2-14.「そんな都合のいい男、いるわけねえだろ」
走る。降り注ぐ光の雨の着弾地点は空間を埋め尽くす予測線によって把握済み。
牛神が口から吐き出す炎の範囲を見極めて外側へと移動、片腕に貼りつくようにして回っていく。うっとうしい虫を振り払うべく横に払われた腕が迫る。
待ち構えていた俺は一気に跳躍、靴裏が高熱で溶ける音を聴きながら腕に飛び乗ってその上を走り出す。振り回されようとした腕が衝撃と共に停止。
『弾道予報』が視界に表示していた予測線と着弾時刻は正確だった。
完璧なタイミングで動きが止まった腕の上、光の矢を避けながら疾走する。
神が歌う。生贄たちが響かせる断末魔の聖歌。
聴く者の精神を蝕む不和と発狂の呪い。
誰もが認める英雄さえ一定距離を置いての射撃でしか対抗できない最悪の攻撃だ。
だが俺の足はそんなものでは止まらない。
「『断章』なら置いてきた。俺にその歌は効かない」
既に確信している。トリシューラは合理的に俺を利用しているはずだ。
それには必然的な理由がある。
断言しよう。俺はこいつの天敵であると。
存在しない左腕の中でどくんと血が脈打った。
熱い。指先が引き寄せられる。皮膚が共鳴するかのような振動を感じる。
理由のない確信があった。左腕が目指すその場所に答えはある。
幻の拳を握る。『達人』の所作を想起する。大地に根付くかのような足腰の強さは、このような不安定な場所でこそ真価を問われる技術のはず。
妄想彼氏の軽やかで力強い蹴りを思い出す。どこにも立っていないはずの男。それでも彼は確かにいた。いまもなお、俺の中に存在している。
俺は死者の声を聞くことができる。
『サイバーカラテ道場』に記録された戦闘経験。
積み上げられ、俺の中にフィードバックされていく思い出。
だから行け、これまでの全ては強さに変えていけるのだから。
「発勁用意!」
『幻掌』が俺の身体感覚から遊離して飛翔する。
到達した肩の上から巨大な頭部、その側面から伸びている雄々しい角。
狙うのは牛人の『強さ』のシンボル。
ほとんど直感だ。それでも迷う理由はなかった。
いずれにせよ、俺はこのクソでかい焼却炉が気にくわない。
何でもかんでもぶち込みやがって。
だいたい火葬とゴミの焼却を一緒にしてんじゃねえ。
「分別つけろ、クソ牛野郎!」
不可視の衝撃が角をへし折る。
小さな罅が四方に走り、やがて巨大な亀裂となっていく。
断裂から溢れ出たのは青い血だ。
角から出血するというあり得ない光景。
際限なく溢れ出る流体は牛神の生命の源であったのか、巨体から威圧感が消えていく。
鈍っていく動きに消えていく炎。
響き続けていた体内の断末魔が途切れ、浮遊していた巨体が落下する。
ふと遠くの石碑を見た。
その最上位に輝く名前、最強を意味する文字列が歪み、揺れながら明滅を繰り返す。
目を疑う。こんなに簡単なことでいいのか?
