第四章 女王の帰還(二)
二人は一つの扉の前に辿り着いた。
「こちらですね」
「……えぇ」
この先が玉座の間だ。そして櫂醒のいる場所。重厚な作りの扉が行く手を阻む。
二人は視線を合わせて頷くと、扉を開けた。
「随分とお喋りを楽しんでいたようで」
扉の先、玉座には一人の男が座っていた。頬杖を付き、三白眼を細めて珀璃と鴻牙を見下ろしている。
「櫂醒……」
「随分とお早いお帰りでしたね。もう少し掛かるかと思っていました」
「お生憎様。私は気の長い方ではないの。その椅子を返しなさい!」
櫂醒はくっくと愉快そうに笑った。
「その分だとお聞きになっていないようですね」
「……何のこと?」
薄い唇ににやりと笑みを浮かばせて、櫂醒は立ち上がった。
「その腕輪が外れた理由。裏切り者は近くにいますよ」
どういうことかと問い詰めようとしたその時、ぐっと珀璃の手が握られた。振り向くと、鴻牙が険しい顔付きで首を振っている。
「珀璃様、耳を貸してはいけません。こちらの動揺を誘う気です」
「ははっ、信じるかどうかは好きにしてください。私は事実を述べているまでだ」
櫂醒が一歩踏み出す。剣を抜いた櫂醒の元へ、鴻牙は駆け出した。
甲高い音を立てて、剣と剣がぶつかり合う。雲の力は強くないと言われた櫂醒だが、剣の腕は立つらしい。自分の剣を止めたことに、鴻牙は意外に思った。
「鴻牙様!」
「王宮に安穏と暮らしている雲の民は、その剣で御せるとでも思いましたか? この剣は、王族の血を吸っているのですよ」
鴻牙の目がかっと見開かれた。この男が、彼女の両親を――
鴻牙の剣が櫂醒の剣を薙ぎ払った。櫂醒は不敵な笑みを浮かべて後ろに下がる。
どうやら一筋縄ではいかないらしい。睨み合った二人は、間合いを詰めるべく床を蹴った。
珀璃は二人の戦いに手を出せずにいた。雲の力でどうにか援護したいが、下手をすれば鴻牙に当たってしまうかもしれない。どうすることもできず、もどかしさにぎゅっと両手を握る。
彼女の脳裏に、先程櫂醒に言われた言葉が浮かんだ。腕輪が外れた理由、裏切り者とはいったい何のことなのか。
目の前の鴻牙は櫂醒と剣を合わせている。呉羽も勇人も他の者も、共にここまで一緒にやってきた。疑う余地などない。
珀璃は首を振った。信じると決めたのだ。櫂醒のただの狂言かもしれない。
揺らぐな、珀璃は自分に言い聞かせた。
鴻牙は戦いの最中。珀璃は葛藤の渦中。だから誰しも扉が開いたことに気が付かなかった。
「姫様」
背後から聞こえた声に、珀璃は振り返った。後ろにはよく知る侍女がいるはずだった。
だがそこで珀璃の動きは止まる。
「呉、羽?」
背中に痛みが走る。呉羽の手には、金に輝く小刀が握られていた。珀璃はそっと背に手を触れた。赤くどろりとした血が手に付いていた。
「どう、して……」
痛みに耐え切れず、どさりと珀璃は倒れ込んだ。眩む視界に、涙で頬を濡らした呉羽が映る。
にやりと背後に視線をやった櫂醒を見て、鴻牙は振り返った。その先では信じられない光景が広がっていた。
倒れ込む珀璃。血に濡れた小刀を手にする呉羽。
「珀璃様!」
鴻牙は櫂醒との戦いも忘れ、二人の元へと駆け出した。
呉羽の小刀が、彼女の心臓を向く。涙に濡れる呉羽へと、珀璃は手を伸ばした。
「姫様……ごめん、なさ……」
「呉羽……駄目……」
そして小刀が呉羽の心臓を捉えようとした刹那――
キィン!!
