2-5.煉獄篇第三歌/形なき森
「この世で最も強き力が何か、わかるか」
俺が『達人』フームに呼び出されたのは、夜も更けた頃だった。
巨大な塔が内包する第五階層という世界には、どこまで続いているのかもわからないような『外側』がある。それは空についても同じで、上には第四階層があるはずなのに知らない星座と四つの月が天を埋め尽くしていた。
「巨大な質量、でしょうか」
「惜しい」
冷え冷えとした空気。吐く息が白い。周囲は静けさに包まれていた。
呼び出された場所は人気のない集落の外れ、『外側』に広がる森の中だ。木々の間に立つ老人の姿はその樹木めいた肌もあって迷彩色のように馴染んでいた。
「では天文学的な熱量」
「悪くはないが違う。答えは神だ」
宗教的な問答か、と思った俺は目を剥いた。
異様な現象が起きている。
老いたティリビナ人の足下から、急速に草木が生長し、色とりどりの花が咲き乱れていくではないか。更には隣り合う木々から枝葉が次々に落下してきたかと思うと、それらが吸い寄せられるように集まって達人の両腕となる。
かりそめの腕。枝葉を寄せ集めた義肢。魔法じみた現象を手足のように操りながら、達人は五指を順番に折り畳んで拳を作って見せた。
「これぞ我らが女神レルプレアの加護。よいか、この世界は神に支配されておる。大いなる神々がもたらす加護が人に力を与え、神秘なる異能の働きが世を動かしているのだ」
師の言葉には確たる迫真性があった。これは漠然とした信仰や宗教の話などではない。
この異世界における当たり前の常識についての話だ。
「かつて、世界には多くの神話が並び立っていた。時に混じり合い、時に分かち合う、安定的な混沌がこの世界であった。だが、時代は変わりつつある」
達人の周囲で草木が枯れていく。緑が生い茂る春から、厳しい冬へと移り変わるように。それは必然の流れなのだと、老人の物悲しい瞳が語っていた。
「神と加護は富であり力。利益を生み出すならば信仰を独占し、掌握すればよいと考える者たちがいる。それが霊性複合体。大国すら凌ぐ超巨大な宗教企業。奴らは揺らぎ揺蕩う神話世界を一本の槍で貫こうとしている」
槍、というたとえが示すものに心当たりがあった。銀色の甲冑。騎士修道士だか修道騎士だかわからないが、武装した聖職者たち。得体の知れない大きな力。
「それが槍神教、というわけですね」
「外世界人よ。我らのように生きるのは楽ではない。今の世界で安全を求めるならば、奴らの作り上げる秩序、大いなる流れに取り込まれて生きることが最善であると心得よ」
俺の素性に気付かれていたことに少し驚いたが、何もかもを見透かすような達人のまなざしを見ていると当たり前のことだったようにも思えてくる。
この人は俺よりずっと賢明だ。この忠告は正しいのだろう。
今なら間に合う。槍神教と決定的に対立する前にここから逃げ出せと。
「もう半ば崖っぷちなもので。ここに来て恐れるものなどありませんよ」
「左手以外を失ってからでは遅い、と忠告しても無駄なのだろうな」
俺の左手は半年前に失ったものだ。これ以上を失うことを恐れていないと言えば嘘になる。失った左手に代わるものを望んでいることも事実だ。
だが俺はここで逃げる自分をイメージできない。
滅多打ちにされる小さな怪物を前に衝動的に飛び出したあの時から、俺は先の事をあまり考えないようになった。たぶん、そういう生き方の方が向いているのだ。
「我らの信仰など知った事ではなかろう。奴らを相手に臆せず立ち向かうとは、向こう見ずな若造だ。いずれ身を滅ぼすぞ」
呆れたように息を吐く老人の口調は、しかし言葉とは裏腹に穏やかに響いた。
それでも彼は真剣にこちらを見据えている。
唐突に現れた押しかけ弟子のことを心から案じているのだとわかった。
「かつてはこのフームにもお前のように向こう見ずな時期があった。押し寄せてくる大きな力、抗えぬ流れに逆らい、己の意思を貫かんとした日々が」
言い終わらぬうちに枝と枯葉で構成されていた両腕が崩れ落ちる。
失われたものを示しつつ、フームは重々しく告げた。
