2-15.冬を好きになれる日が来たら1/愛欲の淫魔
生まれた瞬間から望まれた転生者だった俺は、実を言えば普通の転生がどういうものなのか知らなかった。異世界転生という言葉に惹かれたのは、だからなのかもしれない。
『きっときみは、あの子の生まれかわりなんだね』
親は子供を愛するものだ。
たとえ失われたとしても、その情は途切れない。
愛は不滅だ。愛は愛を与えようとする者こそを救う。
『雪。私たちの可愛いセツ』
幼くして命を落とした『ユキ』のぶんまで愛するために同じ字を選び、しかし別の人格として尊重するために違う読みでセツと名付けた。それは多分、壊れた家族が救われるために必要な物語で、欠落を埋めるために不可欠な虚構だった。親は子を愛し、子はそんな親を愛した。それは与え与えられる理想的な家庭の姿。
初等教育時の作文に、好きな季節は冬だと書いた。両親の愛と自分の出生を絡めて感動的になるように与えられたものに応えたいとかなんとか美辞麗句を並べ立てた。普段から好きな季節は冬だと公言していたし、雪が降れば年相応に大はしゃぎして見せた。
両親はそんな子供の姿を見て安心していたように思う。
毎年、冬が来るたびに考えてしまう。
交通を妨げる悪天候は人並みに邪魔だと思う。寒さはあらゆる人類にとっての天敵だ。
冬は好きだ。雪も好ましい。ハンドルネームでさえそこからの連想だ。
俺にとって好きと嫌いは自在に制御できる手足の向きに等しい。
痛みや不快を取り除くように、ごく自然に好きだと言える。
でも、だとしたら。
いつになったら俺は、この好悪を制御しなくて良くなるんだろう。
愛は救いだ。与えられたものを、自分という欠落を埋める温もりを、蔑ろにすることはできない。人はひとりでは生きていけない。最初から欠けていた俺には愛が必要だった。
転生者として愛を与えられた俺は、幸福を享受しながらずっと疑問に思っていた。転生とは、どんなものだろう。その答えが、いまこの瞬間なのか? わからない。
ひとつだけ、確かなことがある。
辿り着いたこの異世界に冬が訪れた時。どこにもいない、誰でもない存在として生きているこの俺が感じた気持ちはきっとありのままの本物だ。
その時になればわかるだろう。俺が、冬のことをどう感じているのか。
雪が好きだ。当たり前のように、そう言えたらいいと思う。
肌を刺すような冷え込み。今日は一段と寒々しい。
まだまだ秋だと思っていたが、このぶんだと冬まで一直線だろう。
本格的に寒さが厳しくなってくる前に防寒具を買っておくとしよう。
幸い、先日に多少の収入があった。
「お疲れ様! 牛人の闇組織『焙供会』の幹部マカラの首にかけてた懸賞金を振り込んでおくね! 牛神像の破壊活動阻止にも報奨金が出たよ! お金とお薬、充電用バッテリーにおまけで簡易呪符! あと元カノの治療費はサービスだよ!」
いつになくハイテンションで呪術医トリシューラは俺に結構な額の金を渡してくれた。あとイオは元カノじゃない。わかって言ってるだろこいつ。
「融血の秘密に少しは近付けたよね? それじゃあクエスト更新。お次はこれ、『融血をばらまく大魔将ネフシュタンの討伐』『竜神信教に潜入せよ』だよ!」
トリシューラ曰く、ネフシュタンという男は『上』でも名の知られた危険人物らしい。
永久凍結刑から抜けだした凶悪犯。トリカ地下監獄の爆破脱獄事件の首謀者。収容されていた約五万人の凶悪犯罪者たちが一斉に脱獄する寸前と思われた世紀の大事件における唯一の脱獄者。その理由は、看守もろとも収監者たちが皆殺しにされたから。
たった一人の男の手で、刑務所に存在した全ての命が殺戮し尽くされたのだ。
「前職は竜導師。世界二大宗教のひとつ、竜神信教の神官だね。当時はファラクって名乗ってたんだけど、ある日『真実の教え』に目覚めて『新世界に不要な信者たちの有効活用』と称した虐殺を実行。めでたくお尋ね者というわけ。竜神信教は彼に懸賞金をかけてるよ」
トリシューラの言葉を思い出しながら歩いていると、街角に掲示板が立てられていることに気付いた。自力救済が基本のこの街ではお尋ね者とは誰かの仇だ。そんな中で複数人からの依頼によって懸賞金額が跳ね上がっている奴がいた。
