2-9.強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏
立ち会いの直前、服を内側から押し上げる鍛え上げられた肉体に感嘆の吐息を漏らす。
袖のない中衣の内側で白いシャツが大胆に胸元をはだけさせていた。鍛えている、という端的な事実が男女を問わずある感想を抱かせる。
髪を後ろに流して額を晒し、整えた顎髭まで隙がない。
ウィンクから投げキスまで様になる伊達男。
全く馬鹿げた形容が浮かぶ。しかしそうとしか言いようがない。
その男は、とてつもなくセクシーだった。
俺の目に映る世界は、今日も今日とて目の回りそうな極彩色だ。
第五階層は種族の坩堝だが、ありとあらゆる連中が均一に混ぜられているわけじゃない。サラダボウルに盛り付ける見えざる手にだって美意識はあるわけで、一定の偏りと傾向が存在していた。
一歩エリアを跨げばそこはひと味違った無法地帯。たとえば路地裏の売人はドーピング系の筋力増強剤を取りそろえた強面からアッパー系の向精神薬を見せびらかす中毒者に早変わりするし、深海生物の牙や触手から作った奇天烈な武器を並べる露天商は本物かどうか疑わしい宝石商になっている。
ここの空気は重苦しい。周囲から突き刺さる濁った視線の剣呑さときたら。
これまでの根城、俺の主な活動圏は比較的治安がマシな部類のエリアだった。
槍神教の騎士修道会が周囲一帯に睨みをきかせていることが大きな理由だ。『松明の騎士団』という強大な力が一定の秩序を生み出していることは認めざるを得ない。
だが、それは第五階層のありのままの姿ではない。
半年前、人々がここに根付く前、この場所はダンジョンのど真ん中で、戦場そのものだった。隣に敵がいて、目の前には死が当たり前に存在する。そんな修羅場。
このエリアの空気は、それに近い。
「何か感じるか、ゴア」
「ゴァ? ギュギャゥ、ギューギャゲ」
肩の上に乗る小さな黒い怪物に問いかけると、いまひとつの回答が返ってくる。ちなみにゴアというのはこいつの名前だ。ゴアゴア鳴くからゴア。無いと不便だからという理由で適当に付けたが存外しっくりくる。当人も気に入っているようだ。
さて、新しい『依頼』の手がかりは無いし、これからどうしようか。
相棒と一緒になって頭をひねる。これは中々の難問だった。
ぼんやりと上を見上げると、閉鎖空間のくせにどこまでも高い空が広がっている。
上空を飛行していくシルエットは多種多様。最も多いのは流線形の装甲板が付いたバイクと箒の混血児。その他にも多足に虫翅というよくわからない土色の長虫、極彩色のでかい鳥、雲を足場にして移動する大蜘蛛、羽の生えた蛇、燃える車輪でそいつらを蹴散らす荒っぽい古式戦車、この街は空まで騒がしい。
路上では黒肌の拳闘士と赤肌の足技格闘家がぶつかり合い、周囲の見物客たちはどっちが勝つかに札束を賭けて大盛り上がり。酔っ払いと薬物中毒者が乱闘を繰り広げ、スリと商人が追いかけっこを演じ、特に意味も無い戦いが当たり前のように発生する。
暴力こそがシンプルなこの場所の掟だ。
しかし、それでいて『戦争』だけがこの場所には無かった。
世界を二分する巨大勢力、『上』と『下』は半年前までは激烈な戦闘を繰り広げていた。巨大な尖塔である世界槍の各階層を奪い合う戦い。俺が巻き込まれたのはそれだ。
しかし現在、この地で正面切った二大勢力の戦闘は行われていない。
何故か。トリシューラ曰く、それは『ルールが変わったから』だという。
「第五階層には幾つかのルールがある。『ゲームのルール』、つまりは約束事が。それは絶対に遵守しなければならない呪いなんだ」
意味のありそうで良くわからない言葉だったが、少なくとも『上』の巨大勢力である槍神教は対立する『下』との戦争を再開するつもりはなさそうだ。
結果としてこの場所には奇妙な均衡と秩序めいた停滞が生み出されることになった。
表と裏を問わない巨大な力の数々が睨み合い、一攫千金を夢見る探索者から安住の地を探す難民までありとあらゆる人種が入り交じる混沌の坩堝。
