2-18.冬を好きになれる日が来たら4/好きに縛られて
逃げなければ。
こんなにも居心地の良い場所を捨ててどこへ?
手を振り解かなくては。
こんなにも素敵な人を拒絶する理由がどこに?
ゴアゴア、ゴアゴア。
頭の中で小さな怪物の鳴き声が響く。
麻痺した心に短い牙を突き立てて、正気に戻れと必死に叫んでいる。
おかしいな。俺は正気だ。その証拠にラズリさんへの愛だけが思考の全てを占めている。
感情と意思はラズリさんと共に生きると決めている。
自らの存在、その意味も価値も彼女と出会うためだけのもの。
それこそが俺の運命。それこそが俺の本当の願い。
大いなる愛、尊い絆、自分を肯定してくれる優しさ。
『きっときみは、あの子の生まれかわりなんだね』
それは多分、人間にとってかけがえのないものだ。
ふと、白く染まった光景を思い浮かべる。
一面の銀世界。吐く息は白く、肌を包む大気は冷たい。
人は当たり前に愛されていい。恵まれていていい。そう思わなければ生きることさえできやしない。路傍の物乞いを哀れに思うことがあっても、自分がそうでないことに罪悪感を覚える必要などない。己を生かしている全てが沢山の弱者を踏みつけた結果だなどと考えていちいち気に病むなどどうかしている。
雪は愛されていいはずだ。
厄介者でも、歩みの邪魔でも、その重みで誰かを殺しても、ただそのように存在してしまっただけのものに罪は問えない。
冷たく、脆く、儚く、美しい。愛される条件なんてその程度で構わない。
それでも俺は。
冬が来るたびに、『E-E』に縋り付く。
俺の意思決定プロセスは常にワンクッションを挟んで行われる。『俺』と『肉体』のと間に噛ませている現実表象トークンの認識を代行することで、『E-E』は入力された感覚情報を過不足なく処理した上で行動を決定できる。要するに、前世紀に社会問題になったような『感情欠落』『知覚鈍麻』『リスクブラインド』『人格異常』といった旧世代の感覚制御者に特有な危険性はほとんど解消済みというわけだ。最後のひとつを除いて。
よって洗脳下ではこういうことも可能になる。
あらゆる生理的欲求と意識的な目的規範を過去数日間の行動ログと比較。何らかの手段による記憶及び意識に対する改竄が行われていると判断し、意識の連続性を一時停止。再起動。『E-E』に継続させていた主観記憶をパージ、情動を抑制しつつ『俺』のエミュレートを開始。断絶する。夢は醒めた。そしてまた夢が始まる。慈悲、運命、絆、自由意志による恋愛、主体的な選択、その全て。
「そんなもの、無価値に決まってる」
「ゴア?!」
肩の上で相棒が驚いている。構わずにトイレの窓から抜けだし、寺院の裏手から敷地の外へ脱出する。数人に見咎められたが構うことはない。走り抜けるまでだ。
竜神信教の内部を探るためにしばらく好きにさせていたが、これ以上の洗脳を許すと悪い流れになる予感があった。
「ゴアゴアゴ」
しばらく不思議そうに俺の頭をつつき回していたゴアだったが、やがてそういうものだと納得したのか定位置である右肩に戻っていく。
俺たちは自由の身になった解放感に身を任せて足早に寺院から離れた。
左手はない。ウデモドキは悪くなかったが置いてきた。使い続けることでどんなリスクがあるのか、全てを説明されたとは限らないからだ。
竜神信教のトップ・ラズリは想像以上に危険な女だ。あの場に留まっていたらどうなっていたことか。一度トリシューラの所に戻って態勢を立て直すべきかもしれない。
気になるのは、ラズリが俺の敵意の矛先をキロンに逸らそうとしていたことだ。
初手で洗脳を選ぶような女、問答無用で敵認定して構わないとは思うのだが、一方で槍神教が油断ならない勢力であることも間違いない。ラズリが敵だからといってキロンが味方というわけではないのだ。ネフシュタンの背後にいる黒幕がどちらの宗教勢力、あるいは第三の勢力なのかはまだはっきりしていない。
「最悪のパターンは、トリシューラが全ての黒幕ってケースだよな」
やろうと思えば渡された携帯端末で連絡することはできるが、なぜだかトリシューラに頼ることを想定すると行動に対して心理的なブレーキがかかる。なんとなく右手で左手の断端部を押さえた。何も信用できないこの世界で、過度に他者に依存するのは自分を弱体化させるに等しい。こんな弱気でどうやって生き残るつもりだ? 目を瞑ってトリシューラの幻影を振り払った。
