第二章 伝説になりたかった少女(一)
回廊を珀璃は歩いていた。その後ろを呉羽が続く。初夏の爽やかな風が吹いて、二人の髪を揺らしていった。
桃雲の傍で、珀璃は足を止めた。
「姫様?」
「何か、妙ね」
珀璃は辺りを見回した。
辺りに人の気配はない。ここに来た時はあんなに人がいたのに。避けられているような気がするのは、気のせいだろうか。
行く先々で、珀璃が現れるとその場が静まり返る。雲の民に対する畏怖だろうかと気にせずあれこれと言い付けてきたが、やはり気のせいではないらしい。珀璃の部屋に近付く者は、日に日に減っていっていた。
「当然でしょう。そんな態度をしていたら」
振り返った珀璃の視線の先には、苦々しげな顔をした鴻牙がいた。
「鴻牙様」
「これを申すのは大変恐縮なのですが」
鴻牙は一度言葉を切った。
「珀璃様はこの地で何をなさりたいのですか? 地上の覇権を取りたいのか、はたまた交流を深めたいのか……。今日までのご様子を見るに前者かと思われますが、その態度では人が寄り付かなくなるのも当然でしょう」
言われた言葉に珀璃は衝撃を受けた。まさか自分が大地の民にそのように思われていたとは思わなかったのだ。
「無駄な争いはなさらないことです。我らとて、雲の民様との関係を悪くしたくはない……。御身は大事になさってください」
それだけ言うと、鴻牙は身を翻して去っていった。
「姫様……」
ぎゅっと拳を握る主に、呉羽はおずおずと声を掛ける。
「それでも……私はやるしかないのよ……」
*
自室に戻ってきた珀璃は、文机にどさどさっと書物を置いた。
「あの、姫様?」
呉羽は書物の山に戸惑いの表情を浮かべた。珀璃は着物の袖を捲くり、椅子に座る。
「鴻牙様に書庫を開けてもらったわ。さすが地上一の社ね。書物が信じられないほどあったわ」
そう話す珀璃の瞳は爛々と輝いている。
植物の実らない天上。当然ながら、紙などはない。地上からの供物で時折捧げられることもあるが、雲の民に、紙に記録するという文化はなかった。
「それにしても大地の民は厳重に書物を管理しているのね。あんなにあるのに。ここに持ってくる本を全部記録させられたわ」
それは相手が珀璃だからではないかと呉羽は思うが、あえて口にはしなかった。こんなに楽しそうな主を見るのは久し振りだ。
「何の本を借りてきたんです?」
何気なしに聞いた問いだった。しかし途端、珀璃の顔が曇った。
「雲の民についての記述よ」
そう言って自分の両腕に視線を落とした。
櫂醒に歯向かうならば、まず自分の力を取り戻さなければならない。彼女の腕にはめられた金の腕輪は、ちょっとやそっとでは外れることはない。
鍵が付いているわけでもないが、腕輪は外れない。その外し方を、櫂醒は教えてくれるはずもなかった。
大地の民の記述でその方法が見つかるとも思えないが、今の珀璃には藁をも掴む思いだった。
「姫様! 私も手伝います!」
「そう? 助かるわ」
珀璃は綻ぶように笑った。
数日調べてはみたものの、結果は芳しくなかった。珀璃とて天上にいた頃、地上との交流など一度もなかった。先祖も同じようなものらしい。初日に鴻牙が語った伝説の記録はあるものの、他は供物や天気の記録ばかりであった。
「こんな夢物語のような伝説ばかりがあっても仕方ないのよー」
珀璃は文机に突っ伏す。期待はしていなかったが、全く成果がないと知るとやはり落胆せざるを得ない。数日部屋に篭って調べていたから尚更だ。
「勤勉なのは良いことですが、お食事はきちんと取ってくださいね」
突如、鴻牙の声が聞こえた。初夏の暑くなりだした空気の中、開け放していた扉の向こうには鴻牙が立っていた。
「まるで貴女こそが異国の伝説のようだ」
「伝説?」
「遠く離れた国に伝わるお伽噺です。太陽の化身である娘が岩屋に篭ってしまう話があるのですよ。娘が閉じ篭ったせいで、国の光が失われてしまうのです」
珀璃は苦笑を漏らした。自分はそんな大層な存在ではない。国を照らす光だったなら、今頃こんなところにはいないだろう。
「太陽が失われるなんて考えられないわ。雲の上ではいつも輝いているのだから」
天上とて夜は来るが、昼間に陰ることなどない。雲の民が空の雲の領を調整しているのだから当然の話だが、鴻牙は驚いたようだった。
「では天上ではいつでも青空を見ることができるのですか?」
「えぇそうよ」
他人行儀だった男が食い付いてきたものだから、珀璃はやや面食らう。
「それは羨ましい。我々は天候に一喜一憂してばかりですよ」
鴻牙は何気なく言ったつもりだろう。しかしその天候は、雲の民が操っていることだ。珀璃はその言葉の意味を量りかねて、鴻牙の顔を見上げた。
他意はなかったのか、鴻牙は珀璃に笑みを返してきた。よほど空への憧れが強いらしい。珀璃の話一つで態度が一変してしまった。
「お食事の用意が整っておりますよ。伝説になる前に出てきてください」
心臓が跳ねた気がしたが、珀璃はその理由に気付かぬまま広間へ向かった。