、リクも今更になって理解した。

 ‥‥‥できれば、このままがいいな。

 あくまで、自分は彼女に知られないところでそっと見守る立場で。

 ‥‥‥ずっと、見ていたい。少し話したい気持ちもあるけど。

 彼にとっては、彼女から突き放されることの方が、辛いことだったのかもしれない。

 今日日のこの邂逅は、天国と地獄を孕んでいたのだ。

「‥‥‥‥あ、私‥‥‥痛っ。どうしてたんだっけ‥‥‥」

 天国か地獄か、審判を下すのはリクではない。

「‥‥‥‥か、」

 そこまでは言ってみるも、その先がいつまで経っても発声されない。声を出す機構と呼吸をする機構が上手くかみ合わない。

 言いたいことは、たくさんあるのに。

 ‥‥‥何でアイドルになったんだ? どうして泣いてた? あの言葉は何なんだ?

 いや。

 ‥‥‥おかえり。か。まずは。

 大事な場面に限って、喉が弾詰まりを起こすのは彼の人生において珍しいことでもなかった。三年前も今も、根本的なところは変わっていない。

 ‥‥‥どうやって、声、出すんだっけ。

 腹の底に力を入れてみたり。喉を掻きむしってみたり。足を震わせてみたり。リクが色々と模索している間に、想い人は夕日が眩しく思ったのか、視線を横に向けてしまった。

「「あ」」

 高い声と、低い声が重なる。高い方には、驚愕の響きも含まれていた。あまりにも静かでいつも通りの病室だったから、誰もいないと思っていたのだろう。しかし、誰かが居た。それも三年前に涙の別れを一方的に押し付けてきてしまった相手。驚いてしまうのは当たり前だった。

「「‥‥‥」」

 声と同様に、二人の視線も絡みつくように交わった。ベッドのすぐ隣の椅子で視線を下にしていたリクと、白いシーツの上で目覚め、視線を上にしたカヤ。まるで計算されていたかの如く在る二つの目は、完璧にかみ合っている。もちろん、目が合っている当人たちは無言なのだが、二人ともこの沈黙を沈黙だとは感じていなかった。心の耳を澄ませば、互いの声が聞こえてくるのだ。

「「‥‥‥‥‥‥」」

 声を発せずとも、目で会話することが可能だった。

「リク‥‥‥‥」

「カヤ‥‥‥」

 きっと、この数秒間に数万年分積もりに積もった旅の話を終えたであろうふたりは、ようやく肉声を交わした。

「リク‥‥‥っ‥‥」

「カヤ‥っ‥‥」

 もう先程まで会話をしていた二つの瞳には水の膜が張られてしまっていて、会話どころではないのだろう。『ママ』の言葉を覚えた赤子のように、ただひたすらに互いの名前を呼び合うことで会話をしている。

「リク‥‥‥‥‥‥っ」

「‥‥‥っぅ‥‥カヤ」

 ‥‥‥ねぇ、リク。私、とっても辛いことがあったんだ。どうしたらいいと思う?

 ‥‥‥なぁ、カヤ。どうしてお前はあの時泣いていたんだ? 俺が、何かしたか?

 ‥‥‥貴方の為に、できること、見失っちゃったな。ごめんね。

 ‥‥‥お前の為に、やったこと、あれで合ってたか。違ってたら、ごめん。

「リク、リク、リクっ‥‥‥‥」

「カヤ‥‥‥‥」

 ‥‥‥私、もう道がわからないよ。どうしたらいいの!? ねぇ! 教えてよ!

