2-12.彼は淑女の危機に颯爽と現れる
現実逃避が肯定的な文脈で語られることは少ない。
妄想や幻覚はいずれ別れを告げなければならない虚構で、社会復帰を目指すのであれば最後には妨げになってしまう。
必然的に心を生かすために望まれた脳内彼氏は、身体が生きるために否定される。
緊急避難としての妄想に依存してはならない。
いつか決別しなければ抜け出せなくなる。そうなれば終わりだ。
少なくとも、この医療修道会の方針はそうだった。
厳しすぎると言うことは容易いが、一方でイオの精神状態が取り返しのつかなくなる瀬戸際にあることも間違いない。
幼児退行した修道女はずっと人形にかまってばかり。
病的な依存と執着、それ以外の世界に対する拒絶。
わずかに心を許しているのは俺と数人の年老いた修道女のみだった。
話しかけても反応は鈍い。瞳に映る世界は狭く細く、じわじわと色褪せる。
時折ぼうっと遠くを眺めながら隣の人形、そして俺にだけ見える脳内彼氏に体重を預けることがあった。幼い瞳から光が消えていくにつれ、実世界での伊達男の存在感が遠ざかっていく。二人が消えてしまう。確信めいた不安に襲われて呼びかける。
「行くな」
きょとんとした視線が返ってきて一安心。
もしこの時、声をかけなかったら。
彼女の心は理想の恋人と共にどこかに消えてしまっていたのではないだろうか。
肉体だけを置き去りに、遠い彼岸の向こうに、永遠に。
キロンたちは深い葛藤を抱えながらイオを見守っているようだった。
人形を無理にでも引き離し、夢から醒まさせるべきだろうか。
それで哀れな修道女の精神は現実に耐えられるのか?
「決断が必要だ。非情に思えるかも知れない。だがすまない、止めないで欲しい」
キロンが俺にそう告げた。俺はなにも言えなかった。
彼らはこの症例に対する治療法を有しており、それを必要とするものがいる以上、一貫した対処方針を定める必要があったのだ。
牛人たちの手により融合体となった犠牲者たちはイオひとりではない。
命からがら逃げ出してきたり、危険を顧みずに身内が救出してきたケースが次々と舞い込み、修道院の寝台は溢れそうになっていた。
医療修道会を統率するキロンは迷いを捨て、決断的に行動した。
ところでキロンには意外にも甘党な一面がある。
食事やお茶の時間に必ずコンポートとジャムの中間みたいに見える砂糖と蜂蜜たっぷりに加熱濃縮された保存食品を取りだして、丁寧かつ大量に味わうのだ。組織の頂点だからこそ許された贅沢品の独占。物欲しそうなプーハニアたちから瓶を取り上げて独り占めにしようとする子どもじみた表情にはちょっとした微笑ましさがあった。
あれは何の果実なのだろう。
瓶の中身はどろりとした濃い青色だった。
その瓶が、あるときからキロン以外の前にも並ぶようになった。瓶には色の異なるラベルが張ってあり、修道女たちが融合体たちのパンに塗りたくる『何か』と俺や犬人たちに供される嗜好品は明確に違うものだった。
おそらく何かの薬だ。融合体たちは大なり小なり精神に変調をきたしている。とりわけ幼児退行のパターンが多く、薬の投与にも一工夫が必要ということなのだろう。
「キロン、質問してもいいか。あのジャムみたいなものは薬か?」
「イオたちに害はない。量は厳密に管理してある」
「それもあるが、お前、あれを前から使ってたよな」
膨らむ疑念。しかしキロンは自嘲ぎみに笑ってこう答えた。
「皮肉なことだ。我々は誰かを救うために、裏切り者がもたらした成果に頼らざるを得ないのだからな。悪いが少し忙しい。詳しい事は君の依頼主に訊くといい。誰よりも詳しく説明してくれるだろうさ」
