第一章 雲の民と流刑の姫(二)
大地の民にとって、雲の民は信仰対象である。不思議な力を持ち、大地に恵みの雨をもたらしてくれる雲の民。古来より、地上で取れた供物を天上に捧げ、国の安寧を得てきた。
ここ、大海に浮かぶ麗琳国には、各地に雲の民を祀る社が存在する。中央州にある社を総本山に、東西南北の州それぞれに分社が配置されている。
主な役割は各州からの供物を雲の民へと捧げることだが、他国への哨戒の役目もある。もっとも、近隣諸国とは海で大きく隔たれているから、治安維持としての意味の方が大きい。
その社に仕える者を、『繋官』という。天上と地上を繋ぐ者。その字を取って、繋官と名付けられた。
雲の民の元へ最も近くにゆけるから大地の民憧れの職ではあるが、その道は狭き門である。厳しい試験と面接を越えてようやく就くことができるのだ。
だがしかし、ここ十数年、社の者でも直接雲の民と相見えることは全くなくなっていた。供物の献上も、定期的に天上より送られる雲に載せることで済まされていた。
中央州の社の中を、多くの人々が行き来していた。
「鴻牙様!」
呼ばれてその男は振り返る。歳の頃は二十も半ば頃であろうか。濃紫を基調とした狩衣を纏った渡会鴻牙は、視線の先に繋官の一人を見つける。
「勇人か。どうした?」
「ここはもう良いですから、社殿にお向かいください。間もなく雲の民様が参られますよ」
勇人と呼ばれた繋官の言葉に、鴻牙は空を見上げた。真っ青な空に、幾許かの雲が浮かんでいる。
「もうそんな時間か」
その声はどこか弾んでいる。勇人は鴻牙に笑みを返した。
「鴻牙様、楽しそうですね」
「当たり前だろう。あの雲の民様が来られるのだぞ。十五年振りか。……とはいえあんまり浮かれていてはならんな。他の者に示しが付かない。失礼のないよう気を引き締めていかねば」
そうはいえども鴻牙の表情は楽しそうだ。そんな鴻牙の横顔を見ながら、勇人も笑みを深めた。
「さぁ、参りましょうか」
二人は社殿に向かって歩き出した。
中央州の社、その繋官長の任に就いているのが鴻牙である。総本山としての長はまた別にいるが、年若い長ということで驚かれることも多い。なにせ彼はまだ二十代半ばだ。
鴻牙は長きに渡って繋官を輩出してきた家系に生まれ、幼き頃より繋官としての心構えを教え込まれてきた。
厳しい教育に反発したこともあった。姉や弟が家督を継げば良いと思ったこともある。
彼の道を運命付けたのは、まさに雲の民であった。
その時のことを思い返しながら、鴻牙は期待を胸に回廊を進んだ。
社殿の前の広間には、社の大多数の人が集まっていた。皆、一様に空を見上げている。本日は晴天。空高くに白い雲が見える。
「参られたぞ……!」
誰か呟いた。繋官達の視線の先を、白い雲がゆっくりと降りてくる。
雲は広間の中心まで来て、そして消えた。繋官達の前には珀璃と呉羽が立っている。
誰も声を出すことができなかった。この場の全ての人が、雲の民を目にするのは初めてだ。彼らは本当に雲を操るのだ。雲に乗り空から降りてきた姿に、感嘆の溜息が零れる。
珀璃が広間を一瞥した。
「そなたらが雲の社の者か?」
珀璃の凛とした声が響く。その視線が鴻牙の前で止まった。社の者達の先頭にいたのだ。鴻牙を長と捉えたのだろう。鴻牙は肯定する。
「我が名は劉珀璃。これより雲の民の使者として、こちらでしばし過ごす。部屋に案内せよ」
尊大な物言いに、広間に戸惑いが広がっていく。一足早く我に帰った鴻牙が、珀璃の前に歩み出た。
「繋官長の渡会鴻牙と申します。以後お見知りおきを。珀璃様、こちらです」
そう言って珀璃の前を歩き始めた。その後ろに呉羽が続く。
「なんだよあれ……」
零れたのはその背中を見送った繋官達の言葉である。ろくな挨拶もせず、己が城のように振る舞う珀璃に、ほとんどの者が戸惑っていた。
「あんなのが、俺らの崇めていた雲の民なのか……?」
雲の民が地上に来ていた頃を知る者は、ここには少ない。また、かつてを知る者も、当時の雲の民とのあまりの違いに我が目を疑っていた。
不信の種が芽生えようとしていた。
回廊を三人は歩く。居丈高な珀璃に、鴻牙は何を話すべきか悩んでいた。結局掛ける言葉を持たず、黙って部屋へ案内することにした。
中庭を通り掛かった時、珀璃は足を止めた。
「姫様?」
その声に鴻牙は振り返る。珀璃は庭の中央に立つ、一本の木を見ていた。
