2-19.冬を好きになれる日が来たら5/世界のかたち
寺院に戻るなりラズリさんは俺を自室に招き入れた。
何をするかと身構えていると、彼女はやおら机から細長いものを取り出し、その先端を自分の手の甲に押し付ける。やわらかそうな肌に血の雫がぽつりと浮かんだ。
「何をしているんですか!」
慌てて止めると、ラズリさんは潤んだ目でこちらを見つめ返した。彼女が握っているのは一本の矢だ。どうしてこんなものを。混乱する俺の思考にするりと言葉が割り込む。
「あんなふうに魅了の力を使う私を軽蔑しましたか?」
言葉に窮する。ラズリさんの声は不安に揺れているように聞こえた。
ヴェールの向こう側で揺れる瞳。その目尻からは確かに涙が溢れていた。
「私は淫魔という夜に生きる種族です。与えられた愛の力を人を幸せにするために使おうと思っているのに、その気持ちがいつも正しく伝わるわけではないのがとても悲しい。全ての人に仲良くして欲しい。私の望みはそれだけなのに」
もどかしさに耐えかねたように矢をぐりぐりと手の甲に押し付ける。
小さな傷で痛みを確認するように、ささやかな自傷行為は続いた。
「この矢、ずっと手放せなくて。趣味が悪いって自覚はしてるんですけど」
「それ、特別なものなんですか?」
自傷を咎めることはしない。
俺は痛みを遠ざけるが、痛みを求めることもまた人が持つ普通の衝動だ。
それは本来、現実を確かめるためのシグナルなのだから。
「これはね、姉の痛みなんです」
それでわかった。矢は弓で放たれるもの。竜神信教に対して放たれた矢が誰のものであったのかは考えるまでも無い。
「姉はこの矢で殺されました。槍神教の修道騎士キロンによって。姉は私みたいないけない竜導師とは違って、光みたいな人でした」
いけない竜導師ってなんかそこはかとなくいやらしいな、狙って言ってんのかなラズリさん、お涙頂戴エピソードの最中にそういうワード挟むとか頭桃色かこの淫魔、とか冷静な自分が言っているような気がしたが俺がその時感じたのは深い悲しみへの同情だった。
「優しくて、正義感が強くて、誰かの痛みを自分のことのように感じられる人。そんな人が、魂さえ奪われて、安らかに眠ることも来世を迎えることもできずにいる」
押し付けられた矢がいっそう強く肌を抉る。
演技であり茶番。寄り添う男女は揃って滑稽な大根役者だ。
それでも、痛みは本物であるはずだ。嘘で塗り固めた打算ずくの行動でも、なぞっている形だけ見れば弱い女と支える男。心を近付ける恋人同士に他ならない。
スピリットはラズリさんに寄り添うことを望んでいる。
果たしてこれは、全て虚構なのか?
「こうしていれば、少しは姉の痛みがわかるのかなって、いけないってわかってるけど、どうしてもやめられないんですよ」
「いなくなった人にできることはありません。でも、ひとつだけできることがある。俺がキロンを倒します。約束します。だからもう、傷つかないで下さい」
「優しいんですね。私、あなたと一緒にいると弱くなってしまいそう」
「その分だけ俺が強くなります」
言葉の中には何もない。手指が絡みあい、身体を寄せ合い、互いの体温を感じる距離にいること。それだけがこの空虚なやりとりの意味らしい意味だった。
本来なら別々の存在である二者が近付き、その熱を釣り合わせていく。互いの吐息が混ざりあい、交わる視線は融けていく。ふたつからひとつへ。距離が零になろうとしたその時、ノックの音がした。
「そろそろお時間です、ラズリ様」
「わかりました、いま向かいます」
ラズリさんはそっと身を離し、こちらの唇に人差し指で触れながら囁いた。
「続きはまたいずれ。ね?」