掲示板の中心で誰より目立つ仇の中の仇、ミスター・パブリックエネミー。
人呼んで『蛇絡拳』のファラク=ネフシュタン。
第五階層における強さの序列は第六位。しかし配下を引き連れず、その身ひとつで戦う個人としての評価でこの位置は破格だ。知人のブルドッグレスラー・プーハニアによると、第五階層で最強の武術家はネフシュタンであると噂されているらしい。
「身を隠すのが上手いのか、何らかの組織から支援を受けているのか。その足取りは杳として知れない。そこでいったん原点に戻り、古巣を調べてもらおうと思います」
そんなわけで、トリシューラが示した今後の方針は『竜神信教を探る』というものだった。そんな組織の汚点みたいな凶悪犯を匿うことなんてあるだろうか? とも考えたが、槍神教がギデオンを汚れ仕事役として使い捨てたように、竜神信教が似たような真似をしている可能性は十分にあった。
もしそうなら、人間の心身を歪める危険な麻薬、融血をばらまいている黒幕は竜神信教ということになる。俺の行く先にはなぜか必ず宗教の影がちらつく。この異世界がそれだけ神とその加護を独占する宗教組織に支配されているということでもあるが、そろそろうんざりしてきたところだ。敵の正体に近付いているようで次々に謎が浮上してくる。
「もう気付いているだろうし、不審に思っているだろうから説明しとくね。私はかつて槍神教の研究機関であの融血の研究に携わっていた。キロンが薬として使っていたのは私の研究成果だね。当然の話だけど、麻薬は本来なら医療機関や研究機関でのみ厳正に管理されていなくてはならない。より危険な麻薬の蔓延に対抗するために政府が弱い麻薬を普及させることもあるけど、融血の危険性は最悪も最悪。関係者として、第五階層を蝕む融血をなんとしてでも根絶したい。これは呪術医としての正式な依頼。どうかネフシュタンを止めて」
などと頼み込むトリシューラはいつになく真剣そうだったが、それをどこまで信用していいものかは疑問だ。確かに呪術医としての動機や背景についてはなんとなくわかった気がするし、それなりに納得出来るような気もする。
どうも彼女は第五階層の将来を本気で案じているふしがあった。端末の画面をスライドさせていくと、メインクエストとして提示されたもの以外の依頼が表示される。サブクエストと書かれた一覧表には、治安を守るためのもの、難民たちを支援するためのもの、公共設備を建設するためのもの、薬の材料採取など様々な内容が記されている。
医者として人々を助けることもかなり本気でやっているようだし、お気楽そうな態度と内心の窺い知れない振る舞いとは裏腹に行動が全体的に真面目なのだ。
なんというか、ちぐはぐな感じがする少女だ。メチャクチャで突飛な行動が似合いそうなのにそうでもない。笑顔の裏にどす黒い陰謀を隠し持っていそうなのに、わりとあっけらかんと「金儲けと権力が目的だよ。ゆくゆくはこの場所に不可欠な存在になりたいな」などと俗っぽい野心を語ったりもする。
そして、呪術医院という施設、その場所を中心とした勢力は実際に第五階層における重要な位置を占めつつあるようだ。
この街は槍神教と竜神信教、二大宗教勢力とそのどちらかに与する犯罪組織たちが牛耳っている。睨み合う両陣営の縄張り争いから逃れてきた居場所のない弱者たちが身を寄せるセーフティネット。トリシューラは呪術医院をそういう位置付けにするべく立ち回っているようだった。
「あれ? 善人なのか?」
「ギュゴ?」
思わず首を傾げる俺と、不思議そうに真似をする小さな相棒。
いやいやまさか。こういうのはアレだ。俺が最大の敵である天使を倒した後で「ご苦労だったね。中々使える駒だったよ」とか言って後ろから撃ってくる黒幕というのが定番だ。公開情報っぽい融血の研究者という過去が真実なのもいかにも怪しい。『器が暴走した』とかいうのもマッドサイエンティストの危険な実験のせいとかそういうオチだろどうせ。映画とかのフィクションなら最後にどんでん返しがあるものだからな。俺は詳しいんだ。
