第四章 女王の帰還(一)
決心してからの鴻牙の行動は早かった。
鴻牙はばさりと一枚の紙を机上に広げた。雲の王宮の見取り図だ。
「天上には少数精鋭で行く。珀璃様が言うには、剣を持って戦う雲の民は少ないそうだ。確かに武器の類の供物はなかったな。だが雲の力がある。油断は禁物だ」
社の者達を集めて鴻牙は戦略を練っている。珀璃に書いてもらった見取り図を元に、侃々諤々議論が繰り広げられていく。
珀璃はというと。
「本当に良いのですか!? 姫様!!」
中庭で呉羽に問い詰められていた。
その手からは白い靄が出たり消えたりしている。半分だが雲の力が戻ってきた。久方振りに使う力を確かめているのだ。食い掛かる呉羽を横目に、珀璃は充分だというかのように左手を握り締めた。
「姫様、聞いていらっしゃいます?」
「聞いているわ」
珀璃は桃雲を見上げた。この時期に生るはずの実は、曇天のせいで小振りだ。このままだと薄紅色に熟すことなく落ちるだろう。
伝説は伝説のまま終わってしまうのか。
珀璃は今しがた生み出した雲をふわりと消すと、呉羽の方に向き直った。
「私ね、一人でどうにかしなければって思っていた。大地の民なんか当てにできない、当てにしてはいけない。私の力だけで天上を目指さなければ、って」
そのことは呉羽も覚えている。地上に来る前だ。あの時の珀璃には、鬼気迫るものがあった。
両親を殺され、自身の力も封じられ地上に落とされたのだ。当然だろう。
主はいつからこんなに優しい目をするようになったのだろう。複雑な思いで見つめる呉羽に、桃雲を見上げている珀璃は気付かない。
「本音を言うと、鴻牙様達が傷付くのは嫌。私一人でできるのならば、そうしたい。でも、鴻牙様が支え合うことの意味を教えてくれた……。今までだって、ずっと色々な人に支えられてきたのだけどね。私が未熟だったから気が付かなかったのね」
珀璃は呉羽に視線を戻した。彼女の瞳は、もう揺るがない。
「私は櫂醒を討つわ。もう彼の好きにはさせない」
言葉はここに来たときと同じだった。だけど決意が違う。彼女はこの国に生きる全ての者のために、戦うことを決めたのだ。
呉羽は主の真っ直ぐな視線を受け止めていた。そしてふっと目を伏せると膝を付いた。
「犀呉羽、姫様のために生きると決めた身。どこまでもご一緒します」
その時に珀璃が見せた笑顔は、それこそ桃の花が咲き綻ぶかのようだった。彼女がこんな笑顔を見せるのは、いつ以来だろう。呉羽は複雑な思いを胸に、ぎゅっと口を引き結んだ。
*
一同は広場に会していた。社の者達の前には珀璃が立っている。
決行の日。珀璃は緊張の面持ちで、一つ深呼吸をした。
「では、参ります」
珀璃は両手を前に突き出した。手の平から白い雲が浮かび上がってくる。その雲は見る間に大きくなり、人が十人くらい乗れる程までになった。
珀璃は顔を上げて、皆を見渡す。
「本当に……よろしいのですか?」
選ばれたのは七人。社の中でも腕の立つ者ばかりだという。そこには鴻牙と勇人の姿もあった。
珀璃は迷っていた。彼らの命を預けてもらってもいいものか。剣だけで雲の力に適うか分からない。彼らを危険に晒していいものだろうか。
「この期に及んで何を仰ってらっしゃるのですか、珀璃様」
「そうですよ姫さん。俺らの覚悟は決まってます」
口々に皆が言う。
信じていいのだろうか。自分は命を預けられるに足る人物なのだろうか。
ふと左手を取られた。隣を見上げると、鴻牙が微笑んでいる。その力強い笑みに、珀璃は心を決めた。
「では参りましょう! 天上へ!」
鴻牙達七人の大地の民、そして珀璃を呉羽を乗せて、雲は天上へと上っていった。
*
天上。王宮の遥か上空を、珀璃達を乗せた雲は浮いていた。
「あの一番高いところが玉座です。あそこにきっと櫂醒はいます。その下の露台から中に入れるはずです」
珀璃がうまく雲を細工して、皆を周りから見えないようにしてここまでやってきた。雲の力を使うのは久し振りのはずだが、それを感じさせない使い方に珀璃の力の強さを感じさせる。
一同は眼下を見やった。雲の上に、荘厳な城が建っている。青空を背景に建つ石造りの城は、近頃曇り空しか見ていなかった大地の民には眩しい。
「狙うは櫂醒の首、ただ一つだ。……皆、死ぬな」
全員がしっかりと頷いた。
「いたか!?」
「こっちにはいない! あっちを探せ!」
走り回る衛兵を、珀璃達は柱に隠れてやり過ごした。鴻牙がそっと顔を覗かせる。
「思っていたよりも数は多いな」
「櫂醒が衛兵を増やしたのかもしれません。奴の力は父に及びませんでしたから、そういうところは慎重なのだと思います」
露台に降り立ったところで、二手に分かれた。勇人達が城内を錯乱されている間に、鴻牙と珀璃は王座を目指す算段だ。
予想していたよりも衛兵の数が多く、二人はなかなか玉座の間へと辿り着けずにいた。無駄な争いは避けたい。隠れながら衛兵をやり過ごしてきたが、その分勇人達に危険が増すだろう。できるだけ早く、玉座に辿り着きたいところだ。
足音が聞こえなくなって柱の影を出た二人は、階段を駆け上がる。廊下を曲がる前に、衛兵がいないかと先を行く鴻牙は足を止めた。
「……申し訳ございません」
背後から聞こえた小さな声に、鴻牙は振り返る。振り向いた先の珀璃の表情は、暗いものだった。
「……なぜ謝るのです?」
「櫂醒の考えを、見切っていませんでした。勇人様達を危険な目に遭わせています……」
彼らは無事だろうか。珀璃は俯きがちに答える。
苦しそうな表情を目にして、鴻牙は彼女の手を握っていた。
「大丈夫です、勇人達は強い。私の臣下ですよ? それとも珀璃様は、私達の腕が信用ならないですか?」
「そんなこと……!」
「貴女がいてくださるなら、私達はもっと強くなれる。信じてください」
ふわりと向けられた笑みに、珀璃は何も言えなくなる。黙ってこくりと頷く。
それを見届けると、鴻牙は廊下の安全を確認して角を曲がった。