戦闘
申し訳ありませんがプロローグを付け足しました。
秒針のカチッという音が書斎に響いた。
窓から入りこむ弱い光りが私とサマンサを横から照らし、靴と床を擦り合わせたキュッという音が耳に入りこむ。
空気が痛いぐらいに張りつめ、鳥肌が立った。
アナスタシア=デイン。そう、アナスタシア=デイン。
この言葉が何度も頭の中で繰り返される。まるで、頭の隅々に届くように、何度も。
その事実に気づいた心臓が大きく脈をうった。
バレたのだ。ついに、正体がバレてしまったのだ。
私の瞳に、自慢の赤い髪をかきあげるサマンサが映る。
サマンサは、髪をかきあげながら冷めた目でこちらを眺めていた。
私は、瞬きせず、唾液を喉の奥に押し込んだ。
分からないことだらけだった。この状況も、なぜ彼女がそれを知っていたのかも。ほとんど全てが分からなかった。だが、頭が、肌が、指先が、危険だ、と私に告げていた。あの女は危険だ、と。生かしておいてはいけない、と。絶対に生かしておいてはいけない、と。
次の瞬間、私は弾けるように後ろに飛んだ。その刹那、ポケットから土人形を取り出し、息を吹きかけた。
3体の土人形は体をひねらせ大きくなってゆく。
サマンサはその様子を目だけで追っていた。
私は、着地と同時に土人形に命令した。
「サマンサを殺しなさい」
3体の土人形の目が一斉にサマンサに向けられた。3体の暗い瞳が中年の女性を捉える。
「そう、その女よ! 早く殺しさない!」
3体の土人形は、私の叫びに反応するように手を床につき、獣のように体をまるめると、大きな足で床を蹴り、目にもとまらぬ速さでサマンサに襲いかかっていった。サマンサの唇が片方へ歪んで吊りあがる。
それは、たぶん、時間にすると、ほんの一瞬の出来事だった。
サマンサは手のひらを広げ、何かを小さく口ずさんだ。
次の瞬間、私の瞳孔が大きく開かれた。
サマンサの手のひらから大量の水のようなものが飛び出したのだ。それはサマンサの周りを覆い、完全な球体となった。4本足で飛びつこうとした土人形達はその中に突っ込み、跡形もなくバラバラに砕け散った。
その奇妙な球体の中からサマンサの声が聞えた。
「ジャンケンという遊びをあなたは知っているかしら? ジャンケンは遥か東の土地で生まれた珍しい遊びなの。色んな形に手の握りを変化させ、その出した形で勝敗を競うの。二本指をつきだす形はチョキ、手を握りしめるのはグー、そして手を開いた形がパー。グーはチョキに勝ち、パーはグーに勝ち、チョキはパーに勝つの。分かるかしら? それがわらわ達の関係。相性とでも言えばいいのかしら。わらわがグーならあなたはチョキ。あなたはわらわに勝つことができないの、チョキがグーに勝つことができないようにね」
言葉が半分以上頭に入って来なかった。
自分の目が信じられなかった。これはなんなのか、と思った。サマンサを覆っている水のようなものは動き続けながら球体の形を保っていた。
最初に頭に浮かんだ言葉は“魔法”だった。
私は、動き続ける奇妙な液体に目を凝らす。
魔法? これは魔法なのだろうか。だとするとサマンサは――
「こないの? ならこっちからいくわよ!」というサマンサの声に思考が中断される。
――しまった。
私はあわてて右の手のひらをサマンサに向け、腕を伸ばした――、が遅かった。
さきほどまでサマンサの周りを覆っていた水のようなものが今度は無数の小さな球体に変化し、水しぶきをあげ、私に向かって飛んできた。
――避けなきゃ!
私は、床を蹴り、横に飛んだ。無数の弾は、頬をかすり、太ももをかすめ、みぞおちと脇腹のあたりにめり込んだ。
「がっはぁ」
口から声が漏れ、床に激しくうちつけられた。
まるで、雷がつま先から頭に突き抜けたような痛みだった。
――ダメ、今止まってはダメ! 動き続けなきゃ。
私は、震える手を床につき、顔をあげた。すると、サマンサは優しい瞳でこちらを見ていた。
「さぁ、これで終わりよエミリア。下を見てごらんなさい」
うずくまっていた私は下を見た。
影があった。私の影を覆い尽くすほどの大きな影。
――まさか!
咄嗟に上を向くと、大きな水の塊が私の頭上に浮いていた。次の瞬間、それが覆いかぶさるように私を上から包み込んだ。手、足、膝、腰、胸、頭の全てが水の中に引きずり込まれ、全身が締めあげられる。
なんとか空気を吸いこもうと口をあけるが、そこから水が口の中に侵入してきた。
――息が、息ができない。
私は体をばたつかせるが、全く効果がない。この水はヒルのように私からくっついて離れなかった。
――ならば蒸発させてやる!
私はもう一度手をひらき、そこに神経を集中させるが上手くいかない。黒い炎を呼びだすことができない。おかしい。どうして? と思い、もう一度同じ動作をするが、やはり上手くいかない。
「炎の魔法はね、ある程度自分の手のひらで激しく魔法の粒子を動かしてこそ熱を発することができるそうよ。だから水の中でそれをおこそうとしてもまず無理なの。だって考えてもみて、手は水によって常に冷やされ続けるのよ。つまり、もう無理なの。一度水の中に入ると、もう炎を呼びだすことは不可能なの」
酸素が失われてゆく。
――苦しい。苦しい。辛い。苦しい。
口から吐き出された無数の気泡が目の前を通り過ぎる。
ものを考えられなくなってゆく。
肺が水で満たされ、目の前が霞みはじめ、手足が意図せず震え始める。
死という文字がチラついた。
――こんなところで? 私はこんなところで死ぬの?
目が白目を剥いた。
ダメだ。もうダメだ。
お母様。お父様。
アナスタシアは……、何もできませんでした……何も……。
脳の電気信号が弱くなる。
感覚が鈍くなってゆく。
何もかもが虚ろになってゆく。
…………。
……。
「………きゃ……こ……が……は……な……」
――?
「……ぜ……こ……る……い……な……」
――なんだろう。なにかが……きこえる?
「ちが……では……な……か」
たしかに聞える。
そう思ったあたりで、周りを覆っていた水の塊が消え、私の体は支えを失った人形のように、床に崩れ落ちた。胃が何度も収縮を繰り返し、むせびあがってきた大量の水が噴水のように口から噴き出た。
「ぐぇっほ、ごほっ、ごほっ」
すると、たしかに聞えた。あの声が。
「話が違うではないか!」
それは、年老いた男の声だった。
意識が遠のいてゆく。
あの声はきいたことがあると思った。誰の声であったか。思い出せない。
誰だろう。
たしかに聞いたことがあるのに。
たしかに……。
そこで私の意識は途切れた。




