2-6.煉獄篇第四歌/異獣
泡が浮上して、ぱちりと弾ける。
揺らぐ記憶を想起する。忘れえぬ悪夢が甦る。
死に彩られた夜の森。半年前の戦いで、俺は怪物と遭遇した。
「なんだ、これは」
俺の呻きを掻き消すような咆哮。
目の前で牙を剥く異形は狼に似ていた。
突き出た鼻先が向くのは夜空に輝く四つの月。二本の脚で直立するその様子は人狼と呼ぶに相応しい。だがその細部のおぞましさときたら。
醜悪の極みだった。黒ずんだ質感の肌は所々が腐り、グロテスクにでこぼこと隆起した骨と肉が歪な表皮を突き上げながら蠕動し続ける。肥大化した眼球は顔の形をねじ曲げ、掌からはデタラメな長さの指が放射状に生えて蠢いている。
異形の怪物が一歩を踏み出す。青い体液が足から流れ落ち、どろどろと下生えを溶かしていく。あるいは、融かしてひとつになっているのか。青い血はそれ自体が意思を持つように流動しながら周囲の草木を呑み込んでずるずると内側に取り込もうとしていた。
予想を裏付けるかのように、怪物が両腕からも体液を溢れさせながら手近な木を抱きしめた。融合。人狼のような怪物が、胴から枝葉を生やした異形に変容していく。
「わからぬか? お前たちのまなざしが、その異獣を作り出したのだ」
森の中にぽっかりと生じた空白地帯。
無数の屍を積み上げた小山、森の主のために設えられた死の玉座にちょこんと『お座り』をしているシルエットが口を開いた。
堂々たる言動や傲岸不遜な態度からは想像もできないほどに小さな姿。
ぴんと立った耳に細身の体躯、黒く塗り潰されたかのような四肢。
それは何の変哲も無い狼のように見えた。だがそうではない。この獣こそ俺たちの敵。呪わしい悪意のままに人間を嘲笑う、邪悪な怪物なのだ。
「魔将シェボリズ! 貴様、私の仲間に何をした!」
すぐ隣で修道騎士アズラが激昂する。
銀の兜に隠された顔は怒りに染まっているに違いない。当然だろう。目の前で異形の怪物に変えられたのは、アズラと共にこれまで戦ってきた同じ部隊の仲間なのだから。
魔将シェボリズの力はこのような悪趣味さえ現実のものにしてしまう。
俺はそれを知っていたはずだった。
カイン。何故なら俺は既に、アズラの仲間を。
「望み通りに殺し合え。お前たち英雄気取りは大好きだろう? 怪物退治というやつが」
「黙れ! こんなものが私たちの望みであるものか!」
アズラの叫びはこの悪意を向けられた者すべての代弁だった。
しかしシェボリズは嗤い続ける。
その無力さを。何もかもが手遅れであるという無意味さを。
どこまでも深い憎悪を込めて、嘲笑し続けた。
「ははは! いいや、確かにこれはお前たちの望みだとも。我が呪われし頌歌は罪に対しての罰を下す、ただ『罪悪感の自覚』を促すだけの法則に過ぎぬ」
言葉と共にシェボリズの周囲から次々に現れる影。
歪な形の人狼もどき。わずかに原型が残された顔と白銀の甲冑がその正体を物語っていた。アズラが声も出せずに息を呑む。残された仲間たち。無事を祈り、合流を目指していた彼らの数とぴったり符合する。
仲間だったものたちの激闘を物語るように、背負う槍には狼の首級が飾られていた。しかしどうしたことか。その生首がどろりと溶け落ちたかと思うと、内側から骨が露出する。明らかに狼の骨格ではなかった。見間違いようのないしゃれこうべ、人の頭蓋骨だ。
アズラが何かに気付いて息を呑む。遅れて俺も最悪の結論に至る。
「まさか、この森で遭遇した人狼は全て」
「そう、元々はお前たちの同胞よ。『仲間殺し』の罪を背負った者は罪の意識に苛まれ、やがて自らを秩序の外へと追放する。秩序の外、森の中へと彷徨い出した追放者は人間性を喪失し、やがて森の住人へと姿を変える。お前たちの集合的無意識が共有する『外部の敵』の姿にな」
