第四章 女王の帰還(三)
牢の中に、はたして呉羽はいた。鍵は掛けられていない。鴻牙がそれを許さなかった。雲の民の見張りが付いてはいるが、彼らが鴻牙から頼まれたことは「自害しないよう見張っていてくれ」というものだった。
かつんと靴を鳴らして、珀璃は石牢の前に立つ。
「……痩せたわね、呉羽」
鉄柵の向こうには、淀んだ顔の呉羽がいた。簡素な寝台の上で、小さくなって座り込んでいる。一瞬顔を上げて、すぐに伏せられた。
「……どうして、罰してくださらないのですか」
「聞いていないからよ」
その答えに、呉羽はゆっくりと顔を上げた。
「貴女の気持ち。なぜ私の傍にいたの」
「わたっ、私は! 姫様にはお幸せに生きてほしかった……! 有り余る力がなければ、権力争いに巻き込まれなければ、姫様は平穏に暮らせるのに……」
吐き出すようにそう言うと、呉羽は両手で顔を覆った。小さな肩が小刻みに震える。珀璃は牢の中に足を踏み入れた。
呉羽の隣に、そっと腰掛ける。金の腕輪の付いた右手で肩に触れて、呉羽の体がびくっと強張るのが分かった。
「ねぇ呉羽。私、今どんな風に見える?」
静かに問われて、呉羽は顔を上げた。涙に濡れた瞳に珀璃の顔が映る。
そこには地上に落とされた時のような、張り詰めたものはない。
「……穏やか、です……」
それを聞いて、珀璃はにっこりと笑った。
「櫂醒に聞いたわ。あの小刀は櫂醒に渡されたものね」
呉羽がこくりと頷く。
「櫂醒様は、ここにいては姫様は幸せになれないと言っていました」
先王が殺される前の話だ。一人だったところを、櫂醒に呼び止められた。櫂醒は言葉巧みに珀璃が王座に着くことは、彼女のためにならないと呉羽に言い聞かせた。そうして呉羽を味方に付けたのだ。
表面上はこれまでと変わらない。珀璃付きの侍女。しかし裏では櫂醒が糸を引いている。
呉羽も無意識であっただろう。珀璃のためだけを思って地上まで付いてきた。
珀璃を監視し、万一のときは金の小刀で刺し彼女の力を奪え。全てが櫂醒の手の上だった。
「それでも私が姫様を刺した事実は変わりません。姫様、どうかこの呉羽を罰してくださいませ」
呉羽の両の瞳から、ぽろぽろと涙が零れる。珀璃は横に首を振った。
「私はそれを望まない」
聞こえてきた固い声に、呉羽はがばっと顔を上げた。
「どうして……!」
「王が、間違いを犯さないとは限らない。道を踏み外そうとした時、止める人が必要よ。それこそ刺し違えてでも止める人が」
そう言って珀璃は悪戯っぽく笑う。呉羽はぐっと押し黙ってしまった。
「……他の官吏達が何と言うか……」
「そこはもう話を付けてあるわ。櫂醒の話術は皆周知の事実。私が許すなら何も言わないそうよ」
そこまで言われては、もう呉羽に反論する言葉は残っていない。
「ねぇ呉羽。私と一緒に天辺に立ってくれない? 貴女がいないとつまらないわ」
随分意地の悪い聞き方をする。呉羽に断る理由などなかった。
*
王宮の階段を、珀璃は頬を上気させて駆け上がっていた。
「鴻牙様っ、早く早く!」
彼女の金の腕輪が付いた右手は、鴻牙の手を引いている。珀璃の速度に合わせて走る鴻牙は、少し走りにくそうだ。
「待って下さい、珀璃様。この先に何があるのですか?」
「それは着いてのお楽しみです」
珀璃の声は弾んでいる。階段の一番上に着いて、珀璃は扉を開けた。
そこは王宮で一番高い、塔の屋上だった。夕暮れが近付いて、赤く染まろうとしている空。まだ残る青と溶け合って、絶妙な色彩を放っている。
「まだ完全に力を取り戻した訳ではありませんが、これくらいならできます」
珀璃は鴻牙の手を離すと、両手を合わせた。力を込めて、すっと離した刹那。珀璃の両手から、白い雲が飛び出していく。
その雲は、薄紅に色を変えた空へと上っていく。
「この空を、貴方に見せたかったんです」
