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2-20.冬を好きになれる日が来たら6/正しさからの疎外





 種を植える運動には単純な環境美化以上の効果があった。

 森に囲まれた第五階層に根付くという意思表示。そして槍神教に弾圧されているティリビナ人たちに対する味方であるというアピールだ。

 この運動はSNSを通じて拡散され、動画投稿サイトなどを中心に広まっていった。


 一般人からセレブ、運動選手や芸能人に至るまでがチャリティーという形でリレーを繋いでいく一大ムーブメント。『世界中で盛り上がっている』と教えてくれたのが竜神信教側の人間であったことを差し引いても、端末から覗いたネットの世界はその『祭り』を楽しんでいるようだった。


 ところがそこに冷や水を浴びせたのが槍神教である。

 第五階層で人道支援を行っている医療修道会の公式アカウントが、竜神信教が行っている『種まき運動』を『虚栄心を満たすための美徳の誇示』と批判したのだ。その直後に『堅実で意味のある善行』として『医療物資の分配』『予防接種の実施』といった活動を動画付きで紹介。露骨な対抗心が透けて見える。


 当然のように良く燃えた。というより、常に起きている罵倒合戦に新しい火種が投下されたという方がより正確だろう。

 槍神教からの攻撃に対抗すべく、広報担当として陣頭指揮をとったのはひとりの女性竜導師だった。名前はアスタロト。理知的かつ活動的な力強さを感じさせる眼鏡が似合う美人で、猫背の巨漢ジンの恋人でもあるという。


「憂慮すべき状況です。私はこの槍神教徒たちの軽率な批判(というのも躊躇われる恫喝)に、とても心を痛めています。彼らの配慮に乏しい発言がどれだけの善意を萎縮させ、純粋な人と人との繋がりを阻害したことでしょう」


 現在、どのような理由かは知らないが第五階層での全面戦争は行われていない。

 二大勢力が直接ぶつかり合うことができないかわりに犯罪組織や俺たちのような雇われの兵隊による代理戦争もどきの縄張り争いが日々繰り広げられているが、ある意味ではこうしたネット上の諍いもそのひとつだろう。下らない口喧嘩と切って捨てるにはネットワークは巨大すぎた。現代において、情報化された社会と無縁で居続けることは難しい。それこそティリビナ人のように自然と一体となって世捨て人のように過ごす覚悟が必要だ。

 そんなわけで、竜導師アスタロトが行っている工作は紛れもなく情報的な戦争の一環であると言える。たとえそれが、しょうもない茶番であったとしても。


「共存を拒否する。対話を拒絶する。こうした排外的な態度に、私たちは手を差し伸べることができません。悲しいことに、寛容とは原理的に不寛容を排除することでしかその寛容さを維持できないのです」


 SNSでの口論が建設的な議論として実を結ぶことはまずない。最終的な結論を決裂で終わらせることができれば事態は一旦収まるわけだが、往々にしてこういうのは脱線や乱入を重ねて更に延焼と戦線拡大を繰り返していくものだ。

 今回もそうなった。というより、両陣営は意図的にそうしたのだ。


「我々は告発する。竜神信教の欺瞞、その罪深い本性を」


 それは暴露動画の形式をとった宣伝工作プロパガンダだった。

 告発の内容は、現在第五階層を騒がせている危険なテロリスト・ネフシュタンの素性について。武僧衆の長であったこと、竜神信教の秘宝であった融血をばらまいていること、更には槍神教の秘密兵器であった天使を奪取して悪用していること。

 そして、ネフシュタンの裏で糸を引いている黒幕が竜神信教であること。


「表向きは美辞麗句を並べ立て、裏では悪質な麻薬をばらまき奸計の糸を張り巡らせる。そして実行犯に対してはお得意の被害者としての振るまいで責任逃れを決め込む。この不誠実な態度の数々が竜神信教の本質的な卑劣さを示している。『みんな』や『共存』を語る理想主義が生み出す無責任と当事者性の欠如がこの街を蝕む青い血の病巣なのだ」


