プロローグ
どんなに困難な状況でも、匙を投げる人がいようと、自らの信念と技量で人々を救うスーパードクター。ドラマだろうと、作り話だろうと、少年にとってそれはヒーローであり、憧れであった。
その憧れはいつしか夢になった。
その夢は成長とともに目標となった。
自分もなりたい、自分にもできる、そう信じていた。
そして、少年には才能があった。目標のために努力を惜しまない才能が。そのため教師からは真面目で優秀な生徒と評価されていた。その評価を体現するかのように、東京大学医学部現役合格し国家試験もトップ合格した。夢が、目標が現実になる。努力は報われる。誰もがそれを疑わなかった。
しかし、少年から大人となった彼は、挫折した。
どうしても克服できなかったのだ、刃物を持って肉を裂くことが。肉を裂く感触、鼻につく血の匂い、彼の心とは裏腹に身体が拒絶した。手が震え、嘔吐を催した。彼の努力をもってしても太刀打ちできなかった。絶望した彼は長年抱いてきた目標を見失った。外科医の道が閉ざされた彼は、内科医となった。それでも大学病院勤務にこだわったのは、論文などで救える命があると信じたから。
患者を診て論文を書くことを繰り返すも、いつしか彼の手は止まっていた。どんなに論文を発表しようと、余命宣告を受け涙を流す人を救えない自分に失望したからだ。論文を書かなくなった彼は教授選挙からも外れ、経験年数を重ねただけの高級取りのお荷物と成り果てていた。皺も脂肪も増えた彼は、とうとう僻地へと移動となった。
目標だけを見据えていた彼には、人生をともに歩む人はいなかった。目標を失った彼には、同じ目線で盃を交わす人はいなかった。だから、左遷の辞令に憤りも未練もなかった。心機一転、地域密着型の内科医も良いのかもしれないと小さな希望すらあった。
彼には似つかわしくない煌びやかな花束と激励の言葉を貰い、家路に着くときには小さな笑みが浮かんでいた。彼の心は憑き物でも落ちかのように清々しいのだ。最初から分不相応な目標など捨ててしまえば良かったのだと、今更ながらに気づいたのだ。気づくのが遅かったが、手遅れではないと感じていた。
そんな時。
声がした。叫声と笑声。
振り向くと、道の端にフードを被った黒い男。笑声はその男から。叫声は男の足元に倒れた女とその周囲から。
何事が起きたか理解したときには、彼の斜め後ろにいた人が彼にぶつかるよう走り出した。その衝撃でよろめく彼に謝罪の言葉はない。それどころではないからだ。
黒い男は尚も笑声をあげていた。手には刃物だろうか。それからは赤黒いものが滴っている。
そのまま男は男の手の届くものを損じていく。
次は自分だ。誰もがその恐怖に逃げ惑う。ぞろりと冷たいものが彼の背中を走る。その時、彼の目に映ったのは小さな青。リボンを頭に乗せて、フリフリの青いワンピースをきた小さな女の子。迫り来る恐怖に足を動かすことも声を上げることもできずにいるか弱き存在。彼がその存在に気づくと同時に、男もまたその存在に気づいた。狂った笑声が牙を剥く。
咄嗟だった。
手を伸ばし、抱え込む。
背中には何度か衝撃があった。
腕の中のぬくもりはやけに優しい。離してなるものか。それは無意識か彼の意地か。
ぐらりと世界が歪み、次に彼の目に映ったのは道路に散った色とりどりの花びらと、それを踏みつけて次なる標的へと走る男。
視線を移すと泣き崩れている少女。
怪我はないかと聞こうにも、声にはならない。
手を伸ばそうにも、もう思うように力がはいらない。
ああ、綺麗な青だったのに。汚してしまって、申し訳ない。
少女の青いワンピースが血塗られているのを目にして彼は思った。
それが彼の最期だった。