2-10.一方通行の妄想彼氏
そいつには名前がなかった。女は設定を作り込まないタイプだったからだ。
それでいて強さと美しさのイメージだけが明白なものだから、俺の目に焼き付いた力強い伊達男の姿は未だに消えてくれずにいる。
その結果がこれだ。俺は酔いと興奮が見せた集団幻覚を一人になっても見続けている。こんな頭のおかしい奴はこの世界に俺一人かもしれない。
「気にするなよ。良くあることだ。特にこんな街では」
幻覚の男はそう言って笑った。
女を教会に送り届けた俺は、即座にその場を立ち去ろうとしたのだが、思わぬ再会によって強引に引き止められることになる。
闘技場で俺を助けた恩人、ブルドッグ男のプーハニア。
どういうわけか槍神教に身を寄せていたかつてのチャンピオンはやたらとキロンに信頼を寄せており、俺を見るなりがっしりと肩を掴んで再会を喜んだ。
プーハニアの勢いに流されるまま、なんと俺は一夜を教会で過ごすことになった。
善良な騎士様キロン様も当然のように喧嘩で消耗した俺を夜の街に放りだすなんてことはできなかったらしい。ブルドッグ男もうっとうしく纏わり付くものだから、とうとう俺は観念してそこに厄介になることを決めた。
正直に言えば、助けた修道女のことが気になっていたことが大きい。
より厳密に言えば、彼女と共に現れた謎の伊達男のことが、だ。
目を瞑れば消える。
開くと当然のようにそこにいる。
夜の路上をリングにして殴り合った伊達男。
今のところ、俺にしか見えていない幻覚。
こんなことがあり得るのか?
自己診断をかけたくなる自分を抑えて現状を維持。
『幻掌』のこともある。この世界ではこういうこともあるのかもしれない。
与えられた部屋の寝台に座って窓際に立つ男をじっと観察する。
見れば見るほど現実に存在するようにしか見えない。
幻覚というのは脳の誤作動だ。視覚というのは脳が処理する情報に過ぎないのだから、脳が『在る』と認識したものは現実と等しくなる。
そしてこの幻覚は俺のものではない。
いわゆる空想の友人。心理学で言うところのイマジナリーフレンドやクランテルトハランス、あるいはネット・カルチャーの中で俗化された思念体。
男によれば、彼は融合体として牛人に囚われていた女性の脳内彼氏であるという。
『こんな強い男が自分の味方だったなら』という切実な願い。
女性が苦境に置かれたことで願望は周囲にも波及し、その場にいた誰もが集団幻覚を目撃し、奇妙な体験を共有した。
この異世界の神秘を規定する諸法則は、アストラル界というもうひとつの見えない世界と密接な関わりがあるらしい。もしかすると、この伊達男が見えたり見えなくなったりするのもそれが何らかの形で影響しているのだろうか。
キロンが現れた瞬間、彼女は現実に心を奪われてしまった。
そこで夢が醒めるのならともかく、俺に引き継がれているのはどういうことだ?
「世界と関わり、他者と繋がりを得た妄想や幻は存在としての承認を受けて形を持つ。『そういうこともある』でいいじゃないか。脳内彼氏だろうとクランテルトハランスだろうと、信用に値する友人は貴重だぜ? 特にこんな荒んだ街では」
伊達男は自分が非実在の人格だということを認識しているらしい。
自覚していながらさも自由意志があるかのように振る舞っている。
馬鹿馬鹿しい、これは俺が想像して望む言葉を喋らせているだけだ。
これが俺の願望? おいおい冗談だろ。
「悪いが話相手なら間に合ってる。なあゴア」
「ギョゴァ」
語りかけると何故かあまり元気がない。なにやら俯きがちに考えこんでいるようにも見えるが、拾い食いでもしたのだろうか。達人に指摘されてからこまめにおやつを食べさせるようにしているのだが。
「確かに、そんなチャーミングなお相手がいるなら寂しくはないだろうさ。だが拳を交えるなら、そこのレディよりは俺の方がふさわしい。そういうことじゃないかい」
「なるほど訓練相手か。いやまて、何だって? こいつレディ? メスだったの?」
「失礼な言い回しは紳士じゃないぜ。女性への言葉づかいは優しく、繊細にだ」
「ゴーアゴーア」
言われてみれば、達人は呪われ者とか言っていたし元は俺と同じような『人間』であった可能性が高い。あまり気にしていなかったが、女性であるということも十分にあり得た。これまでの行動を思い返し、何かまずい行動をしていなかったかを確認する。