 テロリストの黒幕は竜神信教というキロンの声明は彼の美貌と力強く響く美声、説得力に満ちた語り口と表情のおかげで大変な支持を得た。実を言えば俺も感心してしまった。聖剣『切断処理』とか振り回しながらトカゲの尻尾切りをやっていた当人があれを言うのだ。並大抵の胆力ではない。面の皮が分厚すぎる。


「騙されないで下さい。キロンという修道騎士がどのような卑劣な手で私たちの竜導師長を暗殺したかを思い出して。彼は断片的な情報をねじ曲げて都合の良い真実を作り出しているだけです。ネフシュタン、いいえファラクは彼に踊らされているだけなのです」


 アスタロトが選んだ対抗措置は、キロンと全く同じ戦略だった。

 黒幕は槍神教であると告発したのである。ただし、キロンが竜神信教の悪を断罪するという論調だったのとは逆に、アスタロトは槍神教から攻撃を受けているという点を強調し、痛みへの共感を訴えた。


 アスタロトはファラクと名乗っていた頃のネフシュタンがいかに不遇な幼少期を過ごしてきたか、社会からの理解を得られずに苦悩してきたか、ようやく巡り会った主に救われたかを熱っぽく語った。彼はやむを得ない事情から主の魂を救うためにいやいや従っている、悪いのは彼を脅迫しているキロンである。


 その物語は大勢の同情を誘った。同時に槍神教からの敵意まで煽っていたが。

 どちらの言い分が正しいのかは既に問題ではなくなっていた。

 重要なのは『場』だ。

 世界を二分する巨大宗教の主張なのだから、これはもう片方の陣営に属する者にとっては事実に関わらず信じるに値することに決まっている。世界の半分で信じられているのであれば、それは既に真実に等しい意味を持つ。


 断言と断罪が刃を掲げ、共感と同情が手を取り合う。

 キロンもアスタロトも共に見目麗しく弁舌巧みな名俳優だ。二人は熱狂的な支持を集め、信徒や暇人たちから応援されながら言葉の応酬を重ねていった。

 打倒ネフシュタンに向けた訓練、秘宝奪還作戦の準備などで寺院のあちこちが慌ただしくなっていく中で、アスタロトは対槍神教との『戦闘』にかかりきりになっていた。


 同じ部署なのか広報担当らしき男と並んで歩いているのをよく見かける。

 あるとき俺はジンと一緒に戦闘訓練を終えて食堂に向かっていた。するとジンは入り口で立ち止まり、急に用事ができたと言って何処かへ行ってしまう。なんとも間の悪いことに、彼の恋人であるアスタロトが若い同僚の男と親しげに話していたのだ。


 確かに猫背に巨躯のジンよりはスマートで爽やかな感じのある向こうの男の方がお似合いに見えると言えば見える。

 話しかけてみると、当たり前だが同僚と昼食をとっているだけだった。白昼堂々と職場で浮気もないだろうが、ジンにとっては劣等感を刺激される光景だったのだろう。


「彼、どうしてる? 最近はあまり話せてなくて」


「忙しいのか?」


 アスタロトは肩を大げさに竦めて両手をひらひらと動かして答えた。


「ええ。とっても。問題は『いいね』なのよ。わかるでしょ? 情報を共有・拡散して味方を付けることは重要よ。実戦の前には特にね」


 世論を味方につける。大義名分を得た上で戦う。

 物理的な力を持つわけではないが、人の心を動かしうる重要な問題だ。

 この女性にとっての役割がそこにあるのなら、この大切な時期にかかりきりになってしまうことも仕方がないことなのだろう。ジンには我慢してもらうしかない。


「一般的に、動画の情報ソースとしての確度は再生回数に依存するでしょう? たくさんの『いいね』と再生数が集まれば私たちの主張は真実として確定する。それはこの先の戦いで大義を得るのが竜神信教になることとイコールってわけ。私はこの情報戦に絶対に負けるわけにはいかないの」