「ゴゲギャー」
肩の上でげんなりとした感じに身体を弛緩させるゴア。こいつもあの呪術医にはそれなりに思うところがあるらしい。疑い出すと周囲全てが怪しく見える。呪術医院に戻るのも何だか気が進まない。かといってティリビナ人たちに迷惑をかけるのは最後の手段にしたいし、顔見知りのブルドッグレスラーはキロンと仲良しだし。もう頼れるのは相棒くらいだ。
「ギューゲゴ」
寂しく彷徨う俺を気遣ってくれているのか、小さな怪物は身体をすり寄せるようにしてくる。独りではないというアピールだろうか。洗脳されている間、一生懸命に俺を元に戻そうとしてくれていたことといい、いつもながら世話になりっぱなしだ。
「よしよし。ありがとうな。何かお礼にプレゼントでも買ってやろう。おやつ増やすか?」
「ギョゴ? ギューン、ギュギュゴ。ゴアッ!!」
しばらく身体を傾けて悩んでいた相棒は、ふと何かを思いついたように飛び跳ねた。
それからくんくんと何か匂いを嗅ぐような仕草をしたかと思うと、急にゴアッと飛び跳ねてゴギュ~と渋面を作って見せた。もしかして、俺の臭いを嗅いだのか?
「そんなに俺は臭いか? いやお互い様だと思うんだが」
「ゴガーッ! ゴアゴア!」
「悪い、そんなに怒るとは思わなかった。臭いの気にしてたのか。わかった、じゃあ香水を買うぞ。悪臭をなんとかすれば少しは気持ちも切り替わるだろ」
「ギェギョ! ゴアッ」
喜んでるんだか威嚇してるんだかよくわからないが、とにかく弾みはついた。
端末に入っている地図アプリを使って香水が購入できそうな店を探す。この短期間で便利で情報量の多い地図を作っているトリシューラの謎は深まるばかりだが、そのおかげで俺たちはそれらしい店を見つけることができた。頼らないと言ったばかりだが、このくらいならまあいいだろう。
遺跡を中心にして広がった街は歪に発展を続けており、その中には日用品や贅沢品を扱う店舗も存在していた。俺が入ったのは薬品と日用品などを纏めて売っているドラッグストアのような店だ。香水はこういうところでも扱っているらしい。
きょろきょろと店内を見回していると、不慣れな様子が目に付いたのか店員さんが近寄ってきて話しかけてくる。茶色の髪にそばかすの地味めの女性店員だ。やる気のなさそうな営業スマイルはいまいちこなれていない。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「香水ってあります?」
「それなら反対側のコーナーですね。ご案内します」
店員さんの後について店内を歩いて行く。
香水が並ぶコーナーを見回すと、幾つものカラフルな紙人形ポップが意思を持つようにちょこまかと動きまわり、モニターから空中に投射された立体幻像が音楽に合わせて軽快に歩いていた。ちょっとした広告の博覧会、過剰すぎる情報に気圧されてしまう。
「知識があまり無いんですけど、男性向けでメジャーなのってあります?」
「それでしたら、人気英雄のグレンデルヒがプロデュースしているこちらの商品が人気ナンバーワンになりますね」
オススメされたのはモデルだかタレントだかとタイアップした商品のようだ。
渡されたムエットとかいう栞か短冊のような紙にテスターで噴霧して匂いを確認。男性向けを意識されたのか煙草やレザー系の芳香だったが、あまり好みではない。
相棒も同じ感想だったのか、難しそうな唸り声を上げている。
商品棚のポップや立体映像広告は基本的に有名人と商品を結びつけたものが主流だ。
この香水とタイアップしているのは蓬髪の壮年男性。派手なストライプスーツを身に付けて不敵な表情を浮かべた彫りの深い顔立ち。グレンデルヒといえば、キロンが話していた序列三位の有名人だ。意識しているようで癪だが、この男と同じ香りを纏うのは何故か嫌だった。やめておこう。
「ゴアッ、ギュッキュウ!」
「そうだなあ。男性用というか、ユニセックスぽい香水のがいいかな」
「無区分? 両性的ということでしたら天使モデルのものが、倣性的ということであれば夜の民モデルのものがございますが」
渡されたのは天使の羽根を模した小洒落た瓶だった。
