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2-13.別れ際さえ潔い




 妄想彼氏が鬼神の如き活躍ぶりを見せる影で、俺は俺で状況を引っ掻き回す。

 幻影の派手な立ち回りに気を取られている牛人たちを後ろから蹴倒し、次々と遠隔制御で檻を解放。ゴアは機敏に飛び跳ねて敵集団を翻弄し、すばしっこく指に噛み付いて戦闘力を削いでくれている。頼もしい仲間たちのお陰で乱戦の中でも『幻掌』の操作に集中できる。


「火の元魔にかけて! このマカラがいる限り、これ以上の好き勝手はさせぬぞ!」


 こちらの動きに気付いた牛人の神官が赤い本を掲げ、それに対抗するように黒い本が飛翔する。『断章』の項がぱらぱらとめくられていく。輝く文字列がアストラル界に干渉。

 現実世界に重なるようにして鷲のビジョンが縦横無尽に飛び回り、牛の怪物と激突を繰り返す。非実体の闘争を反映するように、現実空間で発生したのは巨大な爆発。


 魔導書と魔導書が文字を投射し、接触と同時に猛火が出現。閃光が弾けて熱を撒き散らす。漠然とだが攻防の意味がわかる。派手な幻掌は本質ではない。アストラル界での鬩ぎ合い、心的なものを書き換えようとする形のない働きが爆炎という形で反映、というより『翻訳』されているのだ。


「何だ、その概念防壁の異常な強度は! 個人の武勇を誇る英雄幻想なぞ、大火力で貶めれば終わりのはずだ!」


 マカラとかいう神官が何を言っているのかは良くわからないが、とりあえず中学生あたりで卒業しておくべき病に罹患していることは理解した。

 『弾道予報』で射線を引く。使うのは幻の左手ではない。

 右手で握った石をぶん投げ、隙だらけの眉間にど真ん中のストレートを叩き込む。


「敵を倒すのに過剰な火力はいらん。投石でいい」


 『断章』から溢れ出た文字の洪水が敵の魔導書を制圧。空中で燃え尽きる赤い本と戦意喪失して逃走する神官。追うまでもない。

 俺はそのまま複数の檻を巡って次々に融合体たちを救い出していった。

 と、ひどく憔悴した様子の女がこちらを見ているのに気が付く。

 波打つ黒髪と詰め襟軍服の細いシルエット。その背後に迫る牛人。強引に頭を掴んで下に押し込む。空を切る斧、千切れる髪房。

 

 興奮した襲撃者は足が隙だらけだった。下段に足払いをかけながら設置されていた篝火を掴んで殴りつける。駄目押しにゴアの体当たり。サイズに反して意外と威力がある一撃で牛人は見事にノックアウトされた。

 と、そこに魚人の一団が大挙して押し寄せ、牛人たちを薙ぎ倒していった。

 集団を率いているのはカエル爺だ。

 魚人組織を率いる老人は俺のすぐそばに座り込んで頭を押さえている女を見つける。


「アニス! 無事だったか!」


 両手を広げて大仰な仕草で抱きしめる。目尻には涙。

 抱きしめられた女がじっとこちらを見ているのに気付いて、カエル爺の視線がつられて動く。やばい、気付かれた。


「お前、闘技場から逃げた外人か! お前のおかげで犬人どものガス抜きをする相手がいなくなってしまった。おかげで修道騎士どもに貴重な兵隊を掻っ攫われるわ、牛人どもに遅れをとるわ、散々な目にあったぞ!」


「待って、助けてくれたの。恩人よ」


「なんと」


 敵意が一転して感動に変わる。面倒くさそうな気配を感じた俺はそそくさとその場を離れていく。背後で呼び止める声が聞こえた気がするが無視。

 人質たちを解放した以上、この場に用はない。

 イオをこの場から連れ出すべく、俺は脳内彼氏の戦いに加勢する。

 この舞台の主役は伊達男だ。群がる牛人どもをばったばったと薙ぎ倒し、加勢した俺と背中合わせになって不敵に笑う。


 心を失いかけていた女がそれを見ている。

 見えなくなっていた男。

 人形に託した空想、幸福のために欲した愛情。

 それは今、たしかにここにある。


 その時だった。

 激震。こちらに落とされた影がのそりと動き、巨大な質量を振り下ろした。

 真上から衝撃。大地が陥没し、激震が空間を揺さぶる。咄嗟にゴアを掴んで抱き寄せた。

 俺とイオは突き飛ばされて無事。

 だが、突き飛ばした誰かはどうなった?