 ‥‥‥ただああやって、見守ることだけが正しかった? もし知ってるなら、教えて欲しい。

「‥‥‥‥‥ぅん‥‥」

 ‥‥‥リク、私、貴方の再会を心から待っていたの。

「‥‥‥‥‥」

 ‥‥‥カヤ、俺、お前との再会を心待ちにしてた。

「‥‥‥‥‥‥」

「カヤ。い、いきなり、で悪いんだけど。俺さ‥‥‥」

「ねぇ、リク‥‥‥」

 ───だって、君しかいないから。

「な、なんだ‥‥‥?」

「私を‥‥‥」

「ん?」

「私を‥‥‥‥」


「私を、殺して、欲しい。リクの手で」


 ふたりは、肉声を介さずとも会話をしていた。だが、その内容には決定的な齟齬があったのだ。一方は、これから始まる未来のことを据えて思いを飛ばし。もう一方は、これから終わる未来のことを据えて懇願していた。

 ただ、死にたい。死にたいと。

「でも、優しいリクのことだから、やってくれないよね。‥‥‥ねぇ、だ、だったらさ、見ててよ。私が裁かれるところ。私、きっと悪魔の子なんだ」

 リクはカヤの視線がいつの間にかベッドの上に置かれた果物ナイフへと移っていたことに気が付かなかった。

 まるで、肉に飢えた獣のような目で、白銀のそれを捉え、素早く掴み取る。人を殺める力を持つ金属の重みがカヤには久しぶりに感じられた。渇望していた重みに、高揚感すら感じる。

「え」

「大人しく見ていて欲しい。私、今から死ぬから」

 狂ったような泣き笑いを浮かべ、カヤは迷いなくすくっと立ち上がる。牽制の為、ナイフの刃先をリクの方に向けはしているが、彼が止めに入ったとしてもその刃は機能を果たさないのだろう。

 だって、刃先も震えているのだ。死を望んでいるのに、死を怖がっている体が小刻みに震える度に。自分より大切な人に、そんな恐ろしい『死』をもたらす刃を刺しこむことがどうしてできようか。

 彼という最上の存在をどうして殺めようと思えるか。

「じゃあね。リク」

 彼が呆然とし、身動きができないのはカヤの想像の範疇だった。むしろ、それを期待していたといっても過言ではない。彼のことを一番愛し、行動ひとつひとつすらも知っている彼女だからこそ、なせる所業だ。

「バイ、バイ」

 不器用に振られる手が、ひどく寂し気で。怯えていて。リクは優しく包んでやりたい気持ちで山々だったのだが、直後に溢れてきた滝のような涙のせいで手を伸ばそうにも狙いが定まりそうになかった。

 ‥‥‥いい言い訳が見つかって、よかった。

 晄を受け、茜色に染まった首筋に当てられる白銀の刃。かっきられた後には、茜色より濃い赤がシーツを染めることだろう。


「失礼。茅乃ちゃんと少年よ。ご機嫌はいかがかな?」


 こげ茶の髪が美しい娘は硬く目を瞑っていた為、侵入者に牽制で刃を振るうことも。また、思い切って首を切ることもできなかった。

 ‥‥‥『世界で一番、大好きだったよ』。

 最期に伝える言葉は、これと決まっていたから。これを言わずして死ぬのは、意味ある死ではないから。

 だから、少女はまた思ってしまう。もう何度も呟いたことを。

 ‥‥‥嗚呼。また、死ねなかった。

「少年! 早くして! もうっ、なんて頑固なの貴女は。これ、何回目かわかってる?」

 泣き喚いて暴れる少女を取り押さえる女医に言われるがままに、点滴に備えられた機械を操作し、睡眠剤を投与する。女医は慣れているようだったが、リクは全くの初心者だ。そんな二人が見事な連携プレーを成せたのは、共通の救うべき対象が居たからだろう。

 二〇六号室の隣人も、二〇四号室の隣人も、一枚壁を通して騒動の音を聞いてはいたが、目を剥くことも、ベッドから降りることもしなかった。

 早朝の鳥のさえずりを聞くかの如く流し、遠くの茜色をただ見つめるのみ。白いカーテンが剥かれた病室の窓は毎日毎日変化する海の景色をくれた。日常茶飯事の騒動に耳を傾けるより、こちらの方が数倍有意義であるのは間違いない。