羽根の瓶が陳列された商品什器はかなり大きく、力を入れて販売しようという気迫が感じられる。タイアップしているモデルの横顔が描かれたパネルに近付くと、ふわりと立体映像が中空に投影された。
恐ろしく美しい横顔だ。輝く光輪に燃える翼。爽やかな美貌は女性のようだが、力強い表情と燃える赤毛、輝くような瞳から受ける印象は雄々しい戦士のそれだ。
爽やかな美と力強さを秘めた天使、というイメージだろうか。
天使にはあまりいいイメージがない。にもかかわらず、この横顔に対しては不思議と敵意が湧いてこなかった。エネルギッシュな雰囲気には好感さえ抱けそうだ。
サンプルの香りを嗅いでみる。落ち着いた感じと爽やかさのバランスがいい香調。フゼアマリン、というのだろうか。最初は少しシトラスの柑橘風味が強いように感じたが、落ち着いてくると気にならなくなる。ゴアの腐臭をほどよく中和してくれる悪くない香りだ。
「キュー! キュッキュー!」
やけに甲高い声で喜びを示す怪物。どうやらいたく気に入ったらしい。
当人のご希望なら迷うこともない。即決してレジに持っていく。
店員さんは紙袋に商品を入れて渡してくれた。ありがたいことに適切な噴霧箇所まで指導してくれるおまけつきだ。
教えられた通りに試してみる。相棒の短い手足の付け根や胴体の下に軽く噴霧。あとは時間経過でゴア自身の体臭と混ざりあっていくようだ。
「ゴアァ」
「よしよし。気に入ったならまた買ってやろうな」
相棒は俺の肩でだらりと全身を弛緩させている。リラックスしているのだろうか。ここのところ波乱続きだったし、たまにはこういう休日があってもいい。
これが日常と呼べる俺の居場所なのかは正直わからない。
それでも、この時間は悪くないと思えた。
柔らかく微笑む店員さんが、瞳に斜めの十字架を輝かせてこう告げるまでは。
「ふふ。気に入ってもらえたなら良かった。でも少し残念。夜の民モデルは不要でしたか? どちらの性にも染まることができる魅惑のフェロモン。纏うだけで恋を呼び起こす、蕩ける闇夜の芳香。あなたは好きだと思っていたのですが」
「は?」
思わず茶髪にそばかすという印象しかない普通の店員さんを凝視した。
違う。別人だ。直前までは確かに初対面の女性でしかなかったはずの相手が、なんの予兆も無く一瞬でラズリ・ナアマリリスと入れ替わっている!
「影に潜む魔物、人の心を映し出す怪物の姿は様々。我ら夜の民には多様な形態があるのです。人狼、吸血鬼、幻姿霊、禍鳥、夢馬、そして淫魔。そう、私は魅惑する魔性」
「逃げるぞ、ゴア!」
「ゴギャー!」
走る。通行人たちの怪訝そうな視線が俺を貫き、肩の相棒を見て嫌悪に変わる。油断だった。竜神信教の勢力が強いエリアから離れれば安全だと高をくくっていた。まさかラズリがここまで迅速に俺たちを捕捉するとは! 全速力で逃げ回り、裏路地をぐるぐる巡って非合法っぽい武器を取り扱う店に駆け込んだ。店内に並ぶのはレトロなフリントロックピストルやコウモリや火山のイラストが描かれたボンベ、そして場違いな大型カメラ。
「おう、威勢のいい兄ちゃんだな。神をも恐れぬ鎧の腕とは気合いの入ったことじゃねえか。好きなの選びな。竜罰なんざクソ喰らえだ、そうだろ?」
スキンヘッドの店主は両肩に折れた槍と血塗れの竜という反骨精神に溢れるタトゥーを入れたファンキーな男だった。偶然だがいい場所に辿り着いた。特にピストルがいい。旧式とはいえ購入しておく価値はある。手に取ろうとしたその時、俺の義肢に重ねられる毛深い手。いや違う。これはすらりとしなやかな女の指先だ。
「まあ、銃火器だなんて罪深い。こんなお店があったなんて、あとで摘発が必要ですね。まったく、いけませんよ? 銃の使用は竜の意思に反しています」
馬鹿な。この店に入った時、間違いなく店主は屈強な男だったはずだ。
それが忽然と消え失せ、ラズリの姿に変わっている。
即座に飛び退いて離脱。
走る、走る、走る。服飾店に隠れた。雑貨屋でやり過ごそうとした。逃げるのに疲れて移動式屋台でジュースを頼んだ。その全ての場所で、はじめ店員さんは確かに別人だった。
「いらっしゃいませ、お客様。もう、逃げるなんてひどいです」
だというのに、対応してくれたのは全て店員さん。
