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母、太后エミリアの秘密  作者: りんご
王宮にて Ⅴ
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ぼく -3-

 冷気を含んだ風が雪原の上をなぞるように通り抜け、僕の手の甲に突き刺さる。僕は馬鹿みたいに口を半開きにさせたまま、その場に立ちつくしていた。舌の裏が妙に熱い気がした。息を吸いこもうとすると何かが喉の奥に引っかかったような……、そんな違和感を覚えた。


 鼓動が僕の意思とは無関係に早くなり……、僕はそれを止められなかった。自然と呼吸が荒くなり、息苦しさを覚えた。

 体が熱いのか、冷たいのかさえ分からなかった。

 気づくと城は炎に包まれていた。

 炎の中から沢山の断末魔が聞え、その炎の手前には杭が口から飛びだしたラインがいた。



 ――こうして僕は死んだのか。



 ズンと重い何かが心に引っかかった。

 僕にはその感情をどう解釈してよいか分からなかった。

 愛する者が目の前で殺されたら死ぬほど苦しいだろう。

 全然知らない誰かが死んでも、気にも留めないだろう。

 そのどちらでもなかった。

 ただ、重かったのだ。

 胸が気持ち悪くなり、吐き気がし、辛いのか、苦しいのかも分からなかった。

 ジーン、と手足が痺れるように、頭の後ろのほうが痺れてしまった感じがした。僕の両目は、働きをやめた脳に引きずられるように、ただラインの無様な死体を眺めていた。




 指を鳴らす音が聞え、全てが消えてゆく。燃え盛る城も、無数の兵士も、そしてもう一人の僕も。

 光がなくなり、再び闇があたりを支配した。


「記憶は優秀ね。私の口よりもよほど優秀」としわがれた声は言った。「時間的な感覚なんてあなたに説明できないでしょう? ヘルガの時の魔法を知った後でも疑ったりするでしょう? 説明ってそういうものなの。説明って貧相なものなの。見て感じる、これがやはりベストなの。本来、全てがそうあるべきなの。今まで話したことだって本当は、見て、そして感じてほしかった。でもね、私が再現できる記憶なんてせいぜいこれくらい。でもよく分かったでしょう? あの死体があなただ、ということが」


 ゾーイの声が右耳から左耳に通り抜けた。

 聞いているのかいないのか、分からなかった。そもそも僕は今立っているのか座っているのかさえ分からなかった。しわがれた声が言った。



「あら、ひょっとして、まだ呑みこめないのかしら。さっきの映像はね――」



 暗闇にしわがれた声だけが響く。だが、段々とその音が遠ざかってゆく。

 濃い黒が僕を包み、全てが分からなくなる。

 全ての感情が僕を通り過ぎて、どこかに消えて行った気さえした。


 そんな中に一粒だけ、ある感情が残った。それは、とても薄い膜のような感情であったが、そこだけがわずかに反応した。

 そして、垂れ流すように、それが僕の口から漏れ出た。



「母上は、これを僕に伝えたかったのか……」



 乾いた舌は、そこで動きを止めた。それがやっとでてきた言葉だった。

 きっと、あの母上のベッドに座ったその時からそのことだけが頭にこびりついていたのだ。


 母上の真意を知りたかった。

 その願望だけが僕に残された感情だった。

 すると、僕の独り言のような言葉にゾーイが反応した。



「う~ん。それはどうでしょうね」



 平らな感情に一粒の言葉が流れ込み、波紋が広がった。


 ――え?


 ゾーイは続ける。


「すこぉしだけ正解っていうのが最も正確なんじゃないかしら」


 心がビクンと反応した。

 体の奥底に、疑問がわいた。

 頭にこびりついた願望がその先の言葉を聞きたがった。

 ゾーイは、少し笑うとある言葉を言った。その言葉は平らな僕の感情を波立たせた。



「アナスタシアが何をあなたに伝えたかったか知りたい?」



 感情の粒が僕の心に降り注ぎ、それは僕の体を動かした。

 僕はゆっくりとうなずく。



「へぇ~、そうなの。ふ~ん。まぁいいわ、教えてあげても。もう準備も済んだ事だし」としわがれた声は言った。



 ――準備?