裏切られる覚悟はしておくとして、今は俺の支援をしてくれる頼もしい存在には違いない。あっちが俺を利用するなら、こっちもトリシューラを存分に利用するだけだ。
とりあえず当面の敵はネフシュタン、調査対象は竜神信教。方針は決まり。
問題は、どうやって竜を崇めているとかいう宗教組織と接触するかだが。
「ゴギョエェ」
肩の上で小さな動物がもぞもぞと動く。
俺の美的評価は『無』、識別映像としてはキモカワ風にデフォルメされたゾンビクリーチャー。小さな怪物が腐臭を立ち上らせながら伸びをする。
慣れはしたが、悪臭が酷い。香水でも買ってやるべきだろう。
「で、どこにいそうだ?」
「ギュゴァァ」
ゴアは骨で舗装された屍の道を睨み付けた。街を中央に聳え立つ強さの指標、宣名碑。石碑が聳え立つ大きな中洲から外側に広がる森へと放射状に伸びていく異様な道。
その数は六つ。道の果て、森の奥。街を取り囲むようにその遺跡群は存在した。
危険なダンジョンである第五階層がここまで街として栄えているのは、この六つの遺跡を探るためにやってきた探索者たちと彼らを相手にする商売人たちが集まってきたからだ。
二大宗教組織もまた、それらの遺跡から発掘される副葬品や古代の遺物を手に入れようと躍起になっている。夥しい数の罠や財宝を守護する古代の怪物が待ち受けるダンジョン探索は危険と隣り合わせ。そこでは何が起きても不思議ではない。
接触の理由を作り、手っ取り早く懐に入り込むならこれを利用すればいい。
思えば半年前、俺が修道騎士たちと共闘するようになったのも同じ流れだった。
「名付けて、『ピンチに駆けつけて恩を売る作戦』だ」
「ギョゴガンガ」
相棒に冷たい目で見られているような気がするが俺は平気だ。
頼れる相棒は鼻がいい。いや、実際に嗅覚が優れているのかは知らないが、なにかを探り当てる勘のようなものを持っているのは確かだ。
荒事の気配を事前に察知したり、俺の首を狙う牛人の居場所を正確に知らせてくれたりと精度に関してもかなり信用できる。その動物的な直感を利用して竜神信教の連中がいる場所も探せないかと駄目元で頼み込んでみたのだが、相棒は快く快諾してくれた。
「ゴゴー!」
やはり、こいつは俺の意思をかなり正確に理解している。
呪われ者。天使によって怪物に変えられてしまった誰か。
今となってはこいつを元の姿に戻してやることも目的のひとつになっていた。
少なくない時間を共に過ごした。何度も危機を救われた。こいつを仲間と言うことに何のためらいもない。
「あっちの方だな。今日もよろしく頼むぞ、相棒」
「ゴアッ」
ゴアはいつになくはしゃいでいる。遺跡を探検するのがそんなに楽しみなのだろうか?
「張り切るのはいいが、牛人がいるところは避けるからな」
「ギュギュウ」
任せておけとばかりに胸を張る小さな怪物。
俺たちが向かう遺跡は六つの遺跡の中でも最大の規模を誇る『竜の遺跡』だ。
他には機械的な仕掛けに満ちた『尖塔の遺跡』、至るところに水晶が埋め込まれた『水晶の遺跡』、ありとあらゆる種類の十字架型の時計が飾られている『時計の遺跡』、丸みを帯びた『球形の遺跡』、どこまで地下が続いているのかもわからない『深みの遺跡』などがあり、それぞれ探索者たちで賑わっている。
てくてく歩いて遺跡に到着。神殿のような威容を示す柱をくぐって正門前に立つ。
入り口の前はちょっとした庭園のようになっていて、探索者たちがひとまとまりになって待ち合わせをしたり打ち合わせをしたりとそこそこ騒がしい。至るところに竜の石像が飾られており、それが待ち合わせの目印になっているのはちょっとした観光スポットのようだ。
「よっし。作戦開始だ」
「ギュッギュッキューウ」
遺跡の前を行き交う人を注意深く観察する。
幸運なことに、目当ての集団はすぐに見つかった。トリシューラに聞いていた通りの珍しい人員構成。危険だらけの探索や怪物との戦闘を担当する者以外、明らかに非力そうな者が多く随行している『あからさまに堅気っぽい集団』がいる。
とどめにぱっと見でわかりやすい『竜の紋章』が肩章に描かれている。間違いない。