無人化が進んでいないこの世界の店舗は基本的に有人だ。
だからあらゆる店には店員がいて、俺は必然的に店員さんと遭遇する。
「ゴアーゴ! ゴア! ゴアゴ!」
異常過ぎる事態にゴアが怯えている。涙目で俺の肩にしがみつき、最後の方は諦めてぐったりとしていた。
ラズリからは逃げられない。このままではどうあっても掴まる。
屋台のカウンター越しを睨み付けると、ラズリが妖しく微笑んでいた。
「こんな姿になったのに、まだ『個我』を取り戻す力を失っていなかったんですね。ふふ、狂気を大事な仲間に押し付けて、かすかに残った理性ですることが男をくわえ込むことだなんて、本当に可愛いんだから。可愛すぎて、もっといじめたくなっちゃいます」
「ギュウ、ゴァァ」
縮こまって震えるゴア。どうやらラズリ・ナアマリリスは俺が正気を取り戻した原因がゴアにあるものと勘違いしているようだが、これはもしかして唯一の優位性か?
また、どうやらラズリはゴアの方に注意を向けている。
余裕に満ちた態度だが、仮面じみた笑顔の奧にはラズリという個人の感情が垣間見えるような気がした。敵意。あるいは対抗心。それか嗜虐心?
疑念が契機となってある記憶が呼び覚まされる。
ようやく思い出した。
今までは記憶がブロックされたように思い出せなかったが、俺はこのラズリという女を最初にゴアと出会った地下闘技場で見たことがある。
ゴアを捕らえて残酷な殺し合いの舞台に放り込んだ張本人。
それがこのラズリ・ナアマリリスだったのだ。
まずい。よくわからないが、ゴアをこの女に近付けてはいけない気がする。
そうでなくても、大切な相棒を酷い目に合わせていた奴の所に置きたくはない。
ラズリからすれば俺は捕獲していた怪物を盗んで逃げ出した悪党だ。再会した時にそのことを気にする素振りは見せていなかったが、密かに復讐の機会を待っていたに違いない。問答無用の洗脳は俺に対する強烈な悪意から出た行動なのだろう。
なるほど俺は罪人かもしれない。
だがこのままゴアを渡すくらいなら、俺は罪人である方を選ぶ。
どうにかしてラズリの興味を逸らし、ゴアを逃がす必要があった。
正直に言えば、どうせ逃げられないのならせめてゴアだけでも別行動を取らせておいた方がいいという打算もある。
「鋤鼻器に対する働きかけは社会性動物の基本コミュニケーション。すなわち使い魔を手懐ける技術のひとつ。それを否定するなんて、不自然もいいところです。やはりあなたは竜の御心に沿わぬ異獣。もっときついお仕置きを与えないと」
女の声が蠱惑的に響き、蕩けるような気配が脳髄をシェイクする。
鳴り響くアラート、染め上げられていく感情、圧倒的な恍惚感。
やばい、ゴアを逃がす前に仕掛けられた。
ラズリ、さんめ。またしても洗脳か。だが今度こそ手品の種がわかった。
ヤコブソン器官に対する情動クラッキング。俺は性フェロモンを利用した攻撃に晒されていたわけだ。副嗅覚系は扁桃核を経由して視床下部に至る神経経路。体温調節、食欲、代謝調節、性欲、睡眠と覚醒の調節といった非常に多岐に渡る行動を調節する視床下部を狂わされれば抗うことは難しい。
『E-E』でも扁桃核や視床下部に干渉することは可能だが、こうした根源的欲求の制御には慎重になる必要があった。そもそも『E-E』は『感覚や感情を処理する受容器』を仮想的に設定して代行させるアプリだ。
通称『スピリット』。精神体、もしくは魂というニュアンスが込められている。
「くそ、何でも好きにできると思うなよ」
「強がらないでいいのに。ほら、もう私が愛おしいでしょう?」
即座に感情を遮断。自分と重なり合う半透明の仮想自己がイメージの上で遠ざかる。感情制御とはつまり『スピリットのはたらきを弱め、分離する』ことだ。耐え難い激痛も抗えない恋愛感情も、心が鈍麻しないように確かにスピリットに知覚させつつ『髪の毛や爪先のダメージ』として処理することで冷静な思考を維持することが目的である。
俺に言わせればスピリットはもうひとりの自分ではなく身体の一部だ。増設自己。構造を拡張し、対衝撃性を高めた感覚総体。それはもはや形のない心的外骨格と言えるだろう。
「ね、私のこと、どう思っていますか?」
「俺は」
ふと、スピリットをリセットする寸前で思い留まる。
これは根本的な解決になるのか?