どういう意味だ。そう問いかけるより早くキロンは足早に去って行った。ここのところ彼が忙しくしているのは事実で、今も新しい患者が担ぎ込まれたところらしい。
トリシューラは怪しい依頼者だ。快活な表情の裏にどんな思惑を秘めているのか計り知れないところがある。彼女は『青い血』に関して、俺になにも話してくれていない。
あれは単純な麻薬なんかじゃない。
おそらく槍神教やトリシューラも何らかの形で関わっている。
俺が想像する以上の影響力があの『融合させる力』にはあるのだ。
もやもやした疑念を不完全燃焼させたまま、慌ただしい時間が過ぎていく。
修道院の雰囲気はまるで厳格な秩序に支配された監獄だ。
幼児のように振る舞う患者たちから玩具や人形を取り上げ、ごっこ遊びやおままごとをしていれば叱りつける。集団行動を徹底させ、ひとりきりの世界に篭もる者がいれば泣き喚こうが構わずに集団の中に連れて来る。そうして教会内でできる畑仕事や掃除の手伝い、礼拝や説教などの集団行動への参加を強制するのだ。
俺は根拠のない反発を覚えたが、効果は劇的だった。
軽度の融合体たちは精神的な変調から回復し、幼児のような振る舞いから見た目相応の心を取り戻していく。肉体を侵襲する異物が体外に排出されそうになり、慌てて手術室に運び込まれた患者もいた。
教会の医療者たちは正しい行動をしている。
たとえその正しさが、妄想彼氏が宿った人形を弱り切った少女の心から取り上げるという結果をもたらしたとしても。
イオの治療は難航していた。
それだけ精神的な傷が深いのか、あるいは他に要因があるのか。
イオは攫われた幼馴染み、自分の味方をしてくれるたった一人の妄想彼氏を求めて毎日泣き暮らしている。集団の中で自分を取り戻すことなど到底できそうもない。
「キロン、厳しいやり方が万能薬とは限らないんじゃないのか」
「そうかもしれない。だがここで引き返せば彼女は永遠に自分の中に閉じこもってしまうかもしれない。幸福な籠の中で見る夢は甘美だ。俺はそれがどれだけ心地良いか知っている。投薬、暗示、そして己を律する信仰と秩序が必要だ。それは社会との繋がりの中でしか得られないものなんだ」
彼が誰もいない部屋で何をしていたのかを思い出す。
ありもしない幻に囲まれて幸福に、泣きながら談笑していた、言葉にしづらい姿。
この男はずっと青いジャムのようなものを食べていた。あれはつまり、そういうことなのだろうか。誰よりもイオの状況を理解できるのは、ひょっとするとキロンなのか?
だとすれば、俺はこれ以上キロンのやり方に口出しできない。
プーハニアたちと訓練する気分でもない。
居場所を見つけられず、中庭に出る。
闇が訪れる直前、魔法の時間。伊達男がぼんやりと青闇の空を見上げていた。
哀愁を漂わせる伊達男の姿は一枚の絵のようだ。
「結局、俺の存在が彼女を束縛しているんだ」
ぽつり。息苦しさに耐えかねたように、男は弱音を吐いた。
「考えすぎだ」
「そうとしか考えられない。他の患者たちは次々と回復している。俺に依存しようとすればするほど、彼女は妄想に迷い込んでしまう」
自嘲、あるいはそれより深い自己嫌悪。
理想の伊達男ともあろうものが、なんて顔だ。
心を守るために必要とされた妄想が、心を救うためには不要とされてしまう。
それどころか。
「俺は、いないほうがいいのかもしれないな」
何も言えなかった。いや、言いたくなかったのか。
理性は賛同を示していた。
確かにそうだ。救われるべきは生きている人のはず。
では、消えていく幻はどうなる?