「そういうものか」


 仕事熱心な竜導師は、だからといってジンを蔑ろにしたいわけでもないようだ。

 端末の待ち受け画面は妙に美化されている恋人の姿。どうやら念写といってこの世界の端末に標準搭載されている撮影機能らしい。主観に依存した映像を保存する仕組みなので、恋人の念写映像は過剰にキラキラ輝いて見えるとのこと。


「これとかすっごく可愛いの。私がお弁当作ってあげたらこんなに幸せそうになって」


 俺と同僚の男に自慢げに恋人と仲良くしている姿を見せつけるアスタロト。映像の中のジンは幸福そうで、その柔らかい表情は彼の本来そうあるべき気質が表れているようだった。日常の中で輝く優しさこそが屈強な大男の美点なのだろうと思えた。

 

 不器用で朴訥で優しい巨漢。はっきり言ってこの街とは相性の悪いタイプだ。

 反対に、そのパートナーであるアスタロトはこの宗教コミュニティにおいて社交的で関係性の中心にいるようだった。竜導師の中でも期待の若手、という感じで年長の竜導師たちから随分と目をかけられている様子だ。




 真偽を置き去りにした戦いの横で、俺たち戦闘要員は訓練の最終日を迎えた。

 いよいよ翌日に決戦を控えたその日、正門の前で起きていたその騒ぎに気づけたのは偶然か、それとも何かの導きか。ラズリさんへの愛情をぼんやりと反芻する蕩けた思考が一気に覚醒していく。聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきたのだ。


「ゴアー! ゴアゴア! ギョゲッギャー!」


 小さな黒い怪物が寺院の前に現れ、真正面から押し入ろうとしていたのだ。

 当然のようにその真っ直ぐな動きは門番の僧兵たちに妨げられる。


「消えろ、薄汚い異獣め」


「追放された罪人か、それとも悪心に染まった愚か者か? いずれにせよここは貴様が立ち入っていい場所ではない。第六階層に帰れ」


 冷ややかな言葉と有無を言わせぬ力。

 それ以上の侵入ができずにしょげ返るのが寺院の中から見えた。

 同時にゴアも俺を見つけたのだろう。門の前でぴょんぴょん飛び跳ね、ゴアゴア鳴いて俺を呼んでいるようだ。


 やはりこちらの意図が伝わっていない。

 ゴアはすっかり俺が囚われの身になったと思い込んでしまっている。

 必死になって助けようとしてくれているのだろうが、どう考えてもやり方が無謀だ。

 小さな怪物は何度もこちらへと向かおうとして、そのたびに殴られたり蹴られたりして敷地の外に追い返される。


 止めようとして思い留まる。ここで俺がゴアの味方をすればラズリさんに報告が行き、当然だが不審に思われるだろう。最悪、洗脳を解除できることが露見するかもしれない。

 身動きがとれず、ぐっと奥歯を噛みしめてゴアの姿を見た。

 視線だけで念じる。それが意思疎通になると信じて。


 気付いてくれ、俺が急にお前に冷たく当たるはずないだろう。

 考えがあると理解して、しばらく身を隠してくれればそれで良かったのに。

 ゴアは悲しそうに鳴きながらこちらを見るばかりだ。何かを思いついたように口の中から涎まみれの小瓶を吐き出す。蓋を緩め、空中に瓶を投げると体当たりして投擲。


 放物線を描いてこちらに落ちてくる小瓶。宙にばらまかれていくのは何かの液体か。

 頭から被ったその液体が強烈な匂いを放っていることに気付いてようやく思い出した。これはゴアに買ってやった香水だ。あの時からずっとゴアが持ち歩いていたのか。


「ギョッギャー」


 強烈な匂いはしばらくとれそうにない。こうすれば俺がゴアとの絆を思い出すとでも考えたのだろうか? まったく見当違いも甚だしい。もどかしさが苛立ちに変わり、すぐに自責に置き換わる。

