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母、太后エミリアの秘密  作者: りんご
王宮にて Ⅴ
35/37

ぼく -4-



 痺れていた頭が少しずつ働きをとりもどしてゆくような……、そんな感覚があった。それは生存本能のようなものなのだろうか。分からない。だが、急速に意識がハッキリしてゆく気がした。そして、意識がハッキリすればするほど、ゾーイの言葉が頭にこびりついた。



『あの邪魔者をこの時間軸から消し去るしか、アナスタシアが助かる道はないのだ』



 なんて残酷な響きなのだと思った。そして、それと同時に色んな感情がどっと僕の体に押し寄せた。


 それは、あまりにも一気に押し寄せすぎて、何が何だか僕には分からないほどだった。

 誰かに命を狙われているかもしれない恐怖。

 僕と母上はやはり血が繋がっていると知った絆の温かさ。そして、血がつながっているゆえに、よく分からない歪みとやらにひきずりこまれてしまった驚きと痛み。


 訳が分からなかった。


 その感情は津波のように縦横無尽に僕の中をかきまわし、僕の頭を極度の混乱状態に導いた。

 闇の中にしわがれた声が響く。


「う~ん。混乱しているのかしら。無理もないわね。一度に色んな話を聞きすぎたせいかもしれない。例えて言うなら、そうねぇ、子供を殺されたあとにオスの性交を受け入れる母熊みたいなものかもしれない。


 母熊はね、子供を守る。それも、死に物狂いで守る。みんな同じなのよね。生きとし生けるもの、皆、自分の血を受け継ぐ者はかわいい。でもね、発情中のオス熊は、まず母熊の子供を殺そうとするの。自分の種を植え付ける為にね。オスは知っているのよ。子供をもったままのメスは発情しないと。もちろん母熊は必死にそれを防ごうとするわ。子供を必死に守る。でも……オスに子供が殺されると、母熊はやっぱり発情し、そのオスとの性交を受け入れるの。


 ふふふ、この時の母熊の気持ちを考えたことがあるかしら? 私は人間もサルと同じと思っているからよく考えるわ。


 たぶん、きっと、訳が分からないじゃないかしら。憎しみと欲情が同時に自分の体を襲ってきて収拾がつかなくなる。もうグチャグチャな感じになるはずよ。でもね、きっと、それを解決するのが本能。内側から発する衝動がそれを選択するの。私達だって同じ。衝動が向かうべき場所に私達を導く。そういうものだと思うの。私達はきっとそういう衝動に抗えないようにできている。


 アベル、あなたはどう? あなたの体に残った衝動は何と言っているの? あなたの中の衝動はあなたに何を告げているの?」



 頭の中の混乱が一つの出口に辿りつきそうだった。

 母上とやはり血が繋がっているという話は嬉しかった。たとえ親と子が逆であったとしても、嬉しかった。そして、そのせいで母上が苦しんでいる話は悲しかった。辛かった。どうにかしてあげたかった。だが、それよりも、もっと深いところで僕の中の何かが反応した。


 鳥肌が立ち、目が泳ぎ、歯が鳴る。

 心臓がとてつもない速さで収縮を繰り返し、体中に酸素が届けられた。

 その感情は、恐怖という名の感情だと僕はすぐに気づいた。僕の体は、いまや、その感情によってはち切れそうな程パンパンに膨らんだ状態だった。


 日常的に死が近い人は僕のように敏感に感じないのかもしれない。それは分からない。だが、圧倒的な殺意を向けられていると知った時、僕の全細胞が、勝手にそれに反応した。

 思わず口走る。


「その“ある者”とは、今も僕を殺そうとしてるのか?」


 しわがれた声は笑う。

「ふふふ。そうでしょうね。ある者の願いは、あなたを殺すことでしか達成できないでしょうから」


 僕は苦虫を噛み潰したような気分になった。運命の皮肉を呪わざる得ない。

 僕か母上、どちらか一方しか生き残ることができないなんて……。そんな……、そんなことが……。するとゾーイはゆっくりと喋りはじめた。



「ある者はね、アナスタシアと共に生きたかった。それに素晴らしい魔女になってほしかった。派手に生きてほしかった。一度はアナスタシアの選択だと思い、子育てをするアナスタシアを放っておいたけど……。心の内側ではそう思ってなかった。彼女はもっと素晴らしい魔女になれる。世界中の誰もが、その名を聞いただけで震えあがるような、そんな素晴らしい魔女に彼女ならなれるはず。ある者は、ずっとそう思い続けていたの。