答えなど決まっている。決まっている、はずなのに。
最悪の事態は前触れなく起きた。
いや、予兆はあったはずなのだ。あらゆる苦痛の訴え、激情と共に流される涙、錯乱と痙攣、世界の全てを拒絶するような絶叫。
異常な行動が常態化していたから、『予兆しかない』状態を看過してしまっていた。
融合体の患者は次々と運び込まれてくる。
医療者たちの忙しさは増すばかりだった。それを手落ちと責めるなら、俺の注意不足を先に詰るべきだっただろう。
キロンは頻繁に外出するようになり、銀の甲冑に乾いた血の汚れを付着させながら新しい患者を連れて来ていた。人の出入りは激しくなり、英雄が不在になる時間が長くなるにつれて教会の守りは必然的に手薄になっていた。修道士たちや俺や犬人といった客分の居住スペースと、医療設備の整った棟が別区画にあるということも災いした。
施設が牛人の襲撃を受けたのだ。
キロンは手練れの部下と彼を慕う犬人たちを連れて不在。
爆音を聞きつけて俺が駆けつけたとき、医療棟は炎に包まれて大混乱に陥っていた。
周囲には消火活動に勤しむ修道士たちと傷つき呻く医療者たち。彼らが指差す方を見ると、融合体たちが牛人たちに攫われていく。慌てて追いかけたものの、炎上する建物と立ちこめる黒煙に邪魔されて姿を見失う。
「くそ、やられた」
毒づきながら周囲を見渡して、落ちていた人形に気付く。
おそらく時間はあまりない。
イオの精神は致命的な崩壊を始めていた。拠り所を失い、妄想の彼氏まで無理矢理に引き離されて『優しい妄想の世界』すら見えなくなりつつあったのだ。
その果てに待つのは無明。
医療者たちも万能ではない。
既に失敗例が三件。心を失って眠り続ける融合体が寝台に横たえられている。
傍らに立つ伊達男の気配を感じながら、平坦な声で問いかけた。
「こういう時、理想の彼氏はどうするんだ」
「『強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏』なら、彼女のピンチには颯爽と駆けつけるに決まっているだろう?」
「そうか。自殺志願にしか思えないが、まあそれも個人の自由だ。幸運を祈る」
「ありがとう。今まで楽しかったよ」
そう言って立ち去ろうとする後ろ姿に、拾った人形を投げつける。
驚いた顔で振り返る伊達男。
架空の肉体に吸い込まれていく小さな人形。
不可思議な光景だが、それもまたここにある現実だ。
「待て。俺は今から消火活動をしなきゃならない。だがバケツもホースも消化器も見つかられないしやり方も知らない。よってこれから火元を断ちにいく」
緊急時には冷静で適切な判断が求められる。
消火活動で役に立てないのだから、また火をつける可能性が高い放火犯をどうにかするのが今するべきことだ。どうせ殴る蹴るしかできない。暴力は有効活用しよう。
牛人たちの行き先など知らないが、とにかく今からでも走って追いかければ痕跡ぐらい見つかるだろう。見つけるしかない。今は考えるより身体を動かすべきだ。
走って伊達男を追い抜いていくと、背後で小さく笑うような気配があった。
気のせいだろう。冷静で適切な判断を笑う理由がないからだ。
街は牛人の文明に染まり切っていた。奴らの勢力圏が短期間で広がっている。
原因など分かりきっている。『青い血』の力だ。
流血、祭儀、苦痛を称える異教の理。
腹を切られた豚の血が大地を潤し、引き千切られた山羊の頭が篝火を燃え立たせる。
左右に牛の角に似た煙突を伸ばす鋼鉄の箱に動物の死体が放り込まれた。ガタゴト震えるそれが機関部なのか、大型の三輪車が道路の中央を走っていく。
血文字で描かれた円の中央には頭蓋骨。虚ろな目を光らせて道行く者を監視する。
道路に等間隔で並ぶのは電柱かと見上げてみると、尻から口まで串刺しにされた野晒しの死体から流れ出る青い血が上空に張り巡らされて電線のように繋がっている。
ネズミのような屍肉漁りが現れるが、仰々しく捧げられた『生贄』は目に見えない力に守られているのか手出しできずに路上で寝ている物乞いや身体欠損者に襲いかかる。
