第三章 雲への航路(二)
薄暗い木々の合間を、鴻牙は走っていた。まだ成人の儀を済ます前、結われた髪が右に左に揺れる。
鴻牙は足を止めた。山道を走ったことで、息が弾んでいる。その場所から、先程抜け出してきた社が見えた。
「もう嫌だ、あんなところは」
鴻牙の一族は、代々繋官を輩出してきた。当然の如く鴻牙も繋官を目指すものとされ、幼い頃から厳しい修行をつまされてきたのだ。
「雲の民の御前にゆける訳でもなし、鍛えてなんになる」
鴻牙が物心付く前には、雲の民との交流はなくなってしまっていた。見たこともない者のために修行を続ける日々に、嫌気が差していた。
しかし抜け出してきたといっても、行く場所などない。勢いでここまで来てしまったが、鴻牙は途方に暮れていた。
その時だった。かさりと草を踏む音がした。
「誰だ!?」
もう追手が来たのかと身構えたが、振り返るとそこにいたのは五歳程の少女だった。美しい衣を纏った少女は、鴻牙の姿を認めてきょとんとしている。
「この辺りの子か? 迷子か?」
鴻牙が問うが、少女は微動だにしない。
「あなた、やしろのひと?」
質問に答えず少女は言った。鴻牙は鼻白むが相手は子供だ。平静を装って答えた。
「まぁ、な。君はここで何をしているんだ?」
この山は雲の社の土地だ。罰せられるということはないが、勝手に立ち入っては問題があるだろう。
「わたし、やしろをみにきたの。ねぇ、やしろってどんなとこ? いっぱいおはなある?」
繋官に憧れる民は多い。少女も話に聞く社を一目みたいと思って、ここまでやって来たのだろう。
「最低なところさ。あんなとこ……」
毎日毎日、体を鍛え、学を修める。姿も見せない雲の民のために身を粉にするなど、もう耐えられなかった。
はっと気付くと、少女が泣き出しそうな顔をしている。繋官に憧れてここまで来たのだ。社の者から最低なところだと聞かされ、がっかりしないはずがないだろう。
「でっ、でもな! 美しい桃があるんだ!」
「もも?」
「そう。雲の民様が残されたという伝説の桃の木なんだよ。春には綺麗な花を咲かせるんだ」
鴻牙の話を聞いて、少女の表情がだんだんと明るいものに変わっていった。鴻牙は胸を撫で下ろす。まだこんなに幼い子供に、残念な思いをさせてしまうところだった。
「やっぱりちじょうはすてきなところなのね! おれいにいいものみせてあげる!」
地上? と鴻牙が首を捻った瞬間だった。少女の手から白い雲が飛び出した。二人の頭上で固まりになり、やがてそれは花の形になった。
「君は……」
「……り様ー!」
鴻牙が問おうとしたが、遠くから聞こえてきた声に、少女は振り返った。
「わたしもういかなきゃ! どうもありがとう。またね!」
少女は衣を翻して走っていってしまった。鴻牙は呆然と立ち竦む。
それは、鴻牙が初めて雲の民に相見えた日だった。
そこで目が覚めた。窓の外の空はまだ薄暗い。
「懐かしい夢を見たな……」
鴻牙が心から繋官を目指す理由になったできごとだ。雲を操る姿はとても美しかった。あの姿を守るためならば、どんな修行も耐えようと思えたのだ。
あの一件以来、雲の民と相見えることはなかったが、鴻牙が改心するには充分なできごとだった。
あの少女はどうしているだろうか、と鴻牙は頬を緩める。
あの時既に、雲の民は地上との交流を絶っていた。勝手に地上に来たことで、少女が叱られていなければいいが、と心配になる。
「兎に角は、今日の視察か……」
夜が明ければ南州の視察だ。珀璃が雲の力を使うことができるのか、見極める旅でもある。
そのことを思い出し、鴻牙は暗澹たる思いになった。
*
「うっわぁ……」
丘を下れば南州である。珀璃は馬上でその風景に感嘆の声を上げた。
村の入り口に、一面の花畑が広がっている。鮮やかなその黄色は、夏を誇るかのようだ。
「美しいですね!」
「えぇ……」
後ろで手綱を操る鴻牙を振り返って言うけれど、彼の返事は歯切れの悪いものだった。
珀璃は首を傾げた。何か気掛かりなことでもあるのだろうか。
問おうとした珀璃だったが、村が近付いてきてあることに気が付いた。興味はそちらに移る。
「あれ?」
花畑の近くまで来て、珀璃は再び首を傾げることになった。丘の上で鮮やかに見えた花は、皆一様に首を垂れているのだ。
「鴻牙様、花とはこのように咲くものなのですか?」
振り返って珀璃は尋ねる。供物の花は、もっと生き生きとしていた。地に生える花がこのように萎れているとは思えない。見上げる鴻牙の表情は暗い。
「……いいえ」
鴻牙は視線を落としそう答えた。
「この花は、太陽を向いて咲く花です。恋する花とも呼ばれるほどで……。焦がれる相手が姿を見せぬから、地を向いているのです」
珀璃は花畑をもう一度見つめた。愛しい太陽を想い、うな垂れる花。勿論それが例えだと珀璃には分かっている。しかし日の光を求めているのは花とて同じ。何日も姿を見せない太陽に、人々の心にも不安の種が芽生え始めていた。
俯く花を見て、珀璃は何を考えているのだろうか。鴻牙には珀璃の髪飾りしか見えない。
「そう、ですか」
結局、珀璃はそう呟いただけだった。
麗琳国の中でも、南州が占める土地の割り合いは大きい。温暖な気候は多くの農作物を実らせ、国の重要な収穫源となっている。生産性を上げるため、徐々に領地が広がっていき、いまの形となった。
珀璃はここでも分社の一等の部屋に通されていた。中央州の社程ではないが、趣向の凝らされた透かし彫りの窓が目を引く。
「明日は畑の視察に参ります。長旅でお疲れでしょう。今夜はゆっくりお休みください」
分社の者と共に部屋まで案内した鴻牙は、そう言って去っていた。呉羽が珀璃に茶を淹れる。
「なんだか……思っていたのと違いましたね」
珀璃もその意見には同意だった。
大地に根を張り、空へ向かい逞しく生きる植物。書物で読んで想像していた姿は、あの黄色の花のようにうな垂れたものではなかった。もっと美しい風景を見られると思ってここへ来たのだ。
「草花には水と光、そして愛情が必要だと書物に書いてあったわ。やはりこの天気が影響しているのでしょうね」
珀璃は眉をひそめる。全ての元凶は、天上にいる櫂醒だ。あの男が天候を狂わせ、大地の民に苦行を強いようとしている。
それに呉羽も思い至ったのだろう。主と同じように顔を険しくさせていた。
「あの男は、何を考えているのでしょうか」
「分からない。だけどこのままでは駄目だわ。私が何とかしないと……」
その表情は、どこか思い詰めたものだった。