第百三十一章:昼下がりのひと時
まいどおなじみ、この学校の始業式は午前中で終了する。一部の部活や生徒会は行われるらしいけど、私はそんな面倒なものに所属していない。つまり、午後の予定は完全な空白だ。
もともと三年生にまでなると、一部の文科系を除けば、大真面目に部活へ行くような生徒はいない。現実逃避するような科白を漏らしていても、頭の中では将来のことをちゃんと考えているのだろう。
もしかすると私くらいじゃないかな。恋人さんと同じ大学が良い――ってだけ思ってる人。ううん、他にもいるよね。まだ四月だし!
ともかく、今日は午前中で終わり。帰れるのだ。
その午前中が、いろいろあって大変だったんだけど。
まず一つ目に、先ほどの全校朝礼だ。副会長殿の美貌と雰囲気に見惚れていたせいで、私は自己紹介の下地を考えるのを忘れていたのだ。
新しい顔ぶれと出会う上で、初めの自己紹介とは何よりも大切なもの。
ここで大コケすれば、一年間を棒に振ることになるかもしれない。
そんな大切なイベントなのに!
――結果、私は先人たちの言葉を受け継ぎ、より洗練された紹介をした。
こういうとき、苗字が後ろの方で良かったと思う。
バレないよう四、五人に的を絞って言うことを考えて、自分の言葉でまとめ上げた。
喩え真似だったとしても、割とよかった方だと思う。落ち着いて話せたし、途中数人の女子生徒と目が合ったし。他意は無いんだろうけどさ。
梨花はいつも通り、シンプルで短く。
姫華は優等生っぽく、それでいて声音は柔らかい。
灯はなんか知らないけど、緊張していたのか途中から声が小さくなっていた。
三人を知らない人から見たら、あれかな。梨花はクール系で、姫華はふんわりした優等生。灯は大人しめな子。――そんな感じの印象を受けそうだ。
斜め後ろの男子がコソコソと三人の批評をしていたけど、それを聞きながら私は心の中で苦笑い。どうやら姫華派と灯派がいるようだけど、残念。二人とも恋人がいるから、どっちも振り向いてはくれないよ。
とにかくまあ。雰囲気も良さそうだし、これから一年間問題なく過ごせそう。
ただ一つだけびっくりしたことと言えば、先日見かけたあの猫毛な女子生徒が同じクラスだったことか。
ツンとした表情で、ツリ目気味な双眸を怜悧に細めてた。どうやら彼氏さん(今も付き合っているかは知らないけど)とは別のクラスらしい。まあもっとも、突如他教室に乗り込んでチョコレートを贈るような人だから、そんなこと気にしないんだろうけど。
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午前中起きた事項を思い出しながら、私は帰宅用意を始めていた。
お弁当も持ってきていないし、午後は暇だ。梨花と一緒に帰って――どこか寄ろうかな。
もしくは梨花の部屋に行って、イチャラブモード。二人っきりで甘い時間を楽しむのも良いかもしれない。
天高く昇ったお日様に照らされて、春らしく温かい。温室のような教室。
残っている生徒もごくわずかで、ちょっとくらいハメを外しても問題なさそう。
カーテン越しの日差しに包まれながら、梨花は静かに本を読んでいた。
ブックカバーのついた文庫本だ。さりげなく背後に赴いて活字へ視線を下ろしてみると、ちょうど主人公らしき女の子とヒロインが五月雨の中抱きしめ合っている場面だった。
――って。百合小説じゃん! こんな、私の位置からでもはっきり文字を識別できるのに、何で平然と読んでるの!?