目覚めを告げる鶏の絶叫。ベルトコンベアで次々と運ばれていく家畜たちが檻の中に詰め込まれ、強引にプレス機で潰されていく。
それは近代的な生贄奉納機構。
残酷な生贄を善しとする呪術文明が発展し続けた先の光景がここにはある。
もちろん、現代的な問題も一緒にだ。
因習への疑念、外部との衝突、そして文化的な意味での『公害』。
生贄を捧げると必然的に発生する騒音と悪臭、飛び散る血などの不快な精神汚染。
道行く人々も迷惑そうに目を向けているが、構わず次の生贄が追加されていく。
そして圧殺。
都市の日常風景はすっかり様変わりしていた。
街の中心を我が物顔で闊歩しているのは今や魚人たちではない。
生贄文明を謳歌する牛人たちだ。
「まじないにオカルト。頭がどうにかなりそうだ」
「それが役に立つこともありますよ」
闇雲に走っていた俺を誰かが呼び止める。
字幕が見えた方向に視線を向けると、そこには奇妙な女が立っていた。
華のあるブラウスに肩からかけた黒いストール。拘束具のように悪目立ちする金色の首輪と青い石が嵌まった腕輪。驚くほど長い髪は夜のように黒く、前髪が目を半分ほど隠している。おまけに薄いヴェールで隠れているため顔立ちはほとんどわからない。
妙な違和感。どこかで見たか? 相手の印象は靄がかかったように不確かだ。
「お急ぎの時こそ、回り道に見えることを試すのも良いでしょう。占い、いかがです?」
そんなものに付き合ってられるか。ゴアゴアと吼える相棒と一緒になって拒絶しようとすると、傍らの伊達男が緊急時だというのに悪癖を発揮した。
「折角美しいレディが申し出てくれてるんだ。悪くないかもしれないぜ」
「まあ、お上手ですね」
舌打ちしそうになったが、考えてもみれば不思議なことが何でもありのこの世界なら占いで捜し人が見つかることもあるのかもしれない。
なるべく急ぎで頼むと告げると、女性は蕩けるような声で了承を示す。
そうして始まったのは、目を惑わせるような不思議な儀式だった。
輝く水晶、割れた亀の甲羅、謎めいた土瓶、迷路のような水盤を流れていく葉っぱの小舟、様々な異形の女神が描かれた絵札、そして円盤状の機械が取り付けられた杖。
有無を言わせぬ奇怪な行為が占いだとわかったのは、明確に進むべき道を示してくれたからだ。杖が発生させる十六個の乱数と地面に投影された幾何学模様。占いめいた儀式と呪文のような言葉の意味などわからないが、そのあとに現れた立体映像なら理解できる。
目的地の映像、探していた融合体たち、とりわけ脳内彼氏が救うべきイオの姿。
「感謝する」
今は時間が惜しい。硬貨を押し付けて走る。
にこやかに微笑む占い師と別れた俺たちが辿り着いたのは、都市の中心部だった。
目立つことこの上ないが、逆に言えばそんな場所を堂々と占拠できるほどに牛人たちの勢力が強大になっているということだ。
それを証明するかのような事態が目の前で進行していた。
炎が牛の横顔を照らす。雄々しく天に突きだすのは二本の角。眼窩に嵌め込まれた赤い宝玉が爛々と輝き、捧げられた供物を睥睨する。
かまどに似た下半身と、筋骨隆々たる牛人の種族的特徴を更に誇張したかのような魁偉なる上半身。腕は慈愛と寛大さを示すかのように開かれ、胸には九つの窓が開く。
それは巨大な青銅の像だった。屈強な牛人たちによって運び込まれた像は、かけ声と共に既にその場所に設置されていたもう一つの銅像の上に乗せられた。
踏みつけにした、と言った方がより正確な意図が伝わるかもしれない。
それは権威の蹂躙であり、支配者交代の宣言でもあったからだ。
市街地の中心に設置されていた魚人たちの支配の痕跡は残らず破壊された。
青白い魚や珊瑚の角を持つ蛙といった神秘的な生物の銅像は魚人たちの信仰の証。
大半が打ち壊される中、とりわけ目立っていた角のあるクジラ像だけが原形を留めていたのは牛人たちのパフォーマンスのためであった。
「何だありゃあ」
「供犠の民たちの信仰だろう。彼らにも神はいる」
槍神教とティリビナ人のことを思い出す。
融合体を生み出して悲劇を量産し続ける牛人たちにだって独自の信仰はある。
正しい秩序と対立する憎むべき敵。それが少数派の古臭い信仰なのだとしたら?