 俺はようやく理解した。何も言わずとも相棒なら俺の意図を理解してくれる。そんな考えは都合のいい妄想に過ぎなかったのだ。

 『相棒』という言葉の都合の良さに、俺は甘えていたんだ。


「いい加減にしろ! 浄罪を待たずに死にたいのか!」


 僧兵の攻撃が苛烈さを増した。本物の殺意をぶつけられたゴアは対抗するように牙を剥く。その直後だった。俺の背後から現れた人物が芝居がかった声で語り始めたのは。


「ご覧下さい。あれこそが槍神教の悪意の犠牲者、天使によって世界から拒絶された異獣の姿です。人類の敵であり病でもあるもの。我々の罪深さと醜さが形をとった怪物。悲しいことですが、私たちはあの哀れな生き物を受け入れることができません」


 竜導師アスタロトだ。端末を片手で保持しながら動画でも撮影するかのようにゴアを視界の中心に捕捉している。端末の向こうにいる大勢の聴衆を意識して語りかけているのだろうが、感情を揺さぶることを目的とした扇動用の演技であることが露骨な口調だった。

 ゴアさえ利用して『正しさ』を勝ち取りに行く貪欲な姿勢。


 正義であるための必須条件は『自分たちは正義である』と示し続けることだ。

 その意味で、二大宗教はどちらも正義だ。

 邪悪で、卑劣で、厚顔無恥で、手段を選ばず、人の善性や被害者性さえ都合良く利用してみせる、どんな世界でも変わらない正しさの権力。

 強大な権力はいつだって正しさを引き寄せようとする。正しさは権力によって独占され、やがて正しさそのものが権力と化す。その結果として何が起きるのか。


「ゴアァ」


「誰もが知るように! 槍神教は己が正しさへの過信から敵をこのような異獣に貶める野蛮な呪いで全世界を脅かしています! 支配と服従、序列化と分断を統治と言い張り、神の加護に守られていない者はいつ異獣にされてしまうかもわからない。そんなおぞましい世界が『上』にある天獄ハロルムなのです」


 正しさという権力の外側が悪になるのだ。

 悪。否定されるべき敵。退治されるべき怪物。

 すなわち異獣。

 俺はようやく理解した。

 怪物は輪の中に入れない。どこにもいないこと。それがこの世界における最大の罪。


「一方で我々の楽園ウアルムは違います。竜神信教は、そして人類の真なる共存を望むジャッフハリムは、安易に敵を怪物化したりしません。ただ共存を拒み、偏見と差別に目を曇らせ、悪心を抱いて『内心の罪』を犯した者が異獣化するのみです。世界を蝕む異獣化の病を恐れる必要はありません。ただ善良であればそれだけで心穏やかに過ごせる。私たちは善き心を持ち続けようとするだけでいい」


 正しくなければ生きられない、とアスタロトは言外に告げていた。

 愛、理想、自由、共存、平和、その他さまざまな善性を持つ者ばかりが『下』にいる理由は明らかだ。そうでない者は『下』の住人ではいられないというだけのこと。

 心濁ればそれは起きる。

 誰によってというわけでもなく、自動的に裁きが下される。

 善くあろうとしないものは怪物と化すか、辺境へと去るしかない。

 誰もいない外へ。どこにもない場所へ。


「これは我々にとっても苦渋の決断です。しかし人が自身を律し、より善き存在を目指せる社会はどちらでしょう? 異獣を即座に殺そうとする槍神教は論外。辺獄に隔離した上で外的な共存を目指す我々はこの哀れな生き物の罪を濯ぐ手段を模索しています。竜神信教が描く未来には希望がある。しかし槍神教の未来には絶望しかありません!」


