父の正体、そして…… -2-
「あの時、淡々と説明するユリウス王に対し、私は唇を震わせ、山のように侮辱の言葉を浴びせました。それもほとんど会話の流れと関係ない所で私は数秒おきに彼を侮辱したのです。正直なところ当時の私はミッドランドの平和になんて興味がなかった。だから当然ハロルの土人形を作り、王座につかせるという話もどうでもよかった。ミッドランドに乱世が訪れるなら、そうなればいい、とすら思っていましたから。
むしろ、私が唇を震わせるほど動揺していたのは別のことに関してでした。
ユリウスの死が近い、ということです。
彼は、もうひと月ももたないだろう、と私に言いました。ずっと彼を殺すことだけが私の望みだったのに。絶頂からどん底に叩きつけてやることだけが私の望みだったのに。もう死んでしまう。しかも、私が手を下さなかったとしても死んでしまう。
どうすればいいのだろう、と思いました。だからかもしれません。
『ユリウス、お前を殺すわ。すぐにでも殺す!』と私はユリウスに向かって叫んだのです。
あの時の私は焦っていました。すぐにでも殺さなければ、指の間からするりと逃げられてしまいそうで、今までの目的を失いそうで……、恐くて、恐くて、思わず叫んでしまった。なのに、ユリウスは信じられない言葉を吐いたのです。
『それもよいな』と彼は言いました。それも……、とても優しげな声で」
ここで一度母上は大きく息を吐いた。
「あの時のなんとも言えない気持ち……、今でも忘れません。高く積みあげられた煉瓦がボロボロ落ちてゆくような……、全てが空を切るような……、そんな感覚を覚えました。私は顔をあげ、しっかりとユリウスの表情を窺いました。
彼の瞳は、死んだ魚のように黒く濁っていた。顔のどこにも緊張がなく、むしろどこか死を望んでいる様子さえありました。
彼はとっくの間に覚悟ができていたのです。死への覚悟が……。恐怖さえ抱いていない様子でした。そんな彼を見て……、私はどうしてよいか分からなくなりました。
死を恐れない人間など今までいなかった。だから、死に突き落とすことで絶望感を与えてきました。だが、その前提が崩れた。死に恐れを感じていないのならば、もうどうすることもできない。
彼の目は遠くを見ていました。自分の死後。そこにのみ彼は目を向けていた。恐らくそこだけが心配だったのかもしれません。いや、違うのかもしれない。きっと、それも違う。たぶん、彼はすべてが分かっていた。だから、何の心配もしていなかったのかもしれない。だからこそユリウスはあのような言葉を吐いたのかもしれない。
『これからどうなるのか知りたいか?』とユリウスは私に尋ねてきました。
私が何も答えずにいると、ユリウスは構わずその続きを喋りました。
『このあと、そなたはさんざんに私を侮辱する……、だが、結局はハロルの土人形を作ることに同意するだろう。そしてその後、そなたは希望を見出す。恐らくそなたにとってただ一筋の希望を……』
私には彼が何を言っているのか分かりませんでした。だから――」と言いかけて母上は話を止めた。
「アベル?」と母上はこちらを見て言った。
僕はうつむいた顔をそのままにし、黙ってベッドに腰を掛けていた。
きっと母上の目には途中で顔をそむける僕の姿など映らなかったのだろう。
ちらりと僕はその母上の顔を横目で見る。
母上は、トカゲのような目を丸めてこちらを見ていた。なぜ僕が床を眺めているのか、分からない、といった表情をしていた。僕は唇を噛んだ。
母上には僕の痛みが理解できないのだろうか? なぜ理解おできにならないのです母上。
僕は更にうつむき、足下を見た。背中が猫のように丸まってゆく。
分かるでしょう? 肉親を失ったことのある母上なら僕の痛みが分かるでしょう? 僕のこの丸まった背中を見て分かるでしょう? なぜお分かりにならないのです母上。
僕は、今大声をあげて泣き叫びたかった。
父上が偽物だったのだ。
僕の記憶に残る父上はうそっぱちだったのだ。全部うそっぱちだったのだ。
父上が死んで僕も辛かった。でもそれ以上に、全てが嘘であったと言われる方がよほど辛かった。僕はずっとただの魔法を父と思い生きてきたのだ。彼の優しさから多くを学んだ。彼の強さから多くを学んだ。それが全部嘘だったのだ。こんな気持ちにならずにいられるわけがない。
悔しさで目の奥が熱くなった。
母上の言っていた、話しておかなければならないこと、とはこういうことなのだろうか? それは本当に僕に必要なことなのだろうか? 僕は王になる。でも、本当にその話は僕に必要なのだろうか? 何も知らずにいられたら、どんなに良かっただろう。
母上の細い指が僕の頭を撫でた。だが、それが急に不快に思えてきた。僕の心を追いつめる元凶が母上のように思えて仕方がなかった。
母上は続きを喋りはじめた。
「ユリウスは、そなたに希望を見せよう、と言いました。そして、そのあとすぐに両手を叩いた。こう、二度」母上はそこまで言うと、当時のお爺様のやったらしい手を叩く動作を僕に見せた。
「すると、部屋に一つしか無いドアが開きました。ギィー、と。重々しい音がしました。最初、赤い髪が見え、次いで仏頂面のあの顔が見えた。
そこから現れたのは王妃サマンサでした。
サマンサはこちらを見下す目つきをすると、そのあと、ゆっくりとこちらに近づいてきました。彼女は何かを持っていた。あれはなんだろう、と思いました。茶色くて、ゴワゴワした感じの。彼女がもう少し近づいてくると、それが籠であるとわかりました。こう、両手で抱えるほどの大きさの籠です。サマンサは何も言わず、それを私の枕元に置いた」