俺は槍神教の側に立って、ティリビナ人たちが守っていたような素朴な信仰を破壊しようとしているのか?
「関係無いさ。男が女を助けに行く。難しく考える必要があるか?」
「そうだな。そういう話だった」
迷いを捨てろ。牛人たちがイオの心を傷つけ、奪い去っていったことは確かなのだ。
それを許してはならない。戦いに必要なのはその意思だけだ。
似合いもしない義憤を胸で燃やすと、それに薪を投げ込むように耳を塞ぎたくなるような悲鳴が響いてくる。捧げられた生贄たちの断末魔や命乞い、あるいは苦悶の声だ。
市街地中央には大きな河が流れており、そこには広い中洲がある。
かつては魚人の商人たちで賑わっていたその場所は今や処刑場。
牛人たちが取り囲む中心部で、磔にされた魚人たちが火炙りにされている。
特に目立っているのは中央に設置された青銅の牛像だ。炎で熱せられた青銅像は胴体が開くようになっており、牛人たちはその中に供物を投げこんでいく。
大きさや配置、牛人たちの態度から察するに、あれこそが彼らの信仰対象、祭壇を兼ねた偶像とでも言うべきシンボルなのだろう。
生贄の種類は目視できた限りだと、小麦粉、鶏、牝羊、牝山羊、仔牛、牡牛、揺り籠、ガラガラ、そして幼子。このような場所でも子は生まれる。魚人女に産ませた赤子を強引に取り上げて、母子が泣き狂うのにも構わず双方に死の刃を振り下ろし、火にくべる。
血も涙もないと形容するにはあまりにも情熱的な残虐行為だった。
牛人たちはこの蛮行に興奮している。天を仰ぎ何かを唱え、両手を叩いて高らかに歌う。独特の抑揚をもった宗教歌のような叫び。かき鳴らされる太鼓と弦楽器、色の付いた煙が立ちこめる独特の風景はなんとも形容しがたい。
目を血走らせ、踊り出しそうなほどの熱狂を迸らせるその様は、いつか映画で見た異教の祭儀のようでもあり、俗なバラエティ配信で見た『秘境の原住民』たちがやらせで演じるパフォーマンスのようでもあった。
異教への恐怖。
古代の燔祭を現代の価値観で捉えきるのは難しい。異世界を訪れた異邦人の常として、俺もまたその光景をおぞましいものとして認識した。
神に捧げられた火に聖性や意味をどうやって見出せと?