第五階層の支配を狙う連中は後を絶たず、聞いた話じゃ『市長』は十人、『総督』は四人、『首長』が三人、『天主』とか『彩域管理者』とかいうよくわからないのがそれぞれ一人ずつ。ここまで来ると王や皇帝もいそうだが、意外にもそこまで我の強い自称リーダーはいなかったようだ。
「市長を気取るなら、もう少し街の景観にも気を遣って欲しいがな」
このエリアを支配しているのが、まさにその『自称市長』であるという。
ただの市長ではない。
『聖なる祭司にして新たなる神が創造する新世界の都を統べる長』とかなんとかいう正式名称がある。またしても宗教勢力。師フームの言うとおり、この異世界では神とそのご加護が何よりも重要な関心事のようである。宗教勢力が権力と結びつくわけだ。
「ティリビナ人の神は樹木を司ってるんだよな。なら牛人の神は何を司ってるんだろうな。おいしいミルクか?」
「ゴア?」
周囲を見回しながら、ぼんやりと思いついた事を口にする。
そう、ここは牛人たちの世界だ。
大きく、力強く、雄々しい角を生やした、牛の頭を持つ種族。
彼らが我が物顔で街を闊歩している。
屈強なならず者たちが護衛する中心には白骨の牛が牽引する荷車があった。
荷物は檻。閉じ込められているのは彼らの商品。
檻の中で悲痛な鳴き声。荒っぽく鞭を叩きつけて威嚇する牛人たち。
ある者は関わり合いになるまいと目を伏せ、ある者は興味津々に檻の中を覗き込む。
既に商品を手にしているものは、鎖を手繰って優越感に笑みを深くしていく。
中にいるのは奴隷たちだ。
牛人たちの主な稼業は人攫い。脅しや金貸し、宝石の偽造などもやっているようだが、なんといっても公然たる拉致と人身売買で悪名高い。
この街に集うのは遺跡の調査に訪れた学者やその護衛、冒険を夢見る命知らずといった覚悟の据わった連中ばかりではない。どう見ても荒事に向いていない、着の身着のままで逃げてきたような難民たちが数多く存在している。
そうした弱者たちのコミュニティは幾度となく牛人たちの襲撃に遭ってきた。
被害者たちの末路は良くて奴隷、最悪で四肢や臓器ごとのバラ売りである。
しかし、最近になってその最悪にもう一つの悲惨が追加されたという。
あの檻の中がそうだ。
人の中に異物が融け合い、異形を作り出している。
捩れていく人体、不自然に繋がり合う部位、局所的な肥大化。
不快な既視感。
目と目が融合して単眼になった女性がいる。
馬や牛と融合してケンタウロスのようになった男がいる。
面白半分に混ぜ合わされ、二つの頭で肉体の主導権を巡って争う者がいる。
両手両足がない女。腹に透明なガラス箱を融け合わされ、その中で蠢く昆虫に恐怖の叫びを上げ続ける女。頭にハンドル、足に車輪が融合し、腰から排気管が伸びている女。鮮やかな花に生気を吸われている女。携帯便器と融合させられた女。
生物から植物、無機物に至るまで、何かと融合した『新商品』として売り物にされているのは圧倒的に女性が多い。
街中の至る所で哀れな融合商品たちを見かける。
人体改造と際限のない欲望の発露。
その犠牲となって絶望に瞳を濁らせる女たち。
街の様相が変わっていく。
この地を支配するのは、もはや暴力だけではなかった。
「というわけで、新しいメインクエストはこれ! 『街を蝕む青い血の謎を追え!』」
何が『というわけ』なのかはともかく、謎多き依頼人トリシューラが俺に提示したのは近頃になって街を汚染し始めたという『青い血』の調査だった。
その液体を使えばあら不思議、人と人、物と物、そして人と物、森羅万象まとめてひとつ。ありとあらゆる異物同士をドロドロに融合させてしまう脅威の力。
そしてそれは、人の心さえ融かして歪めてしまうのだという。
「ギデオンや天使との戦いで似たようなものを見なかった? あなたの敵、その背後にいる黒幕は『青い血』をこの街にばらまいて何かを企んでる。というわけで、さっそく調査に行ってみよう!」
