第一章 雲の民と流刑の姫(一)
『天にまします我らが雲の民は、その慈悲と慈愛を持って、我ら大地の民に恩恵を分け与えてくださる』
それは大地の民ならどんな幼子でも知っていることである。
天上――雲の上に暮らす雲の民。彼らは雲を生み出す力を持つ。大地の民には持ち得ぬ力。その不思議な能力に、大地の民は古来より畏怖と尊敬の念を抱いてきた。
雲の民はその力をもって、大地の民に雨風の恩恵をもたらすのだ。大地の民が対価に差し出すのは、地上でしか生らないもの。作物、織物、鉱物の類。天上にはないものと引き換えに、天の恵みを与えられて世界は続いてきた。
*
「今、何と申して?」
少女は鋭い目で玉座を見上げた。少女の艶のある長い黒髪は綺麗に結い上げられ、下ろした部分はまっすぐに背中を流れている。身に纏っている深衣にはふんだんに金糸が織り込まれており、赤を基調とした衣が床までふわりと届いていた。
美しい少女だ。だが今は、その瞳は怒りに燃えている。
彼女の視線の先、玉座の上には一人の男が座っていた。髭を蓄え頭に冠を被った男は、頬杖を付いて少女を見下ろしている。細い三白眼が少女を舐めるように動いた。
「やれやれ。度重なる心労で、姫様は耳が遠くなってしまわれたらしい」
「誰のせいだと思って……!」
少女はぎりっと拳を握った。平時であれば見るもの全てを惹き付けるような瞳も、今は鋭いものになっている。だが玉座の男は意に介さない。
少女の両手には、金の腕輪がはめられている。それは体の自由を奪うものではない。しかし彼女の力を奪うには充分なものだった。
玉座に座る男は、居丈高に言った。
「もう一度言います。貴女には地上に行ってもらいます。天の遣いとして恥じない行動を心がけてください」
少女ははっと口を歪めた。
「天の遣い? 笑わせないで。体のいい流刑でしょう?」
「よくお分かりじゃないですか。珀璃様、せいぜいご武運を」
男は話は終わりとばかりに、傍に控えていた衛兵たちにちらりと視線をやる。衛兵たちは珀璃と呼ばれた少女の隣に進み出て、退室を促した。
珀璃はきっと玉座を睨み付ける。
「絶対に……そこから引き摺り下ろしてやる……!」
珀璃の呪いのような言葉に、男は嘲笑を浮かべるだけだった。
雲の民の王家。その姓を劉という。玉座に座る男の名を劉櫂醒。雲の民の王である。
櫂醒は珀璃の叔父にあたる。彼は玉座に着いてまだ日が浅い。その前に座っていた者こそ、珀璃の父であった。
珀璃の父は、実の弟である櫂醒によって討たれた。
「姫様!」
王の間を退いて自室に戻った珀璃を、一人の女官が出迎えた。まだあどけなさの残る少女だ。顎の位置で切り揃えられた髪は内側に巻いており、小柄なその女官を更に幼く見せている。若草色の旗袍は、王室付きの女官の証だ。
「ご無事でなによりです……。姫様に何かあったらこの呉羽、たとえ刺し違えてでもあの男に刃を向けるつもりでした」
「呉羽は大げさねぇ」
物騒なことを言う侍女に、珀璃は苦笑を浮かべた。
両親が殺されてしまった今、頼れるのはこの女官しかいない。
一つ年下の呉羽は、物心付いたときから珀璃の世話役であり、遊び相手であった。兄弟のいいない珀璃にとって、妹といっても相違ない存在だ。小さい頃は二人で王宮を駆け回り、二人して父や母に怒られたものだった。
二人に向けられていた暖かい目は、もうここにはない。珀璃が心許せる者は、呉羽を除いていなくなってしまった。
櫂醒が全てを壊したあの瞬間から。
感傷に浸っていた珀璃は顔を上げた。今は悲しみに暮れている場合ではない。
「それより忙しくなるわよ」
「と言いますと?」
「櫂醒め、この私を地上に送るそうよ」
