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母、太后エミリアの秘密  作者: りんご
アナスタシア
36/37

長い夜の終わりは、静かな満月の下で




 いつ頃からだろう。

 目を瞑ると、あの光景を思い出すようになった。

 視界一杯に広がる白。雪が空から舞い降り、段々と大地が白くなり、やがて視界の全てが白となる。それは、まるで大きくて白いパンの生地を大地一杯に押し広げたような……、そんな光景だった。それは、私の原点であり、私が私であるという証。


 だからたぶん、私は今、目を閉じていた。一秒でも長くそれを感じていたかったからかもしれない。しんしんと私に降り注ぐ雪達がいつも傍にいてくれる。それを思い出すと不思議と怖くなくなるのだ。


 声が響いてきた。しわがれたいつもの声が。




「どうしてなのアナスタシア! 何度も言ったでしょう! なぜ分からないの? アベルが生きていると、あなたは死ぬの!」




 そう、たぶん死ぬのだろう。

 ゾーイの言葉は嘘ではない、と私には分かっていた。

 時空の歪み。

 その話を聞いた時、私はどこか納得してしまったのだ。

 大きな魔法には代償を伴う。

 これは、きっととんでもない大魔法。その魔法が生み出す歪は、計り知れないものであったに違いない。だから、ゾーイが分かったと、叫ぶずっと前から私には分かっていた。



 私とアベルの重なり合う時間は、きっと、わずかだ、と。



 私はゆっくりまぶたをあげた。

 月明かりの青い光が窓から廊下に差しこみ、ゾーイの顔がみえた。久しぶりにその顔をしっかり見た。出会った頃のままのゾーイだった。

 鼻は折れ曲がり、歯は欠け、不気味な赤い瞳がしっかりとこちらを捉えていた。

 ゾーイは声をはりあげた。


「アナスタシア聞いて。アベルはね――」

「分かっているわゾーイ」と私は遮るようにして答えた。「きっとあなたは正しい。アベルを殺さなければ、私は死ぬ。そうなんでしょう? ゾーイ」


 ゾーイの顔が明るくなった。

 やっとわかってくれた、という顔をしていた。



「でもね」と私は続けた。「アベルは殺さない。なにがあったとしても殺さない。死ぬのはあなたと、そして私」



 みるみるゾーイの顔が青ざめてゆくのが分かった。

「なぜ? なぜなのアナスタシア。おかしいでしょう? ねぇそう思わない? まともじゃないわ。なぜそんなおかしなことを言うのアナスタシア。

 だっておかしいでしょう?

 あなたは生きなければならない存在なの。あなたは根源の魔女。その中でも崇高な原始の魔女なの! すべての猿共が死に絶えても、あなただけは生きのこるべきなの! ねぇそうじゃない?」


 すべての猿共? 人間のことだろうか? 如何にもゾーイらしい言い回しだった。私は少し鼻で笑った。


「結局、最初から最後まであなたは私を何も理解しなかったわね」

「なにが!」とゾーイは叫んだあと、ゆっくりした口調で言った。「なにがそこまで不満だというのアナスタシア。あなたは今生き物としておかしな選択をしようとしてるから私はそれをとがめているだけなの。自ら死のうとするなんて。おかしいでしょう? どう考えてもね。ねぇそうじゃない? だから私はただ正しい選択をしてほしいだけなのよ」



 私はアベルを抱きかかえたままじっとゾーイを睨みつけた。

 ゾーイも押し黙ったまま、こちらを見据える。

 赤い瞳が光った。その光りに不思議とやさしさがあった。十分な静けさがあたりに満ちるとゾーイはおもむろに口をひらいた。


「ねぇ聞いてアナスタシア。まだ私に怒っているんでしょう? 私がライン=デインに全てを告げたことが、はじまりだったから。

 たしかに、私がラインに、王家の子である、という話をしなければ、乱は起こらず、あなたはずっとデイン一族と暮らしたかもしれない。そして、ある一定の年齢に達すれば、どこかにお嫁に行き、天寿をまっとうするか、そうでなければ病気になって死んでいたかも。