「ゴアァ」


 身を縮めてじりじりと後ずさりするゴアは、何かに怯えているようだ。

 アスタロトは熱を込めた扇動を繰り返し、やがて聴衆へのアピールが幕を閉じる。端末をしまった彼女は小さな怪物を嫌悪を込めて見下ろし、静かに吐き捨てた。


「あっちに行ってくれる? その小さな身体からしてそこまでの悪心は抱いてないんでしょうけど、私の立場としては、心の罪人は第六階層に送って兵役に就かせなければ示しがつかない。かといってこんな弱そうな子はすぐに死んでしまうでしょうし、そんな非道を強いるのは無慈悲に過ぎる。ならこうするしかない」


 いつの間にかアスタロトの指先が呪符を挟んでいた。俺が口を挟む間もなく、輝く金色の帯がゴアを捕縛し、勢いをつけて遠くへと放り投げる。


「ゴーアー!」


 哀れなゴアの姿は遙か彼方へと消え去ってしまった。

 アスタロトはゴアに対して忌避と嫌悪の目を向けながらも慈悲の心からこの行動に出たようだ。俺は相棒を生かしてくれた彼女に感謝すべきかどうかを判断できなかった。正しさを強いられるが故に言動を縛られ、時に歪な道を選ぶ彼女たちにどこまで責任を問うことができるのかがわからなかった。


 正しくあろうとする自由意志。

 感情を制御する俺とは違う。自然のまま善く生きようという理性の判断。

 本当にそうか?

 仮にそんなものが自由だとするなら、俺は。

 答えは出ない。出したくないのかもしれなかった。




 その晩のことだ。ラズリさんがやってきて俺の手をそっと握った。

 その日の彼女はいつにも増してボディタッチが多く、距離も近いような気がした。

 こちらを覗き込むような上目遣い。

 ヴェールで見えづらいが、整った顔立ちと吸い込まれるような瞳ははっきりと感じられる。長い髪が片方の目を隠しているのもどこかミステリアスだ。

 ラズリさんはいつだって美しい。鼓動が早まる。

 手を引かれ、夜の寺院を歩く。


「これから融血に耐性を付けるための儀式を行います。心身を融かす力、大いなる存在への回帰衝動に抗う手段は単純。別の何かとひとつに融け合ってしまえばいい」


 明日の決戦で、俺たちは十中八九ネフシュタンからの妨害を受けるだろう。

 最も注意すべきは融血の存在だが、ラズリさんはそれに対してもしっかりと対策を練っていたのだ。彼女についていけば間違いはない。幾つかあった迷いは全て余計なものだ。野蛮な槍神教よりも竜神信教の方がずっと楽園に近い。どちらが正義なのかは明白だった。


 幸福な心持ちで導かれる。

 薄暗い部屋だった。

 立ちこめる香は甘く、蕩ける夢に誘うかのよう。

 身体が熱い。すぐそばにいる思い人の体温を強く意識する。


「ふふ、緊張しないで。私に身を委ねてくれればいいんです」


 ラズリさんが腕を組み、こちらに体重を預けてくる。

 部屋の空気を嗅いだ瞬間、ひとつの理解があった。

 既に室内には何人もの男女が集まっている。大勢の信徒や竜導師が暗がりにひしめいている。その中には訓練を共にしてきた頼れる仲間たちの姿もあった。

 立ちこめる不思議な香、並んだ杯、囓りかけの果実、盛られたキノコ。

 熱にうかされたアルテミシアがヤンブロスクにしなだれかかっている。

 激しく、それでいて静かな啄むような口づけ。

 隣には服をはだけて肌を重ね合う男たち。刃で互いの身体を傷つけながら絡みあう。

 軟体動物のように湿った音を立てているのは大人と子供のような体格差の女たち。

 