なんとも漠然とした要請だが、その先に俺が追いかける真の敵がいるというのなら無視することはできない。そんなわけで、俺は近頃になって『青い血』を用いた新しい商売に手を出し始めた牛人たちの勢力圏に足を踏み入れることと相成ったわけだ。
出立する前、トリシューラは俺にちょっとしたアドバイスをくれた。
それは俺が新しく手に入れた力、『幻掌』の使用方法についてだ。
彼女が言うには、俺は既に不可視の左手を使って情報機器にアクセスすることさえ可能なのだという。
「端末ごしのアナログ操作はもどかしいでしょう? あなたが形のないものを捉えることができたなら、この街に広がるもうひとつの世界にもっと深く触れるよ」
この異世界にはネット環境がある。しかしそれは俺が知るような『電子の海』ではなかった。この世界と重なり合うもうひとつの見えない世界、『アストラル界』を利用した技術によってこの世界は情報的に繋がっている。
「アストラルネットへのよりダイレクトな接続。身体感覚を通した世界への霊的接触。この世界における万能のインフラストラクチャ、最も普及している呪術基盤の活用をあなたは覚えたってこと」
『弾道予報』アプリを活用した幻掌の操作。
左手をどこまでも伸ばしていき、街路で監視カメラの代わりとなっているカラスの使い魔たちの中にするりと侵入。その視界を『ぐい』と掴む。俺はカラスの視界を乗っ取って上空から街を俯瞰する。
「『幻掌』というのはつまり、万人が共有するアストラルネットを通じて相手のアストラル体に干渉する行為ってわけ」
バーチャルスペース経由で相手の痛覚制御機能をクラッキングしている、みたいな話だと俺は解釈した。だからこういうことだってできる。霊脳空間で動く俺の身体感覚は、重なり合う実世界にも影響を与えるのだ。
「多分、最初は便利で楽しいから調子に乗って色々やっちゃうと思うけど、気を付けてね。レベルの高い言語魔術師に掴まったら魂を閉鎖箱庭に閉じ込められたり、脳を焼かれたりするかもだから」
色々な忠告もされた気がするが今はそれより街の調査だ。
手がかりはやはり『青い血』を大っぴらに使う『奴隷商人』たち。
俺は上空のカラスを介して更に左手を伸ばし、融合商品が囚われた檻に接触。
当たりだ。施錠システムに魔導書が用いられている。
俺のように浮遊する不思議な本を所持している者は街を歩いているとそこそこの割合で見かける。お陰で俺も浮かずに済んでいるが、こういう書物を魔導書と呼ぶらしい。トリシューラによると、これはある種のコンピュータのようなものなんだとか。
幸運なことに、俺がいつの間にか手にしていた『断章』はとびきり高性能な魔導書らしかった。ただの全自動翻訳装置ではなかったわけだ。
「よし、解錠を頼む」
「了解。暗号呪文の解読を開始します」
黒い本が無機質な音声を発し、輝く文字列を俺の左手に流し込んでいく。
仮想の感覚がどこまでも広がる。遠く離れた場所にある檻に到達。幻の指が鍵穴に輝く文字を当て嵌める。檻を管理・守護する霊的な障壁は堅牢だ。強引に総当たりでぶち破るのは時間がかかりそうだし、こっそりと忍び込ませた『指先』を拾わせてこっちの権限を昇格させてもらおう。
そうこうしている間に準備が整う。
別の場所に突っ込んだカラスが牛人たちの気を引いている隙に鍵のロックを外し、檻を解放する。最大の好機を前に、囚われていた奴隷たちは迷わなかった。
というわけで貴重な情報源たちはバラバラに逃げ出した。あとはこいつらの身柄を確保してトリシューラに引き渡せば依頼は完了だ。
いや、漠然とした指示だったからそれで終わるかどうかは不明だが、情報源を直接連れて行けば多少は前進と見なされるのではないだろうか。
少なくとも何もしないよりマシなはずだ。
そんなことを考えながら待ち構えていると、甲高い叫び声と罵声、それから素足が地面をぺたぺたと叩く音が聞こえてきた。
「助けて!」
わかりやすい字幕と共に、半裸の女が夜の路地裏から飛び出してきた。殴られたのだろう。額と頬を赤く腫らしたひどい顔だが、視線は真っ直ぐにこちらを向いている。
間もなく追っ手が現れた。
屈強な肉体に湾曲した双角、付きだした鼻先が低く鳴る。