さっと身を翻す女の長い髪に惹かれるように、俺はふらふらとついていく。傍目には夢遊病さながらに見えるだろう。実際、されるがままだ。ラズリさんはすっかり俺の洗脳状態を信じ切っている。扉の外で待機していた部下を引き連れ、彼女は歩きながら重要そうな話を始める。固有名詞が多くほとんど理解できなかったが、ある程度の推測は可能だ。既に俺にはまともな思考能力など残っていないと高をくくっているのだろう。
「ご苦労様、アドラメレク。『目』の様子はどうです?」
「それが、まだ付近をうろついているようでして」
「しばらく泳がせておきなさい。上手くすればきぐるみの魔女が釣れるかもしれない」
「よろしいのですか? 最悪、槍神教と交戦中に背後を撃たれるかもしれません」
「それが狙いです。乱戦になった方がニードモーモの脱皮が早まりますからね。当日は私もキムラヌートで出ます。地下格納庫の呪動装甲を総点検しておくように。久々に大きな戦闘になるでしょうから」
ラズリさんの言葉は第三勢力の存在を示唆していた。
思いつく名前はひとつしかない。
この第五階層では槍神教と竜神信教という二大宗教勢力がせめぎ合っている。だがそのパワーバランスを崩しかねないのが呪術医院と強力な請負人たちを擁するトリシューラだ。
かつて槍神教の開発局とやらに在籍しており、何故か竜神信教が秘匿していた融血に関する技術を持つ謎めいたウィッチドクター。その正体は未だ良くわからないままだが、両陣営のトップであるキロンとラズリさん、双方が警戒していることは確かだ。
これからの立ち回りを考えながら寺院の中を歩いていると、中庭の柱廊に差し掛かったあたりで妙なものが目に入った。
裏口から幾つもの巨大なコンテナが搬入され、空いた場所に設置されている。
何人かがコンテナを開くと前面が迫り上がり、底面から伸びた二本のレールに沿って大型のシルエットが現れる。その様子を見ていた寺院関係者たちが歓声を上げる。
それは大型の鎧、というよりパワードスーツに見えた。
動物の毛皮や骨、トカゲの鱗や虫の甲殻、石や木を組み合わせた原始的で呪術的なゴテゴテとしたきぐるみ。剥き出しの骨や虫の甲殻がフレームとなっているフォルムは言葉通りの強化外骨格という雰囲気だ。
頭から足まで全身を覆い尽くすものから、横幅が大きいかわりに頭部が無く首から上が操縦席になっているもの、下半身が無限軌道、前面にはバケットローダーが付いたもの、肩からショベルが伸びているもの、腕が突起まみれの坑道掘削機械になっているものなど様々だ。要するにこの世界の『着る重機』なんだろう。まあショベルが触手生物に付いていたり、キャタピラというか長い団子虫だったりするようだが、この世界ならそういうこともあるだろう。もう慣れた。
ここまでは理解可能だが、棺桶を背負っていたり、頭部と肩が緻密な彫刻が施された尖塔だったり、世界遺産みたいなクオリティの歩く宗教建築みたいなものはほとんど理解不能だ。パレードにでも出るための機体か?
前を行くラズリさんは中庭に届けられた機体を見て満足そうにしている。
「素晴らしい。盲天主に感謝しなければ」
「ザカリヘッド製の建設重機は民生品としては最高級の出力です。不戦法則により戦闘用の呪合操獣を本国から持ち込めない以上、この呪動装甲は望みうる最強の戦力です」
ラズリの秘書らしき男の言葉から、この世界ではパワードスーツとか強化外骨格のことを呪動装甲と呼ぶらしいことを知る。
思い返せば医療修道院の裏手で資材を運んでいたり、街中で建設作業を行う姿を見かけていた気がする。槍神教のものは金属製の鎧の発展形という感じだったが、竜神信教のものは生物的な質感だった。文化というより文明の差を感じる。
ラズリさんに導かれてやってきた場所は広い講堂のような場所で、そこには既に見知った顔が勢揃いしていた。俺と同じように勧誘された『新参者』の仲間たち。
さて、何が始まるのやら。洗脳強化セミナーあたりか?