 心の波がまたわずかに揺れた。

 ゾーイは言った。



「アナスタシアが何を言いたかったのか、それはね、あなたがライン=デインであった結果。この世界に何がおこったか、ということを伝えたかったの」



 僕の頭には、ほとんど思考能力が残されていなかった。だから当然、ゾーイが何を言っているのか僕には分からなかった。



「一匹の蝶の羽ばたきが、世界の裏側で竜巻をおこす、という言葉を知ってる? 正確にはそう言う言葉じゃなかったかもしれないど、とにかく、そういうニュアンスを含んだ言葉があるの。蝶のはばたきくらいで竜巻がおこるんですもの。当然、あなたの場合はもっとやっかいだった。あなたをこの時代に連れてきた魔法。時を超える魔法。それはとんでもない大魔法だったはずよ。大きくて激しい魔法は世界の理をねじれさせる。そして、その結果歪みが生まれる。それが大きければ大きいほど、その歪は大きくなり、それに巻き込まれる人も増えてゆく。歪みは恐ろしい。歪みほど酷いものはない。だから私達魔女は歪みを恐れるの」

 ゾーイはそこで言葉をきった。

 沈黙と暗闇が混ざりあう。その長い長い沈黙のあと、赤い瞳から声が聞えた。



「アベル。最近アナスタシアが弱ってきていることに気がついたかしら?」



 脳裏に苦しそうな母上の背中の映像が蘇った。僕は口をパクパクさせながら、何かを言葉にしようとしたが、出来なかった。鋭さを増したしわがれた声が僕の耳に響く。



「歪みなんてね、普通は認識できるようなものじゃないのよ。私もその恐ろしさの話は聞いていたけど、一体どんな形で歪みが現れるかなんて見たことがなかった。だからね。アナスタシアを見てはじめて、それに気がついたの。ああ、これが歪みなんだわ、って」



 知らぬうちに僕の呼吸が荒くなっていた。右から左になにもかも抜け落ちゆく感覚なのに、胸が苦しくなってゆく気がした。



「本当にね、スゥーっと抜け落ちゆく感じなの。体の一部がよ。本当に極々小さいのだけど、アナスタシアを構成する体の一部が、青い輝きを放ち、消えてなくなってゆくの。


 アナスタシアの体は魔力によって生み出されたものだから、その魔力が急激な早さで衰えてきているのだと私は気づいた。だから、アナスタシアの体はどんどん弱っていったの。きっと、あなたに本当の顔を見られてしまったのもそのせい。部屋に籠る時間が増え、侍女を遠ざけたことも、ハロルの土人形を維持できなくなったのもそのせい。


 アナスタシアの魔力は日を追うごとに弱くなっていき、どんどん体の一部を失っていった。だからでしょうね。アナスタシアには危機感があったの。魔法の力が弱くなれば、一番大切なものを守れなくなってしまうんじゃないかという危機感が」



 乾いた舌が動き、僕の脳がわずかに動く。


「いちばんたいせつなもの?」と僕は発音した。


 暗闇の中のしわがれた声が大きくなる。



「そう。一番大切なものよ」



 母上のいちばんたいせつなもの?



「それがなにか分かるかしらアベル」とゾーイは尋ねてきた。

 僕は、それが何か分からず、ただボーっと口をあけていた。ゾーイの笑い声が聞える。



「ふふふ。それはね……。あなたよ、アベル。

 アナスタシアにとって一番大切なもの。それがあなたなの、アベル。あなたはずっと命の危険にさいなまれていたから、アナスタシアは焦っていたの。もう守れなくなってしまう、と」



 ――いのちのきけん?