「桃雲ですよ」
「桃雲?」
鴻牙は欄干にそっと手を置いた。
「遥か昔、雲の民様がこの地に降りられました。荒れた大地、実りなどなかったこの地に、雲の民様はひどく心を痛められたそうです。しかし彼のお方のお体は地上の空気に合わなかった……。程なくして亡くなられました。彼のお方の骸は、一本の桃の木の下の埋められました。するとどうでしょう。その桃の木にはたわわに実が生ったのです。その桃は飢饉を救いました。以来、雲の民様への感謝を込めて、その木を『桃雲』と呼ぶようになったのです。それが、あの木です」
そう言って鴻牙は桃雲を見やった。珀璃も同じように桃の木に目をやる。
その心は何を思っているのだろうか。鴻牙は彼女の横顔をちらりと見るけれど、推し量ることもできない。
彼とて初めて相見える雲の民に、多少は落胆もあった。伝説に聞いていた雲の民に比べて、余りにも尊大な態度だ。この地に恵みを与えた先祖に何を思ったのか。
「部屋に参る。案内せよ」
しかし珀璃は桃雲に何も言うことなく、鴻牙に不躾な視線を向けた。鴻牙は珀璃に気付かれぬよう小さく溜息を吐くと、用意した部屋へと足を向けた。
回廊を抜けた社の南側。谷を見下ろすその部屋は、社の中で最も美しい風景を眺めることができる。
季節は初夏。緑の広がる谷には黄や薄紅の花が所々に咲き誇っている。谷底に流れる川のせせらぎが薄らと聞こえてくる。社の中で一等の部屋である。
「お気に召していただけましたか?」
案内した珀璃は、窓からの景色を眺めていた。その背中に鴻牙は声を掛ける。珀璃はゆっくりと振り返った。
「雲の王宮に比べたら質素ではあるが、まぁ悪くはない。そなたは下がれ」
珀璃は相変わらずの尊大な態度だ。鴻牙は一礼して下がる。
「何かご用がございましたら、そちらの鈴を鳴らしてください。侍女がすぐに参ります」
文机の上には、小振りの鈴が置いてある。それだけ言うと、鴻牙は出て行った。
珀璃はまた窓の外に視線を向ける。
「姫様……」
呉羽がそっと声を掛けた。珀璃の背が小刻みに震える。
「呉羽! 見て見て! 本物の木よ! 花も美しい……。こんなにいい部屋をもらっていいのかしら?」
先程までとは打って変わって、珀璃は目を輝かせながら言う。その様子に呉羽は苦笑を漏らした。珀璃の隣に並んで窓の外を見やる。谷間の木々が風に揺られてさわさわと鳴った。
「随分と態度が違いますね」
「だ、だって王族として気品を見せなきゃいけないじゃない……。仮にも天の遣いなんだから……。私、ちゃんと王族らしく見えていた?」
「はい、大丈夫でしたよ」
天上にいた頃、珀璃には式典に出た経験がない。その機会が訪れる前に王は殺され、王族としての権利も剥奪されてしまった。事実上、これが初めての職務だったのだ。
「草花はあんな風に生っているのね……。本当に美しいわ」
天上に植物は生らない。土のない雲の上では木々は育たないのだ。大地の民からの供物で刈り取った草花を見たことはある珀璃だが、実際に生っているところを見るのは初めてだった。
「本当に、地上は美しい……」
溜息を零すように、珀璃は呟いた。
「鴻牙様! あれで良いのですか!」
自室に向かう道すがら、鴻牙は繋官の一人に責められていた。
鴻牙の世話役、三国勇人であった。齢十六。まだまだ成長期に差し掛かっていない彼は、そう吼えながらも鴻牙に見下ろされる形になる。
「どんな慈悲を掛けてくださるのかと思ったらあんな不躾な態度を……。一等の部屋を与えられるのが当然って顔をしていましたよ!? 鴻牙様はあれで良いのですか!!」
「滅多なことを言うものではない」
鴻牙は足を止めた。彼とてそう思わなかった訳ではない。鴻牙が物心付く前からこれまで、雲の民が地上に降りてきた話など聞いたことがなかった。今日の日を誰よりも心待ちにしていたのは、鴻牙だろう。
それ故に、落胆も大きかった。
「我々は天より珀璃様をお預かりした身。くれぐれも粗相のないようにお仕えするだけだ」
曲がりなりにも鴻牙は繋官長。落胆した姿を見せる訳にはいかなかった。
勇人はまだ何か言いたそうだったが、鴻牙にそう言われては黙るしかない。鴻牙は自室に入っていった。
文机に着いて、部屋に静かな空気が落ちる。突如、鴻牙はどんと机を叩いた。
「あんなのが、雲の民の姫だなんて……!」
恋い焦がれた雲の民の失望は大きかった。人前では出せなかった悔しさが、鴻牙の胸を占めていた。