ぼく -2-
ゾーイの肺から押し出された息が声帯を震わせ、唇から空気中に送り出される。振動するその空気が僕の鼓膜をゆらし、電気信号が脳に届けられた。
奇妙な感覚だった。それは簡単な言葉であるにも関わらず、とても理解しがたい響きを伴っていた。
『だって私とあなたは一度会ったことがあったんですもの』
言葉は分かる。そして、意味も分かる。ミッドランド語で「会った」という単語だ。しかも過去形。
だが、意味不明な言葉だった。
会った? 会ったとはどういう意味だろうか。
いつから見て過去のことを指しているのだろうか?
僕が母上の話に登場したのは、僕が赤ちゃんだった時期だ。それよりも以前に僕と会ったとでも言いたかったのか? 何をとち狂った事を言っているのだろうか。
そうだ、きっとなにか間違えたのだろう。ゾーイはミッドランド語が得意ではないと言っていた。だから、きっと何かを間違えたり、発音を間違えたのかもしれない。
そう思った僕は、ゾーイの言い直しの言葉を待った。息を整え、そのままの格好で暗闇の中に立ちつくした。
闇が僕を包んでいた。燭台の火も無く、足音も無く、ただ闇だけがそこにあった。沈黙が続いた。全てが暗闇に飲み込まれてしまったように、沈黙が続いた。
暗闇はなにも答えない。
すると、ある音に気づいた。闇の中に小さく鳴る音。僕はその音に耳をすませた。バクンバクンとそれは鳴っていた。数秒後に、これは僕自身の心臓の鼓動だ、と気づいた。なぜこんなに心臓が脈打つ音が聞えるのだろうか、と思った。静かすぎるからだろうか。いや、違う。これは……。
バクンバクンと大きく音が鳴った。鳴った。鳴った。鳴った。
暗闇は何も答えない。
額から汗が流れ落ち、手のひらが汗でべちょべちょになり、呼吸が荒くなってゆく。全てが分からなかった。そして意味不明だった。何も答えないゾーイも、この暗闇も、でも、ひょっとして……、ひょっとしたら……。
「僕等は会ったことがある。そうなのか?」
闇の中のしわがれた声が笑う。
「だから、そう言ったじゃない。聞えなかったの? 頭が悪い所だけはアナスタシアに似たようね。いや、違う。あなたが愚かなのは、きっと生まれつき。
だって、環境が変わったというのに、あたなは何も変わらない。本当にビックリするほど変わらない。愚かなところも、肝が小さいところも、そしてたぶん暴力的なところも」
「暴力的?」
「あなたはアナスタシアの部屋に入る時、制止するアナスタシアの声も聞かず側近の男に扉を開けさせたじゃない。無理やりね。そういうところも変わらない。こうあるべき、こうでなければならない。そういうものがあると、もうダメなの。無理にでも筋を通そうとする。融通が効かなくて、頑固で、暴力的。その癖、肝っ玉が小さくて、甘えん坊。それがあなたの本質。全く……始末に負えないわ。そして、それがきっと、あなたに災いをもたらした」
災い?
