2-7.煉獄篇第五歌/幻掌
小さな怪物はいつになく戦意を漲らせていた。
濁った声を張り上げ、ゴアゴアと勇ましく吠え立てる。
幸いと言うべきか、理性を失ったティリビナ人たちからは積み重ねた技の冴えが失われていた。子供が両手を振り回すような襲撃を避けつつ、上空に浮かぶ炎天使を見据える。
ここからでは手が届かない。
遠隔攻撃の手段が必要だ。とはいえ即座に試せるのはせいぜいが投石といったところだ。もし俺に達人の奥義である不可視の拳打が使えたなら。
即座にその選択肢を却下する。一度も成功させたことのない技を実戦で試すなど無謀の極み。成算があるならともかく、それすら無い以上はやるべきではない。
弾道予測計算アプリ『弾道予報Ver2.0』を起動。視界と重なり合うようにして格子模様が配列されていく。規則正しく空間を分割するグリッド上を空から降り注ぐ赤い線が直進し、俺がいる位置に到達する。
警告表示に従って『弾道予測線』を回避。直後、俺たちの敵意に反応した炎天使の腹腔が隆起。体内から次々と燃える礫を射出。
歌い続けるギデオンの翼がはためき、体内で局所的に温度が上昇する。
その予兆を読み取った『弾道予報』が俺の義肢制御プログラムと同期して自動防御を実行。このアプリは対象の眼球運動や呼吸、体温、それまでの攻撃パターンから読み取れる『癖』を基に弾道を予測、回避行動をアシストしてくれる優れものだ。欠点は未対応義肢が多いことだが、バージョンアップでその問題も解決している。
このアプリには、クロスボウから発射された矢や手榴弾を弾いたり、火炎瓶を割らずに掴み取って投げ返すといった実績が数多くある。PMCや警備会社、あるいは紛争地帯の反政府勢力にまで広く利用されている。たとえばこういう芸当だって可能だ。
「返すぞ」
燃える礫を掴み取る。義肢が耐えうる温度であることは把握済みだ。弾道予測線は残ったまま。赤いラインに沿うように右腕がしなり、逆方向へと礫が投げ放たれる。
直撃。顔面を強打した炎天使の歌声が途切れ、ティリビナ人たちの動きが鈍る。
ダメージがある。奴自身の力なら有効ということか。
とはいえ決定打にはほど遠い。炎天使が本格的な殺意をこちらに向けたその時、頭の上で何かが飛び跳ねるのを感じた。
ゴアゴア鳴く黒い怪物、この状況下で唯一頼れる俺の小さな相棒だ。
飛び降りてきた相棒は俺の右手に乗ると、小さな身体を目一杯使って謎のジェスチャーで意思表示を始めた。
「ゴギュ! ゲガッ! ゴギューッ! ゴギャッ! ガブガブ!」
「なになに。俺がゲガッとぶん投げて? お前がゴギューっと飛んで? ゴギャしてガブガブすると? なるほど、ゴギャッていいんだな?」
「ゴア!」
上から飛んでくる炎弾を回避しながら作戦会議をする俺たち。なんとなくわかったようなことを言ってみたが、ちゃんと理解できているかどうかは不明だ。
とはいえやってみる価値はありそうだ。
どうしてかはわからないが、こいつには『何かやってくれそうだ』と感じさせる不思議な魅力のようなものを感じる。達人は呪われた者だと言っていたが、ひょっとすると元は名のある強者だったのかもしれない。
小さな怪物が右手の中にすっぽりと収まる。
弾道予測線はこちらの投擲動作に同期して命中率の高い幾通りかの選択肢を提示。その中から最も確からしいルートを選択、機械義肢が最適化されたフォームをセミオートでなぞりつつ投擲動作を実行。