「その代償がこの両腕だ。今でもたまに夢に見る。異端異教を殺せと叫び、聖地に迫る『松明の騎士団』の外道ども。降り注ぐ雷火で森を焼き、呪いで同胞達を醜い怪物に変える破壊の御使い。礫の雨を降り注がせる雲の巨人。そして忌まわしき殺人鬼、『樵』の狂った笑い声」
老人が語ったのは、槍神教とティリビナ人との間に横たわるあまりにも根深い因縁だった。失われた両腕。この世界の歴史など知らない俺でも理解せざるをえない痛ましい爪痕。それは過去などではなく、今まさにティリビナ人に迫る脅威だ。
「奴らは我らを『薪』と呼んで生きながら火にくべ、そのまわりを回りながら歌い踊っていた。『伐採』と称して我らの五体を引き裂き、その部位で盾や鎧を飾って武功を競い合う遊びに興じていたのだ」
それはまさしく人間の所業だ。人らしい悪性、ありふれた愚かさ、救いがたい醜さ。
異世界であろうと変わらない、つまらない人間性の発露。
既に俺は確信していた。槍神教とティリビナ人は絶対に相容れない。
和解などあるものか。あのキロンという男がどれだけ下らない妄想を抱いていたのかがよくわかった。ギデオンとか言う男がやってきた最初の時点で殺し合いにならなかったのが奇跡だったのではないかと思えてくる。
「年若い門弟たちは昔語りでしか知らぬ。古くからの高弟たちも幼い頃の記憶を封じているのだろう。憎しみだけが伝わり、恐れは忘れられた。しかし間違いない。あのギデオンという男、あやつはかつて同胞たちを虐殺した修道騎士。『聖絶』を主導していた仇敵に他ならぬ」
老人は震えていた。
圧倒的な実力者であるはずの達人が恐怖を思い出してしまっている。
無謀な俺を諭すための言葉。それはいつしか彼自身の古傷を掘り返す自傷行為に変わりつつあった。
「緑豊かであった聖地は奴らに焼き払われた。砂の地獄と化したあそこから持ち出せたわずかな苗木、それを我が祈りによってようやくこの土地に根付かせることができた。それこそがあの『神木』。何としても守り、弟子たちに託していかなければならない」
ここまで内心を吐露するつもりはなかったのだろう。抉り出された傷の痛みが心を乱したのか、老人の本音はあまりにもはっきりと俺に伝えられる。
何もかも失った老人に残された信仰の拠り所、それがあの神木だ。
本当はなんとしてでも守りたいはずだ。
「では、やはり俺も残りましょう」
「余所者であるお前に、付き合う義理はない」
「師弟とは、義理であっても血縁に似た関係ではありませんか」
「ふん。そんな常識は知らぬな。どこの習わしだ。お前は命を大事にしろ。若造は未来のことだけを考えていればそれでいい」
「今を捨てて得られる未来など、あまりにも空虚ではありませんか」
「近視眼的なことを言うでないわ。合理的になれ」
切りが無い問答が続く。あまりにも俺が強情なものだから、とうとう達人は観念したように目を閉じて低い唸り声を出してからこう言った。
「仕方の無い馬鹿め。ついてこい。最低限の力すら持たぬまま死なれては困る。この世界での戦い方を教えてやろう」
よし、狙い通りだ。この流れなら自分から言い出せば行けると思ったが、師の方から積極的にご教授願えるのであればそれに勝るものはない。
あまりにも俺が上機嫌についていくものだから、じろりと睨まれてしまう。
達人の先導で俺が連れてこられたのは集落の奥だった。
聖地に呼ばれるそこは俺はもちろん若い門弟たちも内側への立ち入りを禁じられている特別な場所だ。
聖地を守る高弟たちに頭を下げて進んでいく。そこはティリビナ人にとって貴重な財産を保管している場所でもあるのか、羊のなる木や卵のような実がなる果樹など不思議な植物が何種類か植えられていた。
物珍しさに周囲を見回していると、達人が出し抜けに口を開いた。
「今の槍神教は我らの加護や神に祝福された神木さえも欲しているらしいが、かつての槍神教にとって我ら異教のものは人未満であった。その認識こそが残虐非道な行いを正当化してきたのだ。外世界人よ、お前から見て我らは人か?」
「意思があり、心を交わせるなら、それは人ではないでしょうか」
「そうか。だが奴らは我らには心がないと言い張っておる。心は人と動物、意思あるものだけに宿り、物や植物には宿らぬとな」
達人が立ち止まり、こちらを見る。