それはつまり、俺はあと一歩のところでああなっていたことを意味していた。
アズラが駆けつけなければ、あの異形たちのように。
ぞっとして即座に恐怖を遮断する。ここでは罪悪感すら己を蝕む猛毒だ。
仲間だったものたちが完全な変容を果たす。
それは人狼。人では無くなったもの。森に潜む人類の脅威。
「共同体の外に弾き出された者は法秩序の守護を失う。神の光なき者。加護なき民。それすなわち世界の異物。平和喪失の罪科を背負いし生ける死体、狼に等しき最下級賎民。お前たち自身が作り出した敵、すなわち異獣」
魔将シェボリズの言っていることはほとんど理解不能だ。意味の分からないルール、意味の分からない力、意味の分からない憎悪。それでもひとつだけはっきりしていることがある。あれは俺たちの敵。どうしようもなく、敵以外の何かにはなりえない存在だ。
心を持った人間である以上、森に潜む異形の怪物は倒さなければならない。
俺が冷静に戦意を燃やすその横で、アズラは何かをためらうようにじりじりと後退っていく。恐れているのか? 今更どうして?
「これは貴様らの業であるぞ、槍神に媚びへつらう夜の同胞よ。主流を気取るお前たちの氏族が人狼をスキリシアより追放したその日から、我らはずっとこうして復讐する時を夢見ていたのだ。自分たちが生み出した怪物に食い殺されて死ぬがいい」
「シェボリズ。お前を倒して、私は英雄として帰還する」
自分を奮い立たせるように宣言したアズラが得物を構える。
重そうに持ち上げたそれは片刃の手斧。
小柄な体躯には不釣り合いな武器を掲げ、身の丈に合わない英雄の夢を抱えながら、修道騎士は無謀な戦いに挑もうとしていた。
俺は何も言わずにその戦いに付き合うことにした。
凄惨な、綱渡りのような戦い。
結果として、俺たちは魔将シェボリズをかろうじて打ち倒した。
怪物を退治した英雄。華々しい凱旋。結局それは夢と終わった。
望んだはずの栄光は、手に入らなかったのだ。
二つの勢力が第五階層で激突してから早半年。
戦闘後の混乱のせいで誰がこの地の支配者となったのかもわからないまま、宙に浮いた覇権を巡る勢力争いは今も続いている。
その中で右も左もわからずに翻弄されている俺は、今や居場所を失った放浪者も同然。あの時はわからなかったシェボリズの言葉が少しだけ理解できるような気がする。
今の俺に残された人間性は、きっとそう多くはない。
だからこそ、それにしがみつこうとしているのかもしれない。
その日に起きた事件は、それを思い知らせるような出来事だった。
魔将シェボリズが異獣と呼んだ歪な魔物、人類の敵対者。
それは、はじめ森の外からやってきた。
「すまなかった」
真摯な謝罪を前にした時、寛容な人であればまっすぐな心に胸を打たれてそれを受け入れるだろう。そうでなくとも、懸命に謝意を伝え続ければいつかはそれが本心からのものだと理解して貰えるかもしれない。
俺には顔の違いがわかりづらいティリビナ人たちの集団にも多様性はある。
寛容な者もいれば温厚な者、我慢強い者も少なくない。
その全てが煮えたぎるまなざしで語っていた。
許しはしない、と。
「許されるとは思っていない。それでも私は過去の行いを悔いている。そして、私以外の槍神教徒たちがみな罪深いわけではないことを理解して貰いたいのだ」
その日、達人が『樵』と呼んでいた聖職者ギデオンはティリビナ人たちの前に姿を現し、地に頭を垂れて唐突な謝罪を始めた。
相手の都合などお構いなしの押しつけがましい要求にティリビナ人たちの怒気が更に膨れあがる。しかし血気盛んな若者たちが拳を振り上げるよりはやく、共同体の長である老人が前に進み出た。
達人ことフーム。俺の師である老ティリビナ人は静謐なまなざしで男を見下ろす。
「顔を上げるがいい」