 そこには性差や種族差は存在しない。

 多様性と共存。

 ともに生きるという意思と熱がある。

 そう、ここにあるのは体温だ。

 重なり合う命。

 それは世界を循環する自然の摂理そのもの。


 隣のラズリさんが切なげな息を吐いた。

 目の前で繰り広げられている光景を食い入るように見つめ、盛り上げるように香を追加し空いた杯に透明な液体を注いでいく。

 彼女はヴェールを持ち上げ自分でも口に含む。

 それから同じ杯をこちらにも向ける。

 わずかにのぞく素顔の一部、蠱惑的な瞳が情愛に濡れていた。


 俺は鼻孔から甘い香りを吸い込み、杯をそっと手に取る。

 淫蕩な儀式は、しかし大いなる一体化の過程だ。

 融血に抗うためならば仕方が無い。

 俺は淫魔の誘惑に抗わず、ひとつに融け合おうと手を伸ばす。


 その時。俺の目に入ったのは壁際で寂しげにぽつりと立ち尽くす男の姿。

 猫背の巨体、団子鼻に分厚い眼鏡、吃音と弱気な表情の男は、悄然とする自分の股間を隠しながら裸で縮こまっていた。

 その近くで、恋人であるはずのアスタロトは複数の男たちに囲まれていた。

 恋人では無い男たちと情熱的な口づけを交わすアスタロト。


 恋人の情事から目を離せずに涙を流すジン。悲痛な表情で手を伸ばそうとするが、その心は既に折れており届かない。アスタロトは自由意思で男たちに身を委ねているからだ。

 それを妨げることは悪。怪物の所業を為そうとすれば、その身は異獣と成り果てる。

  

 アスタロトを抱擁しているのは、ジンとは違う肌の色をした男だった。

 朴訥で力強い巨漢、毛深く男臭い容貌。そんな男とは正反対の線の細い優男が恋人を愛撫する様を見て、男の顔が醜く歪む。

 取り繕えない憎悪と嫌悪、敵意と隔意。

 湧き上がるのは素朴な差別感情と敵愾心。動物的衝動に根ざした闘争の意思。


「う、ぐうぅ、ギョ、ゴァ」


 歯を食いしばり、涎を垂らし、白目を剥いて怒りを押さえ付けるジン。その異様な雰囲気を察して優しく手を差し伸べようとしていた年配の女性が思わず後ずさりする。

 こういう場を観察していると気づけることがある。

 人気に明らかな差が出ている。性的魅力が可視化されてしまうのだ。

 見目麗しいとは言い難いジンに声をかける女性は明らかに彼を仲間はずれにしないための優しさから誘っていた。対して、恋人であるアスタロトの方は生来の魅力ゆえに男たちが次々と寄ってくる。


