第三章 雲への航路(一)
中央州に戻った珀璃は、心中穏やかではなかった。曇りの日が、目に見えて増えてきたのだ。
時折思い出したかのように、豪雨になる日もある。川の水は濁り切っていた。
「今日も曇り、ですねぇ」
呉羽が窓の外を見上げながら呟く。もうどれほど太陽を見ていないのか。何日も雨の日が続くこともある。
珀璃は文机に頬杖を付きながら、ぼんやりと書物の頁を捲った。腕輪の外し方も未だに分かっていない。
こんな曇りの日でも、珀璃の両腕にはめられた枷のような金の腕輪は変わらず煌きを放っている。腕輪に罪はないけれど、黄金の輝きが憎らしい。
天上の櫂醒の顔を思い出し、珀璃は暗澹たる思いになった。
*
夏季にこれほど太陽が姿を見せなければ、心配になってくるのが作物の出来である。
「失礼いたします、鴻牙様」
繋官長室に入ってきたのは、南州の分社からの使者だった。
「ご存知のとおり、南州でも曇天が続いております。このままでは、今年の収穫量は例年の三分の二……下手したら半分以下になるでしょう。蓄えだけで冬を越せるかどうか……」
南州は麗琳国の農作物の生産の大部分を担っていた。曇り空は中央州だけでなく、南州の上空をも覆っている。秋の収穫量が激減するのは目に見て取れた。
「隣国からの買い付けも検討しておこう。北州、東州にも伝えておく」
「あの……鴻牙様……」
使者はおずおずと口を開いた。
「なんだ?」
「その……。雲の民の使者様には、申し上げられないのですか……?」
使者は鴻牙の様子を伺うように言う。鴻牙は一瞬、言葉に詰まった。
珀璃に請うて晴れ空を取り戻せと言うのだ。
彼女の表情が頭を過ぎる。雲の王宮を語り、動揺を見せた彼女。
「……考えておこう」
どうにかそれだけを言うと、使者を下がらせた。
勇人が茶を淹れ、繋官長室に入ってきた。ぼんやりとしている鴻牙を目にし、小さく溜息を付く。
「言えばいいですのに」
「何をだ」
文机に茶を置きながらそう言い出す三国に、鴻牙はにべもない。
「珀璃様ですよ。あのお方に頼めば、雲を晴らすことなど造作もないことじゃないですか」
鴻牙は筆を置いた。背もたれに身を預け、天上を見上げる。
「勇人。珀璃様がこちらに来られてから、雲の力をお使いになったところを見たことがあるか?」
その問いに、勇人は一瞬きょとんとする。自分の発言との関連を見つけられなかったのだ。
「いいえ。ですが雲の民様ですよ? 簡単に大地の民に力をお見せするものでしょうか?」
淹れてもらった茶を手に、鴻牙は考え込みながら一口飲んだ。
「あのお方は、大地の民のことも考えてくださっていた。一方的に利益を貪ろうとする訳ではない、天上を愛し地上を慈しんでおられる。……そのお方が、この状況を見過ごされるだろうか」
鴻牙の脳裏には、あの日東州で見せた珀璃の横顔が浮かんでいた。
あの夜、東州の社の庭で語った珀璃の瞳には、麗琳国に対する愛が溢れていた。
「何か、理由があるのでしょうか……?」
「分からぬ。一繋官にお教えいただけるとも思えないしな。ただ……」
鴻牙は窓の外に目を向けた。そこには変わらず曇天が広がっている。
「ただ、何か起こりそうな気がする」
風が一筋吹いた。不穏な音を立て、社を通り過ぎていく。
*
鴻牙が南州に行くらしいと聞いたのは、珀璃が社の書物を粗方読み終えた頃だった。
腕輪を外す有効な手立てが見つからず、気落ちする主にその話題を持ってきたのは、呉羽だった。
「南州は植物の栽培が盛んなところだと聞きます。きっと美しいのでしょうねぇ」
うっとりと呉羽は呟く。天上で珀璃に奉納される花々を見てきたのは、呉羽とて同じだ。主と同じように、呉羽もまた、美しい花々に魅せられてきた。
大地のない天上には、花が咲かない。一面に咲く花畑を想像すると、大地の民嫌いの呉羽でさえも胸が高鳴る。
「でもこんな天気じゃどうでしょうね」
珀璃はそう言って窓の外を見上げた。
曇天は人の心まで曇らせる。雨雲になる地域も多いらしく、川の氾濫が続くこともあると聞いた。珀璃の心も穏やかではいられない。
扉を叩く音が聞こえた。
「珀璃様、こちらにいらっしゃいますか?」
呉羽が扉を開けると、そこには鴻牙が立っていた。珀璃は彼に入るよう促す。
「来週、南州に視察に行くことになっています。もしよろしければ、珀璃様もご一緒されませんか?」
色めき立ったのは呉羽だ。想像することしかできなかった花畑を見ることができる。魅力的な話だ。主に窘められ、呉羽は恥ずかしそうに一つ咳払いをした。
珀璃は鴻牙に向き直る。
「よろしいのですか?」
「えぇ、勿論。南州は田畑の多い土地です。お気に召していただけたら幸いです」
珀璃と呉羽は顔を見合わせた。嬉しそうな顔を後に、鴻牙は部屋を出た。
回廊の半ばで勇人が佇んでいる。
「うまくいくでしょうか?」
鴻牙の姿を認めて、勇人は上官に尋ねた。鴻牙の表情に、先程まで浮かべていた笑みはない。
珀璃が雲の力を使うのか。それを見極めることが今回の視察のもう一つの目的である。南州の様子を見て珀璃が力を使うのか、一つの賭けだった。
「それこそ天のみぞ知る、だな」
空は相変わらず、灰色の雲で覆われている。