いずれにせよ、抗うことはできない。それに敵地に潜入したのだから内部の事情を知っておくことは重要だ。品定めしてやるつもりで席につく。隣には巨体を窮屈そうに縮めた男。どうにも自信なさげなおどおどした猫背には覚えがある。俺が助けに入った時、ラズリさんたちの護衛を務めていた巨漢だ。
「そ、その節はどうも。に、『荷運び』のジンなんて、よ、呼ばれてます。へへ、でかい図体して役に立つのはそのくらいって意味で、な、情けないですよね、たはは」
「卑屈過ぎだ。その肉体、生半可な鍛え方じゃないんだろ」
「い、いやあ。霊薬と共生筋虫、あとは呪詛添加だらけの邪仙桃のおかげですよ。はは、彼女には無添加にしろって言われてるんですけどね」
思わず押し黙ってしまう。言葉の意味がよくわからないせいで謙遜なのか実際に大した事ないのかが判断できない。とはいえ、薬などの手段に頼るのも強さと言えば強さだ。俺の前世ではバイオカラテなどの思想に近い。それがフォローになるとは限らないが。
「これからみなさんにお話するのは我々が共有しておくべき前提です。もう知っている方もそうでない方も、意識をひとつにするためにちゃんと聴いて下さいね」
講堂の前、教卓の前に立ったラズリさんは言いながら巨大な目のような生き物を卓上に置いた。その眼球から投射された光が空中で像を結び、立体映像となる。
最初に表示されたのは神話か何かの一幕だ。
平面の世界を背中に乗せた巨獣がいる。その首は無数に存在し、イメージとしては首長竜とかヒュドラとか八岐大蛇という感じに見えた。
「原初、世界は巨大な獣から生まれました。それが『竜たちの母』パンゲオンです。パンゲオンは森羅万象の全てであり、有であり無でもあった。世界はそれだけで完全でした。しかしあるとき、その完全を砕くものが現れました。それが紀元槍です」
映像の中で巨大な槍が世界を貫き、その下の獣を突き殺す。
流れた青い血は海となり、あらゆるものを融かしてその形を変化させていく。
無数にあった獣の首が飛び散り、中でも太く巨大だった九つの首が飛び上がって世界を檻のように取り囲んだ。その姿は蛇、というより竜のようだ。
「『父なる槍』によって原初の獣パンゲオンは殺され、破壊された世界は新しい形へと生まれ変わりました。これが我々のいるこの世界です。ご存じのように、この『第一創世』において重要な役割を果たした『紀元槍』を崇めているのが槍神教。そして母なるパンゲオンの首のうち最も力ある九本が生まれ変わった『創世竜』を崇めているのが竜神信教です」
俺は感心しながら聴いていたが、他の仲間たちにとってはこんなもの常識なのではないだろうか。しかし意外にもジンは感心しながらメモをとっている。岩肌人のアルテミシアは不機嫌そうに鼻を鳴らしてそっぽを向いているし、隣のペストマスク鳥人ヤンブロスクはくつくつと喉を鳴らしながら身を揺すっていた。何か妙だぞと内心で首を傾げる。これはもしかして万人が共有する宗教観ではないのかもしれない。
「さて、時代はそこから下って現代です。我々がいるこの世界槍はいにしえの言語支配者たちが『第二創世』を目指して創造した紀元槍の模造品。いわば人工の紀元槍であり、我々と槍神教はその制御権を巡ってこの地を奪い合っています」
立体映像が切り替わり、幾つもの槍がバラバラになった大地を繋ぎ止めていく。
最初の槍から欠片を拾った男たちが修道騎士として武装し、最初の獣から血を採取した女たちが巫女や神官となって獣と獣を掛け合わせてより強い巨獣を作り出す。
二つの陣営は砕けた大地でそれぞれ世界を作り、槍の両側に大地を築いてそこを自分たちの国とした。彼らは槍の両端から反対側へと攻め込んでいく。
幾つもの階層に分かれた戦場で、合成獣と修道騎士が血みどろの戦いを繰り広げる。
そんな光景が延々と繰り返されていた。