 悲鳴が上がる。

 目の前に、千切れた人形の手が落ちていた。

 中から溢れた綿が焦げた音を発して大地の亀裂に吸い込まれていく。

 脳内彼氏の姿は見えない。最初からどこにもいなかったかのように。


 俺は固まったまま、ぎこちなく頭上を見上げた。

 そこにあったのは、断末魔の声を孕んだおぞましい神の威容。

 神秘の力で動く青銅の牛人像。

 大量の命と祈りを捧げられたことで偶像が本物の神になったとでも言うのだろうか。

 圧倒的な暴力を目の当たりにすれば矮小な人間は跪くしかない。

 大きく重いものはただそれだけで強い。おまけに中で生贄を燃やし続けているこの牛人像は激しく熱せられており、触れるだけで火傷を負ってしまう。


 牛人像の下部、かまどのような部位の近くに牛人神官マカラの姿を見つけた。

 だがどうも様子がおかしい。

 逃げようとしていたはずの男は恐ろしく長い何かに腕と首を締め付けられ、苦しみに喘いでいる。何だあれは。いちおうは腕のように見える。蛇のように長くのたうち、関節がないかのようにうねって標的を締め付けるものを腕と呼んでいいのなら。


「や、やめろ、やめてくれ! 俺は次男なんだ! それに神官の家系なんだぞ、供物となる必要なんてない、俺は祭儀に必要な存在だ!」


 必死になって背後の脅威から逃れようとするも、締め付けはますますきつくなるばかり。

 牛人の怯えたまなざしの先に、異様な男が立っていた。

 一言で言い表すと、黄黒のストライプ柄ポンチョを身に付けたコブラ頭の巨漢。

 真ん丸の瞳孔と重なるような眼鏡は、頭部を締め付けるような独特のフォルム。

 不思議な光沢を放つ鱗は黄金色に輝き、頭から首にかけた部位が頭巾のように広がっており、左右にひとつずつ派手な目玉模様がある。

 俺が竜人と呼んでいたトカゲ型の種族とはまた雰囲気が違う。

 蛇人、と言うのが最も適当に思えた。


「ちょっとちょっと、せーっかく盛り上がってきたんですから逃げるとか興ざめなことはやめましょうよマカラさーん。ほらほら、我らが王はもっと生贄を所望してますよー?」


「くそ、離せ、ふざけるなこの竜導師崩れが! これは貴様の失策が招いた事態だぞ!」


「おや、きちんとあなたたちの神を用意してあげたつもりですがね。融血は役に立ったでしょう? お陰で十分な信仰も集まった。これだけはっきりと実体を得ればもう十分だ」


「何を言って」


 声を荒らげようとした牛人が突然痙攣し、口から泡を吹きながらぐったりとして倒れ込む。しゅるしゅると舌を出しながら蛇人が笑った。


「申し訳ないんですが、私は指からも神経毒を出せるんですよ。ダンコス君くらいの武術家なら毒抜きの技で遊んでもいいんですが、あなたにその価値は皆無ですねえ」


 言葉はひどく酷薄に響いた。

 蛇人は無造作に長い腕を持ち上げ、動かない牛人を頭上へと放り投げる。

 ぴたり、と空中で制止する哀れな生贄。なぜかその瞳は死の恐怖ではなく恍惚と快楽に染まっていた。蛇人がすうと息を吸い込み、短く命じる。


「我この王国より基礎へ遡り、一なる者、森羅の獣に至る道を示す。融血よ、形を成せ。代償は、供物どもの薄皮一枚」


 融血。それが青い血の正式な名称なのだと即座にわかった。

 どろり。融血が神官マカラの目や鼻、口から大量に溢れ出していく。

 それらは次々と近くにいた牛人たちに襲いかかり、抗うことすら許さず青色の中に呑み込んでいった。血の流れは起点となったマカラの方へと向かう。融解し、個々の境界を失ってひとつの肉塊へと変わっていく牛人たち。肉塊は転がるように落ちていった。