 人気のある美女と性愛から疎外された巨漢。

 一斉に競争を強いられるようなものだ。

 男女の集団は、強烈なまでの美醜の選好に晒されている。

 選ばれない男には性的魅力が欠如しているという烙印が押され、オスとして劣っている、醜い生き物であるという自己認識が劣等感を生み出す。


 それはある種の呪いだった。

 公平な競争に晒されたとき恋人は『自分とは異なるもの』を選ぶという事実が、男を激しく燃え上がらせる。それはどんな理性でも抑えきれない怨嗟の火だ。

 巨漢は身を焦がしながら頭を抱え、疎外の果てに異形と化していく。


「ゴアァァァ!!!」


 全身の肌が黒く爛れた、顔の全てが捩れ、禍々しい角が胴体を破って飛び出す。交差した牙が顎を貫いて血を流し、苦痛に呻く喉から眼球が浮かび上がって血の涙を流した。

 異獣。暴れようとしたジンの四肢を、金色の帯が拘束する。

 ラズリさんは事前に異変を察知していたのだろう。部下たちに命じて異獣を拘束する準備を進めていたのだ。彼女は変わり果てたジンを俺に見せながら囁いた。


「あれが疎外されたものの末路です。何が正しい道なのか、わかりますよね?」


 目の前には一本の道がある。

 その先は正しさと繋がっていて、俺はラズリさんの先導でそこに辿り着く。

 理想の未来。幸福な結末。善良な人として生まれ変わる最後の機会がここにある。

 嘆きの咆哮を響かせるジンの姿が、ふと誰かと重なる。


 その時、ふと思い出されたようにひとつの香りが甦った。

 鼻をくすぐる強すぎる匂い。それはゴアが投げつけた香水の名残だ。

 ゴアの香気が部屋に焚かれたお香を一瞬だけ打ち消した瞬間、俺の傍らで言葉を訳し続けていた断章が突如として光に包まれ、素早く項をめくり始めた。

 魔導書が閃光を放ち、俺の視界が暗転する。


 俺は瞬きの間に別世界に立っていた。

 夢だ。白昼夢を自覚しながら見ているという確信がなぜかある。

 明晰な意識がこの時間と空間を偽物だと断定している。だが俺の意識は確かにここにあるという自覚もまた真実だ。俺の心にとってこの夢は無意味なものではない。


「戦うべき相手の見定めは終わりましたか?」


 泡が浮上して、ぱちりと弾ける。

 夜の森で、暗がりを背景にして浮遊する断章が呪いを語る。

 それはこの世界の形。救いようのない真実。


「英雄や聖者たちの正しさは小さな世界を踏み潰すでしょう。竜や悪魔たちの正しさは自壊を繰り返すてのひらからたくさんのものを取りこぼすでしょう。異獣という断絶の象徴があらゆる正しさを蝕んでいる。善性は全て死に絶えた。この世界におけるあらゆる善と正義は、野蛮さの言い換えに過ぎない」


「ならどうするのが正解なんだ? あんたは俺に何を望む? 居場所もない、言葉もわからない、異獣同然の俺をそうでなくしているお前は、断章とは一体何だ?」


 次々と口を突いて出る疑念と不満、怒りと苦痛。

 俺は今、どこに向かっている? 

 巨悪を倒す。師の仇を討つ。友との約束を果たす。

 シンプルでわかりやすい目的に向かっていられれば俺はそれで良かった。

 隣には頼れる相棒がいて、迷いなく走り続けていれば目的地に辿り着く。

 そんな世界ならどれだけ気持ち良かっただろう。


 現実はクソみたいな呪縛で満ちている。

 槍神教も竜神信教もどちらも正しい? 普通の人々、善良で罪の無い信徒たちが日常を送っている。それは大変結構。だが俺に言わせればそんなものはゴミだ。

 正しさも善も俺には耐えられない。

 俺の居場所は、ここじゃない。


「この世界で生きるには、どちらかを信じなくてはならないとしても?」


「それでも俺は、どちらも受け入れることができない」


 断言する。決意というのも憚られる、それは逃避だった。

 責任を拒絶し、選択を忌避する。

 そんな情けない道を選んだ俺を、断章は柔らかく肯定してくれた。


「それでこそゼノグラシア。ならば貴方は創世に挑むしかないでしょう。どこまでも罪深いその在り方を、私は祝福します」


 突如、断章から四つの光が飛び出して俺の胸に吸い込まれていく。

 翻訳の力とは異なる魔法の輝き。

 ここにきて、俺は新しい力を断章から授けられたのだ。


「これはおまじない。もっとも基礎的な『目眩イリンクス』。あなたが『生存しょうり』を望むなら、この本を強く心に思い浮かべて下さい。私の力があなたを守ります』


 本の項がめくられると、白紙に四つの日本語が浮かび上がった。

 『回転』『浮動』『失神』『空間識失調』の四種類。

 めまいがしてきそうな文字列だ。最後のは確か航空機のパイロットとかが陥る平衡感覚喪失のことだった気がする。なるほど、敵がこれらの状態に陥るのであればかなり頼もしいと言える。格闘戦なら勝負を決める決定打になるだろう。