あまりにもあっさりとした願いの成就。
だが現実に神に等しい威容は敗れ去り、石碑の序列は入れ替わろうとしていた。
そのとき、俺の頬に飛び散った青い血飛沫が触れる。
ほんの一滴。だがその瞬間、俺は確かに『視線』を感じた。
そんなものが存在するはずがない。だが俺には誰かの目から放射された不可思議な魔力が俺という存在を捕捉したという確信があった。
目の前の牛神。赤い宝石の瞳。
その更に向こう側に、何かがいる。
たったいま崩れ去った像など問題にならない。
牛神? 青銅で作られた偽りの偶像が神などであるものか。
青い血の彼方。本当の神がそこにいる。
途方も無く巨大な力、強さの極点。
それが、俺を認識した。
虚空を貫く角。捩れた衝撃。振動する言語。震災の如き世界の断絶。
大地を踏みしめる四つ脚、大海を泳ぐ尾びれ、天に届く声。
それは王だった。あらゆる獣を凌駕し、粉砕し、蹂躙する。
獣の王。あるいは、王として生まれた獣。
言葉はない。視線だけが俺を殺すと語っていた。
「魔将? 違う、お前は」
シェボリズ、あの狼とも異質な力。
そう、ネフシュタンは『我ら』と言っていた。
つまりこの存在もまた大魔将。天地を壊す最強の力。
彼方から伸びてくる見えざる手。
アストラル界を渡る死の振動が押し寄せる。
「ゴオグェ」
刹那、その全てが完全停止した。
冷えた鳴き声。肩の上で遙か先を睨み付ける小さな怪物。
その絶対零度の視線が、間近まで迫っていた死の運命をはね除けていた。
ゴア。呪われた相棒。その小さな身に秘められた力が俺を救ってくれたのか。
感謝してもしきれない。だがその時に俺の思考を埋め尽くしていたのは恐怖だった。
死の確信。生存本能の絶叫。想起される人生の全て。
そして『サイバーカラテ道場』が走らせていく勝利のためのフローチャート群。
遙かな挑戦の予感。命を昂ぶらせる恐怖心は、戦いのために必要な心の形だ。
闘争か。逃走か。それらは生きるための選択という点で等価値だ。
歓喜と恐怖も同じだ。俺はその感覚を心に刻む。
『最強』を望んだ男がいた。『逃避』を望まれた男がいた。
女のために自分を否定した、どこまでも愚かな男。
格好をつけて強くあろうとする、どこにでもいる馬鹿な男。
その姿を覚えている。消えてもまだここにある。
「そこで待ってろ。すぐに追いつく」
気配が遠ざかる。ありもしない視線は割れた赤玉の彼方に消えていた。
石碑を見ると、頂点の名前は変わっていなかった。
キロンやゴアの助けもあった。まあこんなものだろう。
それに、本物はこの程度の強さではない。
確信がある。俺はあの時、炎の背後に潜む何かに一瞬だけ左手を届かせたのだ。
いまはまだ勝てないだろう。
だが積み上げたものは確かに通じた。
『達人』の拳。『脳内彼氏』のスタイル。
俺はあとどれくらい強さを知っていけるだろう。
その果てに、俺はあの王のごとき獣に敵うのか?
か細い光だ。それでも、明日くらいは生きてもいいような気がした。
死にかけの女が倒れている。
融血が肉を融かし、異物である角や乳房の接合部から赤い血までもが溢れている。
戦いの果て。犠牲の上に得た勝利は、しかし救いを意味しなかった。
暴力に翻弄され、現実に打ちのめされたイオはそれでも生きようと足掻いた。
逃避のために生まれた幻想に救われ、その犠牲によって逃走の意思を得た。
それでも現実はいつだって無慈悲だ。
死は無造作に物理的な肉体を壊していく。
薬物、異物との融合、肉体への暴行、精神の悲鳴。
悪意と欲望と信仰と慣習が人間を殺す。
世界とはそれらの邪悪でできており、彼女は世界に殺される。
犬人たちは悄然と耳と伏せ、修道女たちが涙を流す。弓を置いてイオを診ていたキロンが輝かんばかりの美貌を翳らせた。
「父なる槍よ。魂の揺り籠、エクリオベルクの天城よ。どうかこの者に安らかなる眠りを与えたまえ。苦痛を取り除き、御国での平安を約束したまえ」
彼は静かに祈りの言葉を呟き始める。
取り出したのは小瓶、長い指で掬ったのはおそらく油だ。
死者に与える宗教的な慰めだろう。
世界が諦めと悲しみに染まる。死は常に理不尽で、受け入れるための合理化手段として人は原始的宗教を生み出した。邪悪としか思えなかった牛人たちの生贄文化とて、その始まりは苛酷な現実への抗議と神への懇願であったはずだ。
『あの人』は言っていた。
俺は神には祈らないし、そうするくらいなら拳を振るう。
しかし戦うべき敵がいないのでは俺は何の行動も選べない。
いつも同じような堂々巡りだ。無意味で無価値。俺はここに帰ってくる。
眼下の死から目を背け、なんとなく天を仰いだ。
箒に腰掛けた魔女が空を飛んでいる。
赤い髪をなびかせて、軽やかな鼻歌と共に、ぷらぷらとリズムをとる足先が風に揺れてこちらを目指す。ひらりとこちらに手を振ってくる。なんとなく手を振り返す。