 炎が燃えさかる、牛神像の腹の中へ。


 因果応報というものだろうか。信仰という我欲のために他者を食い物にし、融合体という被害者を生み出し続けた牛人たちの末路は融合体として神に捧げられるというものだった。彼らは神への献身を果たすという目的を達成したのだ。

 かまどの下半身が猛火に包まれ、供物たちの命の力によって浮遊する。振り下ろされる両腕と口から吐き出される炎が魚人たちに無慈悲な死を与えていった。


 破滅的な情景を笑いながら鑑賞する蛇人を見据える。

 奴は間違いなく青い血こと融血を意のままに操っていた。

 直感だが、牛人たちに過ぎた力を与えていたのもこいつなのではないか?

 全ての謎を握る黒幕。その正体を探るべく俺は拳を構え、『弾道予報』で空間に赤い線を引いていく。そこで気付いた。蛇人の周囲に何かが浮かんでいる。

 実体は存在しない。だが、確かにそれは『予測されうる何か』だった。


「ほう。形成界は見えているのですね。測定と分析、予測と最適化を用いた肉体言語魔術ですか。ズタークスタークを破った九英雄どもの技とよく似ている。興味深い」


 理解し難い言動。蛇人の周囲には円を描くような弾道予測線が延々と周回を続けていた。発射も着弾もない予測線など計測ミスだとしか思えない。しかし何度やり直しても予測線は始まりも終わりも無い円環を描き続けている。


「何なんだ、お前は」


 警戒と怯懦を誤魔化すように問うと、蛇人はくねる両手を広げて高らかに叫んだ。


「問われれば答えましょう。我が仮の名はネフシュタン! このデタラメな世界を更に面白おかしく、死と惨劇に満ちた地獄にすべく日々奮闘する演出家志願!」


 背筋が凍る。俺はその名を知っていた。石碑で見た名前だ。確か序列は六位。英雄たちの四番手、『傭兵王』ダンコスの上に位置付けられているほどの男。


「魔将ってことは、シェボリズの仲間か!」


「いいえ? 聖妃派の紛い物と一緒にされては困る。我らは真なる獣。正しき終焉と望まれた創世を実行する相補幻想。格をはっきりとさせるため、大魔将とでも名乗りましょうか」