 世界が急激にぼやけていく。

 礼を言うこともできずに断章の背後に感じていた気配が薄れていく。

 さきほどのやりとり、断章の向こう側には明確な意思が存在していたように思う。

 断章が意思を持っているのか、それとも何処かに俺を助けようとする誰かがいるのか。

 敵ではないという不思議な確信がある。俺をずっと助け続けてくれた言葉の力。

 俺はそれを信じ、強く心に念じた。


 目覚めると同時、『回転』の力を求めて断章に手を伸ばす。

 断章が輝いて紫色の極光を広げていく。

 直後、俺は予想外の展開に文字通り目を回した。

 頭が、身体が、世界が真横にぐるんぐるん移動していく。


 止まらない、目眩がする、まともに立っていられない!

 いや回転するの俺かよ、と叫ぶことさえままならなかった。口から内臓を吐き出しそうなほどの加速。動き続ける世界に肉体がバラバラになりそうだ。絶望しかけた俺は、ようやく滅茶苦茶な回転と目眩が収まったところできょとんとすることになる。


 俺の周囲に存在した全てが、遙か彼方までぶっ飛ばされていた。

 何が起きた? 猛烈な目眩に襲われて目を回していたのは確かに俺自身だったはず。

 だがどうしてか周囲の世界の方がぶん回されたかのように放射状に投げ飛ばされている。

 乱痴気騒ぎはメチャクチャだ。ラズリさんが呻きながら立ち上がろうとしている。


「これは、断章の庇護? ここまで強い妨害があるなんて、彼の心は既に『森』に取り込まれてしまっているとでも言うのですか」


 苦しそうに立ち上がったラズリさんは断章を強く睨み据え、唇を噛んで俯いた。


「仕方ありません。無理に解呪を試みて貴重な断章との適合者を失いたくはありません。今回はやめておきましょう。それに肉体を掌握するまでもなく、彼の心は私のものです」


 白けたように溜息を吐き、ラズリさんはその集まりを解散させた。

 気付けば異獣化したジンもいつの間にか元に戻っている。

 回転に巻き込まれたアスタロトが壁際のジンの所まで吹っ飛ばされ、重なり合った二人は偶然にも口づけを交わす形になっていたのだ。


 たったそれだけで冗談のようにジンは元の姿に戻っていた。

 愛しい恋人の無事に涙を流して抱きつくアスタロト。

 何もかもが悪い夢であったかのようだ。

 全ては元通り。洗脳されたままの俺は、再び正しさと善良さの中で夢を見る。


 そう、夢だ。それはもうはっきりしている。これは明晰に自覚できる悪夢なのだ。

 槍神教と竜神信教。途方も無く大きな悪夢から、俺は確実に目覚めるだろう。

 謎めいた導き手、断章は語った。

 俺は創世に挑むしかないと。

 望むところだ、結局のところ、問題はそこに帰結する。


 ネフシュタンを倒し、天使を凌駕して第五階層の頂点に立つ。

 槍神教と竜神信教を出し抜き、入り乱れる複数の勢力の間をかいくぐって強大な力を手にしてやる。そうすれば、俺はきっと辿り着くことができるはずだ。

 俺だけの居場所。正しくも善くもない、窮屈な権威の外側にあるどこかへと。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 下側から出てくる異獣の仕組みの息苦しさがなるほどと腑に落ちる感じ 異獣の階層がある意味を不思議に思っていたので 本編の辺境の話とも繋がっていい読み心地があります
[一言] その世界の強い法則に迎合して生きていくか、自分で道を切り開くには相応の暴力が求められるんですね、
[一言] 青い血による効果によってとんでもない事態になりましたね。 『王子様』等の介入により、負担は減ったかもしれないが気は抜けませんね。 最後に立ち塞がる『用心棒』との対決はどうなるか。 急に回転…
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