第百三十章:副会長
黒板に書かれた『静かに待ちましょう』という言葉を体現するかのように、私は黙ったまま自分の席に座っていた。別に今年からは真面目に暮らそう、とかそういうわけではない。
出来ることなら梨花や姫華と話したい。せっかくの朝のひとときを静かに消費するなど、普通なら考えられない。
「――はあ、退屈だわ」
教室をぐるっと見渡してみると、初日だからか私と同じように一人で座っている生徒は何人もいる。隣の倉科くんもそうだ。タッチパネル式の携帯を、虚ろな目で操作している。
そのまま視線を走らせると、姫華の姿が目に入った。日差しを受けて煌めく茶髪が美麗で、凄く触りたい。
姫華の周りには、ちょっと近寄り難い感じの派手な子たちが何人か集まっている。
違うクラスの人みたいだけど、姫華と仲がいいのか、わざわざ揃って参ったらしい。『姫ちゃんは彼氏つくんないのー』とか、そんな感じの声が聞こえる。姫華の声は残念ながら聞こえないけど、楽しそうに見える。
そういったわけで、私は今姫華のもとへ行くことはできない。
仕方が無いので首をくっと曲げて、お人形さんのように椅子へと腰かける梨花の姿を視界に入れた。流れるような黒髪が、窓から入り込む風を受けて艶めいている。凛然とした瞳を銀縁の眼鏡が堅くガードし、薄い唇はキュッと締められている。
なんかもう、遠くから見ただけで溜息が出てしまう光景だ。あの子が自分の恋人さんだと思うと、本当に嬉しくなる。
人を寄せ付けない態度を貫き、緊張感のある空気を漂わせている梨花。だけどやはり、クラス替え初日のテンションとは、そういった空気など容赦なく破り、個人のテリトリーへと闖入してくる。
「えっと、おはよ。氷室さん」
「その髪、すっごく綺麗! ねね、良かったら番号交換しない?」
「氷室さんって、彼氏いたりします?」
最後の質問はチャラい系の男子がした質問。他のは全部初対面(多分)の女子だ。
梨花は別に拒絶するでもなく、姫華のように笑顔を振りまくでもなく、ただただ黙って窓の外を眺めている。クールキャラを絵に描いたような状況だけど、梨花の実態はそんなカタカナ六文字で片付けられるようなものではない。
必要以上に持ち上げられるのが嫌いだから、心を許した相手にしか本心を明かさない。深いトラウマがあるから、男の子とは出来るだけ接しない。(高垣くんのアプローチには押し負けてたみたいだけど)明るくて優しい笑顔も、特別見せたりはしない。
自分から話しかけることができないから一人でいる、とか。そんな単純な理由では無いのだ。
そのまま飽きてくれればいいのに、やっぱり美人で大人しいというのは一定の需要があるらしく、数人の男女がまだ梨花に話しかけていた。梨花はそれに対して、「そう、」とか「知ってるわ」とか素っ気ない態度を貫いていたが、他人を拒絶する空気は若干和らいでいるように見えた。
長くなったけど、そういった理由で私は今暇なのだ。灯はまだ来てないし、自分から他の子に話しかけるのは面倒だし、同じく暇を持て余している倉科くんとは、話すこともないし。
「早く、早くこの時間が終わってほしい……」
ホームルーム開始前という学生にとって何よりも大切なはずの時間を加速したいという、何とも稀有な体験をしながら、私は机に突っ伏し、必死に時計に向かって負の念を贈っていた。
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席に着いたまま人形のように黙っていると、徐々に人が集まり、そのうち一人で座っている人も減った。もちろん私も同じ。
灯が来たところで何とも言えない安心感が生じて、飛び上って思わず抱きしめた。
始業式テンションで朝からはしゃいでいると、隣から倉科くんが物欲しげな視線を送って来た。無視するのも気が引けるので、前クラスでの話を灯含めて三人で話す。
倉科くんは相槌が下手だな。まあ、私も人のこと言えないけど。
そうしてたあいもない世間話をしていると、見慣れた顔をした教師がのそっと教室に入ってきた。普段よりキチッとしたスーツに、ツヤツヤと髪が光っていること以外はいつもと変わりない。気怠そうな顔つきもそのままだ。そこがとっつきやすくて、生徒からの人気も高いんだろうけどね。
教師来訪と連鎖するように、ざわめいていた生徒たちは静かに席へ着く。
今日はあれだ。講堂――体育館に集まって話を聞く、いわゆる全校朝礼ってやつが執り行われる。ずっと座っているのは疲れるし眠くなるけど、ただ座っていればいいので、そう考えれば楽な時間だ。授業受けるのと比べれば、大分マシ。
冗談交じりの簡単な教師紹介を行うと、本日行う諸々を黒板の端に描き始めた。
朝礼の後には自己紹介なんてのもある。うへぇ、嫌だな。
幸い朝礼の間に言葉を纏められるし、席順でも出席番号順でも私は一番になることは無いから、誰かのをお手本にしよう。下手に受け狙いとかして、滑ったらどうしようもない。
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――と、いうわけで全校朝礼だ。
一年生はまだいないけど、二、三年生が凄まじい人数なため、三年生は講堂の後ろの方に席が用意されている。
女子のソプラノボイスと男子のテノールボイスが混じり合う協奏曲。その中で静かに待つ私――なんてことはない。
考えてもみよ、座席は出席番号順なのだ。“蒔菜”というちょうどよい苗字のおかげで、右隣は灯で左隣は姫華という、まさに裕海のために作られたような席順だ。
さらに灯の奥には、梨花が凛然とした態度で腰を下ろしている。どっちを向いても会話には困らないし、ちょっと視線を向ければ愛しの恋人さんの横顔が拝見できる。
シンと静まりかえった雰囲気に、氷室梨花の凛とした横顔はよく映える。キュッと結ばれた薄い唇も、虚空を突き刺す怜悧な双眸も、整った鼻も。流石に顔を横に向けて見つめるわけにはいかないので、流し目に梨花の顔を盗み見る。
はぁぁ……。やっぱいいなぁ。
「――礼」
気が付けば、本学園の理事長の演説が終わっていた。――いやまて、校長だったっけ?