「敵を殺せ。異なるものを排除せよ。積み重なった呪詛は形となり、遂には敵を異形の姿に貶める呪法を成立させてしまいます。それが異獣。大いなる神の加護に守られぬ者は、いつおぞましい怪物に身を落としてもおかしくありません」
映像の中で共同体の外、森に追放された罪人たちが変貌し、怪物になっていく。そうした脅威に対抗すべく世界中から勇士が集い、邪悪な化け物を退治する。中でも目立っていたのは銀色の森を治める女王と、それに付き従う六人の男たちだ。騎士、あるいは将軍か? 大勢の勇士と森の女王たちが奮戦したことで怪物たちは世界の端に退いていった。
「異獣との戦いに終わりはありません。大いなる創世竜たちは世界の惨状を憂い、世界各地に奇跡をもたらしました。この地にある宣名碑、強さを示す石板はそのひとつ。第五紀竜ガドカレク様が遣わした化身、アルト王の権能を受け継いだ秘宝なのです」
映像の中で活躍していた女王の騎士、そのひとりである竜頭の戦士が拡大される。
アルト王と呼ばれたその男は天空を取りまく巨大な竜から王冠を授かり、広汎な地域に君臨した。多種多様な種族がそれに従い、彼の統治下で王国は大いに繁栄したようだ。
王国の名はガロアンディアン。歴史上もっとも多くの種族と共存を成し遂げた国家。
多様な種族が入り乱れる王国のイメージ映像は、少しこの第五階層に似ていた。
石板の最上位には常にアルトの名前が記され、彼は最も優れた武人として誰からも恐れられ、同時に尊敬されていた。王とは最強の戦士であり、魔法使いでもあったようだ。
だが強さ以上に凄まじいのはその言葉の力だ。
敵対していた周辺の諸部族さえ対話で味方につけたばかりか、異獣となった敵にさえ語りかけ、吐息を吹きかけるだけで忌まわしい姿から元に戻すことができたのだ。
「アルト王はあらゆるものに言葉を与え、また取り上げることができました。言葉とは知恵。知恵とは意思。そして魂でもあります。すなわち、この力を手にすれば異獣を人に戻し、人を異獣にすることができる」
途方もない力だった。
そして同時に、俺にとっては切実に欲しい力でもある。
この力があれば、俺は断章に頼らずとも他者と意思疎通できるようになるのではないか? また、ほぼ確実に異獣であろうゴアも元に戻してやれるはずだ。
「この力は現在、第五階層の掌握権と一体化しています。第二創世を行うための全階層掌握まで至らずとも、この『言語支配権』さえ手に入れば我々は絶大なアドバンテージを得られます。そのためには『回帰の血』を盗み出したネフシュタンを捕らえ、その裏に潜む天使を打倒して宣名碑の序列一位、すなわちこの地の王になる必要があるのです」
蛇頭の男と炎に包まれた不定形のシルエットが表示され、ラズリさんとキロンから伸びた矢印が天使たちの方に向けられる。この構図はいちおう俺も理解できている。どちらかの勢力がネフシュタンたちを操っているという疑惑はまだ消えていないが。ラズリさんは変わらぬ笑顔で説明を続けた。
「他者の異獣化、そして言語地平破壊能力を有する天使は最強の存在です。普通に挑んでも壊滅は必至。ですがそのための手段をアルテミシアさんが用意してくれました。現在、槍神教の妨害でその手段は遺跡深部に落下。地底を高速で走る古代ガロアンディアンの『列車ワーム』内部で囚われの身となっています」
第五階層の都市部を取りまくように配置された六つの遺跡。
その地下空間を繋ぐようなトンネルを、何かが爆走している。
地下を周回し続けていたのは超巨大な大蛇と牙の生えた環形動物の中間みたいな巨獣だった。列車ワームに食われたものは消化されずに客室で保護されるようだが、暴走状態にあるのか周囲からの働きかけでは一向に止まろうとしない。
イメージ映像が続く。
修道騎士たちが挑もうとして弾き飛ばされ、僧兵たちが轢殺されている。