老人の言葉にがばりと顔を上げるギデオン。
男もまた顔に老いが染みついていた。
長い歳月が男に疲労と苦悩を刻んでいる。彼にとってこの瞬間は、どんなに惨めでも諦めきれない最後の執着だったのかもしれない。
「ただ赦免を請うだけならば聞くつもりはなかった。だが先ほどの言葉は自分以外の同胞たちを気にかけていた。私はそこにある人間性を信じよう」
フームの言葉は柔らかく包み込むようだったが、その表情は厳しく目は感情を押し殺すように揺れている。失われた両腕、消えぬ傷痕。憎しみと恨みを抱えながら、あの老人は敵だった者の人間性を信じようとしていた。
「槍神教との対話を行おう。一朝一夕に和解がなるとは思わん。だが、仲間を思う心が同じであるならば、我らは相手を思いやりながら言葉を交わせるはずだ」
許す、とは言わない。だが頑なな拒絶もまたフームは認めなかった。
小さな共同体で閉じた生き方をするだけでは、若者たちの未来は暗いままだ。そんな考えがあったのかまでは俺にはわからない。確かなことは、老人は己の感情を理性と意思によって完璧に制御しきったというその事実だけだ。
その在り方と精神性はたとえようもなく俺の胸を打った。
脳侵襲端末と微細機械、精神に作用するアプリを併用して感情を制御している俺にとって望ましい生き方、その理想型がそこにある。
独力のみで自己を制御し、理性と意思で最善を尽くす。それこそがヒトの人間性なのだと、俺は信じている。
やはり達人は俺の理想の師だ。武芸においても、精神性においても、彼ほど尊敬できる人物はそういない。
感動に打ち震えていたのは俺だけではなかった。ギデオンもまたフームの示した誠実な態度に大げさなほどの喜びを示している。周囲のティリビナ人たちもまたその様子を見て毒気を抜かれていった。
空気が弛緩していく中、場を引き締めるようにフームが付け加える。
「とはいえ、譲れぬ一線はある。そちらが建設を望む施設や欲している材木、生活のための林業ならばある程度までは許せる。だが我らにとっての聖地、レルプレアの神木には手出し無用と約束してもらいたい」
当然といえば当然、むしろ信仰以外の面での大幅な譲歩を見せているのだからこれは驚くべき成果だ。ギデオンもさぞ喜んで仲間たちに報告に向かうのではないか。
そう思っていた俺は、意外なものを目にすることになる。
それは想定外の衝撃に茫然自失となっている男の面相だった。
「なぜだ」
生気のない表情が、ぼそりと呟いた。
直後に垂れ流されていく言葉を、俺はほとんど聞き取れなかった。
それはティリビナ人たちも同じだろう。
声が小さくて聞き取れなかったのではない。聞くに堪えない異常な妄言が吐き出されているという事実に、聞いている方の精神が耐えられなかったのだ。
「どうして伐採できない。こんなに我慢してきたのに。恥辱に耐え、自分を殺し、脳髄洗いさえしたのだぞ。なのになぜ木を切れない。私は英雄だったはずだ。どうして急に罪人のように扱われなければならない。どうして私の苦しみを理解しようとしない。やはりお前たちには人らしい共感性や同情心など無いのだな。その樹皮の中にあるのは魂なきうろでしかないのだそうに違いないやはり私は間違ってなどいなかった」
こいつは何を言っているのだろう。俺とティリビナ人たちは共通の疑問を抱き、目の前で謝罪していたはずの男を凝視する。最初から最後まで、一欠片も理解できない。仮にこの男を理解できる者がいたとして、そんな者が複数存在すること自体がティリビナ人にとっては絶望なのではないか。いずれにせよ、ここにあるのは最悪だけ。
同じ空間に存在していることが許せない。一刻も早く遠ざけなければ目が腐る。
「人の心を持たぬ異獣どもめ! お前たちのような理解不能な怪物は伐採あるのみ!」