 命の危険という言葉に、僕の脳はまるで反応しなかった。

 なにを言われたのかまるで分からなかった。

 聞き違いのように感じた。

 同じような発音をするなにかと聞きちがえた、と思った。


 危険? 棄権?


 にぶい脳から口に向かってわずかに電気信号がながれた。

 ゆっくりと唇が動き「きけん? って」と僕は発音した。

 暗闇の中のしわがれた声はひそかに笑う。


「あら? その単語を知らないの? 危険は危険よ。とても危ないということ。分かるかしら?」


 僕は尚も意味が分からなかった。

 麻痺した脳はその意味を『木こり』や『期間』や『器官』などに変換した。もしくは同じ音でも『棄権』の方がより実感をもてたかもしれない。

 でも、危ない、とはあの危ない、のことだよな?

 ゾーイは続けた。



「当然、あなたに自覚なんてなかったでしょうけど。あなたは、ある時期からずっと命を狙われ続けていたの。もう何年になるのかしら。それは分からないけど、とにかく、あなたはずっと命を狙われ続けてきた。“ある者”からね。だってある者にとって、あなたはとても許せない存在だったから」



 眠っていた脳を呼び起こすために心臓マッサージをするように、僕の中の僕は、僕の感情を揺さぶった。


 ――きけん?

 ――いや、危険?


 伸び縮みした声が、ゆっくりと僕の耳に入りこんでくる。

 きけんとは、危険という意味なのではないかと、ようやく少しだけ感じた。

 きけんとは『棄権』ではなく、『危険』なのか?

 血管の中の血流が勢いよく流れはじめる。


 え、どうしてだ?

 なぜ危険なのだ?

 というより『いのちのきけん』とは、『命の危険』なのか?

 命? どうして命を狙われるのだ? どうして?

 なんで僕は命を狙われるのだろう?


 ゾーイは続ける。

「ある者は、最初はあなたの存在を許していた。だって、対して害のない存在だと思っていたから。あなたがライン=デインであったとしても関係ない。あなたはアベル=ミッドランドであってライン=デインではない。だから、ある者もあなたを害のない存在だと思いこんでいたの。

 でも、違った。

 害がないどころじゃない。稲穂を喰い尽すイナゴの大群よりも有害だった。あれだけ優秀なヘルガが招いた最初で最後のミス。やっぱり、魔法は小さく、素早くが基本。並はずれた大きな魔法は歪みを生む。どうしよもなく酷い歪みを……」


 声が脳に入ってきた。


「よくよく考えれば誰だって分かる話だとある者は思ったの。

 だって……ねぇ、アベル。あなたはアベル=ミッドランドだけど、よくよく考えるとやはりライン=デインなの。私の言っている意味が分かるかしら? あなたはアベル=ミッドランドだけど、この世には確かにライン=デインが存在した歴史があるの。変でしょう? だって、同じ人間が歴史上に二人いるってことになるんだもの。


 そして、それがアナスタシアに歪みが向かった最大の理由だった。だって考えてもみて、アナスタシアはライン=デインから生まれてきたのよ? ライン=デインの一部がアナスタシアなの。なのに……、そのアナスタシアはラインを育てている。こんな矛盾があるかしら。こんな矛盾を世界の理がほうっておくかしら?」


 僕の中の僕が急速に目覚めてゆく。

 アナスタシア、という言葉が耳に入ってきたからだ。ゾーイは続ける。


「ある者はね……、そんなアナスタシアを見ていられなかった。歪みに引きずりこまれるアナスタシアを何とか助けたいと思ったの。だって、このままだとアナスタシアは消えてなくなってしまうから」


 ゾーイの言葉に力がこもる。


「だから、ある者はこう思ったの。アベル。あの子供が邪魔なのだ。あの邪魔者をこの時間軸から消し去るしか、アナスタシアが助かる道はないのだ、って」



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