2-17.冬を好きになれる日が来たら3/頼れる仲間たち
ひんやりとした感触。左肩から腕の断端近くにかけて長いものが巻き付いている。しなやかな体躯を伸ばした『それ』は、しゅるりと伸びて五指を広げると卓上に置かれた卵を掴み取った。するすると戻って来ると、頭部から突きだした五つの触手を開いて俺の右手に卵を落とす。隣で見ていたラズリさんが両手を合わせてにこりと微笑んだ。
「器用でしょう? そのコなら左腕の代わりになってくれると思うんです」
今後の方針を確認するための話し合いを終えた俺は、ラズリさんの案内で建物の裏手に案内されていた。そこにあった施設は白塗りの簡素な長方形で『寺院』とは少し趣が違う。それもそのはずで、つい最近まで竜神信教の信者ではなかった人物のためにわざわざ用意した研究施設なのだという。
施設に足を踏み入れた俺はそこら中に設置された檻に度肝を抜かれた。そこで飼育されていたのは多頭の巨大甲虫、浮遊する犬の頭、毛むくじゃらで蠢く何か、剣のような爪を放射状に生やしたパラボラアンテナみたいな爬虫類などの怪物ばかりだったのだ。
俺に与えられた『腕の代わり』はその施設の主が提供してくれたものだった。
「それはウデモドキという蛇の一種でね。その名の通り腕に擬態する奉仕種族だよ。人に慣れるのも早いし、宿主との呪的親和性も高い。少し生気を吸われるが、腕を動かすぶんの消費カロリーだと思えば安いものだ。使い魔にはもってこいだろう?」
穏やかな教師を思わせる男の声。誰よりもこの部屋で存在感を主張するその男は、しかし散らかった部屋によく馴染んでいた。雑多に積み上げられた資料、壁に貼り付けられた大量の紙片、書き殴りだらけの黒板、フラスコ、湯煎器、割れた亀の器、黒曜石の斧、枯れた花が生けられたティーポット、蛍のような虫が閉じ込められた電球。
そして、巨大な翼を背で畳んだ見上げるような体躯の鳥人間。
霊長類のような手足を有した、直立二足歩行の白いカラスだ。
「流石は『無魂王』ヤンブロスク。翼都の名高き大錬金術師のお力を借りることができて、とても心強いですわ」
「ラズリ様にそう言って貰えるなら、わざわざ第五世界槍からここまで足を運んだ甲斐があるよ。前途ある若者を手助けできて、僕の方こそ光栄だとも」
和やかに笑い合う二人。といっても、俺には鳥人の表情がわからない。
種族的な理由もあるが、それ以前の問題として彼が白衣にペストマスクという大昔の医師のような格好をしていたからだ。いや、俺の知るペストマスクは嘴のような部分に香草を詰めていたはずだから、鳥人の場合はそのままぴったり自前の嘴を入れてるのか。
鳥人にとって当然のファッションが俺の目にはペストマスクに映ってしまうということなのかもしれない。錬金術師にしろペスト医師にしろ大昔の職業という知識しかないが、この世界だと妙に嵌まっている。
「それにしてもこの『ウデモドキ』、なんか見たことある動きのような」
伸縮自在のしなやかな腕。この挙動をする何かをつい最近見た気がする。
ラズリさんは当たり前の事実を確認するように肯定した。
「ええ。ネフシュタンもその蛇を使役しています。というより、蛇人たちはそのウデモドキと共生することで『指持つ民』と同じ文明圏で生きることができるようになったのです」
どうやら使役した生き物に腕の代わりをさせるというのは彼らにとっては当然の発想のようだ。盲導犬みたいなものだと考えれば理解の範疇ではある。槍神教の近くではそういうことをやっている人物は見たことがないから、竜神信教に特有の文化なのだろうか?
