第百二十七章:欲しかった言葉
日差しの差し込むポカポカ陽気。
窓から差し込んだ日光に手元を照らされながら、私は読みかけの小説を静かに開く。
どこかの国のお話。一人のしがないメイドが、お姫様に恋をしてしまう物語だ。
庭先を掃除する身分だった主人公は、いつしかお姫様に気に入られ、気が付けば毎朝のお着替えを任される立場になっていた。
普段の凛とした態度では無く、優しく穏やかな姿を無防備に見せてくれる。
お姫様は主人公の気持ちに気が付いているのか、気が付いていないのか。
直接的な描写は無いものの、ちょっとずつ二人の距離は縮まっていくのだ。
そんなとき、隣国の皇帝から縁談の話が舞い込み、王宮は大慌てになる。
皆が祝祭の準備に勤しんでいる間、当のお姫様は毎晩憂いな表情で月光を見つめていた。
そんなお姫様の変化に、真っ先に気が付いたのは他でもない主人公。
天蓋付きの豪奢なベッドにて、肩を並べてお姫様から衝撃の事実を伝えられる。
『――私には、心に決めた大切な人がいるの』
「はぁ……。やっぱ、こういうの良いなあ」
塾で梨花を意識し始めてから、私の頭の中は梨花のことばかりで埋め尽くされていた。
元からそうだったとも思うけど、今まではどうしても三割近くを倉橋君が占領していたのだ。
優しくて運動神経も良くて、元気溌剌で話しやすくてイケボで、何よりも格好いいし。
理想の王子様だったのだ、先日までは。
でも今では――、
「でもやっぱ、格好よかろうが可愛かろうが、愛でるべき相手は女の子、それは確実だよね!」
若干ハイな事実から背くことはできないが、大体の考えはこれで固定されている。
男の子が嫌いになった――というわけでは無いけど、自分の中での優先順位は変わったと思う。
漫画とか読んでても、真っ先に女キャラに目がいっちゃうし。
「この小説面白いなあ。……梨花にも勧めてみようかな」
そう思い書籍を閉じたところで、玄関から来客を告げるチャイムが奏でられた。
誰だろう。
ベッドから飛び起き、階段を下りながら思い当たる来訪者の顔を順々に思い浮かべる。
梨花は連絡なしに来ないだろうし、灯は滅多に来ない。
郵便とか荷物屋さんかな?
そんなことを考えながら、私は廊下に設置されたウィンドウから来訪者の姿を確認する。
今一人だし、変な人だったら困るから。
用心深く姿を確認すると、そこに映っていたのは隣に住む幼馴染の姿だった。
「――姫華?」
急いで廊下を駆け抜け、ガチャリと玄関の錠を下ろす。
そして扉を開いた刹那。
「姫華、」
「裕海ちゃーん!」
泣き声の混じった声音を発しながら、姫華はガバっと私の胸に飛び込んできた。
おおぅ、大胆。
玄関の扉を閉め、これ幸いと姫華の頭をギュッと抱きしめる。
温かくて、何か良い匂いがする。
「突然来てごめん、今大丈夫だよね?」
抱きしめたまま首肯し、私は姫華の背中を撫でた。
んー、温かい。
「迷惑はかけないようにするから――今日一日、そっち泊めてくれない?」
「良いけど、どうかしたの?」
些細なことで喧嘩でもしたのだろうか。
怒鳴り声とか喚き声は聞こえなかったし、それは無さそうだけど。
「愛理が彼氏連れてきて、最初は父親が怒ってたんだけど――気が付いたら四人で意気投合してて、今リビングで物凄い和んでる」
彼氏――彼氏っすか。
そういえば前に、二人くらい男の子連れて逆ハーレム気取ってたような……。
確か名前は、
「妹尾君? それとも、成瀬君だったっけ?」
姫華は私の顔を見てから瞑目すると、残念そうに首を横に振ってみせた。
「どっちでも無くて、荒川君って子。大人しそうで礼儀正しいんだけど、趣味が広いいみたいで、うちの父親とも話が合うみたい」
一瞬の間の後。
――誰!? え、荒川君とか名前自体初耳なんだけど。
確かに最近愛理ちゃんとは会ってないな――とか思ってたけど。うん、正直言って全く気にも留めてなかった。
私が知っているだけで三人目とか、何なのでしょうね、この差は。
「とりあえずそんな理由で、私はあの家にいたくないんです」