『弾道予報』による投擲。小さな怪物と機械義肢の連動。それらがもたらした『離れた地点を対象とする干渉』がトリガーとなって瞬間的に甦る記憶。昨夜に経験した神秘現象。神木との接触。形のないもうひとつの世界、樹木の心とそこから広がる森。
達人は言った。植物に心があるとティリビナ人が感じているように、俺はモノである機械義肢に心を見出しているはずだと。それが意味するものとは、つまり。
グリッドによって視覚化された空間データベース、俺の視界に広がる世界。脳が情報として処理する空間知覚。現在から未来に至る時間的な遷移の認識。配置されたオブジェクトそれ自体は『木』だが、それらの総体は『森』としてラベリングできる。これは俺の脳が行う認識であると同時に脳侵襲端末やアプリ群が処理する情報でもあるはずだ。だとすれば、『アストラル界』つまり『森』というのは実体として存在する世界と、頭蓋の中にある俺の脳が処理している情報の、
「発勁用意!」
まとまらない思考を背景で流しつつ戦闘に集中。俺は相棒を投げ放つ。
否、拡張する。
俺たちの攻撃意思はひとつだ。ならば俺の右手と相棒の全身はひとつながりの拡張身体。その分離と射出によって目的を完遂する射撃装置だ。
サイバーカラテの『遠当て』は物理的な質量の投射を意味する。
故にこれは俺たちふたりが協力して放つ渾身の遠隔発勁。
「ゴギョッギャ!」
直撃する。怪物の鋭い牙が炎天使の首に突き刺さった瞬間、ギデオンの表情が苦痛に染まり火勢が明らかに減じていった。ゴアゴアと鳴きながらいっそう強く噛み付き続ける怪物。ギデオンが両手で保持する武器は細かい取り回しには不向きな伝道鋸だ。首に噛み付いた小さな怪物を狙うにはあまりに危険過ぎる。片手だけで掴もうとしても小さな身体で機敏に回避し、反対側の首にがぶりとやるものだから炎天使には為す術がない。
いける。理屈は不明だが、怪物の牙が食い込むたびに小さな口から大量の青い血液が溢れて零れ落ちていく。排出される青い血の量に比例するように炎が弱々しく、歌声からは狂気を招く力が減っていくのがわかった。既にティリビナ人たちも正気を取り戻しかけているようだ。
だが、炎天使もこのままやられるつもりはないようだ。
伝道鋸が唸りを上げる。回転する刃から雷火が迸り、乱れ飛ぶ聖句が攻撃範囲を大幅に拡張していく。自分の首から上を丸ごと吹き飛ばすことさえいとわず自爆攻撃でもするつもりなのか。それで自滅してくれるなら御の字だが、相棒の犠牲は看過できない。
だが今の俺に何ができる? 決まっている。既にそれを俺は掴んでいるはずだ。
投擲の瞬間に垣間見えたもうひとつの世界。達人の教え。この異世界の法則。
相棒を助けるために必要なものは既に揃っている。
射程は足りる。確信もある。必要なのは行動だけだ。
稲妻の速度で『弾道予報』の設定を変更。アプリと同期できない旧式の未対応義肢をマニュアル操作で設定するための操作を実行。ワイヤー式の射出機構を搭載した機械義肢を左腕として据え付けた想定で『弾道予報』に『嘘』を教え込む。必要なのは認識だ。迅速に形だけ整えて、あとは『サイバーカラテ道場』が示す『最適』を実行するのみ。
「発勁用意」
格子模様を貫く弾道予測線。存在しない義肢の設定に基づき、迫真の攻撃動作に応じた投射攻撃の道筋を描き出す『弾道予報』。本来であればその先に続く打撃は不発に終わる。だがこの異世界では異常が異常として実現しうる。幻肢痛は失った腕に対して感じる誤認でしかないが、俺の認識であることに変わりはない。そして『もうひとつの世界』は心と認識が影響する無形の時空だ。なら俺の認識が先に書き換わったなら?