「セーフ。セーフだよな?」
「ゴァア」
そう言われてもなにもわからない。
頭が痛くなってきた。疲労が蓄積しているのだ、きっとそうに違いない。
「寝る」
「そうかい。おやすみ」
目を閉じて横になる。
頼むから夢であってくれ。というか、起きたら消えていてくれ。
俺はまだ自分が狂い始めたことを理解したくない。
意識を閉じて悪夢の中に沈む。
眠りながらでも『E-E』は機能するのが救いだった。
いつものルーチン。見慣れた景色。苦行のようなノルマを繰り返す。
森を抜けて、流れていく血と永遠の時を見なかったことにしてやり過ごした。
明晰夢が醒めると、目の前に伊達男の顔があった。
殴り合った痕など残っていない。非実在の強みか、一晩で完治していやがる。
「勘弁してくれ。マジかよ」
「いや? もちろん非現実だ。おはよう、ねぼすけ君」
つまりこういうことだ。
俺はこの妄想の伊達男がいる日常を受け入れなくちゃならない。
幻の左手に続いて、幻の脳内彼氏までもが現れた新たな日常を。
犬人たちの視線を感じる。噂されている気配も。
どちらがよりましだろう。
『一流のシャドウボクサー』と『演技派のイメージトレーニング狂い』と。
こちらの様子を窺っている見物人たちは、きっと俺の事をこんなふうに呼んでいることだろう。渾名としてはどちらも御免被りたい。
「どうした、来ないのか?!」
挑発する伊達男は上体を揺らしながら両腕を顔の前に持って行く。
あからさまに下段への攻撃を誘っていた。
付き合うのも悪くない。特にこうした訓練では、実戦ではあまり選ばないパターンを試すことには大きな意味がある。
突きと下段蹴りに加えて、この相手ならば『左腕での攻防』も積極的に試していける。
なにしろどちらも存在しない。同じフィールドにあるのだから、俺たちの条件は最初から五分と五分だ。
俺たちは教会の中庭、その片隅を借りて訓練を行っていた。
傍目から見ればそれは精度の高い模擬戦闘だ。
本当に打たれたかのような反応、本当に打っているかのような気迫。
衝撃が実際に肌を振動させ、痛みが動きを鈍らせる。
俺の正面には誰もいないにもかかわらず、間合いを巡る駆け引きの応酬は実戦さながらだ。犬人たちにしてみれば、俺はイメージトレーニングの達人に見えることだろう。
「だはは、お前リングの外でも演技派じゃねえか。普通はそこまでやらねえって」
見物していたプーハニアが半分賞賛、半分失笑という雰囲気で混ぜっ返してくる。周囲にいた仲間らしき犬人たちも似たような表情だ。
まったく見る目がない連中め。幻覚が見えるから何だ。
俺は路地裏でたむろしながら注射針を使い回す奴らとは違う。
金を払わずに無料で勝手にキマってるわけだから、闇市場に金を流して犯罪組織のクズどもを肥え太らせるより遙かに経済的だと言える。
俺はクリーンに狂っている。笑われるいわれなどない。
無害なシャドウボクシングの傍ら、午前のうららかな陽気を受けてキロンが筆を走らせている。大型の石板端末にタッチペンを走らせ、激しく動く俺を見ながら柔らかに微笑む。シンプルな白シャツの私服を押し上げる屈強な肉体はこの場にいる誰よりも戦場に似付かわしいが、文化的な創造を楽しむその表情には意外にも少年のような稚気が宿っていた。この男にはむしろ絵筆のほうが似合っているのかもしれない。
「キロン様、苦茶が入りました」
と、傍らにある白木のテーブルにトレイが置かれた。
昨晩、俺たちが連れ帰ってきた女性だ。名前はイオ。本名かどうかは翻訳の仕様と俺の正気が疑わしいためよくわからない。
その装いは昨日とは違って頭巾に修道服という質素な白黒に変わっている。こうしてみると確かに修道女としての姿はぴったり嵌まっている。
頭巾を押し退けて自己主張する牛の角はかなり目立っているが、見慣れてしまえばそういうものと受け入れられる外見だ。
イオはティーポットを持ち、黒い茶をカップに注いでいく。キロンを見つめる表情といい潤んだ瞳といい、その内心は明白だった。
などと横目で窺っていると、隙を突かれて伊達男にいい一撃を貰ってしまう。
失態だった。今となってはこの男は俺の仮想訓練相手。
俺が集中を欠いては意味がない。
目の前の伊達男、その表情を窺う。
感情を読み取ることはできないが、本当にこれでいいのだろうか?