 あっさりと俺の予想を覆し、蛇人ネフシュタンはより恐ろしげな称号を名乗った。

 大魔将。はったりで名乗るにしてはシンプル過ぎるネーミングだ。

 その事が逆に端的な事実を示そうとする機能的な意図を感じさせる。

 こいつは魔将シェボリズとは根本的な何かが違う。


「あなたと遊んでみたい気持ちもありますが、残念ながら今回はこれでお別れです。我らが王が本格的に目覚める時間だ。巻き込まれてはたまらない」


 待てと呼び止めるより早く、ネフシュタンと名乗った男はその姿を変容させた。

 男の掌から溢れ出た融血がその全身を取り巻き、球形の内側で全身が融解する。

 硬化した青い卵を破って現れたのは嘴。

 ネフシュタンの姿は劇的に変貌していた。蛇人から鳥獣に。鶏冠に黄色の羽毛、幅広い翼に蛇の尾を持った四本足の鶏が飛び上がって逃走していく。


「さあ存分に歌い壊すがいい、破壊の王獣、我らが長兄よ! 創世はその先にある!」


 牛人たちを利用し、切り捨てて、最悪の神を降臨させた黒幕。

 追撃しようにも、奴には弾道予測線が通らないため投擲も『幻掌』も通じない。

 その上、目の前の状況が奴を追いかけることを許してくれなかった。

 突如として、生き残っていた者たちが絶叫を響かせる。


 その原因は、神に近付こうとすると聞こえてくる歌声だった。

 ある程度接近すると体内から響いてくる生贄たちの長い断末魔。

 苦しみが重なり合い、異形の聖歌となって牛神の鳴き声に変貌していく。どうやらおぞましい怪音波は逃げ惑う者たちの精神を蝕んでいるようだ。


 哀れな融合体や魚人、通りすがりの無関係な者までお構いなし。

 発狂していく人々が互いに敵意を向け合い、味方同士で殴り合ったり罵り合ったりと不和が広がっていく。相棒が興奮したように吼えた。


「ゴアー! ギョッギョアー!」


「ああ。あの時と同じだ。天使の歌、人を狂わせる声」


 それは『達人』さえ抗うことのできない脅威。

 俺は聳え立つ巨体を仰ぎ見る。

 炎を纏う牛神の背後に、揺らめく翼が見えた気がした。

 そう、またしても炎だ。これが無関係とは思えない。

 

 精神を傷つける叫びは力無き犠牲者たちにも影響を及ぼしていた。

 絶対的な暴力。大量の死。そして大切な空想との別離。

 イオの心が致命的な傷を負った瞬間だった。

 俺は無力を知る。これ以上は何もできない。

 存在しない左腕のそばから幻聴が響く。 


「そんなことはないさ。まだ諦めるには早すぎる」


 だがお前は俺に見えている妄想だ。

 イオに見えている理想じゃない。

 俺とイオが見ているものは、重なっていたけれど少しずつズレていった。

 そしてもう一度重なり、いま再び引き裂かれている。

 彼の存在は俺にとってさえ希薄だった。俺たちを庇って牛神の攻撃を受けたその肉体はぼろぼろで、生きているのが不思議なくらい。


 イオの夢想は終わってしまった。現実逃避ができない彼女はここで死ぬだろう。

 立ち上がり、走り出し、危険から逃げ出す。

 逃避とは生きるための意思だ。それが潰えた以上、希望はない。

 そしてそれは、俺にとっても同じだった。


「さすがにもう想像できないか。けど、覚えていてくれただろう」


 そうだ。彼女は覚えていた。

 幼い頃の思い出。小さな人形。空想の友達。

 脳内彼氏はその続きで、思い出があったからこそ甦った。

 大人になれば空想を信じる力は消えてしまう。

 色鮮やかに見えた世界は新鮮さを失い、驚きに満ちていた未来は既視感で溢れていく。

 退屈と諦観。妄想の妖精とはいつかお別れしなくてはならない。


 それでも思い出は残っていた。

 絶望した心に生きる力を与えようとしてくれたのだ。

 俺もそうだ。覚えている。

 あいつがもういない? そんなことがあるか。


 俺はあいつの蹴りを受け止めた。あいつが強い男だと知っている。

 左腕で受けた打撃の感触を確かに覚えている。

 荒れ狂う牛神の背後に、聳え立つ石板を見た。

 刻まれた強者の番付。名を刻みたいと欲した願いを覚えている。

 強く在りたいと格好を付ける男の姿を、俺は既に記録した。


 たとえ姿が見えなくなっても、彼はずっと彼女の中にいたはずだ。

 それはきっと、これから先も。

 目に見える幻がかえって本質を見失わせていた。

 妄想彼氏は最初から彼女の心の一部分だ。

 同じものでできているのなら、その傷を塞ぐこともできるはず。


「ああ。もう大丈夫だ。彼女に俺は必要ない」


 安堵したように男が言う。

 妄想の男が空を見上げた。

 星が輝き、流れて落ちる。

 降り注いだ流星雨は爆撃。


 牛神を次々と襲う光の雨は誰かが放った矢だ。

 誰が? 決まっている。真の意味で救い手にふさわしい強い男。

 現実に存在する英雄は、目を瞑っても消えたりはしない。

 長大な弓を構え、輝く鎧を纏った修道騎士、その名はキロン。

 