牛人奴隷商の用心棒あたりだろう。逃げた女を連れ戻そうとしているようだ。
半裸の女を見る。顔だけでなく身体の至る所に暴力を受けた跡がある。
薄布一枚の他は何も纏っていない。融合体であることをわかりやすくする意図だろう。
目立つのは大きな四つの乳房。体中の刺青は白と黒の牛模様で、俺のようなタイプの無徴の顔立ちだが牛の角が頭髪を割って突きだしている。
牛人に近い無徴人、というコンセプトの『商品』ということか。
女性の手を引き寄せて背後に庇うと、牛人が威嚇するように吼えた。
右拳を前に出し、存在しない左手で女性を守る。
通りすがりに助けを求めるほど追い詰められた女性が俺に縋ろうとして、しかし片手がないことに気付いてその手が空を切った。
存在しない俺の左手と女性の手が交差した、その瞬間。
「そこまでだ、悪漢ども」
夜の街に風が吹く。
それは冷たく、しかしどこか爽やかな流れだった。
風に乗って響くのは男の声。
それは柔らかく、それでいて力強く俺たちの耳に届いた。
暴力に怯えていた女の表情がぱっと華やぐ。
「うそ、超イケメン」
風と共に現れたのは、どこぞの小洒落たバーから出てきたのかと思うくらい場違いな伊達男だった。その行動と意思は明白。彼は助けを求める女性の味方だ。
女を連れ去ろうとしていた暴漢が喉を鳴らした。
「すっこんでな。痛い目に合いたいのか?」
「可憐なレディを前にして、すごすご引き下がる男がいると思うか?」
芝居がかった口調。その男の前では誰もが引き立て役に成り下がる。
街角に立っていた中年の花売りが思わず見惚れて溜息を漏らす。
花売りの前にいた客が嫉妬のあまり中年女に手を上げようとすると、その手が素早く押さえられる。夜の風と共に現れた男はその所作も風のようだった。
男の凶行を未然に止めると、礼を言おうとする花売りの唇の前で指先が止まる。
気障なウィンク。
嫉妬すら通り越して感嘆してしまった客はその姿を呆然と見送ることしかできない。
訂正しよう。どうやらあの伊達男、全ての女性の味方のようだ。
牛人がぺっと唾を吐いた。
「気障な野郎だ。叩きのめしてやるぜ」
俺も含めた観衆は既に期待している。
それはリングの上に向けられる視線と少し似ていた。
人々は英雄を求めている。
退屈な日常、俗悪な欲望を打ち砕く圧倒的な善と正義を。
「さあやろうか、ダンスの時間だ。レッスン料はまけてやる」
挑発的な言葉と共に戦いが始まった。
見たところかなり鍛えているようだし背も俺より高い。だが一般的な牛人は巨漢揃い。あのブルドッグ顔のチャンプに匹敵するほど大柄な連中も少なくない。
しかし体格差など問題にならなかった。
速い。素早い移動から上体への軽いジャブ、ローキックと連撃を加え、相手からの反撃を完璧なタイミングでガードしてみせる。スタイルとしては広い意味でのキックボクシングという雰囲気。正統派の打撃系格闘技は天性の俊敏性とリーチの長い脚による蹴り技の華やかさで芸術的にすら感じられた。
「ち、ちくしょう、覚えてろ!」
犯罪組織の下っ端、力自慢のごろつき程度では相手にもならない。
牛人は捨て台詞を吐きながら尻尾を巻いて逃げていった。
計算外。俺の出番は完全に奪われてしまった。
逃げてきた女性は頬を染めて伊達男の勇姿を食い入るように見つめている。
ここは後を任せて撤退するべきだろうか。そんなことを考えていた俺は、伊達男の厳しい視線がこちらに向いていることに気付いた。
「さて、次はそちらだ。悪いがそんな状態で彼女を守ることができるとは思えない。レディのナイトは心身共に強い男だけに務まる仕事だ。君には荷が重いだろう」
「は?」
何だそれは、喧嘩売ってんのか買うぞコラ、と言おうとした俺の出鼻を背後からの哀切に満ちた声が挫く。
「そんな! やめて、私のために争わないで! いくら私の元カレが片腕で弱そうで期待外れだったからって、頼りになるあなたが私を守ろうとする意味なんてないのよ!」
元カレって誰だ。え、俺? 初対面で元カレになることってあるの?