トリシューラには悪いが、もう少しで購入できそうな義肢は諦めてこのウデモドキを飼ってしまおう。せっかくの好意だし、ラズリさんが言っていたことも気になる。
「かわいそうに。その左腕、呪われていますね。傷つけた者しか癒やせず、代わりとなる腕を選ぶことさえできない『しるし』が付けられています。でも大丈夫。助けてくれるペットを飼うくらいなら平気ですよ。かわいいゴアちゃんのこともありますし、貴方はきっと使い魔を飼い慣らす才能があります。ええ、本当に、こちら向きですよ」
ラズリさんの好意はどこまでも柔らかく俺を包み込んでくれた。
彼女の言葉通りなら、俺は呪いとやらのせいで義肢を使うことができない。いずれにせよトリシューラから義肢を買っても意味はないのだ。それならここでラズリさんからペットを預かった方がずっといい。使い魔、という言葉も異世界に来た感じがあって悪くない。
鳥人は俺がウデモドキと心を交わしていく様子を興味深げに観察していたが、しばらくして納得したように頷きつつ声をかけてきた。
「なるほど、見事な白紙状態だ。ラズリ様は新しい画布に夢中、と。失礼、僕も新参者でね。新たな友人は心から歓迎するところだ。改めて自己紹介を。オースメキアのヤンブロスク。見ての通り偉大なる火の元魔の加護を授かりし白翼の血族だ。ラズリ様からこの彩域の次期管理者としての任を授かっている」
ヤンブロスクという鳥人の言っていることは半分も理解できなかったが、その名前には聞き覚え、というか見覚えがあった。街の中心にある石碑。この階層の上位実力者リスト。
キロンより強い十数名。槍神教側の九英雄ではない、竜神信教側の超人たち。
「確か、十番目に強いっていう」
「おや、知っていたのかい? だがそんな序列に大した意味はないよ。恥ずかしいことだが、僕はつい最近まで浅ましい野心に突き動かされてラズリ様と敵対していた。己の力に自惚れ、暴力によるこの彩域の支配を夢見ていたのだ。そんなものに価値はないのにね」
その時、恥じ入るヤンブロスクのすぐ後ろで、巨大な檻がガタガタと揺れた。
牙が鉄格子を纏めて噛み砕き、檻が崩壊する。解放された蜘蛛のような足の熊が咆哮しながら鳥人に襲いかかった。
鳥人が振り返ることはなかった。右腕がバラバラと擬態を解き、無数の泥が入り交じった粘性の液体となって広がり、瞬時に怪物を呑み込んだからだ。
「安心していいよ。僕の肉体に棲む軟泥たちは優秀だ。こういう性能試験を兼ねた食事にもちゃんと対応可能だ。僕自身の力なんてささやかなものに過ぎないが、誰かの力を借りればより大きな成果を出せるわけだね。世界は手を取り合う者たちを祝福する。竜神信教はその本当の意味を僕に教えてくれたのさ」
ペストマスクの奧、ガラスの奧の眼球がドロドロと赤く蠢いている。大きな翼の片方がじゅくりと朱色に変化して小さく鳴き、男が喋るたび喉の辺りが黒ずんで小さな触手を蠕動させている。この鳥人、全身の至るところを別の生物で代用しているようだ。
サイボーグの身としてはわりと親近感が湧く在り方だった。
よろしくとウデモドキに握手を促すと、俺の意を汲んだ賢い蛇が鳥人ヤンブロスクのスライム状の腕と握手する。ペット同士の触れ合いで友好を確かめ合った俺たちはその後もしばらく左腕の調整、あるいは調教を続けた。そうしていると、不意に新たな来客を知らせる鈴の音が鳴り、見知らぬ人物が現れた。
純白のワンピースに同色の大きな帽子、亜麻色の煌めくような髪。真っ白な素肌がところどころ硬質化しており、まるで宝石を埋め込まれているようだ。このタイプの種族はたまに街で見かける。肌の硬質化具合は控え目だが、岩肌人とかトロルとか呼ばれている種族だ。
見ていると夏のひまわり畑と青空が見えてきそうな少女は部屋に入ってくるなり鳥人に飛びついた。親密そうに頬を寄せる姿から、二人の関係性がなんとなく窺える。
