まどろみと王
私はまどろみのなかにいた。いや、それがそもそもまどろみなのか、そうではないのか私には判別がつかなかった。
全てが鈍くなってゆくような感覚と、全てが鋭くなってゆくような感覚。その両方が私を包んでいた。
不意に腕に重さを感じ、目線を下げた。そこには、まだ生まれたばかりの弟、ユスフが居た。私はユスフを抱きかかえていた。腕の中のユスフは私を見つめていた。もちもちした肌と、そして私と同じトカゲのような顔と目。何がそんなに不思議なのか、その目は、まるで世界の不思議を探るように私の顔をみつめていた。
指先で優しくユスフの頬を撫でてやると、ユスフの頬は膨らみ、私にむかって手を伸ばしてきた。ユスフのやわらかい指が私の前髪を掴む。視線を移すと横にお母様が座っていた。私達と少し違った目をしたお母様。お母様はユスフの顔を覗き込みながら言った。
『やはり、デインの血が濃いのかしら』
私は視線をユスフに戻す。ユスフのトカゲのようなギョロっとした瞳が私の前髪に向けられていた。トカゲのような瞳。愛しい瞳。これがデインの証。私達の血。私のトカゲのような瞳とユスフのトカゲのような瞳が向かい合わせの鏡のように互いの姿を反射する。
ユスフは盛んに口を広げ、何か言葉を発しようとしているように見えた。その時、横からお母様の声が聞えた。
『おいで、アナスタシア』
私はユスフを抱きかかえたまま、お母様の大きな胸にもたれかかった。お母様は、私とユスフを包み込んだ。
お母様の体は柔らかく、まるで底なしの沼のように感じられた。とても温かかく、優しい底なし沼。お母様の心臓の鼓動が聞え、他の音が遠くなってゆく。
心が穏やかになってゆく……、とても穏やかに……。
そういえば、これほど心が穏やかになるのはいつ以来だろう。
そんなことを思った。その直後に気づく。
いつ以来? なんでいつ以来と私は思ってしまったのだろう? いつだって心休まる家族といるのに……。
お母様の心臓の音に、なにかの音が混じり込んでいる気がした。ドクン、ドクンという音の合間に、キーンと、それは鳴った。耳鳴りだろうか? いや、気のせいだろうか? 少し頭が痛くなって気もする。どうしてだろう。
私はユスフの顔を見た。不思議な違和感を覚えた。私が腕に抱えているのは弟のユスフで間違いない。赤ん坊のユスフ。だが、もっと成長した顔も知っている気がした。
なぜ? どうしてだろう? 頭が痛い。
お母様が口をあけてもいないのに、言葉が響いてきた。
『やはり、デインの血が濃いのかしら』
耳鳴りの音が強くなってきた気がする。ドクン、ドクンという合間にキーンという音が鳴るのではなく、キーンという合間にわずかにドクンと小さな音が鳴った。
気づくと辺り一面に霧が立ち込めていた。
ここは、どこなのだろう? そもそも、私は今までどこにいたのだろう?
何だか怖くなってきた。霧のせいだろうか? ユスフの顔がその場にありながら霧の中に溶けてゆく。顔をあげると、お母様の顔も溶けていった。全てが白い霧の中に消えてゆく。
お父様の声がどこからか聞えた。
『アナスタシア、起きなさい』
もう一度聞えた。
『アナスタシア、起きなさい』
お父様、と叫ぼうとするが、声がでない。また声が聞えた。
『アナスタシア、起きなさい』
お父様?
『アナスタシア、起きなさい』
これは、本当にお父様の声だろうか?
『アナスタシア、起きなさい』
似ているが、違う気もする。
そして今度はハッキリと聞えた。
「原始の魔女アナスタシアよ。起きなさい」
白。最初に認識したのは白だった。まだ霧が私の周りに纏わりついているのか、と思ったあたりで、その白の眩しさに思わず目蓋を閉じた。
――眩しい? これは光?
ゆっくりと目蓋をあげると日光の白色が瞳に突き刺さる。その白の中からモザイクのように他の色が浮かび上がってくる。赤色、濃い茶色、金色、そして肌色。全てがぼんやりとした玉のように見えた。
すると、先ほどまで腕に感じていたユスフの重さがどこかに消えてしまったことに気がついた。そう、背中のぬくもりもどこかに消えていた。
――ユスフ、お母様、どこ?