子供が駄々をこねるような声音でそう言うと、姫華は気怠そうによろめき、そのまま柱に激突した。
ゴツ、ではなく、ミシっと音がした。
両性を魅了するその端正な顔に、傷でもつかなかったかと心配になったものの。
「姫華、大丈夫?」
「……大丈夫。とりあえず、裕海ちゃんの部屋行っていい? 凄く疲れた」
そう言葉を紡ぐと、疲労感たっぷりな動作で階段をゆっくりと登っていく。
本当に、大丈夫なのだろうか。
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「愛理ちゃんが連れてきた彼氏さんって、どんな子だった?」
部屋に入って一段落ついたところで、最初に私が発した言葉とは、そんなものだった。
ちょうど冷蔵庫にあった烏龍茶を注ぎ、姫華へと差し出す。
本当は麦茶だと思って持ってきたんだけど、まあいいか。私は麦茶よりこっちの方が好きだし、姫華も別に嫌そうな顔はしていない。
「ありがとう、裕海ちゃん。――荒川君のこと、だよねぇ?」
一息ついて、姫華は両手で包み込むように持ったグラスを口に運ぶ。
コクコクと慎ましやかに喉を鳴らし、脱力したようにふぅと吐息を漏らすと、
「年下っぽい可愛さのある妹尾君とか、ぐいぐい引っ張っていくような成瀬君とは違って、頭の中で考えてることが分かりにくい子かな」
その言い方だと、前者二人の考えていることは筒抜けとでもおっしゃりたいように感じますが。
若干言葉遣いを和らげてそう申すと、姫華はきょとんとした顔で私を見た。
「そうそう、そんな感じ。二人ともすっごく分かり易かった。妹尾君は愛理の顔ばっか見てたし、成瀬君は……主に身体かな? 雰囲気からしてそんなだったし、愛理自身気づいてたみたいだったからとくに口は出さなかったけど」
クピリ、と冷たい液体を口に含む。
当たり前、といった様子で涼やかに瞑目する。
あれかな、お姉さん特権ってやつ。
第三者として傍観してるだけなのに、妙に察しが良いっていうあれだ。
こういうことを聞くと、つくづく私は一人っ子で良かったなと思う。
あの割と娘の恋愛事情には鈍感だと思っていたうちの母親でさえ、私が最近浮かれていることに気が付いているのだ。
もし恋愛経験豊富なお姉さんでもいたら、既に筒抜けになっているんじゃないかと不安になる。
姫華の話に適当に相槌を打ちながら、グラスに注いだお茶で喉を潤す。
どうやら荒川君とやらは、一昔――数十年前の漫画本や流行の歌手に詳しいらしい。
そこに姫華のお父上が反応し、温厚かつマイペースな母親もそれに同調。(とりあえず今現在は)荒川君を想っている愛理ちゃんは、そのことに関して嬉しそう。
そんな環境、本当は自分が座るべき場所にて、まるで自分の家のようにくつろぐ荒川君に奪われた。
そのような状況でも、こんな晴れた日に自分の部屋で一日中閉じこもっているというのは、姫華には耐えられなかったらしい。
私だったら、床に転がりながらゲームでも漫画でも一日中やってられそうだけど。
「裕海ちゃん。来て早々あれだけど、二人でどこか行かない? こんな天気のいい日にずっと屋根の下にいたら腐っちゃうよ」
窓から差し込む日光を見やり、私は目を逸らした。
今日はさっきの書籍を読んで一日潰そうかと思ってたんだけど――。
「あれ? これ私持ってるやつだ。裕海ちゃん、どこまで読んだ?」
そう言ってパラパラと捲ったのは、何を隠そう先ほどまで読んでいた恋愛小説である。
時折出てくる挿絵が幻想的で、何か好き。
「姫華も持ってるの?」
「んー、新に勧められてね。挿絵とか綺麗だし、ついこの間読み終えたんだけどっ」
パタンと本を閉じると、姫華は何とも言えぬ視線をこちらへ向ける。
何か言いたげな、それでいて何かしらの言葉を喉につっかえらせているような。
暫しの間その瞳を向けると、姫華は脱力したように息を漏らし、
「これを裕海が読んでるってのは、ちょっと意外かな。これ、結構心の深いところまで描写してるし」
憧れとかちょっとした興味とは、少し違う気がするんだよね――と続けたところで、不意に思いだした。