 だから……、そうねぇ……、ある者にとって、全てが重なったの。


 あなたを殺せば全て解決するかもしれない、って具合に。


 さっきの母熊の話を覚えているわよね? こんな短時間で忘れることもないと思うけど。まぁいいわ。とにかく、あの話の最も大切な教訓が何か分かるかしら? それはね、やはり母熊は発情した、というところにあるのよ。

 つまり、生き物には法則性があるのよ。

 アナスタシアは魔女。私が知る中で最も攻撃的で残忍な魔女。あなたは知らないでしょうけど、アナスタシアはそりゃあ殺人を楽しむ魔女だったのよ。焼きただれてゆく顔を見ながらうっとり微笑む事のできる女だった。殺されてゆく者の絶望を自分の喜びに変えることのできる魔女だった。


 素晴らしかった。


 あれは持って生まれた資質。アナスタシアに自覚なんてなかったでしょうけど、私には分かっていた。あれがアナスタシアの本性。あの資質こそが本来魔女にもっとも必要な資質なの。


 ヘルガやサマンサなんて、もう全然よ。小さな欲望しか持ちあわさず、魔女のなんたるかをこれっぽっちも理解していなかった。


 魔女はもっとも崇高な存在なの。魔女は雷や地震のような存在でなければならないの。魔女はもっと畏れられなければならないの。あなたを育てる前のアナスタシアは……、そんな数少ない本物の魔女だった。


 それで、ある者は、こう思ったの。アベル=ミッドランド殺せば、元のアナスタシアに戻るかもしれない、って。だって、母熊だって、オスを受け入れたのよ。母になる、という本能が、本来備わっていたアナスタシアの良いところを消してしまったの。子供さえ殺せば。また彼女の良い所が蘇る。


 だから、ある者はこう思った。

 何も我慢することはない。アナスタシアのためにアベルを殺そう。

 アベル=ミッドランドの死は、アナスタシアが崇高な存在になるための死。だから殺さなければならない。必ずアベルを殺さなければならない。だから、なんだったかしら。さっきの。


『その“ある者”とは、今も僕を殺そうとしてるのか?』って台詞。


 ふふふ。当然でしょう? 当然だと思わない? むしろ、なんで今は殺そうとしてないかもって思えるの? あなたを殺すことでしか、アナスタシアを解放することなどできないというのに」



 空気が震えていた。

 いや、違う。震えているのは僕の体の方だと、すぐに気づいた。

 どうしてこんなに体が震えるのか。恐怖のせいだと最初は思った。僕は誰かに狙われていると知って情けなく震えているのだ、と。でもすぐに間違いに気づいた。たぶん、頭の深い所で僕はとっくの間に気づいていたのかもしれない。



 僕は哀れな蝶。蜘蛛の巣に引っ掛かり、あとは食べられるだけの蝶。



 漠然とした恐怖を抱えているから体が震えているのではない。もうすぐ死ぬと体が理解したから、僕の体が震えていたのだ。

 明確な分岐点がいつだったのか僕には分からない。


 でも、今になってやっと気づいた。


 僕の体は動かなかった。もう一歩も動かなかった。重い、という話ではない。恐怖で動けないという話でもない。本当に、指一本動かせないのだ。僕の体は座っていた。たぶん座っているのだろう。もうほとんど体に感覚が無かった。どこが上でどこが下かも分からなかった。

 ある者が誰なのか、僕は明確にその正体を悟った。



「ゾーイ……、きさまが……」



 それは暗闇の中に消え入りそうな声だった。

 しわがれた魔女の声が響く。



「あら、ようやく気づいたのかしら。お馬鹿さんねぇ。だから言ったじゃない。もう準備は済んだ、って。本当にリスや蛙の方がよほど賢いわね。自然って素敵よ。自然って素晴らしい。私が感動するのはいつも素晴らしい自然。


 カマキリっていう虫を知ってるかしら? その中に、花びらに化けて獲物を狩る種類のカマキリがいるの。私はあれが一番好き。安全だよって見せ掛けて、何気なく近づいてきた獲物を狩るの。私は彼等からいつもヒントをもらう。そうして、生きるヒントを得るの。


 でも狩りってそういうものじゃない? 戦いってそういうものじゃない? 私の魔法は小さくて遅い。だから時間が必要だったの。あなたの体を動かなくさせるまで随分時間がかかった。

 ねぇ、なんで私が話をはじめたと思ったの?