立ち上がり、腕を振り上げ、虚空を握る。何もない場所から滲み出す形。魔法のように現れた鈍く輝く斧が振り下ろされる。真横から弾いたのは不可視の力だ。
弾き飛ばされた斧は幻であったかのように消失していく。攻撃の結果を見届けることもなく、達人は敵の姿だけをその目で捉えながら言った。
「そうか」
構える。腕の無い身体が斜めに傾いで半身となる。腕の無い無防備な胴体を守るものはない。ただ気迫だけがその前進を鎧のようい覆っていた。
「全くの同意見だ。初めてお前たちと理解し合えた気がするよ」
そして、大気が爆発する。
猛烈な勢いで炸裂した不可視の衝撃。真正面からギデオンを打ち据えた幻の打撃が男を宙に浮かせて遙か後方へと吹き飛ばしていく。
圧倒的な力。抗うこともできずに渾身の一撃に打ちのめされたギデオンは頭から地面に叩きつけられて倒れ伏す。
戦闘ということさえ憚られる、一方的な制圧。
昨夜、達人が言葉の端々に滲ませていた不安と恐れは杞憂でしかなかった。
長き修練を重ねたフームの実力は既に仇敵である『樵』を大きく上回っている。
頼もしい師の姿に俺とティリビナ人たちが胸を撫で下ろしたその時だった。
「ゴア、ギャギャッ!」
最初にそれに気付いたのは小さな怪物だった。俺の肩に飛び乗って二本の牙を剥き出しにして唸り、その異様な光景を凝視する。
空が燃えている。
ごうごうと燃え立つ炎が蒼穹を紅蓮に塗り替えて、輝く太陽は黒く染まって光を失う。失われた日の光にかわって空の孔から這い出してきたのは、奇妙なシルエット。
炎。不定形に揺れ動く業火の塊が、ヒトの形をとってこちら側に現れる。
「あれは、あの炎の天使は」
達人が震える声で漏らした言葉の通り、炎の背中には燃え立つ翼のような突起が認められる。しかしあれが天の使い? あれには異質さしか感じない。神々しさも聖性もなく、ただ燃え続ける炎としての荒々しさがそこにある。
俺がイメージする天使とはかけ離れた姿。あれがこの世界における天使のスタンダードなのかもしれないが、それ以前の問題として達人はあの姿に見覚えがあるようだった。
「おお、やはり我が信仰は神に祝福されている! 勇ましき松明よ、炎天使の輝きよ! 共に戦い、悪しき魔王レルプレアを打ち倒しましょうぞ!」
ギデオンが熱に浮かされたように叫ぶ。
するとその言葉に応えるように、空から炎の天使が降ってきた。
そして、迎え入れるように両手を広げたギデオンと衝突。
青い液体が飛散して、ふたつはひとつになる。
融解。そして融合。
ギデオンの形が、熱に溶かされるように崩れていく。
人間の形をした蝋燭であったのかと思うほど、それは急激な変化だった。
肉体が爆ぜ、内側から隆起して肉と骨を蠢かせる。融け落ちた肌が裏返って黒ずんだ表面が全身を覆っていく。口腔から流れ出す青い液体がどろどろに融けて周囲の草木を内部へと取り込み、それを薪にして炎を燃え立たせる。
彼の祈りに呼応して現れたとおぼしき炎天使。
その力を取り込んだことで、ギデオンは炎上する怪物と化した。
俺は猛烈な既視感を覚えていた。
あの時と同じだ。魔将シェボリズが呪いによって仲間たちを異形に変えたあの時と。
こんなふうに変貌した者を、奴はこう呼んだ。
『異獣』と。
半年前、俺は魔将が口にした言葉の意味をほとんど理解できなかった。
しかしここは神が実在し加護なる神秘的な力が現実に作用する異世界。あの時に語られていた言葉もまたこの世界特有の理路に基づくものであった可能性は高い。
『お前たちのまなざしが、その異獣を作り出した』とシェボリズは言った。
ならばこの現象も同じなのか。理解不能、対話する余地のない完全な敵対者であるギデオンを『こいつは怪物だ』と俺たち全員が思ったからこそ奴は怪物になったのか?