俺という敵と『強さ』を競い合う。それはひとつの楽しみではあるのだろう。
しかし彼に求められた『強さ』とは、『強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏』という理想像を体現するためのもの。
彼が彼であるための、つまりこう、いわゆる愛の証明ってやつだ。
実在する美貌の騎士。そんなものをこの非実在の彼氏は許せるのだろうか。
「侮るなよ。女の幸せを喜べるのがいい男の条件だ」
流石は非実在。物分かりがいい。
もやもやしたものを抱えながら打撃と思考を交互に繰り返す。
イオにしてみればこの状況こそが『あるべき姿』なのだ。
脳内彼氏の幻覚など普通に考えて不自然な異物でしかない。
「彼、ずっとああして訓練を? 私に振られたのがよっぽどショックだったのね」
「驚いたな。君たちの間でそんなことが?」
「はい。あ、誤解しないで欲しいです。元カレって言っても、なんていうかちょっと私が勘違いさせちゃったみたいな感じで。彼、すこし思い込みで先走るタイプで。根は悪い人じゃないんですけど。私がお慕いしているのは、そのう」
口を挟みたいが絶対に近寄りたくない会話が聞こえてきて精神に良くない。
というか昨日も思ったことだが、イオという女、なんというか言葉を選ばずに言うとかなりこう、地雷なのでは?
いや悲惨な境遇なのはわかるのだが。そういう言動がこう、こっちに向くと色々と思うところもありコメントに困るというか。
「ふ。なるほど、彼はそういうタイプか」
妙な納得をしながら、キロンは絵を描き続ける。
犬たちの食卓を描いた光景。修道女たちが畑仕事や炊事を行う日常風景。
医療修道士たちが献身的な治療と看護を行う時間。
そして今は、独りで寂しく虚空を殴りつけ虚空に殴られてよろめく狂人の姿。
瞬間を切り取って固定された一点に封じ込める。
彼はきっと世界を美しいものとして捉えている。
あるいは、美しくあるべきものとして。
この安らかな時間を守りたいという尊い願い。
切り取った瞬間は永遠だ。世界を一枚の絵画にすれば、その時間には終わりが来ない。
止まった時間の中で、俺たちは永遠の安らぎを得ることだろう。
そう、キロンが描く世界は美しい。
正しい人、まっとうな人、善き人、美しい人。
正常な人生を生きる者たち。
俺ではない誰かの物語。
槍神教のやり方は肯定できない。だが、ここではあまりにも普通の人々が、素朴に善良に平穏な暮らしを送っている。
ティリビナ人たちの信仰と暮らしが脅かされる一方で、槍神教によって信仰と暮らしを守られている人々がいる。
果たして俺はイオに言えるのか?
地獄のような苦境から逃れてきたばかりの被害者に、『お前に安らぎを与える槍神教はティリビナ人たちから安らぎを奪っているんだぞ』などと声を荒らげて説教するのか?
馬鹿を言え、俺は断固として拒否させてもらう。
安らぎに満ちているからこそ、ここはひどく居心地が悪い。
俺はこんな場所でも間が持たずに独りで殴り合いを始めるような男だ。
目の前で伊達男が笑う。
「自己卑下はするなよ。ストイックなんだって誤魔化すくらいがちょうどいい」
「フォローどうも」
深層意識による自己弁護だ。救いようがない。
いずれにせよ、俺の居場所はここじゃない。
急いで情報を集める。そうすればこんな場所に用は無い。
伊達男との訓練を終えてからイオの下に向かう。近くで絵筆を取っていたキロンがこちらを見るが、今は無視。
「少しいいか。思い出しづらいことだと思うが、牛人たちのところにいた時のことを聞きたいんだ。その角を付けられる時、『青い血』を使われなかったか?」
「えっと、うん。あいつら、何度もよくわからない注射みたいなことしてきた。食べ物にも混ざってたみたい。私よりその、ひどいものと一緒にされた子は、頭からバケツ一杯のあれをかけられてた」
つらい記憶なのだろう。青ざめた表情で語るイオの瞳は不安定に揺れていた。
「ねえ、あの変な液体、何なのか知ってる? 私、あれからずっと忘れられなくて、今でも、なんだか身体が熱くなるみたいで」
直前まで、イオの様子は比較的穏やかに見えた。
だが俺は軽率なこの問いかけを悔やむことになる。当時のことを思い返したことで、彼女の傷はあまりにもあっさりと開いてしまったのだ。
どろり、と口から流れ出したそれが何なのか、俺は最初理解できなかった。
