エミリア=トラント -1-
夜、部屋のほとんどが暗がりに包まれるなか、化粧台の近くの燭台の火だけが灯されていた。
私――アナスタシア=デイン――はその化粧台の椅子に座っていた。
そこには私以外誰もいなかった。
私は黙って正面の大きな鏡を見つめていた。
そこには私の顔が映っていた。
私は、指の腹でそっと撫でるように頬を触った。
完璧だ、と思った。
瞳の大きさ。うっすらとした二重。まっすぐのびた眉毛に長いまつ毛。すらっとした鼻。あまり主張しない頬骨。うすく上品な唇。そしてやわらかな頬と細い顎。私は少し左右に首をひねり、様々な角度から自分の顔を確かめる。
やはり完璧だ。
そう、外見は完璧だった。あとは立ち居振る舞いだけなのだ。
軽く息をつくと、燭台の灯りがゆれ、顎の下の影が僅かに伸び縮みした。
私は鏡の中の自分に言い聞かせるように、戒めの言葉を小さく口ずさんだ。
「気を抜いてはダメ。決して気を抜いてはいけないのよアナスタシア」
その時だった。
扉が二度ノックされ、外から使用人の女の声が聞えた。
「お嬢様。お食事の時間でございます」
その声に私は「分かったわ、ありがとう」と返し、椅子からゆっくり立ち上がった。次に私は自分の部屋の扉を引くと、薄暗い廊下に出て、食の間を目指した。すれ違う使用人が私におじぎをし、通り過ぎた。私は目だけで“御苦労”という視線をなげ、足を前へと進める。
食の間の扉に手をかけ、その扉をあけると、そこはガラスで出来た豪華なシャンデリアの放つ光りに包まれていた。たぶん白を基調とした壁が上手い具合に光りを反射させているのかもしれない。とにかく、シャンデリアの光りは、食の間全体に降り注ぎ、その下には縦長の食卓テーブルとちょうどその両端に座る二人がいた。
ちょび髭と大柄な体が特徴的な中年の男と、すべてがほっそりとして、口元と首のあたりのしわが濃い中年の女。
私は、使用人がひいた椅子にゆっくり座った。すると、中年の男と中年の女がやさしく微笑み、そして、私に向かって言った。
「好きな物を食べなさいエミリア」
私は一拍おいてからこう答えた。
「ええ、お父様。お母様。そうさせてもらうわ」
食卓テーブルの上にはトラント家の鷹の紋章の入った白いテーブルクロスが敷かれており、銀の食器と銀のワイングラスが3人分そこに用意され、青々とした季節ものの野菜とすでに切り揃えた肉が銀の皿の上に山のように置かれていた。
私は青物に手を伸ばした。青物など嫌いだが、エミリアは好きだと聞いていたからだ。私は青物を細かくナイフで切ると、フォークでそれを口に運んだ。そして無理に笑顔を作り「美味しい」と言った。
お父様――アルダ=トラント――と、お母様――ケイトリン=トラント――の顔が明るくなる。この二人はなめるように私の反応を伺っていた。当然と言えば当然ではある。まだ二人は自分の娘が生きて帰ってきたことが信じられないのかもしれない。もうここに住み始めてから半年も経つというのに、二人は私が食事を食べる姿を見る度に自分のことのように喜んだ。
「さぁ、もっとおたべエミリア」とお父様が言った。
「こちらのシチューも美味しいわよエミリア」とお母様が言った。
エミリア。そう、エミリア=トラント。それがこの時の私の名前だった。ここはトラント家の屋敷で、王都アヴァロンの貴族地区(通称“ガーデン”)の一角にあった。
私はここ王都アヴァロンでやるべきことがあった。
そのためにはこの女が必要だった。もっと正確に言えば、この女の身分が必要だった。
私はさかんに青物をかみ砕き、なんとか喉の奥に流し込んだ。
「ああ、本当においしいわ」と、また笑顔を作る。
口の中の粘膜が、青物がこれ以上口に放り込まれることを拒否していた。だが、気づかれるわけにはいかなかった。私は更に青物をほうばり、懸命に笑顔をつくったが、鳥肌が立っていやしないか気になった。
とにかく、私は演じ切る必要があった。エミリア=トラントを演じ切る必要があったのだ。