高速で移動中の列車ワームをどうにかして停止させるか、素早く乗り込んで目的のモノを奪取してこなければならない。
「暴走する天使に方向性を与え、飼い慣らすことができる『鈴の王』。これを手に入れた者が第五階層を巡る戦いの勝者となることは間違いありません。困難な作戦になりますが、私はここにいる皆さんの力があれば可能だと確信しています」
輝くような笑み。それだけで俺の胸は浮き立ち、何でもやってやろうという意欲に溢れていく。周囲の仲間たちもそれは同じようだった。俺たちの心はひとつ。ラズリさんがこの地の支配者として君臨すれば、そこはきっと愛に溢れた理想郷になるに違いない。
「ラズリさんに勝利を!」
拳を突き上げて叫ぶ声。いったいどこの狂信者かと思えば俺だった。恋する盲目のスピリットは衝動のままにラズリさんの名を連呼し続ける。それに呼応するように周囲の仲間たちも拳を突き上げる。俺たちは仲間。いや、ファミリーと言っても過言ではない。ファミリー最高! ラズリさん最高! 俺は熱病の中で溺れていく。
それから数日の間、決戦の日に向けての準備期間は夢のように過ぎていった。
仲間たちと息を合わせるための集団戦闘の訓練。
装備の新調、呪動装甲の操作に習熟するための短期教習プログラム、ウデモドキとの触れ合い、ひとつの食卓を囲んでの会食と親睦会。
忙しいラズリさんと話す機会はあまりなかったが、夜には端末ごしの遠隔通話で竜神信教の教義を教えてもらうことができて幸せだった。
「ごめんなさいね。もう少し待ってくれたら、たくさん愛してあげられるから」
ラズリさんはそう言いながら竜神信教がどれだけ素晴らしいか、野蛮な槍神教と違ってどれだけ正しく理想的な教義なのかを語ってくれた。
たとえば竜神信教は、槍神教に比べてずっと女性の社会進出が進んでいる。というよりそれは当たり前のことなのだ。ラズリさんが組織のトップであることを踏まえるまでもなく、自由と平等という思想が全体に行き届いているのだった。
「力による支配ではなく、愛による共存。槍神教の野蛮な侵攻から人々を守るためにやむを得ず戦うことはありますが、我々は基本的に対話と絆こそ最大の武器だと信じています」
ラズリさんは争いに満ちた凄惨な歴史の話をしながら、竜神信教について説明する広告映像を見せてくれた。限られた資源、終わらない戦争、持続可能な発展、といった前世でも見た覚えのある教育的メッセージの込められた記録映像だ。
彼らは世界の平和を憂う。
彼らは終わらない憎しみに悩む。
彼らは大地との共生を望む。
あらゆる資源は大地を循環し、人々に恵みを与え、人の営みがまた大地に還っていく。
世界は大きな環であり、巡る自然こそが我々全てを支えている。
「竜神信教は『下』側にある本国、『鈴国ジャッフハリム』の二大政党の一つと強く結びついています。もっとも姉の死をきっかけに支持率は急落していますが」
ラズリさんは沈痛な面持ちでそう語った。
ジャッフハリムは議会制民主主義。社会主義体制期を経て混合経済を採用した『下』勢力で最大の国家だ。伝統的に左派が強く、主要政党もその傾向に漏れない。
大きな政府とセーフティネット、地域共生などを標語にしている『戦闘的共同体主義細胞』、穏健な中道左派で死刑撤廃や戦争反対などの立場をとる『首狩り粛清騎士団』、労働者の権利、階級撤廃、プロレタリア革命を掲げる『自由絞首党』、レストロオセ派とも呼ばれる旧鈴国系政党『四十四士党』、竜神信教を支持母体とする『竜神信教民主同盟』といった名称が並ぶ。やや物騒なのは社会主義時代に色々あった名残らしい。
「私たちは国や環境系の団体からも支援を受けてこの地に派遣されています。彼らの期待に応えるためにも、私たちは決して負けられません」
ラズリさんの背後には数多くの信徒や国民たちがいる。
途方もない数の期待と重責を背負って彼女はこの場にいるのだ。