珀璃の顔が歪む。櫂醒の目論みなど分かっている。今の王宮で、王家の血を引くのは櫂醒と珀璃、ただ二人。珀璃がいなくなれば、王宮、ひいては雲の民を意のままに操れるようになったも同然である。
呉羽は衝撃で言葉を失った。その気持ちがありありと分かるようで、珀璃は薄笑いを浮かべる。
呉羽の表情が歪む。
「やはり、今すぐあの男を打ち倒してまいります……!」
すぐにでも部屋を出て行こうとする呉羽の腕を、珀璃は掴んだ。
「待ちなさい。今はその時ではないわ」
部屋に鍵は掛けられていないとはいえ、武器の類は全て取り上げられている。そして珀璃の両腕に輝くのは、金の腕輪。
金には雲の民の力を封じる力がある。大地の民より召し上げられた装飾品で、珀璃の持つ力はほとんど抑え込まれていた。
「ではどうすると? 黙って下界に行かれるおつもりですか?」
呉羽は訝しげな目を珀璃に向ける。だがしかし、珀璃の目はこの場を捉えてはいない。その目はただ、上だけを見つめている。
「力を溜めるのよ。あの偽王を討つ、その日まで」
*
それから五日後。珀璃と呉羽は雲の切れ目にいた。
視界いっぱいに青空が広がっており、いっそ清々しい程だ。少し雲の切れ間から顔を覗かせれば、遥か彼方に地上が見える。ここから落ちれば地上へ真っ逆さまである。
珀璃たちの目の前に立つのは、臣下を連れた櫂醒だ。一国の姫がこの地を去ろうというのに、あまりに淋しい風景だった。
地上に下りるのは珀璃と呉羽の二人だけ。天の遣いといえども、これでは流刑となんら変わりがない。
「荷はそれだけで良かったのですか、珀璃様」
櫂醒が珀璃の荷を一瞥して言った。
「ふん、白々しいものね。どうせろくな雲を用意してくれないんでしょう?」
珀璃の傍らには、包み一つしかなかった。元とはいえ、仮にも姫の荷としてはあまりにも少ないと言えよう。彼女の荷は、幾枚かの着物だけだ。
「そんなことはありませんよ」
櫂醒は両の手を合わせた。ぐっと力を入れて手を広げると、櫂醒の前に白い綿のようなものが現れる。その塊はどんどん大きくなって、やがて人が乗れる程の大きさになった。
これこそが雲の民の力。自在に雲を生み出す力を、彼らは持ち合わせている。力の強さは個人差があるが、最も強い力を持つ一族が王家なのだ。
「父上に比べたら随分お粗末だこと」
珀璃はその雲に乗ろうとした。だかしかし、ふいにその腕を取られる。櫂醒の顔が目の前に迫る。
「お忘れなきよう、珀璃姫。今はこの私が雲の民の王だ。その命、私が握っていることをくれぐれもお忘れずに」
至近距離で低く呟かれた言葉に、珀璃はぞくりと背筋を粟立てた。この男こそが、父と母の命を呆気なく奪った者なのだ。その事実に、珀璃の頬に冷や汗が浮かぶ。
櫂醒は身を離した。
「では、大地の民によろしくお願いいたします」
薄ら寒い笑みを浮かべる櫂醒に、珀璃は何も言うことができない。そのまま故郷を追われていった。
珀璃と呉羽を乗せた雲は、もうすぐ地上に着こうとしていた。
「姫様……。これからどうするおつもりです……?」
呉羽がおずおずと尋ねた。珀璃は進む先を見据えたままだ。
「大地の民に助力を請いますか?」
「それは駄目」
ずっと黙っていた珀璃がようやく口を開いた。
「何の力も持たない大地の民が役に立つものですか。これは私たちの復讐よ。大地の民なんかに手を出される謂れはないわ」
主の強い目に、呉羽の唇は弧を描く。そして珀璃にぎゅっと抱き付いた。
「それでこそ我が姫様です! 呉羽はどこまでも姫様に付いてゆきます!」
「あっ、こら落ちるわよ!? もうそろそろ着くから!!」
二人を乗せた雲は、間もなく地上に着こうとしていた。