その答えがこれだ。サイバーカラテにおいて、武術の奥義習得とは情報的処理と機械的操作で大抵なんとかなる。
「DOSUKOI-Chant!!」
神話の時代、アステカのスモウレスラーたちが鍋を囲んで詠唱していたとされる古代の聖歌、闘技者たちの真言を叫ぶ。現実空間と重なり合うように仮想のイメージを与えられた『左手』が飛翔。蛇を咥えた鷲がサボテンから飛び立ち、荒ぶる炎天使に向かってその鋭い爪で襲いかかった。
接触。瞬間、俺の身体感覚が爆発的に拡大していく。
飛翔する鷲、分離状態にある知覚領域が接続可能な『拡張身体』を捕捉する。回転し、唸りを上げ、しかし使われるべき道具としてそこに存在している形ある神の加護。伝道鋸の内部へと存在しない鷲が入り込む。神秘を制御する中枢機構、聖句が渦巻く中心は黒い箱のようになって干渉できない。だがその周辺は単純極まりない構造、普通の伐採工具でしかなかった。羽ばたく。それなら俺は、この道具にさえ『心』を見いだせる。
唸りを上げて小さな怪物を襲おうとしていた伝道鋸。
雷火と聖句を放出しながら迫る脅威は、しかし接触の直前になって破壊力の方向性を極端に制限した。絞られたホースが勢い良く水を噴出するように、凝縮された破壊力が相棒の頭上すれすれを掠めて怪人の頭部を吹き飛ばす。林業における最も重大な労働災害、安全対策を怠ったツケがギデオンに不可避の死をもたらした。
「ギョギョアッ」
衝撃で放りだされる小さな怪物。頭部の爆散と同時に歌が完全に停止し、ティリビナ人たちが完全に正気を取り戻す。
落ちてくる相棒をキャッチした俺は、敵がまだ動いていることに気付いていた。
頭部を失っても飛翔を続ける怪人の首から炎が燃え上がり、揺らめく赤色が形のない頭部を補っていく。形成されていくのは既にギデオンではなくなった何か。
拡張された知覚が叫んでいる。
炎の向こう側、目に見えない次元から何か巨大なものが押し寄せつつあると。
あのヒト型の炎はその断片でしかない。
もっと巨大な、どうしようもなく強い力が俺たちを押し潰しにやってくる。
不滅の炎天使を前に俺たちが気圧された時、迷わずに動いた者がいた。
達人、フーム。狂気をもたらす歌が途絶え、動けるようになった俺たちの師が空の脅威に挑もうとしていた。根のような足が大地を離れる。
そして、飛んだ。
驚くほどのことではない。昨夜の超常現象を思えばこのくらいは当然だ。
背中からプロペラ状の翼を生やし、回転させながら飛行している。おそらくは翼果に似たものだろう。風に乗って種子を運ぶ、植物が持つ飛行能力。
達人ほどの神秘の使い手ならあのくらいはやってのける。
その姿、堂々たる威容を目に焼き付ける。
わずかに見えた表情。飛び立っていく背中が語る意思。
死を覚悟し、後を託していく者の目だ。
無論そんな細かいニュアンスを俺が表情から汲み取れるはずもない。『七色表情筋トレーニング』が集積したデータを分析した上で出された推測だ。それでも俺は無言の中に達人の決意を読み取ったのだ。
燃え盛る炎が老人を襲い、その樹皮を焼き焦がしていく。
浮動する達人の姿は大地の上と変わらず不動。
達人は黒ずんでいく身体で炎天使の前に立ち塞がり、その奧に潜む巨大な何かへと真っ直ぐに語りかけた。その言葉を聞かなければならない。俺の望みに呼応するように『断章』が再び浮遊して俺のそばに寄り添った。
「強さとは何か。それは拳のみにあらず」
そして、不可視の動作で拳を構える。今の俺にはそれが理解できた。
込められているのは殺意ではない。
個としては木と捉えられるもの。群としては森と名付けられるもの。
しかしてその実体には形がなく、木々の間隙にこそ『それ』は満ちている。
フームの問いに答えるように炎天使が熱波を解き放つ。
それは翼の背後から押し寄せる光の輪。聖なる力。大いなる加護。
すなわちこの世界における最大最強の存在である神の力に他ならない。
だがこの世の真理を前にして、老いた拳士は不敵に笑って否定を示す。
「それは心じゃ、未熟者」
遙かなグリッドの向こう、空間を埋め尽くす異常な数の弾道予測線。
『弾道予報』がエラーを吐き出し続ける光景を呆然と眺める。
存在しない双掌が時空を貫く様子を、俺は確かに幻視していた。
それは老人の両肩から爆発的に伸張する巨木だ。樹木と共にある種族、ティリビナ人が己の腕として認識する拡張神体。巨大な神木のように聳え立つ凄まじい認識質量が無尽蔵に枝分かれを続け、空間と知覚を埋め尽くしていく。
そう、存在しない腕が『腕の形』をしていなければならない理由などない。
達人は瞬く間に複数の相手を宙に舞わせていた。あれは一瞬で無数の打撃を繰り出していたのだと思っていたが、そうではなかったのだ。
大樹の腕。枝先の拳。自在に分岐する打撃。しなやかな葉が掬い取るように投げ、複雑に交差する枝が関節を極める。
炎の天使であろうとその巨木からは逃れられなかった。
炭化した表面がそれ以上の燃焼を阻害、燃え広がることを許さない。
数の暴力が空間を制し、迎撃と回避行動の機先を制して差し込まれる無数の枝が時間さえも制覇する。達人の奥義は炎天使を封殺、さらにその奧にいる何かにまで到達する。
「やはり貴様か。我らが怨敵、松明の騎士団総長、アルメ・アーニスタ!」
松明の騎士団。それは確か、世界宗教である槍神教が有する武力、騎士修道会の名だ。
キロンやギデオン、修道騎士たちの頂点に立つ存在。それこそがあの天使なのか。
炎天使とその向こう側の何かを抑え込んだ達人が、振り返らないままに叫ぶ。
驚くべきことに、彼が語りかけているのは俺と小さな相棒だった。
「聞け! この天使に言葉持つ者は勝てぬ! また信仰を寄る辺とする者も呪われて異獣に堕とされるであろう!」
絶望的な事実だった。それはつまり、洗礼すら受けていない赤子でなければ勝てないということではないのか?