良く見れば乗っているのは箒ではなく、棒軸型の飛行機械とでも言うべき代物だった。後部には推進用の部位と思しき噴射孔と何かの接続端子にも見える部品が放射状に広がっている。箒に見えたのはこのシルエットのせいだ。
猛烈な既視感。俺はこの光景を、この結末を知っている。
「トリシューラ?!」
「いえーい!」
降りてきた呪術医に続いて次々と箒に乗った魔女たちが飛来する。
ナースキャップならぬとんがり帽子を被ったウィッチドクターたち。
そいつらは浮遊する箒と共に現れ、戦場の至る所で死に瀕している哀れな融合体たちに近付いていく。臨終の祈りを捧げていた修道士や修道女たちが険しい表情で何かを言うが、魔女たちはお構いなしに教会の医療者たちを押し退けた。
「はいどうもー。安心安全、融合体の心身不和もなんのその、最先端医療をお届けするきぐるみ妖精呪術医院だよー。というわけで、無力な槍神教の医療修道会は帰った帰ったー」
軽やかなリーダーの指示に従って医療者たちは迷いなく応急処置を開始、速やかに担架を広げて患者を固定。滞空する箒に接続された担架は固定された状態で風防を展開、患者を保護して運搬を開始する。
死者への祈りを邪魔された医療修道士たちが追い縋ろうとするが、魔女たちは彼らを蹴り飛ばし、唾を吐き、目の下を押さえて舌を出す。
とどめとばかりにとんがり帽子の先端をすっと真っ直ぐに伸ばすと、それを思い切りねじ曲げるというパフォーマンスを一斉に実行。
どのような手品なのか、魔女の敵意に連動したとしか思えないタイミングで槍が折れていく。槍は修道士たちにとって信仰の象徴だ。信徒たちが手にしていた小型の祈祷具や儀式用、護身用の槍は今やとんがり帽子の先と同じ有様だった。
いきり立つ武闘派の僧兵たち。
つられて犬人たちがファイティングポーズをとって魔女たちを威嚇するが、いつのまにか女性たちの背後に現れていた巨体を見た途端に腰が引けていく。
その巨大さといったらまるでゾウだ。
未知の異形だった。概ねヒト型だが、単眼の巨人としか言いようのない姿でこちらを睥睨している。それが一体や二体ではなく、十ほども居並んで魔女たちを守っていた。
ほとんど怪物。その威圧感は先ほど戦った牛神に近い。
それを従えるこの魔女たちは明らかに教会を冒涜するかのような振る舞い。
一触即発の空気。
唐突に現れ、宗教的な救いを与えられようとしていた瀕死の融合体たちを拉致しようとする魔女集団。それを神への冒涜であると咎め、怒りを露わにする修道士たち。
いつかのように、キロンとトリシューラが対峙する。
するとトリシューラの両脇から二つの影が前に出た。
一人は細身の麗人。性別のはっきりとしないタイプの美貌で、身体のシルエットがわかりづらい民族衣装風の服装もあって余計に判断に迷う。だが最も目を惹くのは腰から伸びた長大なサソリの尾だ。禍々しい針が前方を威嚇するように揺れている。
もう一体は牛人たちを上回る巨獣だった。ちょっとしたクマ程度のサイズ感は確実にある。印象的なのは反り返った長い牙と大きな鼻。独特なフォルムは少し猪に似ている。
俺はその光景から視線を切った。イオはまだ息をしている。苦しみながら、血を吐きながら、まだどこかを見ようとしている。
トリシューラの方を向いて、問いかけた。
「助かるのか?」
「もちろん」
「わかった。なら任せる。キロン、どいてくれ」
迷いのない俺の言葉に、美貌の騎士は観念したように俯いた。
「また、こうなるのか」
「悪い。だが最初に拒否したはずだ。お前と同じ信仰は持てない」
これが本来の形。いつも通りの俺のやり方だ。
魔女たちは最後の患者を運び出し、風のように空へと去って行く。
どこに向かったのかはわからない。
だがトリシューラはイオを救ってくれるだろう。
不思議と、それだけ間違えていないと信じられた。
キロンたちに背を向ける。
何かを得ることはできなかった。俺は結局、誰かを救ったりなんてできない。
敵の正体は依然として謎めいている。
融血によって牛人たちを裏から操り、宿敵である炎の天使を復活させようとしていた怪人物、ネフシュタン。奴は大魔将を名乗り、更には何かの陰謀を巡らせているようだ。
「確か、竜導師崩れとか言ってたな」
記憶を探る。実はその単語には聞き覚えがあったのだ。
トリシューラのところにいたときに教えられたこの世界の最も基本的な知識。
この世界を分かつ二大宗教、そのひとつは槍の神を崇めている。
そしてもうひとつは、竜を信仰しているという。
その名は竜神信教。その神官を竜導師と呼ぶらしい。
「お次は竜か。いよいよ異世界って感じだ」
目標らしきものを設定してみたが、どうにも不安が拭えない。
これで本当に前に進めているのだろうか?