スピード感について行けない。これどういう状況なんだっけ?
呆然とする俺を置き去りにして伊達男は完璧に女のテンションに適応していた。
「いいや。そんなことはないさ。君は花だ。薄汚れた街角で健気に咲く、小さな一輪」
「私にそんな価値なんてないの! あいつらに穢された、こんな醜い姿」
「ああ、どうか自分を貶めるようなことを言わないでくれ。俺にとって君はなによりも尊く美しい、この下らない世界でただひとつの救いなんだ」
「どうして、どうしてそこまで言ってくれるの?」
「君に恋をした。男にとってこれ以上大事なことがあるかい?」
「ああ、名も知らぬイケメンの人! それならどうか私をここから解き放ってちょうだい! 退屈な元カレの頼りない手から、逞しいあなたの腕の中に攫っていって!」
「お安いご用さ、愛しい人」
何この茶番。白ける俺とは対照的に、観衆たちは謎の大盛り上がり。
よくわからないが野次馬根性を感じる。男たちは好奇心に目を輝かせ、女たちは黄色い悲鳴を上げ、どこにでもいる商魂たくましい奴が賭けを仕切り始める。
いや本当に何。口笛を鳴らしたり拳を突き上げたりしながら取り囲むのやめて。
「情熱は勝者の夢に。勝利は恋人の胸に」
よく響く男の声。どこからか取り出した花を一輪、事態の中心である女性に投げる。受け取った女性は頬を真っ赤に染めて伊達男を見つめる。
構図は単純、女を巡って争う男と男。
しかし相手があの男では、当て馬になる男は惨めで仕方がないだろう。
俺のことだが。
精神的な悲劇の渦中にいるらしい女性はどうやら自分に酔っているみたいだ、と思ったらなんか酒臭いな。先ほどの言動もあわせて考えると、囚われている間にひどい仕打ちを受けたのだろう。哀れではあるが、だからといってこの茶番に付き合う必要はあるか?