   ◇


 月と太陽の追いかけっこを見送ること日々が続いた。もちろん、想い人が佇む病室ではなく寂し気に閉ざされた自室で。

 その数日間は、食べ物も喉に通らない、悪夢にうなされ一睡もできない、と彼にとっては生き地獄のような有様だったのだが、四日目に全てが吹っ切れてしまった。人間、悲しみに浸ることも長く続かないものだ。

「カヤが、生きられるように。何か‥‥‥‥ぬいぐるみが、いいな」

 目元には隈が発現し、あの女医のように疲労が貼り付いた表情で、とにかく街を徘徊する。リクは親からお小遣いと名の付く資金を貰ったことがなかった為、ポケットの中には同居している祖母のへそくりから掠めたお金を忍ばせていた。身内といえど盗みという立派な犯罪に当たるのだが、彼にその自覚はない。

 街での徘徊を終えると、それからリクは再びあの病院へと赴いた。

「‥‥‥少し、買い過ぎたか? 結構つかったけど、ばあちゃんにバレるかな」

 夏とは思えない、冷房が作りだす真冬の廊下に凍えつつも、一心に目的地を目指す。周りからの視線が痛かったが、それもまあ当然の様なので、甘んじて受け入れていた。

 おおよそ男子高校生のような見た目の少年が、大量のぬいぐるみの詰まったポリ袋を抱えて向かう先は二〇五号室。彼の想い人が拘束されている場所だ。

「‥‥‥‥‥」

 二階、三階、四階とのぼり、長い廊下を進むとそれはすぐに現れた。

 相変わらずの無機質でいて、冷たい一枚板。この先に居る彼女は今なにをしているのだろう。想像を巡らせても、どれもこの世の終わりのような血生臭い惨状の絵が浮かび上がってしまうため、リクはすぐに考えることをやめた。トントンとノックしてから、戸に向けたまま停止していた足を、半歩、前に出した。

「‥‥‥‥先生?」

 戸は彼が開けずとも、むこうから勝手に開いてくれた。

「え。り、リク?」

 彼女といきなり対面する形となる。

「よ、よう」

 一瞬驚きはするも、すぐに取り繕った笑みを浮かべ、片手を上げる。わかってはいたが、カヤは戸が全開になり全貌が明らかになったリクの体を上から下まで見まわすと、目をぱちくりさせ、少し引き気味になった。

「‥‥‥‥なにそれ?」

 声は冷たく、視線は軽蔑に似た味を孕んでいる。予想外の訪問よりも、彼のいでたちの方が気になっている印象だ。

だが、リクはそんな冷たい返しに臆することなく空元気な声で続けた。

「ちゃんと、生きてるか? ご飯は食ってるのか? 餓死は激痛らしいからやめとけよ。まぁ、いいわ。とりあえず失礼するから」

「え。ちょ、ちょっと‥‥‥」

 カヤが入り口に立ちふさがったが、リクより華奢な体躯では壁にすらなり得なかった。そのままよいしょと抱きかかえられるように持ち上げられ、彼の侵攻を許してしまう。じたばたともがいても、びくともしなかった。


「リクは、どうして? どうして、今日来たの?」

 

 予想外なことに、ベッドの上にちょこんと乗せられた後、カヤから話しかけてきた。一方的に自分から話を切り出す予定だったので、リクは一瞬答えに窮するも、すぐに回復し、どこか遠慮がちに返す。

「これ見て、わからないか? お前、こういうの嫌いじゃない、よな‥‥‥?」

「ううん、そういうことじゃなくて‥‥‥その‥‥‥」

「え、ぬ、ぬいぐるみ、嫌いになったのか?」

 まるで懇願するような言い方だった。恐らくは、これが彼の導き出した解であり、頼みの綱でもあったのだろう。自分が知っていたあの頃のままでいて欲しいと、目で声で訴えられ、今度はカヤの方が困り顔を浮かべる番だった。

「‥‥‥‥き、嫌いじゃないよ。ぬいぐるみは今も好きだよ。でも、今はそうじゃなくて。わ、私、この前は凄い衝動的になっちゃって‥‥‥リクが居たのに驚いたのもあるけど、あれは流石にやり過ぎたなって思って。‥‥‥‥その、なのにどうして、また来てくれたのかなって」