即座に再洗脳されて終わりになることだけは避けたい。
そのためにはラズリへの対策が必須となる。
『E-E』が創造する仮想感覚受容器をリセットすればラズリの洗脳フェロモンに対抗することは可能だ。しかしそれは一度は洗脳を受けなければならないことも意味している。その上、この『自切』にはそれなりのリスクを伴う。
三位一体の自己。その全てが俺であることに変化はないが、これ以上の自切で『セツ』に影響が出ることは避けたい。両親から預かっている大切な『俺』なのだ。
感情制御を外したもしもの人格。ありのままの自分。保守的ナチュラリストたちが好みそうな『本来的人格』のシミュレートを継続し、保全しなければならない。感傷だが、冗長性の確保という言い訳もある。
「俺はあなたのものです、ラズリさん」
「はい、よくできました。私もあなたが好きですよ」
意識をぼんやりとさせたまま抱き合う。ゴアが悲しそうに鳴いているのをラズリさんは愉しげに見つめていた。そこには黒々とした害意があった。
このまま寺院に戻れば、ゴアはどんな仕打ちをうけるかわからない。
洗脳されたままでも可能な抵抗はある。
俺の欲求に逆らわない状態での行動なら、あるいは。
「おい、臭いんだよ化け物。俺とラズリさんの時間に割り込むな」
「ゴ? ゴアア?」
何を言われているのか理解できず、不思議そうにこちらを見るゴア。
俺は無造作に右手で肩の上の怪物を掴み、なるべく力を入れすぎないように、しかし可能な限り乱暴に見えるように地面に叩きつけた。
信じていた相棒からの突然の裏切り。地面にうずくまる小さな怪物のそばに勢い良く足を振り下ろす。ゴアは驚いた様子でこちらを見上げている。
「ゴアッ、ゴアゴ? ギョゴ、ギョギャーゴ! ゴーア!」
わけもわからず必死に取り縋ろうとするゴアを、俺は唾を吐いて拒絶した。
可哀相という感情を遮断して冷徹な演技を貫く。爪先を横に払うようにしてゴアを押し退けた。強い蹴りにならないように調整したつもりだが、優しすぎても不審がられる。圧倒的に大きな俺に足をぶつけられた小さな怪物はゴロゴロと転がっていった。
「消えろ、醜い怪物が。俺には美しいラズリさんだけがいればいい。お前のような奴は、ラズリさんの視界に入らないようにコソコソ隠れて生きるのがお似合いだ!」
「ギャ、ギャゴ、グギュゥ」
ひっくり返り、地面に涙を零して短い手足をじたばたさせるゴア。
心は痛まない。スピリットとの距離は遠いままだ。
虎穴に入り毒を食らわば小皿まで。俺はこのまま洗脳されつつ竜神信教の内部に潜入し、外部にゴアという頼れる相棒を待機させておくのだ。そうすればいざという時、俺は援軍の到来を期待できる。状況をトリシューラやティリビナ人の兄弟子たちに伝えてくれるだけでも大助かりだし、最悪の場合はキロンとかでもいい。
とはいえここで作戦を口で説明するわけにもいかないし、そもそも言葉でのコミュニケーションがゴアに正確に伝わるかどうかは怪しい。
以心伝心、一か八かで相棒が俺の意図を汲み取ってくれることに賭けよう。
「ゴーア、ゴーア」
ところがゴアは悲しそうにこちらを見るばかりで一向にその場を離れようとしない。
俺が本当に心変わりをしてゴアを裏切ったと思っているのか。確かに俺は感情の赴くままに行動しているが、その後ろでは冷静に理性を働かせている。言動からはわからないかもしれないが、相棒には流れから真意を理解して欲しかった。
「わかんねえのか、俺はお前みたいな怪物はずっと嫌いだったんだよ、便利な道具として利用していただけだ。俺にはウデモドキがいる。お前はもういらん」
「ゴアア!」