否、その視線が注がれているのは俺というより、俺の右手。
血の通わないつくりもの、機械でできた義肢を観察しているのだった。
「その鋼の右腕に、心が宿ると思うか」
「義肢は義肢。道具に過ぎません」
心とは何か、なんて問答は面倒なだけだったし、設問の時点で心の定義を厳密にしなければ答えようがない。そう思っていても、俺は何故かイエスかノーで答えることを避けた。前世から引き継いだ、俺が俺であったという証明。それに価値を見出していないと言えば嘘になる。それが情緒的な答えに繋がるかどうかは別にしても。
「ならばお前はその道具に心を見ていることになる。良いか、その右腕はお前の心とひとつになっている。自他の親和が無ければ、異物は形ある心に引き裂かれるのみ」
それはひょっとして、俺が左手に装着した義肢がことごとく壊れていったことに関係しているのか。また、達人の存在しない両腕が打撃を可能とする理由でもあるように思える。それらの現象の背後には共通の原因があるのだ。
「心とは、意思ある動物のみが持つ力にあらず。それは意思と意思の間に生まれる。心と心の間に生まれる。また心を託した物にも宿り、それらの間にも生まれる」
精霊信仰とか、汎心論みたいなことを言いたいのだろうか。
樹木と共に生きるティリビナ人らしい宗教観という感じはするが、おそらくその考え方は槍神教という世界宗教とは相容れなかったのだろう。
「お前の右手がそれを証明しているのだ。あるいは、宿り木を見つけられずに嘆くその左手が」
達人は再び歩き出した。目的地はもう目と鼻の先だ。この集落で最も大きく神聖な威容を目前にして、俺は圧倒されていた。
針葉樹ばかりの森の中、一際目立つ広葉樹。この集落のティリビナ人が全員で手を繋いでようやく全周に足りるかというほどに太く大きい。力強く大地に根付いた無数の根は俺の胴ほどもあった。
この第五階層の住人は最も早くて半年前に流れ着いているはず。
ならば聳え立つこの大樹は達人フームが見せたあの不思議な力でここまで生長したことになる。その力の凄まじさに改めて驚嘆する。
「心はある。天を目指す木にも、茂る草にも、咲き誇る花にも、根にへばり付く菌糸どもにさえ。正邪の別、大小の差はあれど、森羅万象すべての心がありそれらは相互に繋がっている。それこそが我らティリビナ人の信仰。我らに与えられた加護の本質よ」
言われた言葉はおそらく重要な教えなのだろう。
が、いまひとつ頭に入ってこない。
『ああそういうスピリチュアルなやつね』みたいな受け取り方になってしまう。
異世界の常識に対して真剣さが足りていないのはわかるが、育ちのせいでこういう言葉に対して冷ややかな反応をしてしまいがちなのだった。
「ふむ、どうやら相棒の呪われ者にはわかっているようだな」
などと俺はぼんやりしていると、いつの間にか腰の物入れからごそごそ顔を出していた小さな生き物がぴょんと飛び上がる。
「ゴア!」
濁った鳴き声を発すると、勢い良く達人の頭に飛び乗る。
あまりにも失礼な行為。反射的に謝ろうとした俺は達人が見たことのないほど相好を崩して頭上の怪物を可愛がっているのを目撃してしまった。
「おおよしよし。ういやつじゃのう。どうした腹が減ったか? ではおじいちゃんがまた木の実をやるからの。全く、お前の相棒ときたら、こんなカワイコちゃんを碌に構いもせんでしょうのない奴め。折角いいとこ見せたというのになあ」
老人が不可視の腕で木の実をつまみ、怪物に餌付けしている。
その猫撫で声といったら孫を前にした祖父のようだ。
明らかに初めての対応ではない。もしや、これまでもこっそり餌付けされていたのか? 俺の知らない間に? というかあの醜い怪物を見てカワイコちゃんだと。
「何を驚いている。修行にばかりかまけてないで少しはこやつを構わんか。同胞たちのように槍神教に呪われたかわいそうな子よ。その身を省みず助けたというから少しは見所のある若者と思って迎え入れたが、助けた後の扱いがぞんざいすぎるぞ」
「お待ち下さい、なぜそこまで知っているのです? それに呪われたというのは」