もしかして、梨花は弱視気味だから、この距離からは文字を読まれないと思っているのだろうか。
確かに内容さえ分からなければ、純粋な文学小説を読んでいるようにも見える。
だってほら、抱き合った女の子たちも何か難しい言葉を話してるし――、
「――ん?」
思わず身を乗り出して、先ほど読んだ小節の続きに視線を走らせる。
抱き合った二人はそのまま唇を交わすことなく、感情の吐露をしながらその場で泣き崩れていた。どうやら内容は、男女関係のことらしい。
よくよく読み進めてみれば、純粋な文学小説だった。
どうやら腐っていたのは私の方らしい。姫腐りだ。
人目を気にする梨花が外出先でそんなもの見るはずが無いなんて、分かりきっているはずなのに。
「……なにかしら」
「ふぇ?」
艶のある黒髪が頬を撫で、ほんのりと甘い香りが漂う。
眼鏡越しの双眸が、凛然と私の瞳を捉える。睨みつけるとまではいかないけど、なかなか威圧感のある視線。
「な、なん――――ああ」
その強烈な目力と冷たいオーラに戸惑い、私は梨花の体躯からパッと離れた。
周りを盗み見ると、まだ残っていたクラスメートたちがゆっくりと帰り支度を行っている。
つまりあれか。まだ人がいるから、あまりベタベタするな。と、そういうことですか。
納得。
「えっと――こほん。氷室さん、本好きなの? 何読んでるのー?」
仲良くしたいのに、冷たい梨花に突き放されている女子生徒を演じてみる。ちょっとばかし大仰かもしれないけど、これくらいいいよね。演技の中にもユーモアとかアドリブを突っ込んだ方が、自然だし楽しいし。
梨花の言いなりってのも、何かつまらないし――。
「純文学よ。思春期の男女による恋心と友情を、倒錯しきった心をもった主人公の目線で描いた作品。男一人女二人なのに、取り合いされるのがヒロインだってことがキモね。純粋な男女の恋愛を歪んだ愛念で纏める――傑作だわ」
パタンと閉じて、ふぅと溜息。
まだ残っていた人たちが、梨花の書籍に興味をもったのか、スマホを弄りながら何か話していた。
私も後で検索してみよう。さっきの続きだけど、主人公がさりげなくヒロインの唇奪ってたし。
なんてくだらないことを頭の片隅で思考していると、不意に梨花が立ち上がった。
姿勢よく、足音も立てずにスタスタと教室から退出する。
一瞬だけ眼鏡が光って、梨花の視線がこちらを向いたような……。
梨花の机に視線を落とすと、暖色のカーディガンが椅子にかけられていた。
どうやら帰り支度は済ませていないらしい。
どうしようかな、と考えていると、ポケットの中で携帯がメールの着信を告げる。
取り出して、パカッと開く。
隅の方から「今時ガラケーかよ……」という呟きが聞こえた。うるさい、人の携帯電話に文句つけないで!
夏休み前までには絶対買ってもらうんだから!
使い慣れたボタンをプッシュして、メール画面を起動。
大方予想はしていたけど、やっぱり送信者は梨花だった。
タイトルは普段通り《無題》。
重要な中身はというと……。
『廊下にいるから』
これっていわゆるツンデレってやつですか。
一緒に教室を出るところを見られたくないからって、たった今も現在進行形で廊下の隅にいらっしゃるのですか。
一瞬呆れたが、これも梨花が過去を克服するまでのこと。
少しくらい甘えさせてあげよう。いっつも私が梨花に甘えてばかりなんだから。
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廊下に出ると、階段横で梨花が壁に寄りかかっていた。
胸の前で腕を組み、堂々としている。これならどう見ても、時間にルーズな友人を待っている一生徒、にしか見えない。
端麗な容姿は、いつでも役に立つものだ。
「ごめんね、わざわざ外に呼び出して」
「別に良いけど、何かあった?」
素っ気ない態度をとりながらも、正直私は今自分でもびっくりするくらいドキドキしている。
先ほども言った通り、始業式は午前中まで。ズラリと並んだ教室は全てシンと静まり返っている。
こんな場所で高校生の逢瀬だ。
ヤバい、心臓が弾け飛びそう。
「今日は用事があるから、一緒に帰れないの。ごめんね」
「――ん、は? え」
飛び上りそうだった心はシュンと沈み、テンションが一気にクールダウン。
我ながら極端だとは思うけど、だってだって、静かな廊下で二人きりってシチュなのに、そこでそんな冷たい言葉とか。
「断固、拒否します。――まず理由を! 理由は!?」