「お疲れ様、マイハニー。首尾はどうだい?」
「ただいま、マイダーリン。上々よ、海の民どもに吠え面かかせてやったわ。それより聞いて。あいつらのボスったら、私を剣で貫いて自分のものにしてやるなんて言ったのよ! 最低だと思わない? 私、あなた以外のものになるなんて考えられない」
「でも、可愛いアルテミシアはこうして僕のそばにいる。ラズリ様の占った通りにね」
「そうね、私のヤン。ダーリンがくれたゴーレムや霊薬のおかげで楽勝だったわ。私ひとりだったらもっと苦戦して、もしかしたら負けていたかも。ああ、こんなに頼れる恋人と巡り合わせてくれたラズリ様に感謝しなくちゃ!」
仲睦まじく触れ合いながらラズリさんを褒め称える恋人たち。
その様子を頬に手を当てながらうっとりと眺めるラズリさんは締まりのない表情だが、そんな様子も相変わらず美しい。
少女はアルテミシア・ディスケイムといい、予想通りヤンブロスクの恋人だった。
聞けば、竜神信教に入信したことが切っ掛けで二人は出会ったのだという。
「お二人は最初のころ、それぞれ竜神信教とは反目する犯罪組織を率いていたんです。第五階層の支配を狙う『正統白星彩域』と『トラロス望郷団』。説得と布教が実を結ぶまではとても長い道のりでした。それでも、武力で全てを従える槍神教とは違うやり方があると思うから、私は諦めずにやってこれたんです」
ラズリさんは俺に小冊子を手渡しながらそう説明してくれた。
受け取って眺めると表紙には笑顔の男女が写実的なタッチで描かれており、『竜神信教に入信したら、素敵な恋人ができました!』『愛と抱擁が世界を救う』『新しいライフスタイル。新しい運命の出会い』などの文言が踊っていた。
「それにほら。宝物が好きな収集家のカラスと宝石のお姫様のカップルって、とってもお似合いだと思いませんか? 絵面が、というか顔が」
蕩けるような口調になって恋人たちを見つめるラズリさん。ヴェールの奧で瞳が爛々と輝いている。瞳の形は斜めになった十字架のようだ。
不思議と、室内が暑くなっていくような気がした。
相棒がゴアゴア鳴く声が遠い。視界隅に表示された『自己診断を推奨』という情動の異常値を示すアラートも気にならない。ラズリさんの喜びが俺の喜びだ。
「本当に、愛って素晴らしいですよねえ」
本当に? 義肢に噛み付く小さな牙がちくりとあるはずのない痛みを伝えてくる。
仲良く睦み合う男女を見ていたラズリさんは際限なく上機嫌になっていく。ついには笑顔のまま手を合わせてこんなことを言い出した。
「二人とも、ここでセックスをしてみて下さい」
空気が凍った。欲望をダダ漏れにさせたラズリさんは今日も素敵だが、それはちょっと一般常識で考えてダメなのでは? ダメではないが。ヤンブロスクとアルテミシアも困惑したように顔を見合わせ、それからお互いに初めて顔を合わせたように顔をしかめた。
なぜ目の前の相手とこんなに密着して見つめ合っているのかわからない。そんな感じで一気に情熱的な空気が冷めていく。ところが。
「セックスをしなさい」
彼女は柔らかい笑顔のまま命令を下した。
影のように暗い女のシルエットの中で、瞳に浮かぶ斜めの輝きだけが強い光を放っている。それを見た男女は自分たちが恋人同士であったことを再び思い出し、俺たちの存在にも構わず服を脱ぎ始めた。当然の光景をぼうっと眺めていると、小さな怪物が首筋に噛み付く。ゴアゴア鳴く声がようやく耳に届いた気がした。
「行きましょう、ラズリさん」
ここにいてはいけない。幾らなんでも最低限のマナーというものがある。
手を引かれて建物から連れ出されたラズリさんはきょとんとしていたが、やがて面白がるような表情で言った。
「あら、恥ずかしがり屋さんなんですね。まあいいです。貴方に伝えたい愛と絆はまだまだたくさんあるから」