駆け上がった雲は夕日に照らされて、この世のものとは思えない程の色彩を見せた。夕日に当たった薄紅、所々に落ちる影の灰色。その雲の後ろに広がるのは、橙から上空へと徐々に変わってゆく青。
鴻牙の口から思わず溜息が零れた。
「お気に召して、いただけましたか?」
珀璃は鴻牙の顔を覗き込んだ。思わぬ近さに鴻牙は少したじろぐ。
「貴女という人は……」
同じような科白を言われたことを珀璃は思い出した。あれは、珀璃が腕を切ったときであったか。
今言われた言葉には、あの時にはなかった慈しみの気持ちが込められている。
鴻牙はふっと笑みを零した。
「こうしていると、幼き日の事が思い出されます」
まだ鴻牙が繋官を志していなかった時の話だ。
「幼少の頃、私は繋官になりたくありませんでした。私の家は代々繋官を輩出している一族で、私は子供の時から厳しい修行を積まされてきました。とうとう逃げ出そうかと思った時、一人の少女と出会ったのです」
美しい衣を纏った少女。山の中で突然現れた鴻牙に驚いてはいたが、自分に危害を加えないと分かると鴻牙に話し掛けてきた。
「驚かないでください。彼女は雲の民だったのです。内緒だよ、と雲の力を見せてくださいました。私は感動で言葉を失いました。こんなに美しいものを作り出す方々に私は仕えるのだ。そう思うと厳しい修行でも頑張ろうと思えたのです。まぁ、後から抜け出したことがばれて、ひどく怒られたのですが」
鴻牙は苦笑して隣を向く。苦い思い出でもある。珀璃も笑っているかと思ったのだが、その表情には驚愕が浮かんでいた。
「珀璃様?」
「それ、は……何年前の話ですか……?」
「え? そうですね……。そうだ、十年前の話です。成人の儀の少し前のことでしたから」
「その少女は……髪に桃の花飾りを付けていたのではありませんか……?」
鴻牙が驚く番だった。まさしくそのとおりだったのだ。
「まさか……」
「恐らくその少女は……私です」
開いた口が塞がらなかった。自分が繋官を志すようになった理由が、目の前の少女だというのか。十年の時を超えて、再び巡り会えたというのか。
「運命とは、このようなことを言うのでしょうか」
社で読んだ書物の中には、そんな物語もあった。まさか自分にも運命のいたずらが起きるとは思わなかった。珀璃はおかしそうに笑う。
「私も父に怒られたのですよ。勝手に王宮を抜け出して、あの時は一月も部屋から出してもらえませんでした」
互いが互いの立場を志す理由になっていたのだ。その事実に、二人の胸に喜びが込み上げる。
珀璃と鴻牙の視線が重なった。
「鴻牙様……」
その時だった。カランと軽やかな音がした。
二人が下を見ると、金の腕輪が転がっている。珀璃は思わず右手を見た。そこに付いているはずの腕輪はなかった。鴻牙と顔を見合わせる。
「どうして……」
呆然と呟く珀璃だったが、鴻牙は複雑そうな表情を浮かべた。
「鴻牙様?」
「……呉羽殿に聞いた話なのですが」
珍しく歯切れが悪い。珀璃は誤魔化すことは許さないとでも言うかのように、鴻牙に詰め寄った。
「その腕輪は、愛の力で外れるそうです。左は想われること、右は想うことで」
言われたことを、珀璃は反芻した。つまり地上で左の腕輪が外れたのは、珀璃を慕う者がいたから。そして今、右の腕輪が外れたのは、珀璃に想い人ができたから。
その時共にいたのは――
ようやく意味を理解して、珀璃は真っ赤になった。
「ちっ、違います!」
「違うのですか?」
悪戯っぽく鴻牙は笑う。珀璃は言葉をなくした。違わないけれど、そう言えない。
慌てふためく珀璃の腰を、鴻牙は引き寄せた。
「赤くなっているのは、夕日のせいとでも仰るおつもりですか?」
「そっ、そう! その通りです!」
真っ赤になってそう口にする姿に、説得力などない。鴻牙はすっと珀璃の頬に手を添えた。
「そんな嘘を吐く口は、塞いでしまいましょう」
絡め取られたのは、視線であったか心であったか。
二人の唇が重なった。