まして、そのために生きた人間を、それも赤子までくべるとなればなおさらだ。
家畜や財産程度ならともかく、あれは許容できない。牛人にとって捕まえた異民族というのは家畜や財産と同じものなのかもしれないが。
どうやらこの感覚は俺だけの話ではないようだ。
牛人たちの儀式を遠巻きに眺める人々の表情や態度がそれを物語っている。
現代社会で生贄を肯定する民族。
公共の中心を供犠の祭壇に作り替える蛮行を押し通す強引さは当然のように人々の反発を招いている。だが逆らう者はいない。いなくなった。
俺が知る巨大な対抗勢力、魚人たちの組織は敗北したらしい。牛人たちが『融合』という新たな力と商品を独占したこともあって、この街の頂点から転落した。
結果、生まれたのは死が日常となる世界。
死を消費する社会を是とした、生贄文明の到来である。
これまでの、暴力と死をちらつかせて生命を搾取する世界とどちらがマシだろうか。
我ながら馬鹿馬鹿しい思考だ。
多すぎる牛人に強固な防備。
だとしても、俺たちはこれから自殺を敢行する。
夜明けを告げる鶏の鳴き声が、前触れもなく途絶えて消えた。
「男なら誰だってそうさ。惚れた女の前で格好良くありたい。君だってそうだろう? いないって? それなら想像するんだ。理想の脳内彼女と、理想の男ぶりを見せつける自分の姿を。それが男を上げるってことだ」
牧歌的な山羊の声。連想するのはのどかな草原と山々の光景。
美しい世界は唐突に潰れて消える。声はもう響かない。
「何が男だよ。女の方はお前のことなんか眼中にないんだぞ? 文字通りの意味でだ」
牛の声が響く。熱狂と悲嘆。二種類が混ざりあい、片方が潰れて消える。
「それでもだ。男はただ一人でも男でなくちゃあダメさ。君は無観客試合の時にやる気をなくすタイプかい? 何だかんだと言いつつ手は抜かないタイプに見えるが」
赤子の泣き声が聞こえる。母親の泣き叫ぶ声がくぐもった響きに変わり、またしても不自然に声が途切れる。いつまでも続く叫びなどありはしない。
声はもう、どこにも届かない。
ここにあるのは誰にも届かない言葉だけだ。
「無意味かつ無価値だ。何でこんなことしてるんだろうな、俺は」
「本当にそう思っているのなら、わざわざ付き合ってくれたりはしないはずだ。君は自分で思っているほど自分の理性を信じちゃいないのさ。俺の姿が見えるくらいだしな」
横目で連れの姿を睨み付ける。
鍛え上げた肉体、薄い顎髭、端整な横顔、悪戯っぽい表情。
目に焼き付いた伊達男、の幻覚。
存在しない男。俺にしか見えない妄想。
そう、おかしいのは俺だ。現状に文句を言うのならそれは俺自身に返ってくる。
「さて、準備はいいか。今回ばかりは命の保証はできない。喧嘩じゃ済まない命の取り合いになること請け合いだ」
「知るか。面倒になったら逃げるぞ俺は」
物陰から敵集団を窺うと、そこには犇めく巨漢の群れ。
犇めく、というのは言い得て妙な漢字のセレクトだった。
牛の頭がひとところに集まっている様子を完璧に表現してくれている。
屈強な牛人たちが火に次々と生贄を投げこんでいく。
血の誘惑に縛られ、禁断症状の檻に囚われた融合体たち。
その中に、伊達男が愛する女がいる。
「何が『強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏』だ。投げ捨てればいいんだ、そんな設定」
「それは勘弁してくれ。俺のアイデンティティに関わる。生き方を曲げるってのは死ぬのと同じさ。君だってそうじゃないか?」
死ぬつもりなど俺にはない。
『男を上げる』とかわけの分からないマチズモに迎合するのも御免だ。
だから俺がこの妄想に付き合って危地に飛び込む理由があるとすれば、それは。
「俺はストレスを溜め込むのが嫌いなんだよ。不快な連中は健康のために殺すに限る」
「それが君の美点だよ、親友」
下らないやりとり。他愛ないごまかし。