加減をした蹴りが宙を切った。
小さな怪物は視線をラズリさんに向け、果敢に立ち向かおうとしていた。
苦境でも決して諦めない戦意、その気質を俺は知っていたはずだ。
この状況で相棒が選ぶのは逃走ではなく闘争。
勝ち目が薄くても徹底抗戦を選ぶその勇猛さこそ、俺が最初に見たゴアの本質だった。
馬鹿だ、俺は。
こいつに似合わない作戦を身勝手に押し付け、ちゃんとした意思疎通もできないまま期待と失望で消耗している。こんな道を選ぶべきではなかった。後悔が押し寄せるが、スピリットは既に洗脳されてしまっている。ここから強引にゴアの味方をする? ダメだ、心を殺せ。情に流されるな、それは『俺』ではない。
「発勁用意!」
裂帛の気合いを叩きつける。ラズリさんに飛びかかろうとしていたゴアは本気の殺意をぶつけられたことでびくりと硬直した。腰を落とし、拳を握った俺の姿を目にしてひゅっと息を吸い込む。これ以上ラズリさんに近付けば殺す。言葉が伝わらないのであれば、もはや俺が意思を伝える手段は暴力しかない。
「ゴア、ゴーア」
完全に敵に回った俺を前にして、ゴアは打ちのめされたように項垂れた。
勇ましく敵に立ち向かおうとしていた心が完全にへし折れてしまったように見える。
折ったのは俺だ。信じていた仲間が敵になる。それはゴアにとってどれだけの痛手だったのだろう。俺には想像さえできない。
しょぼくれたように目を伏せ、じりじりと後退る。
窺うような視線を拳で遮った。
途端、ゴアは弾かれたように走って逃げていく。その姿は雑然とした街の景色に紛れ、すぐに見えなくなってしまった。
結局、作戦は理解してもらえないままだ。後で気付いてくれるか誰か助けを呼んでくれることを祈るしかないが、いずれにせよ苦い失敗だった。
内心を隠しながら愛するラズリさんに向き直る。俺を迎えたのは意味深な笑顔だ。
「ふふ、健気ですこと。なかなかの役者ぶりでしたよ、惚れ惚れしてしまいました。格好良かったですし、あなたの頑張りに免じてあのコを追うのは止めましょう。どうせ心は私のもの。引き離してしまいさえすれば無力な異獣に過ぎません」
演技が大根過ぎたか? しかしラズリさんは既に勝ちを確信しているのか余裕の態度だ。それだけ自分の魅了フェロモンに自信があるのだろう。
強大な力を持つラズリさんの余裕。彼女は俺が自力で洗脳を解除できると知らない。逃げたゴアには何もできないと思い込んでいる。付け入る隙はそこだ。
「俺の心を全てラズリさんに捧げます」
「嬉しい。これでゼノグラシアの使い魔は私のもの。準備はもうすぐ整います。向こうで見ていて下さいね、お姉様。私がきっと、素敵な創世を成し遂げます」
跪く俺の頭を撫でながら、ラズリさんはうっとりとどこか遠くに向けて言葉を投げかけた。今は亡き姉への決意表明ともとれるその言葉は、不吉さを孕んでいた。
「楽しみですね。私の斜め十字が槍よりも竜よりも優先される、カップリング自在のおもちゃ箱。愛に満たされた新世界の訪れが!」
それはあまりにも俗悪で壮大な野望。
狂人の妄想にせよ阿呆の計画にせよ放置していれば大変なことになる。
新世界だか創世だか知らないが、この女にそんなものを任せてはならない。
史上ワーストクラスに下らないタイプの世界の危機。
それでも俺は挑むと決めた。勇敢なゴアのようにはできない。こそこそと真意を隠し、ぺこぺこと頭を下げながら冷徹な理性だけは残しておく。
勇気ある者のようには戦えない。感情はスピリットとセツのものだ。
愛に満ちた遠い世界を俯瞰して、静かに戦う意思を確かめる。
三番目の自分。俺だけのやり方で。