黒幕らしき相手に一撃も加えることができなかった。せめて『弾道予報』に頼らず、全力で走って跳べば届いたかもしれないのに。後悔は幾らでも湧いてくる。
「ゴア、ゴアゴッ」
励ますような相棒の声。
そうだな。気落ちしている場合じゃない。
敵は強大。目的地は遙かな遠方。足踏みしていては辿り着けない。
強さはきっと一人だけでは手に入らないだろう。
だが、どこにもいないからこそ見える幻がある。
激戦で砕けた大地は不確かで、踏みしめるべき足場は定まらない。
踏み出す。その先に何があるのかはわからない。
だとしても、俺は幻を求めずにはいられなかった。
随分と後になってからのことだが、俺はイオの顛末を知ることができた。
トリシューラの傍若無人な方針により街で死にかけている重傷者の元に現れては強引に拉致して治療していくウィッチドクターたち。単眼巨人の暴力を背景に好き勝手に街の上空を駆け回る彼女たちの数は少しずつ増えたり減ったりしていたが、あるとき空を見上げていた俺はその中の一人に既視感と違和感を同時に覚えて首を傾げた。
瀕死の重傷。重度の薬物中毒。おまけに暴行による心的外傷。
虚ろな目でうわごとを呟く患者に呼びかける折れたとんがり帽子の白服女性。
その顔を記録と照合する。顔認識が一致。
かつての特徴が無くなっていたから一瞬誰なのか迷ってしまったが、間違いない。
「イオ!」
俺は駆け寄り、声をかけた。
あの時に拾っていた人形。
俺が壊した彼の寄り代。俺が殺した彼の遺体。
慣れないながら人に教わって修繕もした。もう元には戻らないとしても、いつか出会ったら渡そうと思っていた。
「げ」
「何だその反応」
「いきなり元カレと再会したら普通こういう反応になるでしょ。何? 私、未練たらたらな男ってちょっと」
俺がお前の元カレだったことはねえよ。そう言おうとして思わず笑ってしまう。相変わらず過ぎて安心した。イオは人形を受け取り、その正体をすぐに理解する。
人形はもう動き出すことはない。
綿を詰め直して針と糸で縫い合わせれば元通り、とはいかないのだ。
だがイオは、今や誰かを救う者となったウィッチドクターは微笑んで人形を受け取った。
そして迷い無く目の前の患者に与え、道を示す。
それは俺たちにとって馴染みの魔法。
ごまかし、騙し、偽りの逃げ道へと誘導する。
ありもしない現実を見せて苛酷な死から目を背けさせる悪魔の囁き。
人形はするりと絶望した瀕死の患者の心に入り込んだ。
この世界ではそういうことが起こり得る。
ましてその手管を知り尽くした魔女ならば、常人よりも容易くそれを実現できる。
教会の修道士たちが見れば卒倒するか槍を投げてくるかのどちらかだ。
どっちでもいい。ここに神はいないのだから。
だれもいないが、誰かはいる。それを最後に決めるのはこの患者次第だ。
弱かった修道女は、呪術医という明日に辿り着いた。
「じゃあね。はやく新しい彼女作りなさいよ。ってか、ちゃんと選びなさい」
「余計なお世話だ。断固として拒否する」
「うわサイテー。粉かけられたって先生に言いつけてやる」
下らないやりとりをして、俺たちは別れた。
明後日はわからない。それでも、また出会うことはできた。
イオは患者を運んで空へと去って行く。迷いなく自分のやるべきことを選び取って。
もう声は聞こえない。
それでも目に浮かぶ。
伊達男はきっと、満足そうに笑っているはずだ。
男が愛した女は強く生きていくだろう。
正解を見つけた今日がどうしようもなく寂しくて、俺は少しだけ自分に嘘をつく。
強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏。
全く、馬鹿げた妄想にもほどがある。
「そんな都合のいい男、いるわけねえだろ」