「なに、我が心がこの大地のあらゆる草木と繋がっているというだけのことよ。この呪われ者と同じ目に合わされた同胞を、我が無数の目は数限りなく見てきた。多くは元の姿に戻れぬままその命を失ったよ。この者はどうやらティリビナ人ではないようだが、憐れむべき身であることに変わりはない」
達人の言葉を信じるなら、俺が助けた怪物は本来の姿ではないことになる。そして簡単に余所者を共同体に招き入れた理由はこの怪物の存在が理由でもあったのだ。
「さて、そろそろ本題に入るぞ。この神木に右手で触れてみよ」
言われるがままに義肢で木に触れる。
接触を感知した指先が樹皮の質感データを処理して触感として再現する。
先程から話している『心』とやらで感じていることになるのかどうかは不明だが、達人は満足そうに頷いた。
「その冷たき右腕にも感じられるであろう。それが大樹の心だ。槍神教徒どもに言わせれば魂無きモノとモノ。だが奴らは見ようとしていないだけだ」
「はあ」
「ふむ。掴めておらんようだな。どう伝えたものかな」
師が飲み込みの悪い弟子の指導方法について考え始めたその時だった。
達人の頭の上で木の実をばりばり咀嚼していた小さな怪物が、ぴょんと俺の右腕に飛び乗ってきた。形容しがたい声で一鳴きすると、右手の先へとちょこちょこ歩いて指先から身を乗り出し、神木に頭から突っ込む。
俺と怪物が同時に樹皮に触れる。その瞬間だった。
右腕だと思っていたものが、バラバラになった。
いや違う。義肢が再現していた知覚、触覚という身体感覚が突如として爆発的に広がり、拡張され、際限なく情報量が増大し続けているのだ。
「なんだこれ。多い、大きい、終わりがない。木、というか、枝? 大きな流れ、みたいな。これ、広がってるのか。森、みたいな」
「そこまで見えるか。良し、その感覚を忘れるな。戻れなくなる前に手を放せ」
広がる。俺という存在が膨張してどこまでも遠くなっていく。全てが触れそうだ。何もかもに手が届き、この世界そのものを握れそうなほどの全能感。このまま自己を拡張し続けて行ければ、俺はいつかこの第五階層すら飲み込んで。
「ギョゲッ! ゴアゴア!」
がぶり。怪物が腕を駆け上って生身の肩に噛み付いた衝撃で我を取り戻す。
今、俺は何を考えていた?
「今のは、いったい」
呆然と右手と神木を見比べる俺に、達人は厳かに答えを告げた。
「魚人の連中は『海』と呼ぶ。星読みは『宇宙』を見るというし、夜の魔物どもは『影』だと考えているようだ。我らにとってあれは『森』。心が『観』じているもうひとつの世界。多くのまじない師は総称してアストラル界と呼んでいる」
アストラル界。おそらくそれはこの異世界における魔法の力、その根幹を為すものなのだろう。見えないが確かにある世界。存在しないが確かにある幻の腕。俺が望む奥義の正体が見えつつあった。
「槍神教はアストラル界を神の恩寵と捉えている。それは『森』などではないと言って聞かぬ。当然、植物でありながら強い『心』を持つこの神木もあってはならぬ。悪魔が化けている、ゆえに切り倒し、自分たちが管理する。それが奴らの言う正義と秩序の正体よ」
神秘的な力の本質。そのありようと解釈。
それはティリビナ人と槍神教の断絶そのものであり、この異世界の縮図でもある。
直感でしかないが、そんな気がした。
そして、槍神教が『心』を認めていないのは植物だけではない。
先ほど触れあい、俺は確かに知覚の広がりを感じた。
ならば、この機械義肢もまた奴らにとっては認め難い異端であるということ。
「もし奴ら槍神教と戦うのであれば、お前は右腕に宿る『絡繰りの心』を力とすることになるであろう。それを理解した先にこそ、形なき左を掌握する道はある」
まだ理解には届かない。だが切っ掛けは掴めた。
形のないもうひとつの世界。それこそが達人の奥義に繋がる道。
俺は右手を握りしめ、わずかな間だけ姿を見せた広大な森に思いを馳せる。
先ほどの感覚をなぞるように、左手の痛みを拡張できれば。
確かな前進を実感し、俺は心身に意気が満たされていくのを感じた。
このまま修行を進めれば、いずれは達人のように自在に幻の腕を扱えるはず。
そんな調子のいいことを考えていられたのは、しかしその夜までだった。
どうしようもない破滅は、何の前触れもなく訪れた。