お互いにわかっている。これは最後の戯れだ。
この戦いが終わったら、俺たちに次はない。
己を曲げれば死ぬのと同じ。曲げずに進めばそこは死地。
いずれにせよ、俺たちはいつか死ぬ。
目の前に死はあった。いつだってそこにあった。
俺たちは、最初からそれを知っていた。
キツイ上に無謀、とびっきり悲惨でとびっきりハード。
なんてことはない。多少の危険があった方が人生は楽しめる。
拳を握る。右の義肢と左の幻肢。
存在しない幻の感覚は頼りないが、今は隣に同じ幻を感じている。
理由もなく、機械的制御もなく。あらゆる不安が消え去るのを感じた。
なるほど、イオは正しい逃避を選んだ。脳内彼氏は脳によく効く。
「発勁用意」
勝負は一瞬。サボテンから飛翔していく蛇を咥えた鷲のビジョンが実空間と重なり、アストラル界に爪を立てる。直後、生贄を取り込んで熱に変換する奇怪な装置が爆発。
上空で見張っていたカラスは既に俺の制御下にある。
混乱する敵集団を奇襲し、魔導書制御の檻を遠隔で解錠。
俺が作った隙に本命が生贄たちを救い出す。
目当ての人物はひとりだけだが、理想的な英雄は優しく在るものだ。
かけ声と共に走り出す。疾走する伊達男、『幻掌』で吹っ飛ばされる牛人、ナイフや斧を構えてこちらに殺到する敵、敵、敵。
そして、反対方向で発生した巨大な爆発。
「爆発?」
なんと都合のいい展開だろう。
完璧過ぎるタイミングと運の良さに作為的なものを感じてしまう。
俺たちが広場に踏み込むのとほぼ同じタイミングで別の集団が襲撃を仕掛けたのだ。
耳がヒレのようになっている魚人の集団。率いているのはカエルじみた体格の初老男性である。劣勢に置かれていたカエル爺たちが反撃に転じたのだ。
魚人たちは中洲広場の周囲に流れる川にじっと隠れ潜んで機会を窺っていたのだ。
というより、この街の中心部がこのような立地になっている理由がこれだ。
魚人たちにとっては交易、移動、防衛、拠点奪回、あらゆる行動で有利を得られる絶好の地形。牛人たちは魚人たちのシンボルを破壊しつつ宗教活動をアピールすることで勝利宣言でもしたかったのだろうが、それは愚かな選択だったと言えるだろう。
この混乱、利用しない手はない。魚人たちが一斉に投擲した銛の射線を『弾道予報』で視覚化しつつ乱戦の間隙を縫って疾走する。漁師たちによる牛追い祭りが始まり、血飛沫が荒天の波のように飛び散る。牛人たちは魚人たちの奇襲で動揺し、まともな連携がとれていない。さらには乱戦を強要された結果、そこかしこで同士討ちが発生していた。
襲いかかってくる敵を片っ端から殴り倒して進む。
俺が開けた檻から逃げ遅れたイオはまもなく生贄に捧げられようとしていた。祭司らしき牛人が虚ろな目の修道女を強引に引っ張り出す。
罵声、命令、命乞い、あらゆる絶叫が響く混乱の中。
誰かの世界を救うための声が真っ直ぐに響いた。
何も映していなかった瞳に光が灯る。
イオの目が、何もない空間を見上げた。
戦場に風が吹く。
それは冷たく、しかしどこか爽やかな流れだった。
風に乗って響くのは男の声。
それは柔らかく、それでいて力強く救いを待つ犠牲者たちの耳に届いた。
「そこまでだ、悪漢ども」
その男の姿を見て、大脱走の途中だった女たちは命の危険も忘れて足を止める。
逃げ遅れることよりも、男の顔を見つめることの方が重要に決まっている。もしかしたら彼はこちらに微笑んでくれるかもしれないではないか。
それは都合の良い幻想の形をしている。
望まれたがゆえにそこにあり、望むほど強く地を踏みしめる。
確かな存在感が乱闘を繰り広げる牛人と魚人、双方の手を止める。
一瞬の静寂。
誰もがその男を見た。屈強な肉体、高く持ち上げられた足、鋭く空を裂く軌道。
万人がそれを認識した。誰もがそれが事実だと理解せざるをえなかった。
牛人の司祭の側頭部を穿つ、強烈な蹴りの衝撃を。
強くて頼りがいのあるダンディでセクシーな彼氏。我らが主役の登場だ。




