すべてのはじまり -2-
幼い頃の私は魔法がある世界を望んだ。
絵本の中のヒロイン達はそれを使い、奇跡の力を発揮し、王子と結ばれたり、また、身の毛もよだつような悪に打ち勝ったりした。
だが、数年もすると気付く。そんなものなどが無いから絵本になるのだ。皆が無いと知ってはいるものの、あればいいな、と想像するから絵本になるのだ。
私も、あればいいな、と願った。
それは14歳になった私の心の奥底にひっそりと残っていた。
いや、消えたと思っていた。しかし、そんな幼い願望が私に残っていたと後に知る事になる。
キルローリアンの女は「ゾーイ」という名だった。
いや、本当は違うらしい。長ったらしいうえにとても発音ができそうにない単語が混じっているので、お父様が略称を勝手に「ゾーイ」と決めた。
ゾーイは鎖を足首にまかれ、外の馬小屋の近くの壁に固定されていた。今は冬だった。私はあの女を見る度におぞましさで足がすくんだが、寒さで凍える彼女を見ると、やはりどこか胸が痛んだ。
私は、何故あの女をわざわざ城に連れてきたのか、とお父様に尋ねた。
お父様の答えは単純明快だった。
あの蛮族共を率いていたのがゾーイだったのだ。
お父様はゾーイからキルローリアンの情報を絞れるだけ絞り取ろうと考えているようだった。幸いゾーイはミッドランドの言語にも通じていたようで、お父様はそこも気に入っていた様子だった。
とにかく、毎日馬小屋の近くで拷問に近い行為が行われた。
城は時折彼女の叫び声で満たされた。
私はお父様に言われていた事があった。それは彼女に絶対に近づくな、という事だった。何故かは詳しく言われなかった。危険だからだ、とだけ言われた。
私にも彼女がなにか恐ろしい生物に思えていたので、ただ首を縦に振った。
この約束を破るわけがない。
今思うと、約束を破らない、という想いは非常に漠然とした気持ちだったように思える。
きっと、それがいけなかったのだ。
ある夜だった。
しんしんと雪が降っていた。
私は頬杖をつき、城の窓から外の景色を眺めていた。
白いふわっとした雪がゆっくり大地へ降り注ぎ、月明かりがそれを照らし、見渡す限りの大地が白く光るその様は本当に幻想的だった。
ふと視線を馬小屋あたりに移すと、寒さに凍え肩を震わすゾーイが見えた。
彼女の事が気の毒に思えた。
震える姿はどこからどうみてもただの人で、どんな脅威にも成りえない人物のように思えた。
もちろん警戒心はあった。だが、彼女を見ていると、むしろ赤い目をしているからといって彼女を怖がる自分が酷く卑しい人間のように思えてきたのだ。
毛布をあげるぐらい良いのではないか。
そう思った。
そうすればきっとゾーイも多少はミッドランド人に対し優しい気持ちを持てるようになるかもしれないし、何よりこのままだと彼女は死んでしまうようにも思えた。
私は使用人のメリッサに毛布を持って来させ、それを脇にかかえ、勇んで外に飛び出した。
外はまさしく凍てつくような寒さだった。
鼻の中まで一瞬で凍った気がした。
一回大きく息を吐き、私は雪の中を走った。すると、手燭を手に持つ私の瞳は、馬小屋の奥で震えるゾーイを捉えた。
ゾーイは全身がひきつけでも起こしているのかと思えるぐらい震えていた。
私はそろりとゾーイに近づくと、膝を折り、まるで小動物でもいたわるようにそっと毛布をかけてあげた。
驚いたように大きく目を開けたゾーイは、私と毛布を交互に見比べると、僅かにはにかみ「ありがとう」と、言った。そして、毛布を深くかぶり、素早く私の手を握った。
「ようやく会えたわね。アナスタシア」
少し驚いた。
それは私の名前だった。
何故私の名前を知っているのだろうか、と思った。
目蓋がピクリと動き、少し後ずさりすると、私の冷たい手を強く握りしめたままのゾーイは続ける。
「ごめんなさいアナスタシア、あなたを驚かせる気は無かったの。でもたった数週間だったけど一年ぐらい待った気がしたわ」
私はゾーイに手を握られながら私自身も急速に冷たくなっていくように感じていた。ゾーイは、そんな私を気にする素振りもなく、更に笑顔になり、言った。
「あなたのことは何でも知ってるわアナスタシア。お城での生活がつまらないんでしょう? もっと世界が幻想的になれば良いと思っているんでしょう? 魔法があればいいなと思ってるんでしょう?」
私は段々怖くなってきて手を振り払いたい衝動に駆られた。しかし、固く握ったゾーイの手は私を放そうとしなかった。そして言った。あの言葉を。
「魔法を使ってみたいんでしょう? できるわよ、あなたなら」
この凍てつく寒さでこの女はおかしくなったのだろうか、と思った。
しかし、それと同時に、少しだけ、ほんの少しだけ心の内側の扉がノックされた気がした。
ゾーイの唇の片方が吊り上がる。
「私は魔女。魔女イカロッゾ=ラ=ズラァーイ、私はあなたに会う為にここまで来たの」