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「商人さん」透き通るような女の声がハギリに降ってきた。「その子、商品?」
「え、ああいや、教育がなってないんで、これはもう殺処分ですな」商人はそう言って渇いた笑い声を発した。
殺処分。その言葉にハギリは再び沈む。何も考えられなくなる。
布の擦れる音がした後、先ほどの女の声がすぐ近くでした。はっきりとした声は彼の意識にまっすぐに届いた。
「ボク、何したの?」
ハギリは倒れたまま横目で声の主を探した。女は思ったよりも近くにいた。鮮やかな青い瞳が彼の目を覗いていた。吸い込まれそうなほど澄んでいる青だった。
真っ黒でつやのある髪は長く伸びていて、肌は不健康なほどに白かった。女は16から30までのどの年にも当てはまるような、大人びた雰囲気と少女性を兼ね備えている。レモンや石鹼の匂いを感じさせながら、同時にワインや果実酒の香りを感じさせる、そういう独特な、美しい雰囲気を放っていた。
ハギリは女の美しさに圧倒されながらも、彼女の問いに答えた。
「逃げた」
「何で?」
「幸せにならなくちゃいけないから」
「どうして?」
「母さんと約束した。恩返しなんだ」
「お母さんのところへ帰るの?」
「母さんは殺された。もういない」
「じゃあ恩返しできないんじゃない?」
「天国から見ててくれてる。だから、恩返しは届く」
「天国なんて、きっとないわ」
「けどあるかもしれないから」
「ふぅん」
女の目的はいったいなんだ?
ハギリは困惑していた。同時に期待も。期待している自分に気づいて、それが嫌だった。助けてくれるのなら助けて欲しいし、そうでないならむやみに希望を与えずにさっさとどこかにいって欲しかった。
「逃げて、どうするつもりだったの?」
女は質問ばかりだ。ハギリはこの質問に、すぐには答えられなかった。逃げた後のことを何も考えていなかった。
「逃げ切った後で考える」
「けどね、一目で異邦人だと分かるあなたが、この国でまともな職に就けるはずがない。そのくらいは、わかるわよね?」
返す言葉が無かった。
「あの、お嬢さん、買うつもりがないのでしたら、いいですかね」
商人が会話に割って入った。
「ごめんなさい、もうちょっと待っててくださいね」
ハギリには見えなかったが、女は商人に金貨を渡した。それからというもの、商人は黙って見ていた。
「幸せにならなきゃいけないのよね?逃げずに誰かに買ってもらって、うまく気に入られて、そうして機会を伺った方が良かったんじゃない?もう少し考えて行動したらいかがかしら」
なぜ見ず知らずの女にそんなことを言われなくてはならないのか。ハギリは腹が立った。しかし女の示した可能性を考えると後悔一色に染まった。殺処分が言い渡された今、どう考え立った、あの檻の中で客が自分を選ぶのを待つのが最適解だった。
なんてことをしてしまったのか。氷の塊が自分の中心に沈んで、全体を急速に冷やしていくようだった。
「けどあなたは逃げることを選んだ。思うに、理由をつけるのは先でも後でも、変わりはないわ。言っている意味が、わかる?」
ハギリの後悔は女の言ったことによって逸れた。少し考えて、言う。
「逃げた理由を今つけろと?」
女は頷く。
ハギリは再び考える。そしてやがて、幼い結論に至った。
「俺が逃げたのは、勇者になりたいから」
「飛躍しすぎ」女は笑った。そして問う。「けどどうして?」
「勇者ってこの国でめちゃくちゃ偉いんだろ?」
「そうね」女は相槌を打つ。
「そんな勇者に、移民の俺がなったら、面白い。そしてこの国の奴らをこき使うんだ。愉快じゃんか。で、そういう面白いことに囲まれて生きてくのって、たぶん、幸せだ。きっと欲しいものも、食べたいものも、全部手に入るくらいのお金が貰えるし」
「子供ってバカよね」女は楽しそうに笑った。「でも、大人には言えないことよ。そんな大それたことは。だって、勇者になるには、まず騎士にならなくちゃいけない。騎士になるには騎士学校を卒業する必要があるわ。入学には知識も技術も、お金も必要だもの。大人にはそれが分かってる。だから言わない。さて、勇者になるのに何が必要かを知った今、さっきと同じことが言える?」
「言える」
「どうして?」
「入学までに身に付けなきゃいけないことがあるのは、この国出身の子供も一緒だ。諦める理由にはならない。お金は、盗みでも何でもすればいい」
「そう。心から応援するわ」
まさか逃がしてくれるんじゃないか!?少年の心は希望一色に染まった。
「逃がしてくれるの!?」
「いいえ」
ハギリの心はまたしても沈んだ。というか、この女の目的は何なんだ。彼は苛立ちを覚えていた。
「商人さん、私、この子買うわ」
「え?」ハギリは思わず声を漏らした。
「あなたが気に入ったの。造形もいいし」女はそう言って立ち上がると商人に向けて言った。「傷だらけだし、安くしてくださいね?」