「あれは、いつだったかしら。もう随分前になるわね……。私は、根源の魔女の手掛かりを探す為に高名な時の魔女ヘルガの館に寄ったの。疲れきった顔をしてね。私はもう10年も彷徨っていた。10年……。10年よ。言葉で言うと本当に簡単ね。たった一言。10年。ふふふ。10年。あぁ……、長かったわ。10年が本当に長かった。
異界の神々から運ぶ者に選ばれた時、私に出来ないことなど何もないという気持ちが私の中に満ちていた。心地よかった。とってもね。何でもできるって思ったものよ。私なら何でも出来るって……。でも、時が経つほどにその気持ちが削られていったの。
全てができるという気持ちが削られ、段々と自分がただの凡庸な人間なんじゃないかって思えてきたの。
ヘラジカを仕留めた時だって、大勢乗ってる船に火を放った時だって、おおよそ上手くいかないことなど何もなかったのに。でも、こればっかりは無理じゃないかって思い始めていたの。この広い世界にたった一人の魔女の生まれ変わりを見つける。これ以上に難しいことはないんじゃないかって。
だから、そう、簡単に言うと……、ヘルガに泣きついたの。どうにかしてほしいって。ヘルガは温かい紅茶の入ったカップに口をつけたあとに言ったわ。
『安心しなさい。必ず生まれ変わりは見つかるわ。原始の魔女アナスタシアがね』
ありがたかった。本当にありがたかった。ヘルガが言うのであれば間違いない、と思ったわ。根源の魔女の中でも最高峰の力を持つ魔女ヘルガ。彼女は時を知ることができた。予言の能力があった。それが彼女の持つ力だった。もちろん私も魔法を使える。運ぶ者はほとんどすべての魔法を扱う事ができるの。でもね、根源の魔女にはとてもかなわない。私に分かる時間なんてせいぜい数秒先が精一杯。彼女は何年先をも見通すことができた。
でもね、次の瞬間ヘルガは予想だにしないことを言ったの。
『確かに見つかる。見つかることは見つかる。でも、アナスタシアを魔女にすることは難しいでしょうね』と。
私は慌てたわ。キーキー猿のような声で何故なの!? と彼女に詰め寄った。だけど彼女は冷静な声で答えたわ。
『温かい家族に囲まれているからよ。だから、彼女は魔女になる道を選ばないでしょう』って。
ああ……、本当に今思い出しても吐き気がするわ。口の中に汚物の何十倍も穢れたものをぶちこまれた気分だった。こんなに屈辱を感じたのは初めてだった。だって信じられる? 根源の魔女に選ばれ、世界の理を保つことは、この世でもっとも素晴らしいことなのに! これ以上の幸せなんてなにもないのに。なのに……、なのにアナスタシアはそれを求めていない女だった。
私はたしかあの時、盛んに叫んだんじゃなかったかしら。惨めったらしくね。魔女がどれだけ素晴らしいものか、説得するわ、と。でも、ヘルガは首を横に振った。アナスタシアは決して魔女にはならない、説得は不可能だって。彼女はどこにでもいる子供のように魔法に多少の憧れはある。でも、それだけだ、って。決して人間から魔女へはならないだろう、って。
目から涙が溢れ、鼻から鼻水が垂れ落ちたわ。
あれだけ自信をもって故郷を飛び出したのに、10年も惨めにさまよったあげく、その結末が失敗に終わるだなんて……、そんなことがあるなんて……。
私は嫌だった。絶対に嫌だった。私は運ぶ者。その使命は貴いの。地上におけるどの価値よりも圧倒的に貴いものなの。だからね。私は諦めなかった。私はさっき以上の熱さでヘルガにまくしたてた。何か方法があるはずだ、って。絶対にあるはずよって。それを何日も続けた。朝日が昇り、寝るまでの間ずっとヘルガに問い続けた。私に道を示してほしいってね。
きっと、私からそう言われ続けてまいってたのかもしれないわね。
ヘルガは疲れ切った顔で口をひらいたわ。
『未来はいくつもの未来に枝分かれしてる……。たった一つだけ、彼女が魔女になる可能性がある選択肢がある』って。
それを聞いた瞬間、私の頭が真っ赤な薔薇色に包まれた。いや、血の色。素敵な血の色に包まれたの。彼女は王家御用達の占い師だった。だから、色々知っていたのかもしれない。細かい事情は分からないわ。でも確かに言った。
『ある男に、ある事実を聞かせれば、恐らく未来は変わる。アナスタシアは魔女になるかもしれない。でも、それと引き換えにとても大きな乱がおこる。沢山の死人がでる。ミッドランドの大地は悲しみに包まれる。だからアナスタシアは諦めなさい。彼女は魔女になってはいけない子なの。彼女が魔女になる道は、死者が列をなし血に染まる道。そうなってはいけない。絶対にそうなってはいけない』
