第二章 伝説になりたかった少女(四)
次の日。珀璃は鴻牙に案内されて、機織工房の見学に赴いた。
「東州では服飾産業が盛んだと申しましたね。通りを歩けば二軒に一軒、織物工房にぶつかるとまで言われるほどです。これから参るのは、金糸の織物では麗琳国一と言われている工房です。さぁ、着きました」
鴻牙が指し示す先には、大きな建物があった。
「ようこそお越しくださいました。わたくしがこの工房の長です。どうぞごゆるりとご覧くださいませ」
初老の男性が珀璃達に挨拶する。
「工房長殿はこの道五十年の職人です。天上に献上する金糸の織物のほとんどが工房長殿の作品ですから、今珀璃様がお召しの着物も工房長殿が作ったものでしょうね」
「大変名誉なことです。私の作ったものを雲の民様に着ていただけて、しかも生きているうちにそのお方にお会いできるなんて」
珀璃は黙ってそれを聞いていた。鴻牙はそれをちらりと見やる。
「こちらが作業場です」
工房長が扉を開けた先には、たくさんの機織が並んでいた。その前に座っていた者達は一斉に手を止め、珀璃達に頭を垂れた。
「作業を続けてください」
笑みを湛えて珀璃が言うと、皆一様に作業を再開した。作業場にかこん、かこんと機織の音が響く。
「麗琳国のほとんどの着物を、ここ東州で作っているとか」
「えぇ。うちの工房で作られるのは上流階級向けのものですが」
「そうなのですか?」
「金糸を織り込んでいますからね。金は高価ですから」
天上とは違う価値観に、珀璃は内心驚いた。金は雲の民の力を封じるもの。好んで金細工を身に付ける者はいない。天上ではそれ程貴重とされていないものを、地上では大切にされているという。
些細なことでも、地上に来なければ分からなかった。最初は無理やり落とされたと感じていたが、珀璃はここに来られて良かったと考えていた。
「ここ十数年は雲の民様のお気に召していらっしゃるようで、うちの工房も鼻が高いのですよ」
工房長が誇らしげに言うのを、珀璃は心ここに在らずというような表情で聞いていた。
その日の晩、珀璃は一人、分社の庭に佇んでいた。石や砂が敷き詰められた庭は、少々冷たく感じる。中央州の社から見える風景とは違い、草木がないせいだろうか。
珀璃は工房長の話を思い出していた。
雲の民が金糸を織り込んだ着物を重宝し出したのは、珀璃のせいだ。珀璃は生まれたときから絶大な力を有していた。物心付かぬうちは力の制御ができず、荒れ狂う雲を王宮の者総出で抑えたという。金を纏ってようやく、普通の雲の民と同じような生活を送れたのだ。
地上との交流がなくなったのも、珀璃のせいだ。
有り余る力が雲の民、ひいては大地の民を傷付けるようなことがあってはならない。珀璃は幼少の頃より王宮を出ることを禁じられてきた。脅威を覚える程の力の持ち主の発覚を恐れて、王は大地の民との交流を絶ったのだ。王は双方の対等な関係を望んでいた。
力を制御できない自分が歯痒かった。皮肉なものだが、腕輪を付けられたことは結果として良かったのかもしれない。
こっそり王宮を抜け出した時のことが脳裏を過ぎる。その時だった。
「いかがでしたか? 東州は」
振り返ると、夜着に身を包んだ鴻牙が立っていた。廊下から珀璃の元へと降りてくる。
「……やはり、大地の民あってこその雲の民なのだと確信いたしました」
鴻牙は黙って続きを待った。
「天上には地上からの供物を当然だと思う者もおります。大地の民も雲の民を崇拝している者もおりましょう。今日だって工房で皆に頭を下げられました。ですが、私は両者は対等だと思っております。雲の民の雨をもたらす雲も、大地の民の作物や絹織物も、どちらもなくてはならないものです」
そう言って珀璃は空を見上げた。滑らかな夜空には、薄い雲が張っていて星は見えない。
全てのものが眠る夜さえも、櫂醒が支配しているような気がして珀璃の心は落ち着かなくなる。奴は何を考えているのだろうか。このまま雲の民の支配力を強めるようなら、珀璃と父の理想とは程遠くなる。それだけは何としてでも止めなければならなかった。
「不思議なお方だ」
ふいに鴻牙が呟いた。
「え?」
「だって初めてこちらに来たときは、あんなに尊大な態度だったでしょう?」
「そっ、それは初めての土地で舐められてはいけないと思って……」
堪えきれずに鴻牙は吹き出した。慌てたのは珀璃だ。
「なっ、なんです……!?」
「いやいや申し訳ございません。珀璃様があまりに可愛らしくて」
鴻牙は思わず言ってしまったのだろう。自分が今何を言ったか気付いて、はたと動きが止まった。珀璃も返す言葉がない。
「こ、鴻牙様……」
その時だった。空気を切り裂く音がした。キンと甲高い金属音が響く。
「鴻牙様……?」
懐に忍ばせてあったのだろう小刀を引き抜き、鴻牙が珀璃をその胸に抱え込んでいた。彼の足元には、矢が落ちている。
「勇人!」
鴻牙が叫ぶと黒い影が躍り出た。鴻牙の視線の先の木の上では、弓を持った男が逃げ出そうとしていた。
しかし勇人の方が早い。あっという間に男に追い付き、手にした刀で切り付けていた。
その後、男は分社の者達に連れられていった。
「珀璃様、お怪我はありませんか?」
「え、えぇ……。大丈夫です」
はっと我に返って珀璃は答えた。そして鴻牙の顔を見上げる。
「……お強いのですね」
「それなりに、鍛えてはおりますので」
再び二人きりになった庭に、沈黙が落ちる。鴻牙が観念したかのように、小さく溜息を吐いた。
「……珀璃様のお耳に入れたくはなかったのですが、そうも言ってはいられませんね。天候を操る雲の民を、快く思っていない者も少なからずおります。久方振りに地上に参られた雲の民の命を奪おうとする輩もいることを、どうぞ覚えておいてください」
珀璃は固く口を結んで鴻牙の話を聞いていた。
「そう、ですよね……。不満に思う者もおられましょう……」
「私が守ります」
「え……?」
「あなた様がどのようなお方か、ずっと図りかねておりました。尊大な態度を見せられて、少々落胆したのは事実。しかし先程の話を聞いて、それは間違いだったと確信しました。珀璃様は、大地の民を、雲の民を誰よりも考えておいででいられる。私が身を盾にしてでも守る価値のあるお方です」
雲の切れ間に月が顔を出す。月の光に照らされた鴻牙の顔から、珀璃は目を離せずにいた。真摯な瞳は力強い。先程までの恐怖が払拭されるかのようだった。
「そ、そんなことを言われても困ります……! あなたの命も大事でしょう?」
「珀璃様はご存知なかったですね」
「何をです?」
「我ら雲の社の者は、『戦う繋官』と呼ばれているのですよ。簡単にくたばったりはしません。まぁ珀璃様の雲の力には到底適わないでしょうが」
とうとう珀璃は口篭ってしまった。
「……無理だけは、しないでください」
どうにかそれだけを、珀璃は呟く。
俯いてしまった彼女の表情は見えない。しかし鴻牙は小さく微笑みを浮かべていた。