くるくると宙を舞って、金の小刀が床に突き刺さった。鴻牙が呉羽の小刀を薙ぎ払ったのだ。
呉羽がへたりと床に座り込む。鴻牙は身を反転させ、櫂醒へと剣を向けた。
背を向ける鴻牙に止めを刺そうとしていた櫂醒は、まさか相手が振り向くとは思わず体勢を崩しかけた。なんとか鴻牙の剣を受け止めたが、しかし彼の剣は重い。先程までとは比にならない重みに、櫂醒は一瞬怯んだ。鴻牙の剣に耐え切れず、倒れ込んでしまう。
「珀璃様の苦しみと」
いつの間に拾っていたのか、鴻牙の手には呉羽の小刀が握られていた。その小刀を、櫂醒の左手に思い切り突き立てた。
「ぐあぁぁぁ!!」
鴻牙は小刀を引き抜き、軽く血を払った。鴻牙の目がすっと細くなる。
「彼女の両親の痛みだ。受けろ」
そして右手にも突き立てた。
櫂醒の絶叫が玉座の間に響き渡る。
金は雲の民の力を奪う。両手を貫かれた櫂醒は、もうその力を振るうことはできないだろう。
鴻牙は剣を収め、珀璃の元へと駆け寄った。彼女はぐったりと青褪めている。
「珀璃様! 珀璃様しっかり!」
彼女は背中を刺されている。このままでは危険だ。
珀璃が薄らと目を開けた。鴻牙の姿を捉えて手を伸ばそうとする。
「鴻、牙様……。呉羽を、叱らないで、やってください……」
呉羽は今だ泣き続けたまま、珀璃の名前を呼んでいる。
どうしてこの方は、こんなになってまで人のことを……。
鴻牙の胸を、そんな思いが過ぎる。
足音が近付いてきた。鴻牙達を呼ぶ声が聞こえる。
戦いは終わろうとしていた。
*
姫が戻ってきたという噂は、瞬く間に城内に広まった。
珀璃が去った王宮は、櫂醒派と珀璃派で二分していたらしい。
しかし玉座に就いているのは櫂醒。権威を笠に、地上の曇天だけでなく天上でも圧政を敷き、じわりじわりと勢力を拡大していた。珀璃が櫂醒を御したことで、一気に形勢は逆転したのだ。
あの日から、七日が経っていた。
窓の外には、青空が広がっている。雲の民の子どもが遊んでいるのか、時折小さな雲が浮かんでは消えていくのが見える。
王宮の一室。開け放たれた窓から吹き込む風が、薄絹の窓掛けを揺らす。広い部屋の中央には、天蓋付きの寝台が置かれている。そこには目を閉じたままの珀璃の姿があった。
その脇で、鴻牙が椅子に座り彼女をじっと見下ろしていた。
勇人達が玉座の間に飛び込んできたとき、動いているのは鴻牙だけだった。珀璃も櫂醒も気を失い、どうすることもできずにいた鴻牙を救ったのは、珀璃派の雲の民達だった。彼らは急ぎ医務官を呼び、珀璃は一命を取り留めることができた。
雲の力を失った櫂醒の怪我も命に関わるものではなく、今は牢屋に押し込めてある。
唯一怪我のなかったはずの呉羽は――
「鴻牙……様?」
寝台の上で、珀璃がうっすらと目を開けた。鴻牙の表情がようやく和らいだ。
「ご気分はいかがですか?」
「少し、喉が渇きました。良かったら水をくださいませんか?」
鴻牙は袖机に置いてあった水差しを手にした。こぽこぽと水を注ぐ音と、柔らかな風の音だけが部屋に響く。
「……呉羽は、どうしていますか」
水を半分ほど飲んだ珀璃は、どう尋ねたものかと逡巡したのだろう。ようやくそう尋ねた。
またこの人は、と鴻牙は内心思う。自分こそ死に掛けたのに、人のことばかりを考えている。もうこの性質はどうしようもないのだろう。
「珀璃様に合わせる顔がない、と自ら牢に篭っています」
姫を刺したのは自分だ、自分を罰しろと呉羽は訴えた。それを許さなかったのは珀璃自身である。彼女が倒れる寸前に言った言葉を盾に、鴻牙は自害を思い留まらせた。
しかし主の命であろうと自分を許せない。呉羽は自ら地下牢に篭った。
鴻牙の言葉を聞いて目を伏せていた珀璃は、顔を上げると真っ直ぐに鴻牙の方を向いた。
「少し呉羽と話をしたいです。鴻牙様、付いてきてくださいませんか?」
断る理由などなかった。