施設を出た俺はそこからまたラズリさんの案内で寺院を巡ることになった。そこで各施設と共に紹介されたのは個性豊かな人々、というかカップルだった。
「頼れる仲間たちを紹介しましょう。貴方という『断章』に呪わ、こほん。所有者と巡り会えたことは幸運でした。これで遺跡の深層に挑む準備が整ったのです」
長い身体をくねらせる竜の画が天井に描かれた礼拝堂のような場所で紹介されたのは一組の男女。甲冑を纏った男がドレスの貴婦人に跪いている。変わっていたのは、男の髭が黄金で腰からは黒く長細い尻尾が生えていたことと、女性の頭部が緑のトカゲだったこと。
「おお、姫君よ! 『百の栄誉王』の高貴なる血を引きしこのキュールウィンの名にかけて、あなたに勝利を捧げると竜に誓おう。そして帰還した後は吾輩の七つの領地と貨物絨毯にも積みきれぬほどの金銀財宝を取り戻し、その全てを捧げてみせる」
良く見ると甲冑は継ぎ接ぎの安物で、背負った槍は枝に鋭い石を括り付けた粗末なものだ。みすぼらしい外見の中で、黄金に輝くちょび髭だけが悪目立ちしている。
見栄っ張りそうな口からは次から次へと自分がいかに高貴な血を引いているか、いかに本来は金持ちだが一時的に失っているだけであるかという解説が垂れ流されているが、正直に言って虚言癖のでまかせにしか聞こえなかった。
「名誉の文明圏から来た栄光騎士のキュールウィン・ダグ・リムド・ハイデルポール『七つの名誉と五つの偉業』ガド=カレクモラン様。彼が誇らしげに語る素性と名前は全て嘘ですが、勇ましい騎士としての戦いぶりは本物です」
話を聞くと、彼の故郷では名誉の多寡がその人の運命を左右するんだとか。黄金の髭は彼が成し遂げた名誉の証であり、尻尾は悪徳を行った証であるらしい。よく見ると尻尾が複数ある。上手く前髪で隠しているが額には焼き印。これ罪人とかでは?
「彼が愛を捧げる貴婦人が言語魔術師の亜竜人、ルルララーナ。岩肌人の王国に攻め滅ぼされた小国の姫君で、かつての華やかな生活が忘れられず今でも王女を名乗っています。幼馴染みの騎士は彼女を捨て、傅くのは偽りの騎士ばかり。はあ、いいですよね、この構図」
なるほど、ラズリさんもいい趣味をしている。見たところ、ルルララーナは自分を崇拝する騎士に言い寄られて満更でもないようだ。
次に案内されたのは武僧たちの修練場。
道場のような建物の裏手を覗くと、そこで二人の男がなにやら身を寄せ合っていた。
「ふっ、まさかラズリ様の護衛である俺と、聖妃派の暗殺者のお前、一度は殺し合った俺たちがこんなふうに馴れ合うことになるなんてな」
「抜かせ。それに勝負は今も続いてる。だろ?」
男たちの間に漂う雰囲気は殺気を漂わせた剣呑なものであり、同時に恋人に囁くような甘ったるいものでもあった。二人とも大層な美形、そして互いの顔が近い。
「頂上が長尾族の美武僧、ハギリ・ホウ。底部が獣牙族のギザ歯暗殺者、バイター・ベルシェロン。私の命を巡って戦う姿が良すぎて、思わずくっつけちゃいました」
『美武僧』とか『ギザ歯暗殺者』という形容は必要だったのか? ラズリさんが言うならまあ必須だったのかもしれないが。二人の世界に入って行く男たちの邪魔をすることなく立ち去ったラズリさんは次に学校の教室のような場所に向かった。この寺院では難民の子供を預かり、教育を行ったりもしているのだという。
なるほど、これこそ健全な宗教団体の慈善活動だと頷いていると、不健全な絵面が視界に飛び込んできた。幼い少女が眼鏡の成人女性に馬乗りになっている。
「だめよ。あなたは私の生徒なんだから。紀竜様がみてるわ」
「どうして? わたしが、なんにもわからないこどもだっておもってる? せんせいのこと、だいすきなだけじゃだめ?」
思わず一歩下がり、横でにこにこしているラズリさんを凝視してしまう。
いや、これはちょっと、あらゆる意味でやばくないですか?
