更なる疑問
「え?」と思わず僕は声を出した。
今、自分が何を聞いたのかよく分からなかった。
聞き違いだろうか? と思った。
母上が今、先日死んだ父上の名を言ったような気がしたのだ。
そう、確かにそんな気がしたのだ。
母上のトカゲのような目がこちらに向けられていた。
燭台の灯りが不意に上下に揺れ、母上の顔の半分を影が覆った。だが、その間中、ずっと母上の目は僕を見ていた。
不思議な目だった。
憐れむような、悲しむような、そんな目でこちらを見ていた。
だが、やがて母上はその目を瞑り、口を開いた。
「その氷漬けにされたハロルの顔を見て思いました。これは――」
「お待ちください母上!」と、僕は思わず母上の言葉を遮った。
頭の中が奇妙に歪んでいくような気がした。
体中の至る所から汗が吹き出し、鼻から押し出される息が荒くなってゆく。
おかしい。
母上はどう考えてもおかしな言葉を口走っていた。
確かに今言ったぞ、と思った。ハロル、という言葉を確かに。
僕は確かめるように口ひらく。
「その……、あの……。ひょっとして僕は今おかしな言葉が聞えてしまったのかもしれません。少し、色々な話を聞いて混乱していたせいもあるのかもしれません。だから……、その……、間違いだったらそう言ってほしいのです。誰にでもそんなことがありますので……」
僕は一度喉を鳴らした。そして、そのあと言った。
「母上は……、今……、その……まさかとは思いますが……。父上の名をおっしゃったのですか? ハロル、と」
長い長い沈黙だった。
その堪え難い静寂の中に、わずかに音が鳴った。
カタカタ、という音。風が窓にあたり、揺れているのだ、と思った。
そしてもう一つ鳴っていた。僕の中にだけ響く音。バクンバクンとその音は鳴っていた。
痛い程の静寂とは裏腹に、その音は叫び声をあげたように体中に響いていた。
沢山息をしてるはずなのに、不思議と息苦しさを覚えた。体の中に響く音が更に大きくなった。
ゆっくりゆっくりと母上の唇が動き、やがて僕の耳の奥に母上の声が入りこんだ。
「そうです。私はハロルと言いました。ハロル=ミッドランド。あなたが父上と呼ぶ人です」
馬鹿な、と思った。そんなことなどありえない、と。
父上が死んだのはつい先日のことだ。
あまりに急な死であったために先ほどは気が動転して母上が殺してしまったのか、などと口にしてしまったが、それにしてもありえない。ありえるはずがないのだ。僕はそこまで愚かではない。つい先日死んだ人間が、そのずっと以前に死んでいたなどあるはずがないのだ。
それに、それにだ。
僕がここにいることこそが、僕が正しいという証ではないか。
僕は父上の子だ。
ハロル=ミッドランドの息子、アベル=ミッドランドだ。
男女が結び付いてこそ子は生まれると僕は知っている。
父上が母上と契る前に死ぬわけがないではないか。そうだ。そんな馬鹿な話もない。もしそうであれば、僕が生まれてくるはずがないのだ。僕がこの場にいるということは、父上はその時死んでいないという何よりの証ではないか。
そう思ったあたりで僕は気づいた。
必ずしもそうではない、と。
もしも、だ。
仮にもしも母上の話が本当だったとしよう。
父上がそのずっと以前に死んでいたというのいうのが本当であれば、僕には別の父親がいたことになるのではないだろうか?
いや、それもそうなのだが、それよりも気になることがあった。
細い目、角ばったあご、大きな胸板。やさしい言葉に、威厳ある態度。このミッドランドの所有者にして、唯一無二の王ハロル=ミッドランド。
父上。僕がずっと見てきた父上……。
父上がずっと以前に死んでいるというのならば、僕が父と思いこんでいたあの男は一体誰なのだ?
なぜ皆が当然のようにあの男をハロル=ミッドランドと思いこむのだ?
いや、そもそも、僕は一体誰の子なのだ?