「なんでだろうな。俺でもわからないから、怖いんだよな。‥‥‥なんか居ても立っても居られなくなったっていうか。俺が行かないとカヤが死んぢまうって思ったのかも」

 カヤの顔ではなく、どこか遠くを見ながらリクは言った。少し声が震えているのは、先日の彼女の行動がトラウマになりつつあるからかもしれない。言ってから、ベッドのパイプを握る手も震え出していた。

「そんな、死ぬなんて‥‥‥‥!」

「でも、わからないだろ。だって例えば、今ここにナイフが在ったらどうする? あの時のカヤはカヤじゃなかった。全くの別人に見えた。きっと、カヤの中のもう一人のカヤが死にたがってるからそうするんだろうよ。今のお前が、そう言ってくれても、なんの信憑性もないって。本当に、ここが病院でよかったよ。ここならそう簡単に死ねないからな」

 すらすらと、思ったことが出てリクは自分でも驚いていた。

 ‥‥‥まあでも、夢の中で何回も投げかけた気がしないでもないから、慣れてたのかもな。

「‥‥‥‥だけど‥‥‥でも、私は‥‥‥」

「だってお前、天性の頑固だし」

 それは本人も自覚があるのか、遮るように言われて、萎んでしまった。

「まぁ、いい。それより‥‥‥‥」

 実はリクはカヤとの再会話よりも、今日ここに来た本題を早く告げておきたかった。その理由は何故か。問うまでもないかもしれない。

「俺、さ。人形いっぱい買ってきたんだけど‥‥‥これ、これから一日ひとつずつ、カヤに届けようと思って。人形、好きでいてくれてるんだよな? だったら、嬉しいよな‥‥‥うれしい、よなっ‥‥‥」

 問うまでもないかもしれない。カヤはそこで、入室時から薄々感じていたある違和感に確信がついた。急に、眼前の彼が言葉を詰まらせ、瞳を潤ませ始めたからだ。

「嬉しいよな‥‥‥なぁ、それなら‥‥‥」

 死のうなんて、思わないでくれるか? 最重要の問いは、しかし喉につまって口からは出てくれない。これを言う為に今日来たというのに。

 ‥‥‥嗚呼、俺は何してるんだ。口、開いてくれ。

「それなら‥‥‥‥」

 それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。

 それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。それなら。

 ‥‥‥死なないって。言って。

 この少年は少し、ふさぎ込んでいた数日で心を壊してしまったようだ。本来の彼ならとらないような行動が多すぎだ。おかしいとしか言いようがない。数年間会ってはいないとはいえ、幼馴染ではあるのでカヤはその違和感に気が付くことができたのだろう。

 まず、幼馴染が何やら重い病気で入院していて、見舞いに来たとしよう。彼は今日、終始薄ら笑いを浮かべていたのだ。おまけに、病状を気遣う言葉もなしに。

 ‥‥‥‥それ、なら。

 他にも、これはカヤしかわからないことだが、リクは彼女のことを『お前』呼ばわりするような人ではなかった。いつも『カヤ』と愛称で呼んでいたのだ。しかし、今日の彼は発言に『お前』と『カヤ』が混同している。

 そして何よりも。

「‥‥‥‥‥り、リク‥‥‥? どうしたの?」

 彼が今、涙を流していることが、一番の不可解だった。彼は人前で泣くことがまずないのだ。幼い頃から、ずっと。ずっと、泣きもせず辛いことにぶつかって。ずっと、強い人だった。カヤはそれも知っている。

