四
めずらしく全工員そろっての朝礼が行われた。口々に皆が不安を話し合っている。全体朝礼が行われる時に良いニュースがもたらされることはない。早期退職のお願いや、節電対策でクーラー設定温度が高くなるお知らせなど、渋い表情で伝えられる事柄ばかりだった。由衣はどうせ自分には関係ない、とそっぽを向いた。
現場主任が大きな咳払いをして静寂を要求する。工場長が大声で話し出した。
「昨日、我が社が製造した部品を使用しているモーターが発火する事故が起こった。出火場所は我が社が製造しているN‐815型付近だ。詳しい調査はこれからなので、まだ原因は特定できていない。二度とこういった事故が起きないよう、一人一人が気を引き締めるように!以上」
ざわめきが緊張を孕む。同僚たちが話し合う声がひときわ大きくなった。どうしよう、誰だろうと口々に囁きあっている。由衣は一人、あらぬかたを眺めたまま、あくびを噛み殺していた。
姉が家出してから、母親はより一層、由衣にべったりとひっつくようになった。寝るのも一緒、お風呂も一緒。食事も由衣が食べ残したり、口からこぼしたものを拾って食べるだけ。トイレの中まで一緒に入ってきた母に
「出て行って!」
と叫ぶと母は急に表情を変え目を吊り上げた。
「ママがこんなにしてやってるのにアンタはちっとも感謝しない! ママの気持ちなんてわかってない! こんなにしてやってるのに! 誰のおかげで大きくなったと思ってるの! アンタはいつも大きな顔して!」
突然の剣幕に由衣は震え上がった。母親がいつも姉を叩いていた時のセリフだ。初めてそれを真正面から聞いた。叩かれるのではないかと怯え、腕で顔をかばおうとしたが、母親は由衣の両腕をがっちり握って離さない。体がすくみ息ができない。由衣が真っ青になってぶるぶる震えだしたのを見て、母親は表情を和らげると、由衣を抱きしめた。
「由衣ちゃん、ママは由衣ちゃんを愛してるのよ。愛してるから、こういうふうにするのよ。ちゃんとママの言うことを聞くのよ」
由衣は震えが止まらぬまま何度もうなずく。いつの間にか便器の前で失禁していた。
帰宅してパソコンを立ち上げる。いそいそと動画投稿サイトにアクセスして昨日のジャズを再生する。やはり今日も胸がはずんだ。誰が作った曲だろう、歌手の名前は何ていうんだろう? 知りたくなった。
けれど、投稿者のイニシャル以外の情報は画面のどこにも記載されていなかった。由衣はそうすれば謎が知れると思っているかのように、ひたすらボタンをクリックして再生回数を上げ続けた。288回、289回、まだまだちっともこの曲に飽きる兆しは見えなかった。
再生回数302回目を再生し終わったところで手が止まる。
『再生回数301回以上』。そう表示されていた。なぜか302という数字になっていない。もう一度、再生してみる。やはり表示は『再生回数301回以上』となって、それ以上数字があがらない。どうしたんだろう、壊れたんだろうか、バグだろうか? ためしにあちらこちらと画面上のポインタを動かしていると、『再生回数301回以上』と言う文字にリンクが貼ってあるのに気づいた。クリックすると
『再生回数が増えない理由』と言う題名のページに飛ぶ。そこにはこんなことが書いてあった。
『動画の再生がユーザーの操作による正当な再生であることが確認されるまで再生回数は加算されず、それ以外の無効な再生はカウント対象から除外されます』。
ぞっとした。自分の再生は、果たして正当な再生だったのだろうか? もしかしたら自分が連続再生したために不正とみなされて、この曲の関係者に迷惑がかかったとしたら、私はどうしたらいいんだろう。マウスから手が離れた。画面から目が離せない。
由衣はもう、再生ボタンを押すことができなかった。
「今日は高校卒業のお祝いだから、由衣ちゃんの大好きなステーキよ」
先に玄関に上がった母親は満面の笑みで振り返る。由衣が曖昧な微笑を頬に張り付かせて靴を脱ごうとすると母親は、さっと由衣の足元にしゃがみこむ。由衣の足から靴をぬきとり、きちんと並べて置く。由衣の手から卒業証書を取り上げ下駄箱の上に置く。由衣はあまり牛肉が好きではない。母親は立ち上がると由衣の先導をして洗面所に向かう。由衣のために蛇口をひねり、由衣のために石鹸を泡立て、由衣の手をキレイに洗う。由衣は大学に行きたくなんかない。由衣の部屋に一緒に入り着替えるべき服を整える。きちんとアイロンのきいたシャツ、膝丈のプリーツスカート。由衣は高校のジャージが一番好きだ。母親が台所に行ってしまうと、由衣はベッドに倒れ込んだ。最近はなぜかずっと、寝ても寝ても疲れが取れず、体が重いままだった。
「由衣ちゃん。ママ、スーパーに行ってくるわね。由衣ちゃんの好きな粒マスタードを買い忘れちゃったの」
ノックもなしに部屋に入ってきて、由衣の顔を覗き込みながら母親が言う。由衣は粒マスタードなんか好きじゃない。母親は由衣が疲れていることになんか気づかない。
母親が出かけてしまった家は広々として嘘みたいに静かだった。ベッドから身を起こすと、不思議と体が軽かった。由衣は学校のジャージに着替え、着ていた服をベッドの下に放り込んだ。机の引き出しを開け、奥の方にしまいっぱなしにしていた、父親からもらったお年玉の束を、ポチ袋ごとポケットに押し込んで玄関に向かう。
靴を履き、振り返ると、由衣と目があった。廊下に立って自分を見つめている。あの日、姉を見送った時と同じ目で、由衣が由衣を見ていた。ただ黒いだけで、何も映さない瞳。
ドアを開けて外に出た。街は暗く、行くあてはどこにもなかった。