遺跡に挑んでいるのは力自慢の連中ばかりではない。
考古学者らしきインドア派な非戦闘員たちも数多く遺跡の情報を欲しており、二つの世界宗教はそういった者たちの調査活動を積極的に支援しているという。
こいつらにいい感じに助力して好感度を稼ぎ、懐に入り込んで調査、あとは流れで奴らが匿っているネフシュタンを見つけて殴り倒す。うむ、完璧な作戦だ。
先頭に立つ戦闘要員が頼りないのも追い風だった。あれでは護衛される学者たちも不安だろう。俺が付け入る隙は十分にある。
アンバランスだな、というのがその男に対する第一印象だった。
一目ではっきりとわかるほどの巨漢だが、観察してみるとむしろ印象は『思ったほど大柄ではない』というものに変わる。恐らくは撫で肩と猫背、気弱そうな表情や挙動不審な挙動が実際以上にサイズを小さく感じさせているのだ。
刈り上げられた頭とごつごつとした肉体は闘技者としての厚みを感じさせるが、野暮ったい瓶底眼鏡、垂れ目、下がり眉、さらに気弱そうな表情が全てを台無しにしていた。びくびくした態度が実戦慣れしていないことを如実に物語っている。危険な遺跡なのだから警戒するのは正しいが、緊張も度が過ぎると問題だ。
あの様子なら自然に加勢に入れる。幸運は重なるものだ。
一定の距離を保ちながら追っていくと、さっそく絶好の機会がやってくる。
先頭を歩く護衛がトラバサミの罠に引っかかった挙げ句、動く石像に襲われて負傷してしまったのだ。更に通路の向こう側から集まってくるおどろおどろしいゾンビっぽいヒト型の怪物たち。非戦闘員たちが悲鳴を上げる。
「牽制は任せるぞ、ゴア」
相棒は既にトリシューラからもらった『呪符』なる不思議アイテムを咥えている。
使い方は簡単に教えてもらったが、どうもゴアの方が使い慣れているようだ。
ならこっちは任せてしまおう。俺が走り出すと同時、肩で怪物が咆哮する。
発光と衝撃。小さな怪獣が口から熱線を放った。
「ギョギッ! ゴァァッ!」
熱線を放つ術と言うと強そうだが、実のところそこまで大した威力はない。
トリシューラは『その炸撃の術は古の天廊戦争で火の元魔メクセトが量産に成功した『天使殺し』だよ。きっとあなたの力になってくれる。できるだけ沢山使ってね』などと言っていたが、使い続けていると威力が目に見えて減衰していく。詐欺じゃねーか。
こんなクソザコ威力であの天使が殺せるものか、と悪態を吐こうとして気付く。
『弾道予報』の指示に従った回避行動。頭の横を掠めていく熱線。感じる熱は弱い。敵の動く石像が口から発射してくる熱線の威力が、放たれるごとに弱まっている。
それもこちらが撃てば撃つほどに威力の減衰が加速していく。
何だ? 大気中の何かしらのエネルギーが枯渇しているとか?
同じ理屈が天使との戦いで通じるのであれば、確かにこの『炸撃』とやらは天使に対する有効な防御手段となり得る。相手の攻撃力を奪う目的で撃ちまくればいいのだ。
「よし、撃ちまくれ!!」
「ギョゲー!」
こちらの猛攻で敵集団の一部が態勢を崩す。
俺もまた疾走して動く石像を殴りつけつつホルダーから呪符の束を取り出して絵柄を確認。色分けと上部分に描かれたシンボルマークで効果を識別。表示された字幕には簡素な『術の名前』が記されている。久々に『断章』が解説してくれる。
「赤い太陽が『炸撃』、青い水滴が『安らぎ』、灰の竜巻が『空圧』、黒い山が『報復』、そして白い槍が『貫通』あるいは黄金の鈴が『抱擁』。最後の二つは信仰を反映させる呪符で、同系統の亜種です。槍神教徒なら『槍』。竜神信教徒なら『鈴』。どちらでもないあなたは、両方使えません」
がっかりだ。他の四種類を使うしかない。
指先で挟んだ呪符にアストラル界から干渉、『心で働きかける』という微妙にコツのいる発動手順を踏んでから面倒そうな大物に狙いをつける。
おそらく遺跡の防衛装置なのだろう、大型の竜人像が肩を前に突きだして突進してくる。石像の破壊は容易ではない。ならば無力化するまでと『空圧』で足を狙おうとしたその時、敵の姿勢が『がくん』と崩れた。