 まぁどちらにしろ、とても退屈な人生だった。

 ライン=デインだって、なにも気づかず、ただデイン公爵としてボケっとした人生を送るだけだった。ふふふ。たぶん、それだけだった。ミッドランドは平坦なまま。何もおこらず、静かな湖の水面のような歴史だったでしょうね。

 ねぇ、こう考えたことはない? 自分は他の人間よりもとても有意義な生き方をしている、って」


 知らないうちに私の眉間にしわがよっていた。ゾーイは話を続ける。


「それがどの程度有意義か、というのは時間の流れの早さで測ることができるのよ。人間は年をとるごとに時間が早く過ぎ去るって感じることが多いでしょう? 一度は聞いたことがあるはずよ。周りにそう言う人はいない? たぶんいるはずよね。


 でもね、それは間違い。それは思い違いってやつなの。


 年が時間を遅くするわけではないの。苦痛が時間を遅くするの。どうしようもない胸の痛みが人の意識を集中させ、まるで時が止まったように人の意識を活発にさせるの。


 どうアナスタシア。あの時のアナスタシアはとんでもない苦痛を感じていたようだけど、おかげで人よりも何倍もの時間を過ごすことができたのよ? それはとても素敵なことじゃないかしら? この考え方を、おかしい、と考える人ももちろんいるわ。でもね、人生を前向きに考えるためには必要な考え方よ。だからね。なにごとも前向きに考えるべきだと私は思うの。子供を殺された母熊のようにオスを受け入れればいいの。


 つまり、あなたは自分の未来を考えるべきなの。ほとんどの生き物はそうして生きている。過去は過去と思うべきだわ。今の私はあなたの味方。あなたの命が大切だからここにいるの。


 あなたは、私が見つけ出し、育てた原始の魔女。何にも代えがたい存在。あなたはもっと自分が特別な存在なのだ、と知るべきだわ。ねぇアナスタシアそうでしょう? もう一度イチからはじめましょう?


 この世界で最高の魔女になるの。全てを焼きつくし、全ての人々に畏れを抱かせるの。


 あなたならやれる。そのための資質も、資格もあるんだもの。足りないものは、冷静な判断だけ。

 よぉく考えて。そんな素晴らしい未来をドブに捨てるつもり?

 冷静になるべきなのよ。

 足を引っ張る存在を冷静に切り捨てるべきなの。そうして未来への足かせを外せばいいわ。あなたができないというなら私がやる。


 私は運ぶ者。

 あなたに尽くし寄りそう存在。

 あなたの存在こそが私の誇りなの。

 ねぇアナスタシア。もう一度二人ではじめましょう? もう一度最初から」



 それは、とても不思議な感覚だった。私はアベルを大切に思い、ゾーイは私を大切に思っていた。私達はともに自分を殺そうとする人間に愛情を感じていた。腕の中のアベルが寝がえりをうつように動き、安心しきったように微笑んだ。まだあどけない顔に、えくぼができ、まつげが小刻みに動く。私の匂いを感じて微笑んだのだろうか。


 このままずっとそばに居たかった。


 我等はデイン。共にデイン。そして最後に残った二人のデイン。


 二人のうち、どちらか一方しか生き残ることができないのであれば、どちらの命を生かすべきか、既に答えは出ていた。



「ねぇゾーイ」と私は言った。「私の気持ちをあなたに伝えるわ。あなたにとって、とても分かりやすい話でね」



 ゾーイは強張った顔のまま、私をみつめた。



「たしか前に言っていたわよね。カマキリが好きって。あの気持ち悪い、攻撃的な虫が。あの虫のどこが好きなのか私にはさっぱりわからないのだけど、今の私はそのカマキリに近いのかもしれない。あのカマキリのオスに」



 ゾーイは何も答えない。だから私は続けた。



「カマキリの交尾って知ってる? あなたが知らないわけがないわよね。とても残酷な交尾。オスのカマキリは交尾の最中、メスに食べられるの。それも頭からガブリと食べられる。それがオスの寿命。彼はそうして一生を終える。なぜ黙って食べられるのか、私には分かる。私はそれと同じ気持ちだから。

 彼はね、血が繋がってゆく喜びに逆らえなかったのよ。

 あなた流に言うと、そういう生き物の法則に逆らえなかったの。だから黙って死を受け入れるの。メスのお腹から生まれる子供は自分自身であると分かるから」



 ゾーイは唇を噛んだまま何も答えない。



「あなたなら分かるでしょうゾーイ。全ての生き物を同列に考えるあなたなら特にね。私はデイン。アナスタシア=デイン。魔女が子供を産めないというのであれば、私はどうすればいいわけ?