僕は耳を塞いでしまいたかった。もう分かった、と言いたかった。あのトカゲのような顔をした女が母上であるともう分かった。それだけでよかったのに。どうして母上はまだ続きを喋るのか。母上が僕に伝えなければならない大事なこととはどんなことなのだ。もう喋らないでほしかった。もう聞きたくなかった。
だが、母上の声が容赦なく僕の耳に入りこむ。
「その時でした。『んひゃぁあ』という甲高い赤ちゃんらしき声が突然部屋に鳴り響いたのです。私は目を丸くさせ、何度も目蓋をあげさげしました。幻聴だろうか。私はまだユスフを抱きかかえた夢の続きを見てるのだろうか。そんなことを思いました。すると、また『あぃぃ』という赤ちゃんの声が聞えました。今度はハッキリと聞えた。その声は籠の中から聞えました」
僕の足が震え始めた。聞いてないならない。これ以上聞いてはならない、と僕の中の何かが僕に告げているようにな気分だった。バケツの中の感情の水が、こぼれ落ちそうだった。揺らさないで、と言いたかった。これ以上このバケツを揺らさないで、と母上に言いたかった。だが、母上は続けた。
「ユリウスは、含み笑いを見せながら言いました。
『この子を、ハロルの次の王座に据えろ。どれぐらいのちかは分からん。それはそなたに任せる。とにかく、このミッドランドの血をひく、王家の子を無事王座につかせるのだ』
その声に合わせるようにサマンサが私の背中に手をまわし、ゆっくりと私の上体を起こしました。籠の中が見えました。籠の中には赤ちゃんがいた。おむつをしていたが、男の子だと一目で分かりました。そして、その男の子と目があった。
あの驚きを今でも鮮明に覚えています。全ての視界がひらけてゆくような、光がさすような……、そんな感覚に私は包まれました。私は吸い込まれるようにその男の子の瞳を覗きこんだ。ユリウスはそんな私に顔を近づけた。
『気づいたか? “それ”はデインの血を引く者にしか現れない特徴だろう?』とユリウスは囁くように言いました。
私はその赤ちゃんの目をじっと見つめた。間違いない。間違えるはずがない。目だ。この目。それは、まるで私と同じトカゲのような目の赤ちゃんだった」
体中の皮膚が粟立ち、母上の言葉が冷たく響いた。
「それが、あなたとの出会いでした……。アベル」
全身を電流が駆け抜けたような感覚を覚えた。
心が冷えてゆき、頬をひと筋の涙が伝った。
僕はベッドから立ち上がった。すでに限界だった。もう嫌だった。全部が嫌だった。母上の言葉など……。いや、アナスタシアの言葉など聞きたくなかった。僕だけの声で僕を満たしたかった。だから叫んだ。叫ばざるをえなかった。
「うぁわあああああああああああああああああああああ!」
僕は、勢いよく寝室の扉をあけ、ついでアルールの蹴り破ったドアを飛び出し、王宮の暗闇の中に駆けた。光りが遠ざかる。後ろから「待ちなさいアベル!」という母上の声が聞えた。止まらなかった。止まる筈がなかった。
走っているのに体が温まらなかった。むしろ、冷たくなってゆく感じがした。
苦しかった。とても苦しかった。心が悲鳴をあげていた。それが、何にも繋がっていない苦しさだと僕にはすぐに気づいた。僕の体のどこかにはいつも母上がいて、父上がいた。それは僕の体の隅々に埋め込まれているはずだった。僕は独りじゃないはずだった。そのはずだった。でも間違いだった。それは僕の勘違いだった。独りだった。ずっと独りだった。気づかなかっただけで、僕は生まれた時からずっと独りだったのだ。
――これが、母上が僕に伝えたかったことなのか……。
黒が増える。より濃い黒が。
走れば走るほど闇が濃くなり、それは僕をいざなっているように思えた。
僕の心は黒くなってゆく。
闇とはどこまでも濃い黒を指すのだろう。僕の心と王宮の暗闇が不思議と混ざり合い、どこからが僕で、どこまでが王宮の闇なのか分からなくなった。
僕は王宮の闇に溶け込んだ。
どのくらい時間が経ったのか僕には分からなかった。
1分程度な気もするし、1時間ぐらい経った気もした。よく分からなかった。
だから、その時になってはじめて気づいたのだ……。妖しい赤い光が二つ浮かんでいることに。
それは暗闇の中に二つ浮かんでいた。
赤い光。光? よく分からない。とにかく赤色の妖しいものだ。その赤い光はとても遠くにあるように思えたが、そのしわがれた声を聞いた時、それはとてつもなく近くにあったのだ、と気づいた。
「ああぁ~、やっと真実を知ったのねアベル」
僕は体を震わせ、その赤い光を見つめた。それは目だった。それは僕のとてつもなく近くにある赤い目だった。
母上の言葉が頭にチラつく。
赤い目の魔女。ゾーイ。
僕は勇気を出して声を発した。
「ひょっとして、お前が、ゾーイか?」
奇怪な笑い声が僕の耳に響いた。奇妙な感覚に襲われた。とても気持ち悪かった。しわがれた声は言った。
「アナスタシアは本当に馬鹿な子。最初から最後まで馬鹿な子。救いようのない子。どんな馬鹿でも話は最後まで終わらせなきゃ意味がないわよね。そう思わない? それが話をする目的なのだから。あれ? アベル。ねぇアベル。アベル? アベル。あれ? アベルでよかったわよね?」
僕はこの魔女が何を言っているのか分からなかった。どんな目的をもって話しているのかさえ分からなかった。しわがれた声は言った。
「私は魔女イカロッゾ=ラ=ズゥラーイ。世界に只一人、あなたを苦しみから解放できる者よ」