そんな出鱈目にも思える理屈が正しかったのかどうかはわからない。
いずれにせよ、唐突に現れた謎の天使と異獣ギデオンはあまりにも危険だ。
明白な危機。立ち向かわなければ殺される。
炎という植物の天敵に対する反応は俺よりもティリビナ人たちの方が迅速だった。
矢のように疾走する者がいた。足から伸ばした根をしならせるようにしてのバネの如き跳躍を見せる者がいた。蔦の鞭で音より速く一撃を加えようとする者がいた。
容赦の無い猛攻を前に、しかしギデオンはにたりと笑う。
「伐採、開始」
口から吐き出される炎と共に、怪人の両腕が豪快に宙を薙ぎ払った。
どっどっどっ、と拍動のような音が鳴る。達人が弟子たちの名を叫び、怪人が奇声を発するのと同時、破断された木片と腕が宙を舞う。
「うぃーん、うぃーん。どどどどどっ。伐採、伐採、楽しい伐採」
接近して打撃を加えようとした二人の四肢があっさりと切り裂かれていた。怪人を取りまく炎は鎧のように彼を覆って迫り来る蔦を寄せ付けない。
最大の脅威は、男が両手で保持している大型の機械だった。
ギデオンは常軌を逸した笑みを浮かべながら回転式の伝道鋸で歪んだ信仰を押し付ける。いや伝道鋸って何だ? 誤字修正要求するとこ? すぐ傍で浮遊する黒い本が注釈を追加する。あれもまた神の加護によって存在する形ある神秘の力。
「彼らにとっての聖典である『啓示告白』の聖句を小刃に刻んだ動力工具です。樵の聖人が森を切り開いた伝説に由来する伐採奇跡。その再現を目的とした神働術器の類かと思われます。伐採時に発生する騒音を祈祷に変換し、殺戮さえ生贄として自己肯定する免罪兵装でもあるようです」
例によって何もない場所から現れたその回転式の伐採道具は殺戮のための暴力となってティリビナ人たちを襲っている。達人が存在しない両腕を振るって打撃を加えるが、異獣に変貌したことでその耐久力は信じられないほど向上している。
絶え間ない連撃を受けたギデオンの首は既に何度もへし折れている。
頭蓋は陥没し、眼球は潰れ、強烈な衝撃を伝えられた胴の内側でとうに心臓は破れている。幾度も致命傷を負いながら、炎が燃え上がるたびにその肉体は元通りに修復されてしまう。不滅の怪物となったギデオンは縦横無尽に回転する刃を振るい、その周囲に輝く文字列と炎、迸る稲光を纏わせて歓喜を歌い続ける。
「樹ー木ーがひーとつ、血ーまーみーれふーたつ、伐採、伐採、逃ーげてーも、泣ーいてーも、みーなごーろしぃー!」
技というにはあまりに稚拙な大振りの一撃。だがそれは達人をして回避しきれない必殺の斬撃だった。回転する刃片の周囲に広がる炎、稲妻、輝く文字列。伝道鋸が一振りされるごとにそれら全てが無秩序に炸裂し、散弾のように全方位を襲う。
死が押し寄せる。輝く文字列に触れてしまったティリビナ人が絶叫、その全身を這い回るように槍神教の聖句が広がり、大いなる槍神を称える素晴らしき祈祷の言葉が悪魔の内を満たしていく。輝きが樹皮の内側を満たし、悪しき魔王レルプレアの魔力と拮抗。耐えきれずにティリビナ人の肉体が爆散する。
「おお、なんと素晴らしき奇跡! これこそが槍神の偉大さであると知れ!」
その妄言を口走っているのが自分であることに気付いた時、俺はようやく発光する文字列が黒い本を伝って視界の下半分を覆い尽くしていることに気付いた。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな! おお父なる槍よ、雄々しき英雄の長よ。どうか真の信仰を知らずにいた愚かなこの身を許し給え!