加勢した竜神信教徒の集団。その後方で、一人の女が鈴の呪符を指で挟んでいる。
『抱擁』が出現させるのは金色に発光する環だ。
捕縛の光は自在に形を変えロープや鎖になって敵集団の動きを妨げる。更にはトラバサミのような罠、手錠、果ては輝く腕にまで変形していく。
鈴のイメージから捕縛というのが最初はいまいちピンとこなかったが、要するに『獣に首輪と鈴をつける』というイメージなのだろう。
まず相手を転倒させ、壁や床に埋め込む形で環を展開。あっさりと拘束。
見事な後方支援に思わず感心する。直接的なダメージを与えているわけではないが、的確な足止めによって俺たちは格段に戦いやすくなっている。
助勢してくれた女の顔はヴェールに隠されてよくわからない。黒紫の衣服に金の拘束具じみた首輪と腕輪。記憶に何かがひっかかる。前に見たことがあるような。
「ゴア!」
相棒の咆哮が雑念を吹き飛ばした、今は戦いに集中しよう。
それにしてもゴアの活躍はさっきから目覚ましい。ギュイギュイだかゴアゴアだか鳴きながらあっちに飛んだりこっちから滑空したりと縦横無尽に動きまわって敵を撹乱していく。敵のゾンビは反応しきれずに鋭い翼によって切り裂かれていった。
意外な事にこの小怪物は飛べるのである。というか、ついこのあいだ牛神像を撃退した日の晩、急に元気になっていきなり翼を生やしたのである。正直びっくりした。
といっても鳥のような長時間の飛翔は無理だ。跳躍からの滑空や一時的な滞空時間延長が精々で、背中から生やした羽はコウモリのそれに似ている。特徴的なのは羽が刃のように鋭く武器にもできること。助走などで十分な加速をつければ中々のスピードが出るため、すれ違いざまに敵を切り裂くなんて芸当もやってのける。
スピードに優れた相棒が撹乱し、続けて俺が義肢による重い打撃をぶつけてやれば大抵の相手には有効打を与えられる。魔法や怪物なんでもござれの異世界での驚異的な戦闘にも慣れてきた頃合いだった。俺たちのコンビは今のところ悪くない安定感を見せている。
そんなわけでさっくり敵集団を沈黙させた俺たちは、呆然としている探索者たちに向き直った。何だろう。反応が薄い。別に感激しながら手を握って欲しかったわけではないが、ちょっと思っていたのと違う。
どうも負傷した護衛役の治療で俺たちの対応どころではないようだ。
見れば、面目を失ったらしい護衛の背後から眼鏡をかけた学者風の女性が近寄って何かを囁いているのが見えた。言い方は悪いが体格差や容姿のギャップが『美女と野獣』という言葉を連想させる。親密な距離感と甘やかな雰囲気から、関係性はだいたい察しがつく。
わざわざ頼りない護衛を採用しているのは身内の推薦とか急場の人材不足とか色々な事情がありそうだが、その事を利用しておいて下衆の勘繰りまでする気にはなれない。
実力は示した。護衛は負傷している。恩の押し売りをする好機だ。
だが、俺が話しかけるより先に向こう側から動きがあった。
軽やかでいてどこか蠱惑的な女の声。ぞくりと背筋を撫でる寒気。
途端に湧き上がる忌避感。理由のない反発。
「またお目にかかれましたね。さだめの星がこの日の再会を導いたのでしょう」
この女が集団のリーダー格だ。話しかけられた瞬間にわかった。
黒紫のローブ、首と腕を金の輪で飾った妖艶な雰囲気。肌の露出などほぼ皆無に等しいというのに、ぞくりとするほど官能的な立ち居振る舞い。
薄いヴェールの向こうで整った顔が微笑む。
長い前髪に隠れた片目が妖しく揺らめいたように感じられた。
「たしか少し前に会ったな。占い師だったか?」
「ふふ、出生や未来を占うような世俗の辻占いは本業ではないのですけどね。星読みは本来、天体と自然現象、星辰配置とまつりごとの行く末の関係性を究明するもの。すなわち、この世界をより良い道へと導くのが私の使命」
なにやら怪しげなことを言いながら、占い師は無造作に間合いを詰めて素早く俺の右手をとった。鮮やかな手並みだ。ただ者じゃない。そして距離が近い。
潤んだ瞳でこちらを見つめ、そっと手を胸元に運んでいく。
「竜神信教の代表竜導師、第二家調停派師範のラズリ・ナアマリリスと申します。助けて頂いてありがとうございます。これはその気持ちです」