「ウーフィは子供に見えますが種族的に背丈が小さいだけの矮人で、成人女性ですので問題はありません。相手がロリコンなのでそれに合わせた必要な嘘、というわけですね。第三世界槍の『空中地底』出身の優秀な斥候ですから、私たちの頼れる目となってくれるでしょう」
なんだ、そういうプレイか。成人しているなら法にも倫理にも触れないだろう。
邪魔をしないようにそっとその場を離れる。
最初に出会った鳥人と岩肌人を含め、彼ら彼女らは遺跡に挑むための探索隊メンバーとのこと。俺もその中に含まれているとは光栄な話だ。ラズリさんのためなら何だってするつもりだが、それはそれとして疑問は尽きない。
「そういえば、遺跡には何の目的で向かっているんですか?」
「貴方には仲間と共に遺跡の奧にある秘宝を取ってきてもらいたいのです。途中、同じ秘宝を狙う槍神教の妨害があるかもしれません。ですがその場合はむしろ好都合。今度こそあのキロンを打倒し、お姉様の仇を討つ時です」
「秘宝というのは?」
「それは『鈴の王』と名付けられています。あるいは『空洞を鳴らすゆらぎ』『殻に守られた種子』、そう呼ばれるディスケイム家の最高傑作」
答えてくれたのはいいが、意味がよくわからない。ディスケイムというのは先ほど出会ったアルテミシアの家名のようだが。
「最初はアルテミシア様から穏便に譲ってもらおうとしていたのですが、『仲良し』になるために私が彼女に意識を集中している隙をキロンに突かれ、紛失してしまったのです。結果、秘宝は遺跡の大穴に落下し、最深部を徘徊する守護者に掴まってしまいました」
とにかく第五階層の命運を握る大事なものなので、槍神教の手に渡る前に取り戻す必要があると力説された。そういうことなら協力しないわけにはいかない。
先ほど紹介された頼れる仲間たちと共に遺跡に挑み、見事秘宝を手に入れてみせよう。
それにしても、仲間たちはみなそれぞれ絆や愛を尊ぶ素晴らしい人物ばかりだった。それ以外のことを全て忘れているかのようでさえある。
「これもラズリさんの人柄の賜物なんでしょうか」
「ふふ、おだてたって何も出ませんよ」
そうして俺たちは朗らかに笑い合った。
しかし不意にラズリさんの表情が翳る。何か気になることがあるのだろうか。
問いかけると、彼女は目を伏せて重苦しい溜息を吐いた。
「誰もが貴方のようにちょろ可愛ければいいのですが。愛を否定し、誰かとの繋がりを頑なに拒絶する恥ずかしがり屋さんもいるのです。きっと友達も恋人もいない寂しい青春時代を送るあまり意固地になってしまった童貞さんなんでしょうね」
心底から悲しそうに語るラズリさんを見ていると、俺まで悲しくなってくる。
いったいどこのどいつがこの美しい女性の心を曇らせているのだろう。
彼女に案内された中庭でそれは明らかになった。
木の柱に磔にされたトカゲ頭の男が目に殺意を燃やしながらこちらを睨み付ける。
「俺の天眼を舐めるなよ。貴様の魅了ごときにかかるほどシャルマキヒュの加護はやわではない。いずれ必ずヤンブロスク様を助け出し、我が百刃錬金の錆にしてくれる」
寛容で平和的なラズリさんにこれだけの悪意を向けられるのはもはや一種の才能だ。
竜神信教が安全な宗教だから良かったようなものの、槍神教だったら既に殺されているのではないだろうか。
ラズリさんは哀れなものを見るように虜囚を見下ろし、指先を額に突きつけて言った。
「そんなに刃が好きなら、貴方のつがいはそれにしましょう」
それは普段と変わらない口調だった。
愛を語るように。話し合いをするように。絆を見守るように。
ラズリ・ナアマリリスはとても優しく人を殺す。
「人と人。モノとモノ。そして人とモノ。世界は関係性に満ちている。たとえばそう、磁力とか」
ふわふわとした言葉に誘われるように、寺院の奧から中庭に向かって何かが飛来してくる。それは刃。命を断つ殺人のための道具だ。
見えない力に引き寄せられるように、白刃が宙を裂いて虜囚の腹部に突き刺さる。
無造作に与えられた致命傷。男は目を見開いて刃を凝視する。
「お、おお、そうか。俺が本当に欲しかったのは力でも忠義でもない。この刃。ずっと傍にいてくれた、どこまでも美しいこの輝き」
