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 ロッカールームは朝の喧騒にまみれている。由衣は服の裾を握りしめてぱくぱくと口を何度か開け閉めしてから、裏返った声で一人の同僚の背中に話しかけた。


「あの、昨日の発火事故のこと、何かわかったんでしょうか。何か知りませんか?」


 ぴたりとざわめきが止まる。部屋中の視線が由衣に突き刺さる。話しかけられた『噂話の女王』と呼ばれる早耳の同僚も由衣を凝視した。由衣は首をすくめ俯く。女王は表情を緩め上司から聞き込んだらしい情報を教えてくれた。


「うちのせいじゃなかったらしいよ。発火場所はうちの部品だったけど、原因は配線の問題だったってさ。よかったよね、安心だね」


 笑顔で語りかけられ由衣は少しのけぞった。同僚たちの興味はすでに他にうつり、おしゃべりが再開していた。由衣は工場に入っていく女たちの姿を見送りつつ、何か熱いものが喉の奥からせり上がってくるのを感じていた。


 ベルトコンベアで流れてくる機械の、決まったところに決まったネジを決まった回数だけ回して取り付ける。一本一本、ネジを見つめて、一回一回、数えながら回す。集中しているはずなのに、次第に頭はネジと違う方向へ向かって行く。無我の境地と似ているが違う。頭はクリアだ。由衣はネジを見つめ、決まった回数をきっちりと数えることができた。


 玄関に立った姉が微笑み、由衣を見つめている。いや、見つめているのは由衣だろうか。見つめていたのは姉だろうか? その人は右手を高く掲げ、はるか遠い頭上を指す。暗黒の宇宙のようなそこには何かよく知ったものがあるのに、未だ遠すぎて見ることができない。姉に問おうと目を戻すと姉は居ず、玄関のドアがひとりでに開く。眩しい光がさして、すべてが真っ白になった。


 ふと、ネジを締めていた手が止まる。何か違和感をおぼえた。作業台から部品を持ち上げ、近くで見つめる。締め終わったネジの頭が四分の一ほど欠けていた。由衣は手元にある緊急停止ボタンを押してベルトを止めた。少し離れて作業をしていた配給係が振り返る。由衣が事務室を指すと、男性社員は事務室に向かって駆けて行った。



「何かありましたか?」


 すぐに現場主任がやってきて皆に声をかけた。


「停止ボタンを押したのは誰ですか?」


 由衣はおずおずと手を上げる。


「近藤さん、どうしました?」


 聞かれて、なんと説明していいかわからず、由衣は部品を主任の方に突き出し、ネジを指差した。


「ああ、不備品ですね。分かりました。あずかります」


 主任は由衣の手から部品を受け取り、事務所に戻っていった。由衣は、ほうっと息をつく。その時になって初めて気づいた。皆の視線が由衣に集まっている。恥ずかしく、真っ赤になって顔を伏せた。ベルトコンベアが運転を再開し、工員はそれぞれの仕事に戻った。


 終業後のロッカールームでも、由衣は皆に見られているような気がして身を縮めていた。小さく小さくなって消えてしまいたかった。どうしてあの時、報告ボタンを押してしまったんだろう。欠けたネジなんか見ないフリをしていたらこんな気分を味わわずに住んだのに。ロッカーの扉の陰に隠れるようにしてコッソリと着替えていた由衣の背中に、バンという音と、衝撃が走った。ロッカーに頭をぶつけそうになり、びっくりして振り向くと、噂話の女王が満開の笑顔で立っていた。


「あんた、今日お手柄だったね。えらいえらい」


 そう言うと女王はもう一度、バンと由衣の背中を叩いて出口に向かう。由衣はぽかんと口を開けて彼女の後ろ姿を見ていたが、ドアを開けて出ていこうとしているところへ、大きな声で呼びかけた。


「あの!」


 同僚が振り返って由衣を見る。急に辺りがしんと静まった。ロッカールーム中の視線を浴びているのを感じて由衣は真っ赤になった。うつむきそうになるのを、手をぎゅっと握りしめてこらえ、叫んだ。


「あの、ありがとうございます! あたし、明日もがんばります!」


 同僚はにっこり笑うと、手を振って出て行った。ロッカールームにざわめきが戻る。由衣はしばらく真っ赤な顔のまま動けずにうつむいていた。手はブルブルと震えていたが、口元が自然と笑みを作るのを止められなかった。


 帰宅してまっすぐパソコンに向かう。久しぶりに起動して、すぐに動画投稿サイトにアクセスした。お気に入りのジャズを探し出し、しばらく画面を見つめる。いつの間に戻っていたのか、再生回数の表示は1000回になっていた。不正アクセスの疑いは無事に晴れ、曲の人気は上がっていたらしい。


 背景画面はオレンジの灯りがともったバー。一日の仕事に疲れた客をあたたかく迎えてくれる、そんな店なのだろう。扉は丸く優しく、画面に手を伸ばせば、由衣も中に入れてくれるのではないかと錯覚しそうだった。何度もこの曲を再生したけれど、こんなにしっかりと画像を見たことはなかった。


 パソコンをそのままにして、クロゼットに向かう。扉の中にしまってある服は灰色と黒ばかりだ。その中に一着だけ、ピンクの花柄のワンピースがかかっている。エミリがくれたお古の服だった。『なんでもいいなら可愛い服をきたらいいじゃん』と言って、由衣の誕生日に渡してくれた。もらってから今まで、一度も袖を通さずじまいだった。


 由衣はワンピースを取り出すと、胸に当ててみた。クロゼットの扉についている鏡に映してみる。おずおずと裾をつまんだが、ふと、顔を上げた。由衣は部屋をぐるりと見渡す。薄暗く、壁も床もワンピースも灰色に見えた。勢いよく歩いて壁のスイッチを押す。床は茶色に、壁は白に、色彩を取り戻した。


 灰色の服からピンクのワンピースに着替えて鏡の前に立つ。その場でくるりと回ってみると、スカートがふわりと広がる。なぜだか心がくすぐったいように感じた。パソコンの前に戻り、再生ボタンを一回、しっかりと押す。軽快なドラム、弾むベース、高らかなサックス、そしてしっかりしたボーカル。由衣は体を軽く揺らしながら曲を聞いた。ボーカルにあわせて、ところどころ歌詞を口ずさむ。ふと、笑みが漏れた。


 二分二十秒はあっという間に過ぎた。まったく物足りないような、音楽が脳内で飽和したような、不思議な気分だった。ただ深い満足感だけが胸の底に湧き出していた。

 『1001回再生』と言う文字をモニタ上に確認した。初めて見る数字に由衣は一人うなずく。満足げに微笑んで、シャットダウンする。モニタの光が一瞬弾け、静かに消えた。



                終

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