第三章 雲への航路(三)
次の日、予定通り朝から一行は畑に訪れた。
「予想以上にひどいな」
鴻牙の呟きに、皆、一様に頷いた。
南州の分社の者に案内してもらった畑は、初めて目にする者――珀璃と呉羽が見ても、明らかに育ちが悪かった。小振りな茎や葉がそこには広がっており、何より緑の色が暗い。今年の野菜の出来は、明らかに良くない。
「今年は天気が悪いですから……。こればかりはどうしようもないです」
分社の者は恐縮した様子で言う。視察だからと畑を見て回るが、回る間でもなく今年はどの作物も不作だ。
珀璃はぎりっと歯を食いしばった。
どうしようもないことではない。全てはあの男のせいだ。
しかし今の自分にはどうにかする手立てがない。両腕の金の腕輪が恨めしい。腕輪さえなければ雲をどうにかすることができるのに。
歯がゆい思いをする主を、呉羽はそっと横目で伺っていた。
「南の方の畑は幾分がましです。ご覧になられますか?」
鴻牙が頷き移動することになった。珀璃は畑に立ち尽くす。
「珀璃様?」
振り返った鴻牙に珀璃の呟きは聞こえない。荒々しい風が、雲と珀璃の髪をなびかせていく。
珀璃は空を睨み付けた。あの雲の向こうには櫂醒がいるのだろうか。
荒れ狂う空に為す術もない大地の民を、あの薄ら笑いで見下ろしているのだろうか。そう思うと、珀璃の心も穏やかではいられない。
――必ず、あの偽王を討つ
皆の方へ向き直った珀璃の目には、一つの決意が浮かんでいた。
午後からは鴻牙たちには社の会談があるという。
「分社の中は自由に見て回っていいと言われております。夕餉の刻までごゆるりとお過ごしください」
そう言って鴻牙は去っていった。
「さて、姫様。これからいかが致しますか?」
分社の者が裏庭に温室があると言っていた。それを聞いた呉羽が目を輝かせたのを、珀璃は見逃していない。
「ここで少しゆっくりするわ。呉羽は温室を見てきたらどう?」
「いいのですか!?」
そうは言いつつも、早く行きたくて仕方がなさそうだ。珀璃が頷くと、呉羽は浮き足立って部屋を出て行った。
彼女が去った扉を、珀璃は微笑ましそうに見つめていた。やがて小さく息をついて立ち上がると、荷から何かを取り出して部屋を後にした。
「おや、呉羽殿?」
おろおろとしている呉羽を廊下で見つけて、会談を終えた鴻牙は声を掛けた。焦った様子で呉羽は振り返る。
「鴻牙様! あの、姫様を見ませんでしたか?」
「珀璃様? いや見ておりませんが……」
その返事に呉羽はますます焦りを顔に浮かべる。
「部屋にいらっしゃらないのです。部屋でゆっくりしているから温室を見てきなさいと言われたのですけど、戻ってきたら部屋はもぬけの殻で……。まさかまた何かあったんじゃ……」
東州での事件が鴻牙の脳裏を掠める。南州の者は皆で農作業をするせいか、おおらかで豪快な気質の者が多い。しかし何があるか分からない。珀璃が一人で無事だという保証はどこにもなかった。
「落ちついてください。手分けして探しましょう。勇人達も呼びます」
呼び付けられた勇人達は、方々へ散っていった。呉羽がはっと何かに気付いたようだ。
「そういえば……。午前中、畑の視察に行ったとき、どことなく姫様の様子がおかしかった気がします」
「畑ですか……。行ってみましょう」
二人は駆け出した。
珀璃は萎びた畑を前に、一つ大きく息を吸ってそして吐いた。懐から先程荷から持ち出した物を取り出す。
それは繊細な細工が施された小刀だった。中央州の社の部屋に装飾として置かれていた物だ。飾りといえども実際に切れる。
珀璃は小刀をすらりと鞘から引き抜く。鈍色の光が彼女の瞳に反射する。
そっと手首に当てると、冷たい感触に胸が竦む。意を決して珀璃はぎゅっと目を瞑ると、勢いよく小刀を引いた。
「っつ……」
ぽたぽたと赤い鮮血が土に染み込んでいく。珀璃は歯を食いしばったまま、それをじっと見つめていた。土に黒いしみができていく。
「珀璃様!」
はっと彼女は振り返った。珀璃の目に、こちらに駆けて来る鴻牙と呉羽の姿が映る。
「鴻牙様……。会談は……」
「それどころじゃないでしょう!? どうしてこんなことを……」
鴻牙は珀璃の手から小刀を奪い取ると、自分の着物の袖を破り彼女の腕に巻いていこうとする。だが珀璃はそれを振り解こうとした。
「離してください! こんなものでは足りない!」
「何を仰っているのですか! こんなに血が……」
「だって雲の民の血肉は花を咲かせるのでしょう!? 私に雲を払う力はないのだから、これくらいはしなければ……!」
鴻牙は頭を殴られたかのようだった。年端もいかない彼女が、自分らのためにその身を犠牲にしようとしている。その事実に衝撃を受けた。
「わた、しは……」
そこで珀璃はふっと意識を手放してしまった。血を流しすぎたのだろう。慌てて鴻牙は珀璃を支える。そして手早く腕に布を巻いて止血すると、彼女を抱えて立ち上がった。
「姫様……」
背後で呉羽は泣いていた。
「大丈夫だ。傷は浅い」
そう言いながらも、鴻牙の表情は固いものだった。