竜神信教は創世神話を基にした竜の崇拝宗教だが、この世界では竜というのは世界それ自体が形をとったもの、という認識がされているらしい。
ゆえにその教義は自然崇拝や環境保護といったものになりがちだ。
多文化主義やエコロジーを謳ういわゆる『緑の政治』と結びつき、最新の環境学や政策を教義に繁栄させることで常に保守的な槍神教とは思想的に一線を画しているとか。
ラズリさんの説明は具体的な数字やグラフを用いた環境学的な出だしから、次第に観念的なイメージを提示するようになっていく。
「九首の創世竜が森羅万象を司るように、世界は目に見えない高次世界の色で分けられています。私たち竜導師はこの次元に意識段階をアセンションさせることで生命エネルギー、チャクラ、彩域と神人、カラーレベルの全てを見晴らすことができます」
ラズリさん以外の竜導師たちもたまに現れて俺たちに講義をしてくれた。彼らが見せてくれた映像の中では九つの竜が順々に紹介され、対応する世界の環境問題とその解決に取り組む人々の姿を見ることができた。唐突に出てきた子供たちが笑顔を浮かべ、荒れ地に種を植えていく。講義の後に渡された植物の種を持って、仲間たちと一緒になって庭に種を植えるという一幕もあった。
これが環境美化に繋がるかどうかはともかく、一体感や連帯感を高めるための儀式としてはなるほど有効だ。横並びで同じ事をやっているのはここにいる俺たちだけではない。世界中の竜神信教徒がみな同じ事をしている。大いなるモノに包まれるような感覚。巨大な力に押し流され、取り込まれていく錯覚。世界のために正しいことをしている。宗教的な赦しと環境学的な裏付けはとてつもない安心感を与えてくれた。
『運動』と『祈り』の一体化。
原始的な礼拝は近代的セミナーとの境界線をぼやけさせている。
動物の骨を用いた占いと統計学のグラフが自然に並ぶミスマッチ。
教本や図鑑を開いて薬草を煎じながら、それを祭壇に捧げるナンセンス。
神話の竜は世界そのもの。世界とは環境。緑の政治は祭政一致。
宗教が支配するこの世界において、槍神教と対極に位置する大勢力。
味方をあっさりと切り捨てる冷酷な男性社会とは違う。ここは隣人を尊重し、手を取り合って世界をより良くしようとする愛の共同体。
寺院は多種多様な種族の拠点だった。集会場であり、職業斡旋所であり、教育施設でもあった。魚人が支配する河川の流域ではあまり見かけない『竜のしもべ』たる亜竜人や『叡智の民』鳥人、虫の頭を持った半妖精という種族までそこには存在した。
俺が知らない多様性が、ここでは共存可能らしい。
人々は金銭や物資を互いに分かち合い、助け合って生きている。
決して豊かではない。
むしろ限られたリソースをどうにかやり繰りしようという苦心が日々伝わってくる。
しかし彼らは幸福に生きていた。
隣人と語り合い、励まし合い、笑い合う。
諍いがあれば誰かが間に入って仲を取り持ち、話し合いと自省の繰り返しで互いに適切な距離を探り出す。無謬の楽園ではないものの、理想の共同体を目指そうとするひとりひとりの意識の高さが感じられる光景。
純粋に自己を研ぎ澄まし、鍛え上げた心身で神に祈る修道騎士たちのような強さはここにはなかった。強さへの衝動も暴力も別世界の出来事のよう。
かわりにあるのは穏やかな慈愛だ。
彼らは良き市民であり、幸福な隣人だった。
イオを献身的に治療する槍神教徒たちのことを思い出す。
大きな力。ティリビナ人たちを脅かし、個人を使い潰す冷徹な仕組み。
だがその中で生きているのは普通の人々に過ぎない。
双方に触れてわかった。この世界を二分する巨大宗教とは、この世界の人々の営みそのものであるのだと。そこにあるのは当たり前の生活と日常だ。
思想の差、志向の別、左右の傾向、それらをひっくるめて『普通のこと』でしかない。
それは当然の如く邪悪であり、ごく自然に善良だった。