「え?」
イオにとってもそれは予想外の出来事だったのだろう。
自分が吐血していることに驚き、その色が青いということに戸惑い、それから小刻みに全身を震わせて甲高い叫び声を上げる。
引きつけを起こしたかのように顔をくしゃくしゃに歪め、肩を掻き毟りながら泣き喚く。俺やキロンが駆け寄ろうとしたその時、イオは出し抜けに服をはだけた。
男の前で乳房を露出するという行為。
惚れた男の前でというならその意図は明白だし、この教会が医療の場であることを考えればそちらのケースも想定可能だ。しかし、今回はどちらでもない。
「嫌、嫌、嫌、離れて、気持ち悪い、出てって、出て行けっ」
融合体としての部位を晒しながら悲痛な叫び声を上げるイオ。
牛のごとき複乳。青い液体が不自然に凝固して後付けの部位と肉体を接合していた。
涙を流し、引っ掻き、最後には引き千切ろうとし始める。
キロンと俺は必死になって取り押さえる。
錯乱するイオは極めて危険な精神状態だった。
呼吸は不規則な上に荒く、目は血走り、小刻みな痙攣を繰り返している。
不意にうずくまったかと思えば嘔吐き、口だけでなく目や鼻、乳房の接合部から次から次へと青い血を垂れ流していく。
激痛を伴うのか、女性は苦しみに喘ぎながらのたうち回った。
すぐさま騎士が治療のためにその場から運びだそうとするが、直前になって動きを止めた。激しく動きまわる女性が何かを懐から取り出そうとして、誤って床に落としたのだ。小型のケースに入ったカプセル。何かの薬らしきそれは作りが雑なのか床に散らばった衝撃であっけなく中身を零していた。
薬物の中身は融合体を苦しめている青い血と同じに見えた。
女性は飛びつくように床にへばりつき、溢れた血を舐め、啜り、貪った。
すると嘘のように女性の表情が和らぎ、激しく乱れていた呼吸が落ち着いていく。
おそらく、俺を含めたその場の全員が最悪の想像をしていたはずだ。
拉致した女性を融合体として改造し、商品として売りさばく牛人たち。
既に悪鬼の所業と言えるが、事態は更に深刻だった。
人を融け合わせる青い血。
それを舐めるイオの表情は甘露を味わうかのように恍惚としていた。
俺はこれに似た表情を知っている。
極上の快楽を味わい、路地裏で涎を垂らす麻薬中毒者たちだ。
『青い血』は依存性の強い薬物にもなり得るのだ。
もし牛人たちが『商品』が脱走した時の保険として女性たちを薬物漬けにしていたとしたら? 薬が切れた瞬間、禁断症状に苦しむ彼女たちはそれを求めずにはいられない。
そうなれば忌まわしい薬物を独占する牛人たちの下に戻るしかなくなるだろう。
薬の残りはあとわずかだ。
その上、心の拠り所を失った事でその精神は大きく傷ついている。
絶望的な状況だった。『強くて頼りがいがあってダンディでセクシーな彼氏』は、だからこそ必要とされていた。
「もう大丈夫だ。俺がいる」
求められたとおりに傷ついた女を抱きしめる。無慈悲な現実から女を救い出す、ただそれだけのために男はこの世界に生まれてきた。
それからイオは医務室に運び込まれた。心を専門とする医療修道士やカウンセラーたちによって診察と治療を受け、戻って来た女はすっかり変わり果てていた。
「お兄さんたち、だあれ?」
イオの精神の傷はどうしようもないほどに深かった。
心の時間が巻き戻り、幼い少女のように振る舞う。
手作りのお人形でごっこ遊びを繰り返し、大柄な犬人たちに怯えながら同僚であった修道女の背に隠れる日々。
その傍らには常に妄想の友達がいた。彼はずっと一緒にいてくれた幼馴染みの少年。成長した今は強くて頼りがいのある優しい恋人。
時系列と設定は歪み切っている。あるいは、妄想の最初の形はただ寂しい少女に寄り添うだけの友達だったのかもしれない。
少女にしか見えない幼馴染みの少年。
成長した女性はやがて架空の友達を必要としなくなったが、どうしようもないほどに残酷な現実が他愛ない思い出を必要としてしまった。
妄想には寄り代が与えられていた。人形という物質はこの瞬間に俺が用いる義肢と似たはたらきをしていた。人形は少女の前でひとりでに動き出す。
これも一つの救いの形。
これが彼の本来の姿だ。
望まれた在り方。正しい意味。しかしそこには痛みしかない。
俺とただ殴り合う時間、その気楽な表情を思い返す。
男は変わらず、優しい笑みを浮かべ続けていた。