 どこに私がそんな理由があると思ったの?

 あなたに理由はあっても私にはないでしょう?

 なのに、私がずっと話を止めなかったのはなぜ?

 あなたは考えもしなかったでしょう?

 これが解放なの。苦しみからの解放。あなたの魂をこの肉体から解放するの。そうすることで魂は自由となる。苦しみも消える。

 そして、アナスタシアはまた元の残忍な魔女に戻るの。人を恐怖のどん底に陥れる魔女。

 ああ、考えるだけでよだれが垂れて来ちゃった。本当に素晴らしいわ。ようやく私の待ち望んだ根源の魔女が生まれる」



 曲がりくねった厚い雲の切れ目から月のかけらが少しだけ顔を出した。その淡い光が王宮の廊下に降り注ぎ、暗闇にわずかな明るさを与えた。暗闇が晴れてゆく。


 どうしようもない濃い黒から、うすい黒になり、青い光の下、赤い瞳の魔女が姿を現す。

 ボソボソの髪。折れ曲がった鼻。極限までつりあがった頬。そして、しわだらけの指が僕の首に近づいてきた。



 ――いやだ。いやだ!



 僕はからだをくねらせ、その場から逃げようと試みる――が、ちっとも進まない。

 ゾーイの指先が僕の首に触れる。



「可愛らしい首。これなら簡単に終わりそう。大丈夫。私にすべてを任せて。すぐに苦しみから解放してあげるわ。あなたの魂を現世に縛り付けるこの肉体から解放してあげる。そして、今度こそ大人しく死の国へ旅立つのよ。ライン=デイン!!」



 ゾーイの爪が一気に僕の首に食いこんだ。そして、同時に僕の体を持ち上げる。

 首が熱かった。とても熱い。

 助けてと声をあげたかった。

 でも声が出せなかった。

 苦しい。

 痙攣が激しくなり、ゾーイの爪が僕の首に更に食いこむ。


 ――助けて! 誰か! 誰かぁああ!


 舌が飛び出してゆき、目の血管が千切れる。


「このまま首を引きちぎってやるわ」とゾーイが笑った。


 息ができなかった。

 く、苦しい。

 ヒュー、という音が喉の奥で鳴った。

 視界がゆれる。

 心臓の鼓動が遅くなる。

 時間が遅くなる。


 その刹那。僕は、僕の人生について考えた。

 僕は、僕ではなく、他の誰かであった。僕は、誰かの都合により呼び出され、そして、また誰かの都合によって処理される。


 僕とは一体なんだったのだろう。僕の生は何のためにあったのだろう。怖い。僕の魂はどこへゆくのだろう。そもそも行く場所などあるのだろうか。死とは何を意味するのだろうか。怖い。とても怖かった。母上の顔が浮かんだ。無性に会いたかった。会って最後に別れの言葉を言いたかった。


 お元気でいてください、と。しっかり言いたかった。

 母上の肌を思った。やわらかい肌、匂い、髪、細かい仕草、笑った声、怒った声を思った。

 そこまで思って、僕は少しだけ自分の死にも意味があることに気づいた。

 僕の死によって母上の魔力は戻る。

 僕が消えることで母上が生き延びるのであれば、またそれもよい。少しだけ心に温かさが生まれた。そうか、僕は消えることで、はじめて母上の役に立つことができるのだ。怖かった。死はとても怖かった。でもそれでほんのすこしだけでも母上の役にたてるのなら、それなら僕は――




 その時だった。

 どこからか飛んできた火炎が僕とゾーイの周りをぐるりと一周した。

 ゾーイの顔が強張り、硬く握っていた僕の首を放した。

 視界の端にわずかに残像が映った。どこかで見たことのあるような残像。

 赤い目の魔女ゾーイの魔物のような叫びが廊下に響き渡る。




「まったく……、どこまで愚かなの……、アナスタシアアアアアアアア!!」




 僕はやわらかい誰かに抱きかかえられていた。とても温かい何かに。その何かから伸びた艶のある金色の髪が僕の顔にふりかかった。


「ははうえ?」と僕は発音した。


 ゆっくりと目をあけると、そこには僕と同じ顔があった。トカゲのような顔。母上は僕を見て笑った。もう大丈夫だ、という顔で。

 僕はそこで意識を失った。




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