私はヘルガの忠告を無視した。
そして、迷うことなくデインの地に向かったわ。ヘルガはミッドランドの平和を気にしていた。当然かもしれない。ずっとこの地が平和であるようにユリウス王に助言し続けてきた人生を送ってきたのだから。おかげでユリウス王は自分がまるでヘルガの操り人形みたいだ、と感じていたようだけど大きな勘違い。彼女はただ平和の為の助言をしていたにすぎない。だけど私は……、血が好きだった。派手なことが好きだった。沢山人が死ぬってそんなに悪い事かしらって思ったの。とにかく、アナスタシアを説得できる方法が見つかった。そのことだけで頭が一杯だった。
だから、デインの地で、その“ある男”に事実を伝えたの。簡単な事実。私は、話す前からその男の事を知ってはいたけど、会って確信したわ。確かにこの男なら乱をおこすかもしれないって。その男は一度それを聞きさえすれば確かめずにはいられないという性分の持ち主だったから。なにせ、頑固で、融通が効かなくて、愚かだった。
男は足を鎖で繋がれた私を何度も鞭で殴ったわ。嘘を言うな、と叫んだ。でもその瞳の奥の動揺が私には手にとるように分かった。
ああ、この男も今までとても不思議に思っていたんだなと思ったわ。自分の境遇を、ね。
南部の下級貴族に過ぎなかったのに何故自分がここまで優遇されてきたのか、どうして分不相応な地位を与えられたのか、彼にはずっとうっすらとした不安があったのね。だからきっとあそこまで私を鞭で殴った。
彼が私を鞭で殴るたびに、未来が変わってゆくのがありありと分かった。
私は幸せに包まれていったわ。
寒いし、馬小屋近くにずっと鎖でつながれていたけど、私は幸せだった。
するとね、ある雪が降り積もる夜。毛布を持った少女が私に近づいてきたの。金髪のトカゲの顔をした可愛らしい少女。
全てはこの為だったの。
私が一族を率い、デインの街を襲った事も、寒さや痛さに耐えていることも、10年あても無くさまよい続けたのも、全てはこの瞬間のため。私は少女の手を握りしめて、そして、言ったわ。
『ようやく会えたわね。アナスタシア』って」
歯が鳴っていた。カタカタ、と。僕にはそれを止めることができなかった。暗闇の全てが僕の中に入って、暴れ回っている気分だった。しわがれた声が闇に響いた。
「ほどなくして乱がおこった。その男による大規模な反乱。ミッドランド史上稀にみる大きな戦。
その男は、どうしても私から聞いた話が真実であるか確かめたくなったの。そして、何度もユリウス王に問い合わせた。最初の手紙が届いた時のユリウスの狼狽ぶりったらなかったわ。陰で見ていた私はほくそえんだ。何故、その男がその事実を知っているのか。どこから漏れてしまったのか。なぜ、なぜなんだ、とユリウスは苦悩した。隣にいたヘルガは青ざめていたわね。全部自分のせいだと思ったのかもしれない。
ユリウスには子がいた。それも沢山ね。でもね、彼等はお互い毒殺しあったそうよ。王子は、みな殺し合い、たった一つの権力の座を争う。王という椅子を争うゲーム。王家とはそういうものなのだそうよ。ユリウス自身それを体験してきた男。だからこそ自分の血をわけた息子を全くの別人として育てた。
それが、その男だったの。
男はその事実を知らなかった。それこそが私が伝えた事実。事実を知った男は王位を望んだ。法っていうのかしら? ミッドランドには相続にまつわる法があるそうじゃない? まぁ建前みたいなものだと聞いているけど。とにかく、そういうルールがある。そのルールによると、全ての財産を受け継ぐのは長男である、という決まりがあるみたいなの。彼は王家の長男だった。当然、ハロル=ミッドランドよりも年上だった。だから、自分には王になる権利があると思ったの。この時の彼は強引だった。ユリウスがそんな事実などないと誤魔化し続けると、怒った男は兵をあげた。全てが私の計画通りだった。
男の心情まで読みきれないけど、きっと、彼は不安定だった。とても不安定だった。愛しの一人娘がある日突然消えたからよ。娘を部屋に閉じ込めると翌日娘の姿はどこにもなかった。神隠しにあったように、消えてしまったの。そして、そこには血だけが滴っていた。彼は狂いそうになった。そして、王を目指すことで自分の心の隙間を埋めようとしたの。そして、その結果がこれ」
指をパチンと鳴らす音が聞えた。