そういえば、姫華にはまだ倉橋君に関することを言っていない。
風の噂で私が倉橋君にゾッコンだったことは、一応姫華は知っている。
もちろんそれは否定できない紛れもない事実だし、過去に体験した青春の一コマとして心に留めておくけど。
今は――、
「姫華って、さ。男の子と女の子――どっちの方が好きなんだっけ?」
「んんん? 一応今は新と付き合っている身だし、女の子だろうけど――。別に男の子にも興味あるかな。何で?」
とくに逡巡したり困惑することも無く、淡々と告げられた。
姫華としては、誰かを好きになるという事実には違いない、という結果で纏まっているのかもしれないけど――。
「梨花にも、聞いたんだけどさ――」
当初はそんなつもりは無かったのに、口を開けば滾々と奔流のように言葉が連なる。
倉橋君から感じる感覚。梨花との距離。
話したからどうということでは無いのだけど、話さずにはいられなかった。
何故かは分からない。でも――、
姫華だったら、という特に根拠の無い小さな安心感があったからかもしれない。
溢れ出た言葉がやがて止まり、居心地の悪い静寂が二人の間を支配する。
勢いに任せてペラペラ喋ってしまったが、姫華は今どのような顔をしているのだろう。
不安だ。――そう、不安。
今すぐにでも姫華の顔を見て、その不安を解消したい、そんな感情に襲われる。
だがそれでいて、恐怖のために姫華の顔を見ることができない。
喩えきょとんとしていようが、無表情であろうが、真剣に悩んでいようが。
その口から何かしらの答えが出るまでは、私の心から恐怖と不安が消失することはなかった。
――ああ、何でこんなこと聞いちゃったんだろう。
心の中で顔を覆い、嘆息する。
思わずポロリと出たその発言が、人間関係を壊す諸刃の剣となることぐらい、十七年培った人生の中で何度も学習したはずなのに――、
「私は、」
透き通るような姫華の声が、静寂の中に響き渡る。
止まった時が動き出すような感覚に、思わず拳に力が入った。
正座をした膝の上でギュッと拳を握りしめ、次の言葉を待つ。
「私は、男の子でも女の子でも、可愛くて魅力的な人だったら、同じように好きになって、同じように想いに応えられる。――だから、正直言って裕海ちゃんが抱え込んでる辛さとか負感情の度合いは分からない。でも、」
姫華の顔を見る勇気が出て、私はそっと顔を上げた。
そこには、普段通りの表情を浮かべる姫華がいて――、
「女の子が好きな裕海ちゃんも、男の子が好きな裕海ちゃんも、同じ裕海ちゃんだと思う。こんなこと言うと、映画とかドラマとかのありふれた言葉を、当たり障りないように使っているみたいで、何かヤなんだけど。それが私の本心だし、今言ったことを撤回しようとは思わないかな。――だから、裕海ちゃんが倉橋君を好きになろうと氷室さんと付き合おうと、私は裕海ちゃんを変な目で見たり、ましてやそんな風に思ったりもしないからね」
相槌を打つ暇も無くまくしたて、重い吐息を漏らした姫華はグタッとベッドに背中を預けた。
――ああ、やっぱり姫華に言って良かったみたい。
自分が欲しかった言葉がどんなものだったのか、それは分からないけど。
梨花以外の人にこういうことを話せたからか、少し心が楽になった。
まあ、一つだけ気になったことと言えば。
梨花とは『付き合っても』だけど、倉橋君とは『好きになっても』なんだよね。
遠まわしに私と倉橋君は永遠に結ばれません――とか言われているように感じるのは、流石に私の考え過ぎだろうか。
でもま、そこはどっちでもいいや。
「ありがとう、姫華」
「んー、別にそんな、お礼を言われるようなことは……」
偉そうに語ってしまったことが恥ずかしくなったのか、姫華は照れたように手を広げ、『滅相もございません』のポーズ。
姫華にとっては何でもないことだったのかもしれない。
でも、さっきの言葉に私が救われたというのも、また事実だ。
だから――、
――ありがとう、姫華。
心の中で、私はもう一度、姫華への感謝の言葉を呟いた。