「なぁ‥‥‥カヤ‥‥‥」

 誰の声も聞こえていないらしく、リクは返事をしない。涙のせいで、彼女の姿さえも捉えることが困難になっている状態だ。もう、何も感じないのだろう。

 ‥‥‥嗚呼、早く言いたい。

 言ってしまいたい。でも、言ってしまいたくない。

 ‥‥‥泣いて、全てが見えなくなる前に、早く人形を差し出して、君に生きて欲しいって。

 言いたい。

 ‥‥‥でも、言った後に、大泣きしてしまいそうだ。

 それが嫌だ。

「‥‥‥‥俺っ‥‥」

 想い人との邂逅。想い人の変貌。ちぐはぐな自分の気持ち。

 それが重なった時。

 『リク』を繋ぎとめていた全てが崩壊してしまった。親友にでさえ、言葉を選ぶような人が彼女と同様に、変貌してしまった。

「なぁ! なんで、俺の前から姿を消したんだ!?」

 からくりが崩壊した、からくり人形に。

「え‥‥‥‥」

 いきなり、がしりとカヤの肩を掴み、大きく揺さぶる。その度に、涙が迸るが気にしている様子はこれっぽちもない。

「なぁ! なんで、死のうなんて思うんだ?」

 もしくは、鎖が外された狂犬に。

「リク‥‥‥」

 もはや、彼の一番の理解者であるカヤでさえ、理解が追いつかず得たいの知れない何かに感じる恐怖心を覚え始める始末。

「あ、あのね‥‥‥‥リク‥‥‥‥‥‥ねぇ、」

「‥‥‥いや、やっぱり言わなくていい。言われた所で、どうせ俺は何もできないんだから。俺はいつも、いつも、無力だから‥‥‥! 言うことでお前の傷がぶり返すようなことも避けたい」

 この言葉にだけは、しっかりと理性が籠っていた。カヤが自分の肩からリクの手を下ろし温めるように握ったのが原因かもしれない。人の温かさは、時に傷に怯える獣さえも慰めることが可能なのだ。

「‥‥‥なん、で。なん、で。カヤはそんなに辛そうなんだ? 不幸そうなんだ‥‥‥」

「リク、リクあのね‥‥‥‥」

 抱え込んだ思いに狂う少年。死にたいと願う少女。どちらも狂ってはいるが、この状況下では少女の方が容体は軽いように見える。まだ、余裕がある。

 射す陽光がその時だけは閉ざされ、病室は暗くなった。

「私は、ある願いの為にアイドルを始めたんだ。アイドルは願いの線路上にあるだけ。死のうとするのは、‥‥‥‥お母さんに死んで詫びないといけないから」

 でも平気だよ、とカヤは優しく囁く。一度瞬いた後、震える彼を自分の方に寄せ、包み込むように抱きしめた。


「私は、貴方が好きなままだから」


 耳元で響いた心地よい余韻を掻き消すように、ギシ、とベッドが軋んだ。

「でもどうせ。その願いだって、教えてくれないんだろ?」

 リクの呼吸は落ち着いていた。もう、暴走状態だった心臓も、平常を取り戻している。

「‥‥‥‥うん。教えられない。でも、でも‥‥‥‥」


「貴方が好きだから、大丈夫‥‥‥‥大丈夫、だよ」


 大丈夫ではないような震えが声に含まれてはいたが、リクには本当に『大丈夫』に聞こえた。

 その『大丈夫』が、『私は死なないよ』と言っているみたいで。

「そうか、なら、よかった」

 ふう、と体に溜め込んだ空気を吐き出し、心からの安堵を示した。

「うん。大丈夫だから。泣かないで。‥‥‥やっぱり、リクに涙は似合わないよ。あの時みたいに涼しい顔で、たすけ‥‥‥‥ううん。涼しい顔で、いるだけでいいの。それが望みなの」

「望み? それが、お前の願いなのか?」

「少し近いかも」


「そうか。‥‥‥今じゃなくていい。五年後か十年後、答えを教えてくれよな」

「ふふっ、気がむいたらね」


「‥‥‥‥‥‥‥ああ、そうだ。カヤ。言い忘れてた。その‥‥‥おかえり」

「うん。ただいま」


 最後に交わした二言で、無機質な病室は少しだけ柔らかい空気に染まった。


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