ラズリさんが手の拘束を解くと、男は当たり前のように自分を殺す刃を握り、更に抉り込むように体内に押し込んでいった。
剣を腹に突き立てて自刃した男が口から泡の混じった血を吐き出す。
「好きだ。愛してる。綺麗だよ、俺の愛刃たち」
そこら中にあった金属がかたかたと揺れている。俺は自分の肉体が引っ張られる感覚に危機感を覚え、咄嗟に近くの柱に掴まった。
男が強力な磁石にでもなったかのようだった。寺院のどこにこれだけの刃があったというのだろう。無数の刀剣が次々と男に引き寄せられ、勢いのままその肉体に次々と突き刺さっていく。雨霰と降り注ぐ斬撃と刺突。愛を感じながら死の波濤を受け止めて、男は恍惚の中でズタズタの肉塊へと変わっていった。
「ああ、良かった。これで愛を理解できましたね」
にっこり笑うラズリさんの姿は、どこまでも美しい。
キロンが物語に登場する英雄なら、彼女は物語に登場する魔法使いだ。
竜神信教は槍神教のような野蛮な宗教とは違う。
槍神教を英雄が振るう無双の槍にたとえるなら、竜神信教は大いなる愛で包み込む慈母の抱擁。つながりと協調を重んじる平和の使徒。
辛抱強い説得にも理解を示さないのであれば仕方ない。
その身に直接『真実の愛』を教え込むこともやむを得ない。
「そこまでにしろ! 堕落と退廃は今日で終わりだ、大悪魔ナアマリリス!」
鋭い声と共に頭上に現れたのは翼持つ大蛇に騎乗した複数の人影だ。
トカゲ頭の、たしか亜竜人とかいう種族が棍で武装して襲撃を仕掛けて来たのだ。
だがラズリさんは慌てず騒がず、普段通りに頭上に声をかける。
「星占いで襲撃があることはわかっていたんですよ。私は星々の関係性を知り尽くしているのです。天体と天体が引き合うように、愛は人を惹き付け合う」
「調停派竜導師ボズロウの名にかけて、これ以上の専横は許さぬ! 竜導師長の妹だからとてもう容赦はせんぞ! 既に報告は本山にも上げている。裁きは免れないと知れ!」
「運命が出会いを生み、つながり、引き寄せ合う。その強い力は、星の重力に似ている」
会話になっていない。互いが互いの言葉を意図的に無視しているように見えた。
ラズリさんの影から迫り上がるようにして長い錫杖が現れる。巨大な円盤型装置が据え付けられた錫杖を握ると、ラズリさんはタロットカードのような札を次々と円盤のスリットに差し込んでいく。
「座相測定・オーブ調整・三分・百二十度。昇る先は調停竜の宮、午前の君臨者は土塊天、その運命は寒にして乾。失墜から昂揚へ。顔、玉座、喜び、損害、あまねくかたちは我が掌中に。竜の鱗たる天体よ、天地星辰との照応を示せ」
ラズリさんが呪文のような言葉を唱えながら錫杖を振るう。
直後、上空から急降下しようとしていた襲撃者たちに降りかかったのはまさしく天文学的な確率で発生した不運。すなわち隕石の激突であった。
降り注ぐ超高速の質量が直撃し、巨大な有翼蛇たちが即死、騎乗者たちが墜死。
かろうじて息があったリーダー格の男の目の前で、かん、と錫杖が大地を突いた。
直後、周囲の小石や芝生、頭上の羽虫や鳥も含めた全てが直下へと落ちる。
局地的な超重力地帯の発生により、男は真下にめり込むように死んでいった。
美しい死に方だと感じた。まるで大地に抱擁されたかのような結末だ。
「残念です。私は、ただみんなに仲良くしてほしいだけなのに」
愛が全ての人を救えるわけではない。
理想と現実との乖離に悲しむ女性のことを、俺は愛おしく感じた。
思考がどう判断しようが『サイバーカラテ道場』や『E-E』がどう判断しようがゴアがどれだけガジガジ噛み付こうが、俺はとにかく愛おしいと思ったのだ。
ラズリさんが好きだ。力になりたい。
「きっと、誰もがラズリさんの理想をわかってくれる日が来ますよ」
胸を締め付けるこの感情の正体を、俺はもう知っている。
「俺はラズリさんのこと、素敵な人だって思ってますから」
正直な愛の告白に頬を染め、恥じらうように目を伏せるラズリさん。
やがて俺たちは手を取り合い、死体の横で身を寄せ合った。
「ゴア! ゴ、ギャ、ギュー!」
そんな光景に異を唱えるように、相棒が必死に何かを訴えている。
ああ、本当に心からそう思うよ。
ラズリさん、本当に素敵だ。




