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雲の采配  作者: 安芸咲良
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第二章 伝説になりたかった少女(二)

「由々しき事態よ! 呉羽!」

 自室に入ってくるなり、呉羽の主は叫んだ。

 季節は本格的な夏に入った。茹だるような暑さの中、珀璃の深衣に織り込まれた金糸は目映く輝いている。

「どうしました? 姫様」

 あの一件以来、珀璃は積極的に外に出るようになった。少しずつではあるが、社の者達とも交流を深めていっているらしい。

 面白くないのは呉羽である。

「帯が苦しいの! 少し太ったのかしら……?」

 珀璃は頬に手を当てて鏡を覗き込んでいる。むくれていた呉羽だったが、主のその可愛らしい様子に、思わず笑みが零れてしまった。

「地上に来てから食べ過ぎですもの、姫様。大地の民に合わせることはないんですよ?」

「だ、だってお腹が空くのだもの……。大地の民は一日三食食べると聞いてはいたけれど、お腹が空くからなのね。空と大地の高さの問題かしら?」

 雲の民は通常、一日一食しか食べない。それ故、少量の供物で十分だったのだが、朝昼晩と出てくる料理に珀璃の箸はつい進んでしまった。

「大丈夫ですよ。姫様は充分お美しいです」

「そういうことを言ってる訳じゃないのよー!」

 膨れる珀璃に呉羽は声を出して笑った。珀璃もつられて吹き出してしまった。

「……現実問題、身軽でなかったらいざという時、剣を振るえないでしょう?」

 ひとしきり笑い合ったあと、真面目な顔をして珀璃がぽつりと言う。その言葉に呉羽は主の顔をまじまじと見つめた。

「姫様、剣を持たれるおつもりですか」

「万が一よ。もしこの腕輪が外れなかったら、私は力を使えない。……あの男と相対した時、身を守るものは一つでも多くあった方がいいでしょう?」

 珀璃は両手に視線を落とした。そこには細い金の腕輪が輝いている。

 金は雲の民の力を封じる。王族である珀璃でさえ、両腕に金の腕輪を着けられては小さな雲しか出せない。

 天上にいた頃の珀璃の力は、こんなものではなかった。彼女が金糸の衣を纏っているのは伊達ではない。幼き頃より、歴代屈指だと言われてのことである。金塊を身に付けてなお、小さいとはいえ雲を出すことができるのは、珀璃くらいのものだろう。

 その力を抑え込まれて、歯向かおうとしているのは王族である叔父。戦力となり得るものは砂金だろうと手にしておきたかった。

「なりません」

 ぴしゃりと言い放たれた。小さな体から切り裂くような声が聞こえて、珀璃は戸惑う。幼少の頃から知っているこの侍女は、侍女でありながら頑として譲らないところがあった。

 呉羽はまっすぐに珀璃を見つめていた。

「有事の際は、この呉羽が姫様の盾となり矛となります。姫様が歩かれる道を阻むものは、わたくしが全て蹴散らかしてみせましょう」

 そう言って呉羽は主に頭を垂れた。

「頭を上げて、呉羽」

 優しい声色に、呉羽がおずおずと顔を上げる。

「私だって呉羽には傷付いてほしくないわ。侍女一人守れなくて何が姫ですか。考えましょう? 何か策があるはずよ」

 顔を上げた先には、優しい笑顔が広がっていた。それを目にして呉羽の胸はぎゅっと締め付けられる。

 このお方は、先代に似てお優しい。

 そう思うと呉羽は、命に代えても姫を守らねばと胸元で硬く拳を握った。


   *


 資料を取りに書庫へ向かった鴻牙だったが、入り口で目にしたものに立ち止まると、自室へと踵を返した。もう一度書庫に訪れると、彼女が先程と同じ姿勢だったことに、自然と笑みが零れる。

「ここは蒸すでしょう?」

 鴻牙が自室から取ってきた巾を珀璃の額に宛がう。よほど書物に集中していたのか、そこでようやく珀璃はびくっと顔を上げた。

「あ……鴻牙様……」

「管理上、仕方のないこととはいえ、ここには窓がありませんからね」

 中央州の社の書庫は、麗琳国一と言われているが、その分、管理状態に気を付けなければならないものも多い。紙は日に焼ける。通風孔があるにはあるが、この季節、滴り落ちる汗を止めることはできなかった。

「ありがとうございます」

 鴻牙が差し出す巾を珀璃は受け取った。水分で書物を痛める訳にはいかない。珀璃は集中しすぎていたことを恥じた。

 言葉遣いが変わったな、と鴻牙はふいに気が付いた。最初にこの地に来た時こそ尊大な口調と態度だった珀璃だが、ここ数日は社の者と談笑している姿も見られる。何か変わるきっかけでもあっただろうかと疑問に思うが、この方が好ましい。初めて相見えたときの固さが和らいで、控えめな笑みを見せることに嬉しささえ感じる。

「連日、何をお調べなんですか?」

 問われて珀璃は表情を取り繕った。企みを知られたくはない。

「地上の民の歴史についてです。天上にはこうした記録がないから、興味深いです」

 嘘は付いていない。全てを語っていないだけで。

 珀璃はにこりと笑みを浮かべてそう言った。鴻牙はその表情を見つめる。

「記録する習慣がないのですか?」

「えぇ、天上には紙がないですから。こういった書物は貴重です」

 するりと珀璃は書物を一撫でした。それは麗琳国の地理についてある本だ。縦長の楕円をしたこの国は、海に囲まれ独自の文化を築いてきた。雲の民が住まう雲は、その中央州の上空に位置する。

 雲の王宮を思い出した珀璃は、幼き日のことを思い返していた。眠れない夜に、物語を読み聞かせてくれた母。優しい声音に安心して眠りに就くことができた。その母の声も、もう今は記憶の中でしかない。

「今後は紙も供物に取り入れるべきでしょうか」

 懐かしい記憶に沈もうとしていた珀璃は、顔を上げる。視線の先では、鴻牙が難しい顔で考え込んでいた。

「古くからの慣習で各地の特産物を納めていましたが、今後は見直した方がいいですかね……。あ、そうしたら筆と墨も必要でしょうか?」

 黙り込んでしまった珀璃を、供物に対する遺憾を感じていると思ったらしい。珀璃はくすりと口角を上げた。

「いいえ、時折書物を納めてくれればそれで充分ですよ」

 本当に彼は雲の民のことしか考えていないようだ。辛い記憶で満たされそうになった珀璃の心は、既の所で引き戻された。思いは雲の王宮へと向く。

「あの男の気が変わらなければ、ですが……」

「え?」

 珀璃ははっとした。うっかり口が滑ってしまったことに、内心焦る。

「どういうことですか? 珀璃様」

「何でもありません……! 鴻牙様には関係のないことです……!」

 いつになく慌てた様子の珀璃に、鴻牙は訝しく思った。

「珀璃様」

 すぐ傍で、鴻牙の声が聞こえた。目の前の文机に彼の手が付かれていた。その腕を辿って視線を上げると、思いの外、至近距離に鴻牙の顔があった。その顔は見たことがないほど真剣なものだった。

「落ち着いてください。雲の王宮で、何があったのですか」

 急激に頭が冷えていく。

「……王が、変わりました」

 その一言で充分だった。

 彼女は王の娘。いや、王だった者の娘。では彼女が地上に来たのは――

「それだけです! 貴方が気にするほどのことではありません!」

 そう言うと珀璃は勢いよく立ち上がり、書庫を飛び出していった。その拍子で落ちた書物と共に、鴻牙はただ戸を見つめていた。

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