「ゴア!」
がぶり。首筋の痛み。小さな怪物が噛み付いてくれたお陰で俺は我に帰った。
異常な言動と汚染された思考が遠ざかる。『断章』もまた自浄作用を発揮したのか大量の聖句を押し退けるように消し去った。
「敵の呪文的改竄能力を確認しました。真性異言に由来する架空聖性言語の解釈拡張と推測されます。この『断章』が有する防壁での対処は困難です。状況に応じて『断章』の一時停止も試みて下さい。言語経由であなたの思考が侵食されます」
「理屈はわからんが、危険性は理解した」
黒い本と小さな怪物がいなければ状況に押し流されるままわけもわからずやられていたかもしれない。しかしこの状況で俺に何ができるというのか。
達人でさえ攻めあぐねている難敵はどれだけダメージを与えても全く応えた様子が無い。ティリビナ人の門弟たちも加勢しているが、多くは戦いについて行けずに傷つき倒れていくばかり。
達人の傷が増えていく中、状況は悪化の一途を辿る。
怪人の背が盛り上がる。燃えさかる炎の翼を広げ、ギデオンが天使となって空へと飛び上がった。この上さらに手がつけられない怪物になるのか。歯噛みする俺たちの前で、燃えさかる異獣は高らかに歌った。
はじめて見せたその攻撃は、はじめ何の意味もない音でしかないように思えた。
しかし異変は俺の周囲に現れていた。
ティリビナ人たちの様子がおかしい。頭を押さえ、苦しそうに呻き、正気を失ったように暴れ出している。完全に理性を失って手近な仲間たちに襲いかかるその状況は地獄絵図の一言だった。俺は共に物乞いとして街角に立ったこともある兄弟子に掴み掛かられながら、達人の名を呼ぼうとした。
そして絶望を目撃する。
俺にとって絶対的強者だった達人、尊敬すべき師フームが、弟子たちに向かって技もなにもない荒々しい蹴りを叩きつけていたのだ。
炎天使の響かせる異形の歌の前では、達人でさえ理性を保てないというのか。
「見損なったぞ! 所詮は口だけか、見かけ倒しの枯れ木爺! 待ってろ、俺がブチ殺してやる!」
師に正気に戻るように呼びかけようとした俺は、自分の言葉がおかしいことに気付く。視界に表示されている文字がおかしい。俺はこんなことを望んでいたか? 俺が尊敬すべき師にするべきこと。それは目の前のクソ乞食野郎を殴り殺した後で俺を失望させたゴミクズをバラバラに引き裂いてやることだ。なるほど『断章』の警告はこういうことか。
「緊急停止を求」
ティリビナ人の攻撃を躱して大きく後退。視界下部の字幕を見ないようにしつつ浮遊する黒い本を弾き飛ばす。落下した本に小さな怪物が飛び乗って開かないように押さえ付けた。ゴアゴア鳴くその姿はいつもどおりに言葉が通じない。つまり変わらず安心できる相手というわけだ。
コミュニケーションの手段を失った俺は、しかし冷静に周囲を見渡した。
頭上で狂気の歌を響かせ続ける天使の声は、単なる騒音にしか聞こえない。
何が起きているのかはほとんどわからない。
周囲で同士討ちを続けるティリビナ人たちを救う手立ては見つからない。
だとしても、可能性があるのならまだ動けるはずだ。
「どうやら、今戦えるのは俺たちだけらしいぞ」
「ゴア! ギュゴゴ!」
俺の言葉が通じたはずも無いが、怪物は意味不明の鳴き声で応じてくれた。
肩に飛び乗ってくるこいつを、俺は相棒と認めてもいいだろうか。その醜い姿が、初めて出会ったときのように頼もしく感じられた。