誰もが戦意を喪失しようとしていた時、俺の手の上で小さな相棒が力強く吼えた。
それに応えるように、師は言葉を繋ぐ。
「転生者よ、お前が希望だ! 仲間を集めよ。力を蓄え、呪いを解き、災いもたらす言葉を捨てる意思さえ持てたならば、ここで時間を作る意味はある!」
達人の全身が炎に包まれ、彼方から押し寄せる得体の知れない力に押し潰されていく。
炎に包まれた異様な空が割れる。空間の亀裂から巨大な瞳がぎょろりとこちらを覗き見る。そのまなざしが、まっすぐに俺を貫いた。
ず、と亀裂から何かが突き出される。
角だ。長大な突起が現れたかと思うと、それが達人の胸を貫いた。
血を吐き、しかし動かない。生命力を失いながら、その全霊をもって達人は巨大な存在を向こう側へと押し返していく。
「現世を壊し、新たなる地平の創世を試みるか、言語聖絶者アルメ! だが全てが思い通りに行くと思うなよ」
胸に突き刺さった長大な角が振動する。
人々から理性を奪う狂乱の歌。俺たちはそうして思い知る。ギデオンが叫んでいた歌などは紛い物でしかなかったことに。本当の脅威はあそこにある。認識と言語を粉砕する真なる破壊の歌。達人を内側から粉砕しようとする滅びの呪いが収束し、解放の時を待つ。
確定した死を前にして、達人はどこまでも冷静だった。
「後を託す。弟子たちよ、お前たちの世界を守り抜け」
それが最後の言葉になった。
全てを破壊する衝撃が達人の五体を跡形も無く吹き飛ばす。だが死に至りながらも拡張を続けていた幻の両腕、無限無双の大樹が周囲へと拡大しようとする全ての衝撃を抑え込み、空間の亀裂へと押し込んだ。彼方へと突き抜けていく莫大なエネルギー。現世に現れていた巨獣のほんの一部がじりじりと押し戻され、恐るべき気配が遠ざかっていく。
空の炎が消えていく。
太陽はいつものような輝きを取り戻し、空間に走っていた亀裂はどこにも見えない。
遙か上空で死闘を繰り広げていた達人、その姿もまた、どこにもなかった。
周囲のティリビナ人たちが声を押し殺すようにして涙を流すのを見ながら、俺は掌に感じる小さな相棒に語りかけた。
「勝てると思うか、あれに?」
「ギュッ! ゴアゴア!」
愚問だった。そういえばこいつは最初からこうだ。
自分よりも遙かに大きな赤い竜に挑むちっぽけな姿。
俺はその在り方に夢を見た。
恐れを抱く感情を制御し、かくあるべしという意思を貫く理性。
それこそが人間性であると、俺は信じている。
俺たちに猶予を与えるために散った師を想う。
彼もまた、最後までその在り方を貫いた。
「弟子としては、師に倣わなきゃな」
腹は決まった。
敵は修道騎士の親玉、炎の天使アルメ。
乗りかかった船だ。立っている世界が壊されるというのなら、対処しないわけにもいかないだろう。やれるだけやってみるしかない。
決意を胸に、俺は相棒と共に拳を突き上げた。