すべてのはじまり -6-
天井が見えた。
天井には、熊と蛇が口を開け争っている絵が描かれていた。それはデイン城の私の部屋の絵だった。私は、自分の部屋で仰向けの格好で倒れていることに気づいた。
次に、顔に差し込む光を見て、今は何時ぐらいだろう、と思った。
昼……? いや……、夕方?
時間的な感覚がなかった。
ずっと寝ていたような気がしたし、そうじゃない気もした。不思議な感覚だった。
私は大きく息をつくと、とりあえず、ゾーイに説明を求めようとした。私は寝た姿勢のまま左右に目を動かし部屋を見回した。
――ゾーイは? ゾーイはどこ?
ゾーイの姿が無かった。
異臭の残り香さえも無かった。
私は床に手をつくと、体を少し起こすために腕に力を籠める。
体が鉛のように重かった。頭も痛かった。それに喉の奥がイガイガした。私は二三度せき込むと、ゆっくりと立ちあがった。足が生まれたての小鹿のように震えていた。
私は外の使用人を呼んだ。このままだと立っていられないと思ったからだ。
「ねぇ! ちょっと誰かいない!?」
案の定、私が叫んでもやはり静かなままだった。よほど使用人たちはお父様が怖いらしい。叫んだせいだろうか? 少し胸が熱くなり、また咳こんだ。喉の奥からヒュー、ヒューという音が聞えてきた。
私は自分の体の変化に戸惑っていた。
本当にいつのまに私はこんなに弱ってしまったのだろう。
震える足を支えきれず、私は壁にもたれかかるように座りこんだ。
――もうなんなの本当に……。
訳が分からなかった。体はおかしくなり、ゾーイもおらず、ゾーイが何の魔法を私にかけたのかも私には分からなかった。
一拍置いたあと、あの気持ち悪い魔法は具体的にどんな効果をもたらす魔法だったのか、と考えた。魔法をかけられた以上、なんらかの変化がある筈だ。少なくとも私はそう考えていた。
絵本の中の主人公は魔法をかけられると素敵なドレスに身を包んだし、カボチャは馬車になった。ねずみなどは馬にさえなったのだ。
だが、私は自分の体のどこに変化があったのかさっぱり分からなかった。体が鉛のように重く、足がふらつき、よくせき込む……。その程度の違いしか見つけることができない。とにかく様々なことをゾーイに聞きたかったのだが、ゾーイは姿を見せる気配すらなかった。
もう逃げてしまったのだろうか。戻ったとしてもお父様に殺されるのだから。そう考えるのが自然なようにも思えた。
つまり、ゾーイはいない。現れもしない。
私は、一度大きく息を吐くと、次にうなだれた。
となると、何もかもが謎のままだった。
私は少し顔をあげた。すると、不意に縦長の鏡が目に入った。体の全身が映るタイプの鏡だ。壁にもたれかかっている私から見て部屋の反対方向にそれはあった。
全身を見れば何かが分かるかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
魔法の痕跡のようなものが体のどこかに残っているかもしれない、と思ったからだ。頭のどこかでは、馬鹿な考えである、との声も聞こえていたが、とにかく私は答えが欲しかった。死の運命から逃れる為の魔法であるはずなのだ。ゾーイは確かにそういうニュアンスの言葉を吐いた。
私は床を這って縦長で体の全身が映る鏡の前まで行くと、重力に抗うように立ちあがった。
鏡には、私の全身が映っていた。
いつのも私だった。
服はほとんど寝巻のままで、髪もいつもの金色。ややボサボサだったが、軽く手櫛でとくとツヤが出た気がした。胸の大きさも普通だった。私は寝巻を脱ぎ裸になった。白い体が鏡に映る。
体のどこにも痕跡などはなかった。足の先から頭のてっぺんまで、悲しいぐらいにいつもの私だった。そう顔も、いつもの私のままだった。私が嫌いな私の顔のまま。
私は、極端に目が大きくギョロッとしており、少し大きな口も相まって、まるでトカゲのような容姿をしていた。お父様もお兄様も弟もそう。少し違うのはお母様ぐらいで、これが「デイン家の血を受け継ぐ者の顔」だった。だから、心無い人は、私達のことを「トカゲ一家」と呼んだりもした。
私はガッカリした。何も変化などなかったではないか、そんな事を思った。
すると、不意に頬を涙がつたった。
ガッカリしたからではない。
微かな記憶があったのだ、体をぐちゃぐちゃにされたような記憶。全ての骨が折れ、体の全てが溶かされてしまったような記憶。
何か化物のようなものに作り変えられてしまったような記憶があったのだ。
でも違った。そうじゃなかった。
安堵の涙だった。
私はどこかでホッとしていたのだ。私が私であったことに。
私は軽く笑った。
心が軽くなった気がした。
私はなんだか、ゾーイが現れたことさえも夢であった気がしてきた。
現実感が無かったのだ。閉じ込められた部屋にゾーイが突然現れるなんて。
私はゾーイの口から「自分は魔女である」という言葉を聞き、その先の物語を自分の頭の中で勝手に想像してしまっていたのではないか。
――きっとそうだ。そうに違いない。
あの言葉だってそうだ。私を含めたデイン家の者がみんな殺される、という言葉だ。
だから、恐くてありもしない夢を見てしまったのだ。
あれはきっと北方の蛮族が私達を不安にさせるためについた嘘に決まっている。なにせゾーイはキルローリアンなのだ。
朝の出来事が全て夢なら、きっと扉も簡単に開く筈だ。私はそう思った。
私は半笑いのまま壁に手をつき、扉に近づいた。
一歩一歩の足取りが重かった。だが、心は妙に軽かった。
やっと問題を解決できた。そんな気になっていたからだ。
私は扉の前までくると、少し息を整えた。それから口を引きしめ、ゆっくりと扉の金具を引いた。
ギィー、という情けない声をあげ、扉は呆気なく開いた。
やっぱり夢だったんだ。
そんな気持ちが私を支配しようとしていた。
だからだろう。
私は安心しきった顔で扉の外を見た。いや、見てしまった。
それを見た瞬間、私は再び意識を失った。
扉の外には、消し炭の様な黒だけがあった。
全てが黒だった。
廊下の手すりも、廊下も、広間も何もかもが黒だった。それらは焼け落ち、変形し、原型を留めていなかった。
さっきまでここは城であった筈なのだ。
だが、あったのは、ただ、積み上げられた黒い石だった。
広間を照らすシャンデリアも、廊下に続く燭台も、鏡も、化粧台も、何もかもが無かった。いやあったのかもしれない。しかし、それら全てがことごとく原型を留めず、元が何であったかなど分かるはずがなかった。
天井から水がポタリポタリと滴っていた。広間では鳥が鳴き、食卓では蛙が合唱し、滴った水で床には水たまりが出来ていた。
もうそこには誰もいなかった。お父様もお母様もお兄様も弟も、誰もいなかった。
それが“今”のデイン城であった。