その動作に淀みは無く、一切の流れは息を吸うような自然さで行われた。
だから女の片手が俺の右手を押さえた時も、もう片方の手がヴェールを少しだけ持ち上げたときも、呼吸と瞬きの間隙を狙い撃つように間合いを詰められた時も、俺は反応できなかった。真正面に女の顔が迫る。
「ギュッ!? ゴァァ!??」
唇を重ねられた、などという生やさしいものではなかった。
口唇と歯を剛力でこじ開けられて、口腔内をメチャクチャに舐め回される。縦横無尽に俺の内部を蹂躙しようとするそれは生命力旺盛な軟体動物だ。俺が知る舌はこのような振る舞いができる器官ではない。これは触手かなにかに違いない。
ねぶる。吸う。触れる。感覚を際限なく鋭敏化させるような暴力的愛撫。
自分とは違う異物であるはずの他者が肉体と融け合っていくような錯覚。
思考が蕩け、精神の輪郭がどろりと崩れる。
どこからどこまでが俺で、どこからどこまでが彼女なのか。
いや彼女などという対象はいない。これは俺だ。俺が俺の中へと融けていく。
酩酊すらもたらす甘い官能の熱に浮かされていた意識を、不意打ちの打撃が覚醒させる。
「ゴアゴアー! ガブギュギャー!」
怒りに満ちた噛み付き。激痛が首筋に走り、しかしそのお陰で我に帰った。俺は目の前の女を押し退けて身を離す。かなり強く突き飛ばされたはずなのに、女は平然と体勢を立て直してぺろりと唇を舐めた。悪戯っぽく輝く瞳は変わらぬ熱を宿している。
「あら、焼き餅でしょうか。かわいいですね」
「ゴ、ゴギョギョガガギョアー!!」
助けてくれたのはありがたいが、激怒のあまり咆哮が凄いことになっている。
不気味な外見の怪物がぶつけてくる激しい衝動を、しかしラズリと名乗った女は真正面から受け止めてみせた。流石は竜を祀っている宗教の神官といったところだろうか。その佇まいにはある種の威厳さえ感じられる。
両者の対照的な睨み合いはやがて終わりを告げた。
ラズリが笑顔のまま指先で小さな怪物をつつき回し始めたからだ。
悲鳴を上げて俺の服の中に逃げ込む小動物。怯え方が尋常では無い。何か記憶にひっかかるものがあるが、このラズリという女に見つめられていると何故か思考がぼんやりとして違和感の正体が掴めない。冷静になれ、湧き上がる情欲を鎮めろ。
さっきから思考が混乱しっぱなしだ。今の俺はこのラズリという女に対する理由のない忌避感と理由のない性的欲望の相反で落ち着きを失っていた。
間違いない。俺はこの女、いやラズリ、じゃない。
目の前の素晴らしく魅力的な女性、ラズリさんに恋をしている。
危険な精神状態だ。過去最大の窮地と言っていい。
こんな感情、催眠暗示か洗脳かのどちらかでしかありえない。
「俺の大事な相棒なんです。いじめるのはやめて貰えませんか」
「ギギュウゥ~」
弱々しい鳴き声を出しながらシャツの襟元から顔を覗かせるゴア。
怯えながらも抗戦の意思は残しているようで、挑戦的にラズリを睨み付けていた。
その喧嘩を真っ向から買うように、ラズリは蕩けるような笑みを浮かべて言った。
「ごめんなさい。けど、少し焦ってしまう私の気持ちもわかって欲しいんです」
「何の話だ?」
予感がある。するべきではない質問だという確信に近い予感が。
それでも俺の情動はそれを期待していた。本能の赴くままに茶番を演じ、誘われるままに手を引かれて迷い込む。どこまでも夜闇の奧へ。
「譲れない、ということです。星が互いの運命の人を告げています。それは目の前にいる相手。心臓の音、聞こえました? 私、こんなにもあなたに恋しています」
頬を染め、恥じらいながらも真っ直ぐな気持ちを伝えてくる女の言葉。
俺はその気持ちに飛び上がるような喜びを覚え、
「ゴアゴギャー! ゴゴギャグ、ゴゴグ!」
何としてでもこの女の魅了から逃れなければ、必ず取り返しのつかないことになるという予感に戦慄していた。全ての理性的判断が告げている。この女はやばい。
それにしても、ラズリ・ナアマリリスさんか。
思わず溜息を吐く。なんてことだろう、名前まで素敵だ。
「ゴア!!」