 生き物にとって子供を産めないというのは何よりの不幸であるはずでしょう?

 違う? デインの血が途絶えたら、全てが無駄になるの。お母様の死もお兄様の死もユスフの死も、お父様の死も。受け継がれないまま、全てが終わるの。さっき言ったわね、未来を考えるべきって。もちろん、それを考えない日はないわ。ユリウスもそれを気にしていたのかもしれない。私は、運ぶ者じゃない。あなたの狂信的な思想も関係ない。私は、ただ、未来を考えた時、血を残せる方が生きるべき、と考えただけ。だから、あとのことは――」



 ゾーイの体がこれ以上ないぐらいに素早く動いた。私の瞳はそれを追った。時間がそこだけゆっくり流れた。ゾーイの顔は青白かった。目がくぼみ、剥き出しの歯が見えた。そして、その映像がわずかにぼやけた。


 なぜ映像がぼやけたのか最初は分からなかった。

 だが、頬を伝う感触で分かった。

 私の目からは、涙が流れていた。




 ――ああ、そうか。今がその時なんだ。




 私の体がうっすらと光り、体の所々が欠け始めた。

 魔力なんてほとんど残ってなかった。だから、これが最後の魔法。


 ゾーイを見た。

 ゾーイは全力でアベルを殺そうとしていた。極限まで延ばされた爪をアベルに向け、その首を狩りとろうとしていた。すでに私の体の一部が薄くなりはじめていた。


 血走った目をしたゾーイの泣きそうな顔が見えた。私をこの世に留める為にはそれしかない。きっと、そういう判断なのだろう。私はアベルを強く抱きしめた。そして、円を描くように人差し指を回し、ゾーイに狙いを定めた。


 一瞬、ゾーイと目があった。


 目の奥に、悔しさと、不思議な温かさがあった。




 ――許して、ゾーイ。これが私の願いなの。




 私は指先にちからをこめた。

 円から黒い炎が飛び出し、それはあっという間にゾーイを包み、その体を貫いた。


 すべてがゆっくり見えた。


 ゾーイの全てが燃やされてゆく。鼻も、歯も、折れ曲がった体も、そしてあの赤い瞳も。

 次の瞬間、ゾーイを貫いた炎は大きな音をたて王宮の壁を貫いた。


 灰が舞った。ゆらゆらと、それは揺れ動き、ゆっくりと重力にひかれるように落ちてゆく。それはまるで雪のようだった。デインの白い光景。


 腕の中のアベルがまた寝がえりをうった。

 もう時間だった。

 私はゆっくりとアベルを床に置き、その頬を指先でそっと撫でた。やわらかく、愛しく、そして、その肌は生命力に満ち溢れていた。



「アベル。強く生きなさい。優しく、思いやりを忘れずに。そして、いつか……、いつかまた会いましょう。私達は、そうして巡り合って来たのだから……ねぇ……お父様……」



 王宮の壁に大きく開けられた穴から私に向かって月明かりが射しこまれていた。それはまるで私だけを照らしているようだった。私はゆっくりと立ち上がり、月をみた。

 満月だった。

 全てが満たされてゆくような気持ちだった。


 私は振り返り、床に寝転んだアベルを見た。

 私は少し鼻で笑うと、アベルに近づき、自分の肩に羽織っていた羽織物を、そっとアベルにかけた。アベルの呼吸にあわせ、羽織物がゆっくりうごき、長いまつ毛が見えた。それが私、アナスタシアデインの見た最後の映像だった。



 私は細かい粒子となり、月夜に溶けていった。

 それは、とてもとても静かな夜だった。

 いつもなら遠吠えを連ねる犬たちも、何故かその夜は押し黙ったまま、一度も吠えなかった。きっと静かに見送ったのだろう。



 原始の魔女の死んだ夜は、そんな静かな夜だった。




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