ぼく -1-
ゾーイの言葉が暗闇の空気と空気の隙間に溶け込む。僕の頭の奥に響くような言葉だった。僕はボーっとしたまま、ただゾーイの言葉をなぞった。
「僕を苦しみからの解放する?」
僕の声に反応した2つの赤がゆれる。
「そうよ。そう言ったの。あら? ひょっとして難しい単語だったかしら。たしかこういう単語で良かったはずよね?」
僕は、合ってる、といいかけるも、しわがれた声の方が先に続きを話し始めた。
「何年住んでも慣れないわね。ミッドランド語は発音が難しいの。最悪な言葉よ。この国の言葉って。それに言葉だけじゃない。住み心地も最悪。特にこの王都はビックリするほど酷い所。何故だか分かる?
ここは、あらゆる自然が壊されているの。しかも、皆平気な顔をして歩いている。信じられないわ。
時々ね、息がつまりそうになるの。
もう、そこら中にあるものや、建物がみんな直角なんだもの。カクンカクンって、ね。全部が同じような形をして、どこにも面白味がないの。どこもかしこもみんなよ。全く美しくないの。
それにね、とっても地面が硬いの。たぶん、石だからね。土であればそんなに硬くないわ。そこそこ柔らかいし、足にだって優しい。そりゃあ雨が降れば別よ。べちゃべちゃになってぐちょぐちょになってどうしよもない時もある。でもね、それも楽しいじゃない。特に子供の頃なんてドロドロの地面が楽しくて仕方がなかったものだわ。
でもね。この王都はどう?
全部石。石、石、石、石。信じられる? 病的だわ。頭がおかしい人ばっかりよ。
だからそんな人々を沢山殺して地面に敷くべきだ、とアナスタシアに提案したの。柔らかいし、地面に餌があれば獣たちも寄ってくるでしょう? 一石二鳥っていうのかしら? 本当に素晴らしいアイデアだって思ったわ。
でもね、アナスタシアは小さない声で『そう』って言うだけで、ちっともそれを実行しないの。馬鹿よ。アナスタシアはどうしよもない馬鹿だわ」
この女の話に頭がついていかない。
そもそも、どうして王都の石畳の話になったのだろう? 暗闇の中から聞えるしわがれた声はするどさを増していった。
「馬鹿は治らないわ。本当に馬鹿は治らない。賢い子って最初のうちは思っていたけど、私の間違いだった。馬鹿だった。アナスタシアは本当に馬鹿。だから簡単な損得もわからないのよ。損得……、あっ! そういえば」と言葉を切ったゾーイはゆっくりと言った。
「あなたを苦しみから解放するんだった。忘れる所だったわ。アベル」
僕は一度大きく空気を飲み込んだ。
目の前の赤い光が喋るたび、暗闇に不安を覚えた。なぜだから分からない。だが、肌がそのように反応するのだ。ずっと無言でいると、しわがれた声は言った。
「あら? 今までの話、ちゃんと聞えたのよね?」
「……聞えている」と僕は返事をした。
「あらよかった。苦しみからの解放はとても大切なことだから」
僕は、ゾーイの言葉をもう一度頭の中で復唱する。ゆっくりと、かみ砕くように。
――苦しみからの解放……。解放か……。
言葉が腹の中に落ちてゆき、暗闇の中で僕は顔を横に振った。
苦しみからの解放……。それは無理だ。できるわけがない。僕のこの苦しみは消えない。誰ともつながってないこの苦しさは絶対に消えるわけがない。
僕は大きく息をついた。
すると笑い声混じりの声でゾーイが「苦しいの?」と尋ねてきた。
「うるさい!」と僕は叫んだ。
このおぞましい魔女に僕の気持など分かるわけがない。分かるわけがないんだ。母上が……、母上は……、本当の母上じゃなかった。垢の他人だったのだ。僕を慈しんでくれた母上は……、僕の母上じゃなかったんだ。
「まったくねぇ」というゾーイの声が耳に入りこむ。「馬鹿よアナスタシアは。話をはじめたならば、ちゃんと終わりまで話さなきゃ。どうでもいいところで終わったら、それは話をしてないことと同じ。なんでそれが分からないのかしらねアナスタシアは……」
そこまで言われて僕はあることに気がついた。
なぜこの魔女は母上が何の話をしたのか知っているのだ。
おかしい。おかしいじゃないか。
僕は正面の二つの赤い光を見つめた。
たぶん、この魔女は僕と母上の話を聞いていたのだ。どこから聞いていたのかは分からない。だが、そうとしか思えない。だって、話を聞いていないとこのような言葉が出てくるわけがないのだから。
「聞いていたのか、僕と母上との会話を」と僕はおもむろに話を切りだした。しわがれた声はタンを絡ませたような声で喋る。
「アナスタシアとの会話? ええ。ずっと聞いていたけど、何か問題?」
「ど、どうやってだ? 寝室の扉は閉じていたし、気配もなかった」
「気配? 気配なんて分かる人間がいるの?