ともかく、偉い先生の講和が終幕を迎え、辺りから脱力した溜息が零される。一人一人の吐息はか細くも、重なり合えばけっこうな音量になる。
端に立っていた教師にひと睨みされた。
理事長だか校長だかが、堂々とした面持ちで檀上から降りる。
それとすれ違うように、間髪入れず一人の女子生徒が壇上に登った。
落ち着いた足取りで段を登り、足音一つたてず、檀上に設置されたマイクの前まで辿り着く。手慣れた動作で位置を直すと、可愛らしくコホンと咳払い。
わざとらしい行動だが、その仕草にあざとさや演技臭はない。
長く繊細な黒髪を煙らせ、その女子生徒はマイクを手にとってにこやかに微笑む。
思わずドキリとした。目つきは優しげだけど、身に纏う雰囲気は何となく梨花を思い起こさせる。長い黒髪も、嫉妬と羨望に塗れたスラリとした体型も、長くて美麗な脚も。凛とした雰囲気の梨花とは対照的だけど、はっきり言うと、めちゃくちゃタイプだ。
名前とか学年とかクラスとか、ちょっと知りたいかも。
「――三年七組、生徒会副会長の春瀬しおんと申します。先日卒業なさった生徒会長に代わり、本日は私が生徒会長挨拶を承りたいと思います」
名乗ってくれた。
同い年、しかも生徒会副会長さんだったんだ。
聞き心地の良い、鈴を転がしたような声音だ。内容とか、全然頭に入ってこない。
彼女の声音が講堂に奏でられる度、幸せな音声が鼓膜をじんわりと刺激する。
梨花の恋人という大義名分を戴いている私だ。確かに魅力的で好みのタイプではあるけど、恋愛感情とかは湧かない。梨花の方が可愛いし。格好いいし、優しいし!
副会長が優しくないかどうかは知らないけど。
「なんか、氷室さんと似てるね」
「……そうかしら」
隣で灯と梨花が、そんなことを話していた。梨花の顔を見てみたけど、似ていると言われたことに対して嫌悪の感情は抱いてないみたい。
むしろ――口元が少し緩んでいる。
後で言ってみようかな、『生徒会副会長って梨花に似てるね』って。――さすがに私が言ったら怒るか。
仮にも恋人なんだから――とか言われそう。
でもやっぱ同性だからか、これといって特別付き合ってるって感じがしないんだよね。
背後霊に憑りつかれていたときの方が、梨花との距離感は狭かった気がする。
だからと言って、もう一度憑りつかれたいなんてことは言わない。私のせいで周りの人にまで危害を与えるとか、思い出しただけで憂鬱になる。
じゃあ逆に、前よりもっとすごいことしてみるとか?
前よりすごいって。――付き合い始めた頃は、本当色んなことしてたなぁ。
あ、ヤバい。思い出しただけで鼻血が。
「うへへへ……」
「裕海ちゃん、さっきからどうしたの? すっごく落ち込んでるな――って思ってたら、今度は気持ち悪いくらいニヤけてるし」
姫華に言われ、キッと顔を引き締める。気持ち悪いほどって、気持ち悪いほどニヤけてるって――!
「もー少しオブラートに包まない?」
「私としては結構包んだよ。ギョウザの皮ができるくらい」
姫華は気遣いができて、優しい人だ。その姫華がオブラートに包んでその表現なんだから――。
「そんなに、ニヤけてた?」
「氷室さんに見せられた、あの写メほどでは無かったよ」
引っ越してきた当日に見せてたあれか! って言うか、そんな前のこと蒸し返さないでよ――!!
「はぁ……。恥ずかしい」
頬を両手で包み込み、脱力感溢れる溜息をこぼす。
ふと壇上へ視線を送ると、生徒会副会長殿が姿勢よく深々と腰を折っていた。
気が付かない間に、生徒会からの挨拶は終わっていたらしい。
副会長が壇上から降りると、同時に生徒指導部の教師と風紀委員の委員長が壇上へ登ってきた。“きりつ”に関することやら“こうそく”に関する諸注意を長々と説明しては、最近生徒間での不純異性交遊が――とかだらだらと喋っていた。
異性間の交遊に関しては私とは全く縁が無い。
そう心に言い訳をして、私はボーっと全校朝礼が終わるのを待った。