第二章 伝説になりたかった少女(三)
「鴻牙様」
昼下がりの繋官長室。扉の向こうから掛けられた声に、鴻牙は筆を止めて顔を上げた。
「東州から今年の収穫の報告が上がってきました」
「入れ」
書類を携えた勇人だった。
「申し上げます。今年の作付けは順調に進んでいるようです。このままの天候が続けば、例年通りの収穫量なるとのことでした」
鴻牙の前に進み出て、勇人は報告する。その報告を、鴻牙は黙って聞いていた。
「……鴻牙様?」
「天候が続けば、な」
その言葉に勇人は首を傾げた。鴻牙は眉根を寄せたまま黙りこくっている。
「王が、変わったそうだ」
鴻牙の言わんとするところが分かった勇人は、顔色を変えた。部屋に沈黙が落ちる。
「……新王は、これまでのように恵みをもたらしてくれますでしょうか」
「分からない。だが一筋縄ではいかなさそうだ」
口火を切ったのは勇人だった。
珀璃は前王の娘。順当にいけば、彼女が次の王だったはずだ。
珀璃は王が変わったとしか言わなかった。前王はどうなったのか。なぜ珀璃が地上への使者に選ばれたのか。
天上で何かが起きている。しかし大地の民には確かめる術がなかった。
「波乱が起きなければいいですけど……」
勇人の言葉に、鴻牙は唸ることしかできなかった。
*
開け放した窓から、月の明かりが珀璃の白い頬を照らしている。寝台に横たわる珀璃は、ふいに目を開けた。
今宵はとても眠れそうにない。心臓がまだざわついている。珀璃は身を起こした。
どうして彼に言ってしまったのだろう。
珀璃は昼間の書庫でのやり取りを思い返していた。あの時の自分はどうかしていた。雲の王宮でのことを、地上の民に話してしまうなんて。
誰にも頼らないと決めた。信じられるのは己と呉羽だけ。血の繋がりのある叔父に裏切られたのだ。他人を頼ることなどできるはずもない。
なのになぜ。鴻牙に弱いところを見せてしまった。
「いや、あれだけでは気付かれたとは思えないわ……」
珀璃はぽつりと漏らす。
聡い彼のことだ。雲の王宮が騒がしくなっていることには感付いただろうが、珀璃の企みに気付いたとは思えない。
「大丈夫、私は一人で戦える……」
月明かりが、胸に手を当て俯く珀璃を照らす。
仕切りの向こう。天井を見つめる呉羽だけが、その呟きを聞いていた。
*
回廊を通り掛かった珀璃は、見知った顔を見つけて足を止めた。
「鴻牙様!」
回廊の向こうを歩いていた鴻牙が顔を上げる。鴻牙は荷包みを背に巻き、冠を頭に着けていた。
「どこか出かけられるのですか?」
「えぇ、東州の分社へ行ってまいります。視察ですが、明後日には戻りますよ」
珀璃は東州、と口の中で呟いて、しばし考え込んだ。そしてその顔は何かを思い付いたかのようなものに変わる。
「その視察、私も同行してはいけませんか?」
「え?」
ここに来てから数週間。珀璃は社から出たことはなかった。天の遣いとして参ったこの身。地上の他の地域を見て回るのも良いだろうと思えた。
「駄目ですか?」
「駄目、ではないですが……」
「では決まりですね! 私、用意してまいります!」
そう言って珀璃は部屋へ駆けていく。鴻牙が口を挟む隙もなかった。鴻牙の後ろに控えていた勇人が、前に進み出た。
「よろしいのですか?」
「こうなっては仕方がない。なるべく珀璃様から目を離さないように頼む」
やがて支度を終えた珀璃が、呉羽を従えて駆けてきた。
鴻牙達の胸に、一抹の不安が過ぎる旅が始まった。
東州。織物の盛んなこの州は、国の八割の服飾産業を占める。鉱物が特産物の北州から金を仕入れ、金糸を織り込んだ着物を作るのもこの東州だ。
「ですから今珀璃様がお召しの着物も、東州産なんですよ」
馬上で鴻牙は言った。彼を仰ぎ見ながら珀璃は頷く。
東州への道中。二人は同じ馬の上に乗っていた。雲の社には馬車などという気の利いたものはないらしく、これが一番安全であろうと二人一緒に乗ることになったのだ。呉羽が歯噛みしたのは言うまでもない。勇人と共に馬に乗った呉羽が、二人の後ろから恨めしそうな視線を送り続けている。
「それにしても私、生まれて初めて馬に乗りました」
「そうなのですか? 天上での移動はどのように?」
「基本的には皆、自分で作り出した雲を使います。まぁ私は王宮から出ることは滅多になかったのですが……。それに天上には馬はいませんのよ」
「ほう」
「ですから私、今日こうして馬に乗れてとても嬉しいです!」
満面の笑みを向けられて、鴻牙は面食らう。
この娘、初めて会ったときはもっと仏頂面ではなかったか?