気配を感じ取るのはムクドリや、リスやネズミのような生き物だわ。人のようなただの大きな肉の塊は、気配を感じれず、ただそこに這いつくばるだけ。
それが人間なの。
たぶん、こんな角張った建物の中に暮らしているから、気配を察する能力が鈍るのかも。本当に恐ろしいことだわ。人は少しずつ自然から遠ざかっている。
だからいつ死ぬか分からない場所に身を置くべきなのよ。そうすれば鈍いなら鈍いなりに気配を探るようになるわ。
風が揺れる音、空気の味、影の伸び具合や、闇と付き合う方法。そういうものを感じ取って初めて気配を探れるの。だからほとんどの人間の魂は生きていないのよ。私に言わせるとね。アベル。あなたも同じ。あなたも最初から生きてなんていないのよ」
段々僕は侮辱されているような気分になった。
こいつに何が分かるのだ。何が!
「だから私は殺せってアドバイスしたの。あぁ~。どれくらい前だったかしら。もう随分前よ。アナスタシアが赤ちゃんを抱えて階段を下りてきたから、私はそうアドバイスしたの。
だってそう思わない?
どうせ人間なんて生きるに値しない生き物だし、この子を殺せば乱世が訪れるってユリウスが言っていたみたいだし、絶対にそっちの世界の方が素敵だから、その方がいいわよって言ったの」
この子、というのは僕のことか? ゾーイはそのまま続ける。
「でもね、その時、アナスタシアは私にこう言ったの『目よ。この子の目を見てゾーイ。この目。デインの血が入った赤ちゃんに違いないわ』ってね。
きっとアナスタシアはあのことを気にしていたの。あなたには敢えて喋らなかったみたいだけど……、魔女は子を持てないの。もう少し詳しく話すと、人間のオスと交わっても決して子を設けることはできないようになってるの。そういう体にね。
何でそうなっているのか私も分からないけど、たぶん、私達は人間とは別の種類の生き物なのかもしれない。だってほら、馬と犬じゃ子供を作ることなんてできないでしょう? つまり、あれと同じ。だから、何かに希望を見出すように、アナスタシアは一生懸命あなたを育てたわ。本当に呆れるぐらい愛情を注いで……」
僕はその話を黙って聞いていた。
少しだけ、指先がほんのり温かくなった。
自分の知らない母上の話。さきほどまで髪を撫でてくれていた指の感触が残っていた。だが、同時に疑問も湧き出てくる。
「違いないってなんだ……『デインの血が入った赤ちゃんに違いない』って。変じゃないか。お爺様は僕が誰から生まれたか知っていたのだろう? 母上はお爺様にお尋ねにならなかったのか? 僕が誰の子であるかを」
「ふふふ。あなたは何にも知らないのねアベル。ユリウスはアナスタシアにあなたを引き合わせた翌日に死んだの。老衰だったそうよ。だから、あなたがどこから来たのか、なぜデインの特徴であるトカゲの目をしていたのか。そもそもあなたにミッドランド王家の血が入っているのかもほとんど全てが謎だったそうよ。
だから、アナスタシアはそれを調べようとした。でもね、そもそも変なのよ。アナスタシア曰く、デインの一族はもうアナスタシアしか残ってなかったそうよ。他の遠縁の親戚もなく、ましてや同じようなトカゲの目をした人々もいなかった。切羽詰まったアナスタシアはサマンサにも尋ねた。でも結果は同じ、サマンサもアベルがどこから来たか知らなかった。
その時の私は……、そうねぇ私は……、そんなアナスタシアを見て段々どうでもよくなっていったの。だってまさか原始の魔女の欲の行き着いた先が、たった一人のガキに愛情を注いで静かに暮らすことだったのよ。しかも、そのガキから本当は母親ではない、とバレないようにずっとビクビクするような……、そんな情けない末路。
私はね。もっとアナスタシアに派手に生きてもらいたかったの。もう物凄い派手に。だってアナスタシアの魔法ならそれができると思ったからよ。
サマンサには相性が悪くて負けたけど、アナスタシアが望めばミッドランド人の全てを自分の手で殺すこともできたはずよ。たった一人で乱をおこすの。痛快じゃない? 子育てよりずっとね。そこら中に黒焦げの死体を作り、お腹が減ったらそれを食べるの。
そうやって一緒に楽しく冒険することを思い描いていたの……私は……。
アナスタシアはそれだけの資質の持ち主だったから……。
あの稀代の魔女、“時のヘルガ”と比べても遜色ないぐらい素晴らしい資質の持ち主。だから口惜しかった。アナスタシアが、魔女の力を使わず、ただ衰えてゆくような人生を選択した事に……。
まぁ、それはいいわ。そうなってしまったことは仕方がなかった。あのヘルガですら、最後は王家御用達の占い師みたいな仕事をして生計をたてていたわけだしね。あの子がそういう選択をしたなら最後まで見守ろう、と思った。運ぶ者としてね。
そうして、時が過ぎていった。3年、6年、10年……とね。
でね、そんなある日、唐突に気づいてしまったの。あなたの正体に。アナスタシアじゃなく、私が一番最初に気づいた。
そりゃそうよね。だって私とあなたは一度会ったことがあったんですもの」