両手を動かし、二人を探そうとするが、体が鉛のように重く自由が効かない。
まだぼんやりとしているが、瞳に突き刺さる色から徐々にモザイクがとれてゆき、それが段々と様々な形に見えてきた。白の中に赤があった。あれはたぶん壁とそこに描かれた模様。そう、きっと壁に違いない。下から上に真っすぐのびる茶色はきっと柱の色。そして、私のすぐそばに肌色があった。人の形をしていた。
私は小さな声で「お母様」とその肌色に向かって言った。
瞳が光に慣れてゆき、徐々に色と形がハッキリと見えてきた。
目の焦点が合い。私は目を大きく見開いた。
その肌色はお母様ではなかった。
白い髭をたくわえ、しわくちゃの肌を纏い、光り輝く王冠がその男の頭上にあった。男と目があった。
「ようやく起きたか原始の魔女アナスタシアよ」と男が言った。
見覚えのある顔だった。そう、何度も夢に出てきた顔。
脳裏に燃え盛るデイン城が蘇り、私は叫んだ。
「ユリウス=ミッドランド!!」
炎を放とうと手をあげようとした――が、やはり、体が鉛のように重く反応しない。
――なんで! こんな大事な時に!
私が芋虫のように体をくねらせていると、代わりにユリウスが答えた。
「そなたは魔女なのに魔法のことをよく知らぬようだな。それは体内の水を操るサマンサの魔法で、その魔法にかかると体中が術者の思いのままになるのだそうだ。だからそなたはもう、自分の思ったように魔法を扱う事はできない。少なくとも、もうしばらくの間は、な」
脳内を電気信号が駆け巡り、様々な映像が頭をかすめる。
氷漬けにされた王太子ハロル。水の玉を操る王妃サマンサ。そして私は……、私は……。小さな無数の気泡が上に昇ってゆく映像が蘇る。同時に苦しさと、絶望感が胸の奥底からせり上がってきた。そうだ。負けたのだ。私は負けたのだ。それも、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
私は歯を食いしばり立ち上がろうとするが、ユリウスの言葉通り体が上手く動かない。ユリウスはそれを黙って見ていた。本当に微動だにせず。
私は何度も体を動かそうと試みたが、やがて、その無意味さを悟り、止めた。
部屋に沈黙が流れた。
変だ、とまず思った。なぜ私を殺さないのだろう。今の私など簡単に殺せるはずだ、と思ったあたりで気がついた。
白い煌びやかな羽毛布団が私の体にかかっていた。少し見ただけでこれが最上級の代物であると分かった。私はここに至り、ようやく自分が高級なベッドの上で寝ている状態であったのだ、と気づいた。
意味が分からなかった。どうも状況が呑み込めない。
これはどういうことだろう。何故私はこんな良い扱いを受けているのだろう? それに、そもそも、何故私はまだ生きているのだろう?
私はユリウスを思い切り睨みつけた。
なのに、ユリウスは少し頬をゆるませた。
「何故殺さないのか? と言いたげな顔だな。その闘争心。父親ゆずりか?」
「あんたには関係ないわ。さぁ! 殺すなら殺しなさい! さぁ! ほら! 早く!」と私は吠えた。怖かった。心臓が早鐘を打つように鳴っていた。ユリウスは、溜息をつくと、眉をハの字にさせた。
「死が望みか? アナスタシア=デイン」ユリウスの清んだ瞳が私の顔を覗きこむ「残念だが、そなたは死なない。そなたはまだ死ぬ運命にはない。そういう運命にあるものは死のうと思っても死ねないそうだ」
まるでユリウスは誰かにそう聞いた、とでも言うような口ぶりで答えた。だが、その口ぶりが逆に私の癇に障った。
「あなたは王なんだもの! 全てが意のままでしょう? 私の家族もあなたに殺さされたわ!」
私のその叫びに、ユリウスは悲しい表情をした。
「全てが意のままか……、そうであればどれほどよいか……。私の人生はまるで彼女の手のひらで踊る魚のような生であった。いや、それこそが予言……、いや……運命というものか……」
彼女? 彼女とは誰を指しているのだろう? いや、それよりも、これは……、と思い、改めてユリウスを見た。
全てに力がなかった。
背は丸まり、目はまるで死人のそれに思えた。これがミッドランド国王なのか? 王とはどこまでも傲慢で、欲望を剥き出しにし、叶えられない願いなど何も無い圧倒的な存在であるはずだ。そう、私はそういう王の姿を想像していた。想像していたはずだった。だが、そんな私の勝手な印象とは真逆の王の姿が目の前にあった。ユリウスの唇が動く。
「そなたに大事な話がある。とても大事な話が……な」