 虚ろだった女性の瞳に光が戻るが、怯えたように立ちすくむ。

 恋い焦がれた相手が救いに来たという状況は先ほどと同じ。

 だが現実の救い手は彼女を愛してなどいない。

 叶わぬ思慕だと自分でもわかっていたのだろう。その諦観が彼女の絶望を形作っていた。


 キロンが持つのは優しさと正義感だけだ。

 これはどんな恋物語にも回収されない、ただの英雄譚の一幕でしかない。

 イオは救済に怯えて座り込んでいる。

 立つ事はできない。救いの先に幸福はないと知っているから。

 だからこそだ、と妄想の彼氏は繰り返した。


「俺はもう必要ない。彼女が生きて幸せになるために、俺は邪魔だ」


 自分を否定する妄想の妖精は存在感を増している。

 女の絶望が男をより強くする。本質的な悪循環を彼は邪魔だと断言した。

 伊達男は『彼女を助ける理想的な強い男』という役割を放棄していた。


「助けないつもりか」


「助けない。『強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏』、失格だな。あんな理想的な騎士様には敵わない。すっかりお手上げだ。情けなく尻尾を巻いて退散するよ」


「アホぬかせ。理想の脳内彼氏がそんな情けないこと言うかよ」


 助けないことで、愛する人に立ち上がって欲しいと願う。

 脳内彼氏が宿った人形。都合のいい幻想を抱きしめたままでは、差し伸べられた現実の手を握り返すことはできない。


「最強になるんじゃなかったのか」


「結局あれは『惚れた女の前で格好良くありたい』っていう願いなんだよ。そして今がその時だ。なあ、男が一番気持ち良く酔っ払えるのはこういうときなんだぜ?」


 酔っているというのなら最初からそうだった。

 夜の街で、酔漢たちが集団で見た幻覚。

 女を巡って男が殴り合う見世物を囃し立て、それに乗っかって現実をやり過ごそうと一時の熱に身を任せた。思えば一番ひどく悪酔いしていたのは俺だ。二日酔いの苦しみがこんなにつらいと知っていればあんなに酔うことはなかった。いや、それでもやはり俺は最も愚かな選択をするのだろうか。