理由も聞かず、『はいそうですか、それではさよなら』なんて言えるわけがない。
「クラス委員長に決まったから、その話」
思わずきょとんと、瞠目する。
「なななな、なんで!? なんで、そんな、三年生でも!?」
「前期でやっておけば、後期に押し付けられたりしないでしょ? 川村先生は私が委員長とかをやる人だって知ってるから、その前に先手を打ったの」
ぐ……。一理ある。最初から「私はやりません」って突き放すってのは、梨花には通用しないんだろうな。
「だから、ごめんね。明日からはまた、一緒に帰ろ?」
透き通るような甘い瞳で、じっと見つめられた。もともと断る気は無いけど、これじゃ絶対に断れない。女の子を恋愛対象として見るようになってから、弱点が増えたような気がする。ほぼ梨花関連だけど。
「……分かった」
口を尖らせ、顔を逸らす。
はぁ――。久しぶりに一緒に帰れると思ったのに。もうこうなったら、駅前の駄菓子屋でヤケ食いでもしてやろうかしら。
今は何だか、すっごく甘いものが食べたい気分なのだ。
「――裕海」
「何よぉっ――――、――――」
文句を言おうとした口から、それ以上声が出ない。
細くて長い指が私の頬を撫で、無理やりに顔を上へ向けられた。自分の意思とは反して変貌した視界に一瞬だけクラリときて、その目に映った光景に息を呑む。
揺らめく視界に映り込むのは、怜悧に細められた鳶色の双眸。甘い温もりが鼻先をくすぐり、思わず唇が開かれる。
その瞬間を狙ったかのように、柔らかな感触が口元を祝福した。
乾いた唇が潤いを取り戻し、梨花の舌先が私の歯を優しく突っつく。まるで、閉じられた城壁をノックしているみたい。
もちろん拒む必要も無い。白く並んだ城壁を開き、梨花の闖入を受け入れる。そして私も梨花と同じく、幸せな温もりを梨花の口腔内へと届けた。
「――――」
必要以上に音も声も出さない。静かなひと時。
全ての時間が止まってしまったかのように、風の音一つ聴こえない。
感じるのは梨花の香り、梨花の温もり、梨花の味、梨花の感触、梨花の――、
「――は、ふ」
口腔に浸食していた梨花の一部が抜き取られ、艶やかに紅潮した顔が視界に映る。
瞳は幸福そうに細められ、私のことをじっと見つめる。包み込むような視線に、身体も心もとろけてしまいそう。
「最近、してなかったから」
「も――ぅ。梨花ったら……」
平常心を取り戻そうと虚偽の不機嫌さを出してみるけど、心は正直だ。ちょっとでも気を抜くと頬が緩んでしまい、思わずニヤける。
これなら甘いものもいらない。心の中に渦巻いていたモヤモヤもすっかり消失した。
放課後ヤケ食いして、数日後に自宅のヘルスメーターを踏みつけるような暴挙に出る運命も消え去った。
キス一回でここまで丸くなる私も相当なチョロイン体質だなぁ。でも久しぶりだったし、あんな凛々しい目をした梨花に迫られるなんて。
梨花の顔を思い出し、またしても頬が緩む。
ああもう、また背後霊に憑りつかれたとか言って、また毎日除霊してもらおうかな。とまで思ってくる。
梨花が悲しむ顔を見たくないから、そんな嘘はつかないけど。
涼やかな表情を取り戻した梨花を見送り、私は気持ちを引き締めて教室へ戻った。
ニヤけを抑え、カバンを持って教室から退出。出た途端盛大に頬を緩めた。誰も見てないことを良いことに、気持ち悪いくらいニマニマと。
帰り際に、下駄箱の傍で倉科くんとバッタリ会った。もし一人なら、駅まで一緒に帰らないかと誘われたけど、やんわりと断っておく。
今、隣に男の子を置いておくのは危険だ。まだ気を抜くと頬が緩んでしまう。こんなところ見られるとか、絶対嫌。
ニヤけていることを悟られないように顔を背けながら、倉科くんにその旨を伝える。
すると倉科くんは、大仰にショックを受けた様子で背中を向けてトボトボ帰って行った。
もしかすると、私が帰るのを待っててくれたのかもしれない。
何で? ――多分姫華の話でも聞きたかったのだろう。私もコイバナは嫌いじゃ無い――むしろ大好物なので、その点に関してはむしろ大歓迎だ。いくら私自身は女の子が好きだろうと、男女の恋愛に興味が無いわけではない。
だとしたら悪いことしたな。勇気をもって踏み出した一歩を、こうして潰してしまうなんて。
また機会があったら今度は断らないようにしよう。聞いてあげるくらいならできるだろうし。
そんなことを頭の片隅に入れながら、輝かしい午後の太陽を背に私は帰途についた。