長い夜のはじまり -2-
背筋に悪寒が走った。
どこだ? 母上はどこなのだ。あいつは誰なのだ!
僕は覗き穴から目を離し、扉を開こうとした。しかし、開かない。歯を食いしばった僕は、ほとんど無意識のうちに次の行動に移っていた。僕は思い切り扉を蹴った。母上の部屋で一人のんびりしているこのトカゲ女を叩き斬って、一刻も早く母上を探さねばと思った。
「誰!?」
扉の中から女の声がした。僕はそれに応える前に大声をあげていた。
「アルール! 兵をつれてこい! 母上の部屋に見知らぬ者がいる!」
アルールはどこに隠れていたのか、すぐに僕の前に現れると「どうしたのです殿下!?」と尋ねてきた。アルールの顔が強張っていた。王子が王妃の部屋の扉を蹴るなど、そうそう起こることではないと思ったからだろう。
「アルール! この扉をあけよ。ノックは無用である」
「しかし殿下、エミリア様に何と言うおつもりで」
「構わぬ、母上をお助けするのだ」
アルールは「はっ」と短く返事をすると、少し扉から離れ、勢いをつけ、その筋骨隆々とした体で力一杯扉を蹴りあげた。すると、扉は内側に向かって弾けるように開かれた。僕は部屋の中に入り、腰からサーベルを抜き、椅子に座るトカゲのような容姿の女に突きつけた。トカゲ女の顔は、金色の前髪が垂れ下り、顔が覆われていてよく見えなかった。
僕は、勢い良く垂れていた女の前髪を左右に広げた。金色の髪が舞いあがり、顔が露わになった。
驚いた。
そこから現れた顔は、間違いなく母上の顔であった。いつもの母上。
僕は状況が飲み込めず、突きつけたサーベルを床に落した。
なにが起こったのか分からなかった。トカゲに似た女かと思って突きつけた僕の剣は、いつの間にか母上に向けられていたのだ。意味が分からなかった。僕の頭はとても混乱していた。その中で母上のたしなめるような声が僕の頭に響いてきた。
「アベル、これは何事です?」
母上に、何と言えばいいのか。黙ろうかとも思ったが、母上のするどい切れ長の目がハッキリと怒りの感情を現わしていた。もう、そのまま言うしか思いつかなかった。
「あの……、これは……、この部屋にまるでトカゲのような顔をした見知らぬ女がいたもので、居ても立ってもいられず――」
この言葉に母上の眉が動いたことを僕は見逃さなかった。
母上は肺から息を押し出すように長い溜息をつくと、ようやく声を発した。
「お前も戴冠式を控え疲れているのでしょう。……アルール、息子と二人になりたいので下がりなさい」
アルールは短く「はっ」というと、暗闇の中に消えていった。
それを見届けた母上は「アベル、来なさい」と自分の寝室に僕を案内した。母上の寝室にはこの部屋からしか行く事ができない。僕は薄暗い母上の寝室に入り、手を引かれるまま母上のベッドの上に腰をおろした。
母上は寝室のドアのカギを閉め、念入りにそれを確認すると、ようやく僕の隣に腰を下ろした。母上は数秒そのままの姿勢で沈黙していた。僕が「あの――」と、言いかけると、母上の口が動いた。
「……もうよいでしょう。お前にはいずれ話さなければならなかった事なのだから」
僕には母上の言葉の意味が分からなかった。
いずれ? 話さなければならない?
僕は母上の目を見た。母上も僕の目を見ていた。
「私の体は歪みに巻き込まれてしまったのです」
――歪み?
「いや、違う。あれを話す為にはどこから話さなければならないのか……。たぶん長い話になります。とても長い話に……。全てはあの日からはじまった。あの沢山の雪が降り積もっていたあの日……。お父様の言いつけを守り、あの女と話さなければ……。きっとあんなことにならずに済んだかもしれない……、あんな酷い事には……」
そう言った母上の目はとても寂しそうな目をしていた。そして、そのあと母上は確かに言った。
私とお前は間違いなく血は繋がっている。だが、私はエミリア=ミッドランドという人物ではない、と。