「男は女のために生まれ、死ぬ。それでいいだろ?」


 不幸だからこそ妄想の彼氏が必要とされている。

 傷ついているからこそ在りもしない幻覚がなければ生きていけない。

 だとすれば、あの男が正しく役割を全うする光景は悲劇そのものだ。


「介錯、頼めるかい」


 牛神に致命傷を負わされ、王子様に役目を否定された。

 妄想彼氏は既に死に体だ。

 死にきれないということは苦痛だ。俺は苦痛を嫌う。俺の脳内妄想でもあるこいつは、『苦痛を終わらせてくれ』と頼めば断れないと知っていた。


 あるいは最初から知っていたからこそ、あの時こいつは集団幻覚を見ていた群衆の中から俺を選んだのだろうか。いつかきっと自分を終わらせてくれる俺のことを。

 嘱託殺人。その生業を呪わなかった時はない。

 だが、迷ったこともなかったはずだ。

 生まれたこと、存在したこと。その全ての間違いを、これから正す。

 いつだって俺は、暴力で誰かを終わらせることしかできない。

 なにも生み出せない。なにも創れない。先のない空虚な機械の拳。


 怪物と英雄が戦う神話を背景にして俺たちは向かい合った。

 大地の亀裂から拾い上げた人形。

 傷ついたその形と重なる幻の男。

 女のために男はその身を捧げると言った。

 犠牲なんてナンセンス、太古の呪術社会じゃあるまいし。俺の理性はそう叫ぶが、ここはそれがまかり通る異世界だ。

 だとしても。この生贄は神などには捧げない。

 神に祈るくらいなら、俺は拳を振るうと決めている。


「男が殉ずる信仰は愛だけでいい。身を投げるなら恋の炎だ」


「この期に及んで、まだアホなことを」


「そう言って、意外と嫌いじゃないんだろ? 姫君に尽くす騎士ってのは浪漫がある。どうせ誰もが生きて死ぬなら、格好付けていこうじゃないか」


 本当にこいつは揺らがない。

 だから俺も揺れないように心を固定した。

 『E-E』を意思決定に噛ませて現実表象トークンの認識を代行させる。

 『ノーペイン』が規範を定めてあらゆる情動を正常に維持。

 俺が見る幻と現実はいまひとつになっている。


「じゃあな」


「ありがとう」


 別れは短く、一瞬だった。

 人形を義肢の手刀が貫く。壊れ、綿がはみ出し、静かに落ちていった。

 存在しない左腕が幻を貫く。妄想彼氏の胸から鮮血が噴き出し、口から呼気が漏れた。

 死のイメージが溢れて広がる。残酷な映像はイオに届かない。

 だが何かが終わったことは確かだ。その事実は心に波紋を生じさせる。

 そして、現実は決して彼女に冷たいだけじゃない。


「イオ! こっちに来るんだ!」


 巨大な神と対峙しながら、キロンが力強く女に呼びかけた。

 圧倒的な力、恐るべき炎、心を蝕む歌。

 その全てに必死に抗いながら、圧倒的苦境の中にあっても救うべき命のことを気にかけている。嫌になるほどに正しい善人。許しがたい秩序の守護者ぶりだ。


「俺も過去を乗り越えてみせる。信じるんだイオ、人は前に進めると!」


 キロンはそう言うと、腰に提げた矢筒の中から丸めた絵を取り出した。

 広げたそこには美しい少年の姿。キロンはそれを宙にふわりと放り出し、ぐっと痛みを堪えるように手をかざす。

 直後、魔法のように絵が燃えていった。


 燃え滓は光の粒子となってキロンの手に集まっていく。

 その背後で美しい少年が笑顔を浮かべるのが見えた。

 男が唇を噛み、心の痛みを誤魔化すように血を流す。

 美少年の幻が砕け散るのと、光が矢の形をとって長大な弓に番えられるのは同時だった。


「立て、そして走れ! 君には二本の足がある!」


 キロンが決然と光の矢を放つ。大切な幻を手放し、力に変えて前へと進む。

 炎を貫いて奔る過去最大の閃光が牛神に突き刺さり、その上体が大きく傾いだ。

 荒れ狂う炎の勢いが止む。

 女の前には、荒れ果てた道が広がっていた。

 

 立ち上がる。

 よろめきながら、ふらつきながら、それでも生きようと足掻く。

 初めて出会った時、彼女は走って逃げていた。

 これはその続き。

 傷ついて立ち止まって、それでも進み続けるために心に問いかける。

 大丈夫。傷つく必要なんてどこにもない。

 自分だけは自分に甘くてもいい。弱さを許してもいい。

 上手く進めないとしても、それを見守る心はずっとここにある。 


 駆ける。裸足のまま、血と小石につまずきながら、それでも走っていく。

 その行く手に修道女たちと犬人たちの姿が見えた。

 顔なじみのプーハニアもいるようだ。安心して俺はその光景から視線を切った。

 善い答えを選んだ。そのはずだ。

 結局、キロンたちの方針はどこまでも正しかった。

 幻に縋る俺やイオは弱く間違った人間だったのだろう。


 何が介錯だ。嘱託殺人だ。俺は何も変えてなんかいない。

 やったことと言えば無意味なシャドウボクシング。

 ここには最初から何もない。誰もいない。

 そのはずなのに。

 どうして俺は、また死者の声を聞いているのだろう。


「名を刻む、だったな」


 遠い石碑を見上げる。

 炎の怪物が荒れ狂い、光の矢を放つ英雄が対抗する。

 超人でもなければ逃げ出すのが賢明な戦場に、俺は真っ直ぐに飛び込んだ。

 頂点は遠い彼方。しかし高みに挑む以上は怪物も英雄も避けては通れない。

  

「もう一戦くらいはやっていくさ。少しはランクが上がるかもしれないからな」





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― 新着の感想 ―
[良い点] アニスとは縁があるもんなんだなあ かっこいい彼氏とのトーク好きでした。嘱託殺人よくないけどいいですね キロンとイオの成長物語も綺麗で そこから無関係な感じにたたずんでるアキラくんが好き
[一言] 更新乙です! 今回も激動の展開で、本当に面白かったです! とても読みやすく、視覚的なイメージを浮かべやすい描写も良かったですが、何より、どの登場人物もそれぞれ本人らしい「軸」・行動規範にのっ…
[良い点] コルセスカ!コルセスカだ!やったー!
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