伊達男の構えを見て、『ある』と判断する。
『サイバーカラテ道場』を起動し、その姿をつぶさに観察。
鍛え上げられた肉体以上にその打撃格闘の技術に興味がある。
悪役ならば慣れている。茶番で戦うのも久しぶりだが、これはこれで悪くない。
俺が目指す最強の敵、炎の天使は遙か格上の怪物だ。
自分を鍛え、達人以上の強敵に勝てるだけの力を蓄えなければならない。
こういう相手と戦える機会なら逃す手はないだろう。
だから踏み出す。無言の開戦。
ガードの上に中段への突き、間を置かずに打点をずらした中段突き。
三段目の肘より先にカウンター。重いわけではない。だが着実にこちらの体力を削る連打が打ち込まれる。左右のワンツー、軸足狙いのローキック、フェイントで互いの隙を誘いながら打撃を応酬していく。
それは既に試合だった。
路上の喧嘩、決闘仕立ての茶番劇であるにもかかわらず、正統派の打撃系格闘技がぶつかり合うというゲリラ興業の様相を呈してきている。
互いに顔面に数発入れていた。伊達男が唇の血を舐め、俺が鼻血を拭う。
表情でわかる。試合展開でわかる。
これは『試合でいい』と双方が了解している戦いだ。
遠慮はいらなかった。
派手な上段への蹴りを叩き込む。
俺を打ちのめすパンチの連打を上体を反らして回避し、半円を描くような打撃を繰り出して反撃。義手の形は正道の拳。目つぶしも金的も耳を引き千切る指先も、今回ばかりはお役御免だ。チャンプとの闘技も悪くないが、こういうぶつかり合いはまた趣が違う。
俺たちはそうしてしばらく殴り合い、蹴り合い、ダウンしたりダウンをとったりした。
試合は大いに盛り上がり、仕切りにやってきた黒肌人たちにいちゃもんをつけられて軽く一戦交えたり、後からやってきた拳闘士のボスと殴り合った後に意気投合したり、報復にやってきた牛人の一団から逃げ回ったりとやっているうちに夜は更けていった。
気付けば俺たちは並んで夜の街を歩いていた。
お互い服はぼろぼろ、顔は痣と血塗れ。伊達男が台無しだ。
それでも男の腕にしがみつく女の表情は満足そうだった。
女は愛おしい男に身を委ね、男は庇護すべき相手を優しく包み込む。
夜の街をあてもなく行くこいつらに、行く当てはあるのだろうか。
「なあ、これからどうするんだ」
この頼もしい伊達男なら女性を守り切ることができるだろうという不思議な安心感がある。だがそれには根拠がない。雰囲気で勝手に思い込みを押し付けているだけだ。
怪しげな『青い血』を広めて勢力を拡大し続ける牛人組織が敵となれば、追われる彼らに居場所はない。
「教会に行く。彼女、元々は修道女でね。街外れの医療修道会から攫われてきたのさ」
そう来たか。
正直なところ、槍神教とは関わり合いになりたくない。
とはいえこの女性にとっての安住の地が教会なら送り届ける必要があるだろう。むしろ、多くの人にとって槍神教は当然そこにあるべき庇護者のはずだ。
「お、噂をすればってな。我らが修道騎士様のご登場のようだぜ」
伊達男が前を指差す。
知らないうちに教会の近くまで来ていたのか。
見覚えのある美貌が目の前で怪訝そうな表情を作っていた。
ティリビナ人との一件で物別れに終わったキロンと顔を合わせるのはどうにも気まずい。敵として相対するならともかく、この女性を保護して下さいと頼みに行く? 勘弁してくれ、逃げようかな。
「使い魔たちの報告を聞いて驚いたが、やはり君か。人助けとは感心だが、さっき誰かと話していなかったか?」
話しかけてくるキロンはなぜか困惑の表情を浮かべている。その視線は俺と女性の中間に向けられているが、おかしい。
その焦点が、どうも伊達男に合っていないような気がする。
この存在感の塊が見えていないのか?
「おっと、魔法の時間はもうお終いか。やれやれ。移り気なお嬢さんだ」
肩を竦める伊達男。
状況がわからない。何が起きている?
女性は相変わらず陶然とした表情で美しい男に見惚れていた。
気付く。彼女が頬を染めて夢中になっているのは既に伊達男ではない。
夜の街にあって圧倒的な実在感を発揮する美貌の修道騎士だ。
「ああ、キロン様! やっと、やっと迎えに来てくれた!」
伊達男の存在感が急速に薄れていく。
確かだった形がぼやけ、半透明の幽霊さながらに頼りなく揺らいで霞む。
その表情すらあやふやになっていく伊達男の実体はとうとう腕さえすり抜けて、怯えていた女性は新たな止まり木を求めて修道騎士の下に走っていった。
取り残された伊達男。
その姿の残酷さが、なぜだかひどく胸を打った。
「あんたは、何なんだ?」
「俺かい? ご覧の通り。彼女が望み、彼女が願った、世界一強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏だよ」
ただし、実在はしないんだがね。
気障な笑いさえ絵になる男。
だがその時に俺が感じたのは言いようのない寂しさ。
存在しない左腕が理由のわからない熱を持つ。
多分それは、戦いの熱の残り火だった。