「珀璃様の初めてを頂けて、光栄です」
試しにそんなことを言ってみた。珀璃は一瞬きょとんとした後、かあっと赤くなって前を向いてしまった。
どうも調子が狂う。態度が柔らかくなったのは結構なことだが、よくよく考えれば年頃の娘なのだ。どう応じていいか迷う時がある。気を引き締めながら、鴻牙は馬を進めた。
日が真上に昇る頃、一行は東州に辿り着いた。分社の数部屋を間借りして、与えられた部屋で珀璃は荷解きをしていた。
「どうも納得いきません」
後ろで不満そうに呟かれた声に、珀璃は振り返った。背後では同じように荷解きをしていた呉羽が口を尖らせている。
「何のこと?」
「姫様ですよ! あの男と仲良く馬に乗ったりなんかして……!」
まだ許せていなかったらしい。侍女の勢いに珀璃は圧された。
「べ、別に仲良く何てないわよ……」
「いいえあれは喜んでいるときの顔でした! あの男も、気安く姫様に話し掛けたりなんかして……」
呉羽はぎりりと歯噛みしている。珀璃は溜息を吐いて、手を止めた。
「確かに大地の民とは一線を引いておかねばならないと思うけど、親しくしてはいけない訳じゃないのよ?」
「大地の民とは申しておりません。姫様が心を許しかけているのは、あの繋官長だけではありませんか?」
今度こそ珀璃は言葉に詰まった。
自覚がなかった訳ではない。鴻牙と話していて楽しいと感じたのは事実だ。
呉羽は続ける。
「いいですか、姫様。我らは雲の民。彼の地を取り戻すと誓ったのは姫様ご自身でしょう? その言葉は偽りだったのですか?」
珀璃は黙って聞いている。呉羽の真摯な視線が珀璃に突き刺さった。
「……いいえ、今も変わらないわ」
ぽつりと呟いて、珀璃も真剣な表情を向ける。
「私は必ずあの地を取り戻す。だからこそ、大地の民と深く関わってはいけない。……あの叔父が彼らに何をするか分からないわ」
姪を躊躇いなく地上に落とした櫂醒。実の兄さえも殺した男だ。反旗を翻したとき、珀璃の大切に思う大地の民を、人質にされないとも言えなかった。
深く考えをめぐらすかのように、珀璃は目を閉じた。
「父上はいつも仰っていた。『大地の民と共に在れ』と。私達が作り出す雲がなければ大地の民は生きてはいけないけれど、私達とて大地の民がいなければ生きていけないのは同じ。互いが互いを支えて生きているのよ」
珀璃はゆっくりと目を開き、前を見据えた。
「邪魔なものを排除しようとする叔父上が、大地の民を蔑ろにしないとは言い切れない。現に曇りの日が増えてきている」
境目は恐らく、珀璃が地上にやってきた日だった。あの日を境に、地上では曇りの日が目立つようになってきている。
「地上の作物には水と光が必要だと聞いているわ。……大丈夫、あの男の好きにはさせない。私は目的を忘れてはいないわ」
珀璃の強い言葉を聞いて、呉羽は安心したように笑った。主の決意は揺らいでいない。それを実感した笑みだった。
二人の部屋の扉の前。そっと去っていく人影があった。