暗闇が晴れ、辺りに光りが満ちた。僕は思わず目をつぶる。そして、目蓋を徐々にあげてゆくと、そこには見たことも無い雄大な景色が広がっていた。
大きな城と、その周りを取り囲む無数の兵士、そしてどこまでも広がる雪原。
「こ、これは?」と思わず僕は声を洩らした。
「これ?」としわがれた声が響く。「これは石の記憶。あの時、私はデイン城の石を持ち帰ったの。アナスタシアのモチベーションをあげるために持ち歩いていたんだけど……。思わぬ使い道があったわね」
ゾーイの姿が見えなかった。ここには僕とそして無数の兵士がいた。僕はその先頭近くにいた。後ろを振り返ると、兵士達の先頭に二人の男が立っていた。
「父上」と僕は思わず叫んでしまった。
そこには若かりし頃のハロル=ミッドランドとユリウス=ミッドランドがいた。ユリウスは目をつぶっていた。ハロルは鋭い目つきで僕の背後を眺めていた。
僕は父上の視線を追い、自分の背後を振り返った。
すでに鎧を脱がされた金髪の男がそこにいた。男は両腕を兵士に抱えられ、すでに抵抗できなくなっていた。
僕は吸い込まれるようにその男の顔をのぞきこんだ。
馬鹿な、という想いが胸にちらつく。
引き締まった頬と固く一直線を描いたような唇があった。そしてその上にワシの口ばしような鼻が突き出していた。
男は何も言わずユリウスを睨みつけた。
ギョロッとしたような目だった。いや、例えて言うなら、トカゲのような目。トカゲのような目を持つ男だった。
しわがれた声がどこからか響く。
「彼が、反乱の首謀者ライン=デインよ。そして、私が事実を告げた男」
ユリウスは目をつぶり、うつむいたまま、ゆっくり頷いた。それを見ていたハロルが「とりかかれ!」と兵士に告げた。先が尖った丸太。とても細い丸太のような杭が既に地面に刺さっていた。暴れるラインの体を兵士が数人がかりで持ち上げ、杭に近づける。ミッドランドにはこういう処刑方法があった。杭を尻から突き刺し、絶命たらしめるのだ。
ラインの尻が杭に突き刺さる直前、ラインは叫んだ。
「父上! それがあなたのご意思なのか! 私は! 私は!!」
声は虚しく響いた。ラインのトカゲのような目からは涙がこぼれ、次いで彼の絶叫が雪原に木霊した。
「あがぁあああああああああああああああああああああああああああ!」
頬を涙が伝った。それは僕の目から流れ落ちたものだった。目蓋、手、膝、いや……全身が震えた。
矛盾している。圧倒的な矛盾。時間的な説明がつかないし、何もかも説明ができない。でも、分かってしまった。ゾーイのあなたに会ったという言葉も含めて。全てを悟ってしまった。
徐々に杭を差しこまれてゆく男の顔は僕に似ていた。
いや、似ていたどころではない。
ワシっぱなも、きゅっとした頬も、固く結んだ唇も、そして、何より、あの目。あのトカゲのような目が僕にそっくりだった。何から何までそっくりだった。顔の形からおでこの広さまで、瓜二つと言っていい程に。いや、違う。瓜二つ……ではない。
これは他人ではない。これはたぶん……、僕自身だった。
ラインの口から丸太のとがった部分が飛び出した。
トカゲのようなラインの目から流れ出た涙は、鼻の横を通り抜け、顎からデインの大地にこぼれ落ちた。
「もう分かったでしょう?」としわがれた声は言った。「あなたが誰なのか。あなたはね、ヘルガの手によってもう一度この世に生まれたの。時間を超え連れてこられた、という表現の方が合っているかもしれないわね。
きっとヘルガも負い目を感じていたのよ。私に助言したことでデインの地で沢山の血が流されたことに。そして、なによりその男の運命を変えてしまったことに。
その男には王家の血が流れていた。そして同時にデインの血が流れていた。彼は本来このミッドランドを継ぐべき正当な後継者だった。でも、トカゲの目をした赤ん坊はベルレンテを預かる女主人と間に出来た不義の子でもあった。ユリウスはこの子に死んでほしくなかった。彼が王族の争いに加わればたちどころに命を奪われると思ったから。だから、彼をベルレンテに残したの」
王家の歴史書にはこう記されていた。デインの地でおきたライン=デインの反乱は、デイン家当主の分不相応な要求があり、王家がそれを呑まなかったことが発端である、と。歴史書にはそれ以上は記されていない。分不相応な要求がなんであったのか、そもそもラインは何を要求したのかもよく分かっていない。
しわがれた声が嬉しそうに弾む。
「アベル=ミッドランド。いいえ、ライン=デイン。そう、ライン=デイン。それがあなたの本当の名前よ」